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もし自己がプログラミングのオブジェクトに類似しているのでしたら、
( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%96% … )
其の場合には、属性の初期値がカプセル化されていますから、
たとえ再起的な方式の採用が望まれましょうとも、
矢張り、客体的な自己は『絶対無』に留まらざるを得ないのでしょうか?

A 回答 (4件)

自己=宇宙である場合、自己はオブジェクトではあり得ません。


あなたの言う「自己」は、真の自己(意識)たる宇宙に射影した
ものであり、カプセル化すべき原理的本質は無=無限不確定性
なので、そのカプセルの中身は「無」です(人は自分の「中」を見
る事はできない~量子とはライトコーンにおける時空軸相殺面)。
無いとは分からない事が有であれば、物理とは、我々の意識
する環境を無へ還元する過程に過ぎないのです。

この回答への補足

有り難う御座います。

『自己の周囲の共同体構成者達が客体視している自己の像』は、
再起的に認識される[振る舞い( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD% … )]との同一性を備えていないのでしょうか?

補足日時:2012/07/07 23:56
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メタファーから問題を解き起こすことは避けるべきで、発想の端緒をつけたならアナロジーにより本質的な命題を導き出すことが、問題を起てるという作業ではないかと思います。



こんにち、認知心理学においても哲学においても、自己対象化をおこなう自己について初期値の存在をみとめることはありません。ただ、脳生理学と遺伝学レベルでは、個体のもつ自己対象化能力の有無や特異性を把握できるという方向でより精緻化がはかられるでしょう。

ご質問にまつわる研究は、19世紀末に小児の発達心理学と遺伝学の二分野に始まり、どちらもキリスト教的世界観が根底にありました。
ヒトを神の被造物として完成形であると捉え、人生における発達と先祖から由来する発展を詳細に調べることによって神の業を証明しようと考えていたのです。
しかし、はからずもそれは唯物論的な近代科学のレールの上を走ることになります。さらに精神疾患の症例や解剖所見が積み重ねられ、赤ちゃんや幼児が自己というものをどのように獲得するのか、自己は先与条件であるのか、自己の再認の破綻はいかなる現象であるのか、が研究課題となりました。そしてまた人工知能において同じ機序に再現されうるか、というテーマも開拓されました。

これによって、自己というのは、止まない営みとして機能的にはたらく運動の部分に重要性があるということがわかり、すなわち、自己は自己である、そして自己は自己であった、さらに自己は自己であるだろう、記憶の本体であり体験の中心である、という基本軸(自己同一性)を維持する運動そのものであることが、学の領域を超えて現代の見解となっています。
これが獲得できない場合に自己はなく、これが破綻した場合にも自己はないと見做しえます。
そのうえで、さらに届かんとするゴールと予期と環境条件を自己の動機に結びつけるという、ごく微細な運動によって、自己対象化がずっと行われ続けているということが指摘されています。

こうした研究成果は、自己というのが静態に掴みうる何らかの像ではなく、また自己対象化の力動について条件的に先与としてデータを導きうるのは脳神経と環境要因であるということを示しています。

さて、哲学のうえで運動について考えるとき、運動がなければ無なのかという考えが起こりえます。
タオイズムや陰陽思想が無について教えることはなかったように思いますが、運動がなければ混沌であり、混沌も緻密に分け入れば運動が現れるという、運動を捉える視点の深化のほうが問題として際だってきます。
自己という運動を覗きこむとき、自己が生命とつながっていることをどうか忘れずに、生命と自然を視野に入れてまた考えてみてください。

この回答への補足

有り難う御座います。

自己は変数よりも寧ろ関数に漸近している故に、
其の初期値を自己へ代入させる必要性が無かったのですね。

補足日時:2012/07/07 23:56
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 例によって、オブジェクト指向と絶対無が何故関連するのかは、私にはわかりませんが、この前のように技術的な話なら可能です。

以下は、プログラミング現場から見たオブジェクト指向であり、あなたの意図する方向に合致するかどうかは、そちらで判断して下さい。

 オブジェクト指向は、構造化プログラミングの手法の一つで、それ以上でもそれ以下でもありません。従来の構造化プログラミングの問題を、根本的に解決しようという動機から生まれたものなので、オブジェクト指向と言われますが、構造化手法である事は確かです。

 従来の構造化プログラミングには、じつは2種類の方向があります。手続き志向の構造化と、データ志向の構造化です。手続き志向の構造化とは、サブルーティンにより処理を分割し、メインルーティンを見通し良く整理しようという、良く語られる話で、大抵は構造化プログラミングと言えば、手続き志向の構造化のになります。

 一方、データ志向の構造化の最大の産物は、データベースです。ところが手続き志向とデータ志向の構造化は、相性の悪いものでした。互いに相手の事を、全く考慮していないからです。しかし現実のアプリケーションは、手続き(アルゴリズム)とデータの相互作用によって、成果を生み出すものです。

 手続き志向の構造化によって、現実に何が起こったかというと、次のようになります。サブルーティンの処理は、メインの処理の一部を実現するものなので、扱うべきデータ構造(例えばデータベース)の全体は扱いません。つまりデータ構造の一部を切り取ってサブへ渡し、その部分だけの処理結果だけが返って来る、という事が頻繁に起こります。しかし処理の分割は、アルゴリズムの都合によって決まるものなので、データ構造の意味を反映するような分割には、ほとんど成り得ません。

 すると構造の体を成していたデータ構造にとってみれば、構造の意味とは何の脈絡もなくアルゴリズムの都合によって、四分五裂に分解され、分解された結果が何の脈絡もなく烏合の衆としてメインに返って来て、メインはデータ構造の意味を考えながら、結果を構造の体へと再構築し出力する、というプログラミングになりました。

 この結果が、機能の不整合やバグやメンテナンスの困難さの温床になるのは、容易に想像できると思います。特に大規模システムでは人間の目が行き届かないので、システムが潜在的障害を含むのは、システム・エンジニアの常識ですらあります。

 他方、純粋なデータベースはデータ構造しか持たず、アルゴリズムは何も含まないので、それだけでは何も出来ません。そこで、アルゴリズムがデータ操作できるように、後付けで外付けの「取っ手」として開発されたのが、データベース・ドライバーです。

 最も普及したのはSQLの体系ですが、データベースにとっても構造化アルゴリズムにとっても、データベース・ドライバーが後付けで外付けの「取っ手」である事は、否めません。プログラマーにとって、データベース・ドライバーは非常に扱いずらいものでした。故に、これが再び、機能の不整合やバグやメンテナンスの困難さの温床になりました。


 オブジェクト志向はある意味、コロンブスの卵です。アルゴリズムはデータの意味を考えないし、データはアルゴリズムを持てない。だったらデータ構造が、自己を処理するアルゴリズムを持てるようにすれば良いじゃないか、という発想です。ここから自己格納型のオブジェクトが提唱され、カプセル化の概念も出てきます。

 自分の意見では、オブジェクト志向の最大のネリットは、メインルーティンが、データの意味を考えた処理の分割を行える、という事です。メインルーティンの中でオブジェクトは、技術的にはある変数(インスタンス)として表現されます。プログラムの一般的作法として、変数は宣言する必要があります。そして実用的なオブジェクト志向言語の一般的作法として、オブジェクトはConstractor(コンストラクター)と呼ばれる、初期化ルーティンを持たねばならない事になっています。コンストラクターを通じて人間(ユーザー)が指定する情報をオブジェクトに与え、オブジェクトを役に立つものに仕立てる訳です。コンストラクターは、オブジェクトの宣言時に発動します。

 よって理想的に上手く行ったオブジェクト志向プログラムでは、必要なデータ構造を表すオブジェクトを全て宣言し終わった時点で、必要な結果が全て出ている事になります。データ構造自体が、自己を処理するアルゴリズムを持っているからです。こういうのを、宣言型言語と言います。メインルーティンは宣言さえすれば良いという意味です。宣言終了から全てが始まった、従来の構造化と比較すると、本質的な進歩だと自分には思えます。


 そういう訳で、オブジェクト志向におけるメインルーティンは、各オブジェクトを起動する(覚醒させる)、トリガーとしての役割しか果たさない事になります。もちろんファイルやモニターへの出力もメインが担当しますが、それらは各オブジェクトが要求する仕様通りに、ファイルやモニターへデータを「転記」するだけです。


 オブジェクト志向のこういう特性を理解し、あるパラダイムを語ってくれた人を、一人だけ知っています。現在のオブジェクト志向プログラムにおいては、各オブジェクトの起動(覚醒)はメインの仕事です。しかし、オブジェクト同志が、互いに互いを自動認識できるようには出来ないだろうか?、という話です。もしそれが可能なら、雑多なオブジェクトを集めたとき、互いに互いを自動認識し、互いに互いのコンストラクターを発動させ、ほっとけば結果が出てしまう・・・。


 あるいは、そんな方向で本当の「人口知能」が出来てしまうのではないか?。ときどき、そんな妄想に浸ります・・・。

この回答への補足

有り難う御座います。

『外部の共同体が客体視(定義)する自己の像』が自己の属性を自律的に修正し得ますと、『自己によって再起的に認識され得る自己』の[同一性]が損なわれ兼ねませんので、再起的に認識される自己の[絶対的な無効化]の価値を学びたい、
と強く願いまして、是の質問を私は試みました。

補足日時:2012/07/07 23:57
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この回答へのお礼

自己が再起的に『引き数』を提供し得ませんから、
暫時的に外部化された『戻り値』を自己への『引き数』にし得る、
という可能性の存在は認められ難いのでしょうか?

お礼日時:2012/07/08 00:10

>暫時的に外部化された『戻り値』を自己への『引き数』にし得る、という可能性の存在は認められ難いのでしょうか?



 #3です。

 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7554125.html

でも書きましたが、人間の意識は、自己を引数として受け取る、再起的関数のように常時動作する、が私の意見です。

 ※プログラマーとしては、再帰的関数と書きたいところですが、「再起的」は何かの用語なのでしょうか?


>『外部の共同体が客体視(定義)する自己の像』が自己の属性を自律的に修正し得ますと、『自己によって再起的に認識され得る自己』の[同一性]が損なわれ兼ねませんので、再起的に認識される自己の[絶対的な無効化]の価値を学びたい、・・・

 人間は案外ずぶといので、『外部の共同体が客体視(定義)する自己の像』により『自己の属性を自律的に修正』されたとしても、短期間で見れば、人は比較的安定した自己を保っていると思います。ただ同一性は、少しずつ破棄され続けていると思います。

 それは、「人は変わるものだ」「変われるものだ」という言葉に集約される気がします。病気にならない程度の自己同一性障害なら、それは必要な事でもある気がします。でなければ進歩なんかありません。

 ぜんぜん哲学書などではありませんが、

  ・正気とは、現実という狂気のプールを、溺れずに泳ぎ切る技術だ・・・

と書いてあった本を思い出しました。ケースAでの正気な自己は、ケースBでは狂気かも知れない訳です。


>・・・自己の[絶対的な無効化]の価値・・・

 しかしこの(悪しき?)再起連鎖を断ち切ろうとしたのは、仏教だと思います。リセット(無効化)による、自己フィードバックループからの脱出です。

 対してキリスト教は、「神の御名のもとに与えられる生の絶対的価値」という減速材を、自己フィードバックに持ち込む気がします。


 ご質問の意図を誤解していなければですが、上記のような話題は、動的過程の制御問題に近い気がします。オブジェクト志向は前回述べたように、現実には静的構造の設計技術です。アナロジーをたてるとすれば、制御理論の方が適当に思えます。だから#2さんは、メタファーと呼んだのかな?。

 60年以上前ですが、自閉症や鬱病は、自己フィードバックに発生した負のフィードバックの結果だと考え、制御理論の応用によって治癒をはかれないか?、という試みがありました。要するにカウンセリング技術に、制御理論を取りいれたらどうか?、という話です。効果は期待したほどではなかったが、それなりの知見は得られたそうです。

 現在では鬱病などは、動的制御が根本原因でなく、情報伝達物質の不足から来る物理要因が、直接の原因とわかって来ましたから、それはそうかなと思えますが、アナロジーモデルとしては、いかがでしょうか?。

この回答への補足

有り難う御座います。

『再起的』という表現は私の誤りでして、
御指摘の通りに、『再帰的』という意図を託しまして、
当該文面を綴っておりました。

補足日時:2012/07/09 16:33
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この回答へのお礼 お礼日時:2012/07/11 07:41

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