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長尾景虎の家臣だった宇佐美定満と景虎の義兄の長尾政景(上杉景勝の父)は舟遊び中に溺死したそうですが この事故は不慮の事故だったのでしょうか?
それとも何者かによる暗殺の可能性ということもあるのでしょうか?

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溺死」に関するQ&A: 溺死

A 回答 (6件)

参考になるかはわかりませんが、今川義元の家督相続の前段階。

ようは今川氏輝の死に際しても、弟の彦五郎と同日に亡くなるのですが、その原因は『今川記』などの主要文献には見えないのです。
唯一「浅羽本系図」所収の「今川系図」には「為氏輝入水、今川怨霊也」(入水自殺か?)と記されています…

ですから、当時の通念上として、内部の人間が秘匿する不審死に関しては「入水」や「溺死」などの表現が使われているのかもしれませんね。

いずれにせよ興味深い記述ではありますが意味がわかりませんよね?入水自殺であるならば、彦五郎と同日に亡くなるってのが解せませんし…

そんな中で、当時の今川家の動きを考えてみると、天文4年7月5日に武田信虎と今川氏輝の軍勢が万沢口(山梨県南巨摩郡富沢町万沢)で激突しており、今川は北条に援軍要請し結果的に撃退。そして天文5年3月5日に氏輝は小田原にお礼を兼ねて氏綱を表敬訪問しています。帰り道に熱海で温泉につかって、その直後の3月17日に先述のごとく不審死しています。
問題はその後です。 今川義元が花倉の乱において家督を相続した瞬間、仇敵の武田と講和します。同盟が具体化するのが天文6年2月10日です。もちろん武田は昨日の敵ですから、少なくとも花倉の乱以降、直ちに準備に着手したのでしょうね。

そう考えると、氏輝って暗殺されたのかな?とも考えてしまいますよね。氏輝が死んだ途端に外交路線が180度変わるんですから、むしろ消されたと考えますよね。
そして、もしその可能性が事実ならば表には現れない。で、そんな時は入水自殺などとして、「死に方がおかしい」事だけをにおわすケースがあったのではないかなと…ですから宇佐美定満と長尾政景の溺死も、当時から「?」がついていて、とりあえず溺死と記載しているんじゃないんですか?

よくわかりませんが…
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この回答へのお礼

今川氏輝は義元が殺したっぽい?

お礼日時:2012/09/27 21:58

こんにちは。


くどいくらいの回答で失礼します。

宇佐美定満は当時75歳と高齢です。
もし事故死と仮定するならば、
75歳の定満が政景を助けるのは難しいでしょう。
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この回答へのお礼

確かに高齢ですね
そんな爺さんが舟遊びというのも 笑

お礼日時:2012/09/27 13:44

こんにちは。



根本的な事ですが、暗殺支持派でしたら
質問する意味が無いですよ。
事故死か暗殺かの質問なのに…。
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この回答へのお礼

言葉が足りませんでしたね
先の回答の酔って転覆というのはちょっと考えにくいと思ったので
暗殺意見支持ということです
宇佐美も一緒にいたのに気をつければ事故死は防げたのかな?と

お礼日時:2012/09/27 10:09

おはようございます。


度々失礼します。

1562年の北条氏との合戦で戦死した説は薄いと思います。
上杉謙信から長尾政景を抹殺せよっという説がありますが
上杉謙信は『義』を重んじる人物です。
とてもそのような命令を下したとは思えません。
宇佐美定満はこの頃一線を退き隠居の身分です。
長尾政景が酒で酔っ払って乗っていた舟が転覆し、
宇佐美定満は巻き込まれた説が有力だと思います。
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この回答へのお礼

私は暗殺説支持派です

お礼日時:2012/09/27 09:26

おはようございます。


流石に主婦のazuki-7さんは朝が早いですね。

野尻池で政景と溺死した説と、
1562年武蔵上尾原で北条氏と戦い戦死したという説もあります。
どちらが正しいのか分かりません。
当時の事を見ている人はこの世に存在しないのですから。
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この回答へのお礼

1562年の戦死説は無いと思います

お礼日時:2012/09/27 07:35

「長尾政景の謀反の可能性あり」と危機を感じた宇佐美定満が


舟遊びにかこつけて殺したと読んだことあります。

義兄を殺した汚名を主君に着せないように自らも命を絶った美談として。
後日談としては政景に切り傷があり同乗してた家臣も亡くなっていたとか。
これらがが理由で上記が生まれたんですかね。

上杉家では謎な話も少なくないので乱破(忍者)の暗躍説などで逸話も
ありますのでもしかすると信濃の豪族、もしくは他国の暗殺の可能性も
あるかもしれませんね。

私が以前調べたところ結局は確証を得られませんでした。
なのでこの質問には私も興味深々です。
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この回答へのお礼

確かに政景は謀反をしてもおかしくはない立場ですが だからこそ景虎の姉が嫁ぎ一門として迎えたのでしょう
単なる事故死として処理されたならあまりにもかわいそうな気もしたので

私は仮に暗殺だとすると小島貞興(弥太郎)の関与説を支持しています

お礼日時:2012/09/27 06:42

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Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q長尾景虎

上杉謙信について。
本当に戦国の世で「義」の戦のみで家臣がついてきたのでしょうか?
出兵すれども統治なく引き上げていたのでは恩賞も知行加増もなかったのではないのでしょうか。
仮に感状などを貰ったとしても、紙切れでしかないと思うのですが、上杉氏(長尾氏)家臣は良く仕えたなと思うのは私だけでしょうか?謎です。なにか特別な家臣団掌握術があったのでしょうか?

Aベストアンサー

雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り (-)
藤木 久志 (著)

謙信の関東入りは、農閑期の出稼ぎで、関東で彼らがやったのは、奴隷狩りです。

感状に関して
江戸初期までは、武家社会は転職社会です。感状はその際の推薦状あるいは、現代の「アメリカの大学でMBA取ってきました」というような証明書になりますので、紙切れではありません。

越後の富
青苧と金(三川鉱山、佐渡が上杉領になるのは、景勝時代)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real045.html
http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/mikawa/mikawa.html

Q白人はどうして黒人を差別するのでしょうか?

アメリカで黒人が白人に差別されたと
デモや暴動が起きているそうです。

どうして白人は黒人を差別するのでしょうか?

日本では、ボビーオロゴンやビリー隊長とか
大人気だし。野球でも黒人が大人気なのに
どうして差別されちゃうのでしょうか?

私にはどうしても分からないのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人系アメリカ人とはその立ち位置は大きく違います。
 アメリカでの黒人差別は様々な要素が複合的に絡まりあって成立しています。差別の原因となっている要素を幾つか列挙してみます。

・歴史的経緯
かつて白人は黒人をアフリカ大陸から連れ出し(多くの場合、奴隷化したのは現地のアフリカ人達なのですがややこしくなるので割愛します)奴隷として過酷な労働条件で使役してきました。これを根源的な原因として加害者だった自分達白人を黒人は憎悪しているのではないかと考え、それ故に黒人との共存や黒人の社会進出を苦々しく思う白人は常に一定数存在します。

・社会階層的経緯
多くの黒人系アメリカ人は依然として貧困層であり充分な社会進出を行えていません。白人全体における犯罪経験者の割合と黒人のそれを比べるのであれば前者が明らかに高い数値を示すでしょう。その黒人は非文化的で危険であるというイメージが一部のメディアによって増幅され、それに強く感化されてしまう白人が人種差別に走り、さらにそれがイメージに輪をかけるといった悪循環がアメリカ社会には存在します。

・文化的経緯
同じかつての黒人奴隷を導入した国でも南米などでは人種の混合が進み、人種差別などそもそもどれを差別すれば良いのか解らない程複雑になっている国もあり、これらの国では当然人種差別は殆どありません。
 これとは違いアメリカでは人種・文化の混合が行われませんでした。原因については不勉強なのでなんともいえませんが(カルバン主義やアングロサクソンの島国根性が関わっているのかもしれません)、一部の白人にとって黒人が“同じアメリカ人”では無く“国内に居住するよそもの”的な存在になってしまった事は否めません。

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人...続きを読む

Q戦国時代の六角氏の勢力範囲と敗退原因について

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 伊賀三郡も六角氏の間接支配です。

 近江は太閤検地では77.5万石と高い石高です。伊賀も支配、伊勢も石高が高く
 近江は北近江に浅井がいるとはいえ、相当な領域支配、動員が可能だったと思います。

 ついては、六角氏の勢力範囲と敗退原因についてどう考えるか、お書きください。

 (1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
 

 (2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

 どのように考えますか?
 

 
 

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
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Aベストアンサー

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として1560年に六角義賢は浅井氏と「野良田の戦い」を行いましたが、ここで2万5千人の兵力を動員しています。
豊臣政権での軍役制度では一つの目安として、1万石あたり250人の動員をしました。
ただし、戦場に近い場所の武将は兵を多く動員し、遠い場所の武将は兵を少なく動員するのが普通であり、100石あたり4人とか、5人を動員する場合もありました。
六角氏も他方面への備えから全力を浅井氏に当てる事はできないでしょうから、この2万5千という兵力から考えれば、この頃は100万石程度はあったかもしれません。
ただし、この「野良田の戦い」で六角義賢は敗北しますから、その勢力を減退させた可能性があります。

また、織田信長は南近江侵攻前に北伊勢に侵攻しています。
それにより北伊勢八郡を信長の支配圏にしていましたから、北伊勢での六角氏の影響力は無くなったと見てよいと思います。

ですから、六角氏最盛期には100万石程度はあったかもしれませんが、信長侵攻時にはかなり勢力を減らしていたと思います。この時は既に100万石は無かったのではないかと思います。



>(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

●回答・・・いつもの戦略とは思いませんが、観音寺騒動等で家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったという考えには賛成です。
実際、観音寺城の戦いで主力は和田山城に6千。義賢自身は千しか率いていません。唯一戦いになった箕作城の兵が3千。
他に支城に兵を配備していたにしても、1560年に浅井と戦った時に動員した2万5千や、1562年に京で三好勢と戦った時に動員した2万人に比べると、例え北伊勢を既に失っていたにしても、主力の数があまりに少なすぎるように思います。
やはり、1563年の観音寺騒動の影響と、織田信長の調略が大きく響き、対抗できなかったのではないかと思います。
観音寺城より南に大きく六角氏の領地はあったわけで、その南近江の南方で信長に抗戦する事なく、伊賀まで六角親子が退いたというのは、やはり国人衆に裏切られていたからではないかと思います。
実際、永原氏などは信長の侵攻五ヶ月前から信長と誼を通じていたと言われますが、永原だけが信長と通じていたというよりも、他の国人衆にも信長が調略をかけていたと考える方が自然な気がします。南近江の国人衆は殆どが信長と戦う事なくその傘下に入っていますし。

○六角親子と同じような負け方をした大名に今川氏真がいます。
「薩埵峠の戦い」で今川の国人衆の多くが戦う事なく兵を退いて武田信玄に付き、それを見た今川氏真は駿府で戦う事なく逃亡を余儀なくされました。武田の調略が良かったのか、氏真が酷すぎたのか、両方かもしれませんが。
六角義賢と義治も今川氏真と同じく、結局、器量の問題で国人衆に背かれたのではないかと思います。

まぁ尾張、美濃、北伊勢を手中にし、三河の徳川と、北近江の浅井と同盟している織田信長と戦っても勝ち目は無いと思った南近江の国人衆が多くいても不思議ではないかと思います。
何せ、六角氏親子は浅井長政とだけ戦う時でも、浅井を滅ぼす事ができませんでしたから。

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として15...続きを読む

Qミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい

ミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい。なぜあんなに強かった日本軍が負けてしまったのですか?理由を教えて下さい。ちなみに僕は戦史に関してはド素人ですので、その辺はご了承ください。

余談ですけど、先日新聞を読んでいたら「アベノミクス第三の矢はミッドウェー」とかいう記事が載っていて、要するに第一、第二の矢(経済政策)はうまくいったが問題は第三の矢で、これが日本の今後の経済趨勢を決するという内容でした。

それで僕は、緒戦の快進撃から一転、大敗北を喫したミッドウェー海戦の敗因とやらをどうしても知りたくなった次第です。

Aベストアンサー

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%BA%81%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%AE%A4/dp/B000J9GX1M

この本によると次の6項目が大きな日本軍の敗因として取り上げられています。

(1)情報戦の大敗。日本海軍の暗号が解読され、米軍は日本軍の計画を察知していたのに、日本軍は敵情がよくわかっていなかった。

(2)心のゆるみ。開戦以来の戦果から心にゆるみが生じ、作戦の計画と実行に慎重さを欠いた。

(3)山本長官の出撃。山本長官が戦艦に座乗して出撃したので、その位置を秘匿するため、無線の使用が制限され、作戦指導に支障を生じた。

(4)航空戦様相の事前研究、訓練の不足。索敵、偵察、報告などの地道な訓練及び、空母の被害局限対策の研究が足りなかった。

(5)5日の航空決戦の指導の誤り。二度の兵装転換によって弱点を作った。

(6)戦艦主兵思想の転換の不十分。戦艦部隊が後方遠く離れて航空決戦に寄与できなかった。


○ちなみに当時、敵であったニミッツ太平洋艦隊司令長官は戦後に出した著書の中で、「勝利は主として情報による。・・・日本軍は奇襲を試みようとして日本軍自体が奇襲された」と述べています。また日本軍が空母戦力を分散してアリューシャン作戦を行った事を批判し、その戦力分散が無ければ米艦隊が敗北していた可能性があると述べています。

○なお、アメリカ海軍公刊戦史を編纂したサミュエル・エリオット・モリソン少将はミッドウェー海戦について、日本の空母が最も脆弱な状態の時に、米爆撃隊が偶然に日本の空母を発見し攻撃できたという、幸運に恵まれた事から「100秒足らずの時間に起こった事実の相違で、日本軍はミッドウェイに勝ち、太平洋戦争にも勝利をおさめたかもしれない」と日本軍にも勝利の可能性が十分あったことを述べています。

○英国の著名な戦史家リデルハートはその著書で日本の敗因について、十分な数の索敵機を出さなかったこと、戦闘機の援護不足、空母の防火対策が不十分、空母での兵装転換時に敵に向かって航行したこと等、他にも色々指摘していますが、最後は「・・・これらの過失は自信過剰から生じたと言っても過言ではない」と述べており、日本軍の「自信過剰」を問題視しています。

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9...続きを読む


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