あまり歴史は興味がなかったので勉強していませんが、急遽必要になったので教えてください。
有名な歴史的人物で800の兵を抱える将軍が1200の兵を抱える将軍を
倒したという話があったと思うのですが、具体的に誰と誰の戦いだったでしょうか?
確か、800の方は相手が攻めて来るまでじっと動かなかったとか。相手の出方を見て行動したことが勝因となったという話だったと思うのですが。(兵の具体的人数は違っているかもしれません・・・)
豊臣秀吉とか明智光秀とかだったかな・・・
その勝因について解説してあるようなサイトがあれば参考になります。
No.10
- 回答日時:
総合的に判断して、厳島の合戦かと思いました。
毛利元就が、厳島で、陶晴賢を用意周到な作戦を練り、あらゆる伏線をはったうえで、おびき出し、勝利した戦です。
毛利群は、4000で、陶群は、20000と、手元の史料には、あります。
読み方は、いつくしま、もうりもとなり、すえのはるかたです。
ありがとうございます。
毛利元就がこのような戦い方をしていたことを知らなかったのは、広島の人間として情けないです・・・。しかも、実家が宮島対岸のベットタウンだったりして。
サイトでもう少し調べてみます。
No.9
- 回答日時:
直接倒したわけではないですが、少数の兵で大軍に対してゲリラ戦を行った人物として楠木正成があげられます。
後醍醐天皇の息子である護良親王と組んで自分の根拠地である千早城、赤坂城にわずか500~700人で籠城していたのですが、10万人もの鎌倉幕府軍に対してあの手この手を駆使して抵抗し、攻め落とされそうになったら城に自ら火をかけて脱出。
さらに幕府方にとらえられていた護良親王の奪還をします。
この一連の出来事で足利尊氏、新田義貞は幕府が弱体化していることを覚り、後醍醐天皇が隠岐から帰ってきた後に反乱を起こして幕府を倒すことになります。
参考URL:http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/~kanko/n …
No.8
- 回答日時:
800対1200じゃホントにずいぶん小さい戦いですね。
数字の記憶違いではないでしょうか?
将同士の決戦と言えば川中島ですが、武田信玄も上杉謙信も
倒されてはいないので違うでしょうね。ただ上杉方は武田方の
動きを良く見て行動したのが勝因という意味ではそうですね。
兵の数は違いますが、少数だった上杉軍が負けなかったというのは
ある意味で勝ちに近いものでした。
兵力の多いほうの将が倒されたというのではやはり織田信長vs
今川義元の桶狭間の合戦ですが、これは兵力が全然ちがいます。
風説では織田軍5千に対して今川軍5万(実際は2千対2万という説もあり)。
また織田軍は動かなかったわけではなく、奇襲。奇襲をかける
タイミングを見計らうために動かないふりをしていたわけですが、
今川の出方を見ていたのではなく、意中のポイントに入ってくるのを
待っていたというべきでしょうね。
あとは前田利家vs佐々成政の末森城の合戦かなぁ。
奥村永富の軍勢はそれぐらいの数字じゃなかったかなぁ。
ただこちらは篭城で、主君前田利家の軍が合流するまで待っていただけですけど。
ありがとうございます。数字は実数ではないかもしれません。比だと思ってください。
私が話として聞いたことがあるのは桶狭間の合戦だったのかもしれません。確か、相手の戦略を見てから行動したことが勝因だったというふうに聞いた記憶がありますので(人によってはこのように解説するかもしれませんし)。でも、それは奇襲攻撃のタイミングを見計らっていたという意味で説明していたのかもしれませんし。
No.7
- 回答日時:
確実なる事実としては700の官軍が2500の奥羽越列藩同盟軍を討ち破った記録があります。
相手の陣地に遠射と急襲部隊による襲撃で圧勝しました。
官軍:兵700・大砲4門-戦死12名
会津:兵2500・大砲8門-戦死約640名
No.6
- 回答日時:
なぜか今まで挙がっていなかったのですが、後漢末期(いわゆる三国志の時代)の
ターニングポイント、赤壁の戦いも該当するでしょう。
この戦いで曹操軍や劉備・孫権連合軍がどれだけの軍を動員したかは諸説ふんぷんですが、
Wikipediaによれば曹操軍15万、連合軍5~6万とされています。
いずれにしても、少数が多数を撃破した例には間違いなさそうです。
連合軍側の勝因として、連合軍側は舞台となった大河での戦いに強く、その一方で
曹操軍は水上での戦の経験が極めて少なかった事、戦いのあった10月、本来ならば
吹かないはずの東南風が、ある数日だけは吹くという情報を連合軍側(諸葛亮)が
掴んでいた事、曹操側もスパイを大量に送り込んだものの、それを逆用するなど
連合軍側の諜報能力が勝っていた事などが挙げられます。
ありがとうございます。諸葛亮なら詳しいことは知りませんが、頭が良い人間として有名な話ですね。戦いの詳しい戦略は知りませんでしたが、この内容なら使えそうです。
No.5
- 回答日時:
少数 対 多数 で、機動的な話であれば、サラミスの海戦なんかがいい例かと思います。
古代ギリシア時代の話ですが。歴史的事実よりも、対戦の勝因がということなので歴史的な詳細は省きます。
紀元前480年(サラミスの海戦)
ギリシア連合軍(380隻) VS ペルシア軍(750隻)
この戦力差では、広い外海(地中海ですが、便宜上外海とします)では包囲殲滅されるのは分かり切っています。
そこで、ギリシア軍はペルシア軍を狭いサラミス湾内に閉じこめることで相手の動きを封じてしまいました。
狭い場所で、大群ではまったく身動きが取れず、しまいには仲間同士の船がぶつかって沈没する船も出る始末。
そんなこんなで、 この海戦でギリシャ艦隊は46隻の軍艦を失たのに対し、ペルシャ艦隊は200隻の軍艦と4万名の兵士を失いました。
勝因は、いうまでもなく、大群の身動きをとれないように狭い場所に誘い込んだことです。動けなければ、ただの射撃の的でしかないでしょう。
もう一つ、別な例を
こちらは、古代ローマ共和国の話。かの有名なハンニバルがローマに攻め込んできたときの話です。
紀元前216年 (カンネーの戦い)
ハンニバル軍 約4万 VS ローマ軍約8万
ハンニバルがイタリアに侵入した後、ローマ軍約8万が迎撃にやってくるのを察知しました。
両軍はカンネーで対峙しました。
ハンニバルはまず、右翼に屈強なカルタゴ騎兵を配し、中央を凸型にする布陣をとりました。
右翼のカルタゴ騎兵が、ローマ軍の左翼の騎兵隊を撃滅すると、ローマ軍は中央を押し返していきました。そして、カルタゴ軍の凸陣形が凹陣形に変ったのを自軍の有利だと思ったローマ軍はさらに攻勢に出ました。
その間に、ハンニバル軍は左翼でも、ローマ軍の騎兵を敗走させることに成功します。
そして、徐々にU字型に陣形を整え、ついにはローマ軍を完全に包囲してしまいました。
包囲された、ローマ軍は密集していたため効果的に戦うことが出来ず、周りを囲むカルタゴ軍に一方的に殺されていきました。 この戦いでカルタゴ軍は6千名の戦死者を出しましたが、ローマ軍の戦死者は5万名以上と伝えられています。
この戦いの勝因も、先と同じで密集した状態にもっていき動きを封じることです。
動きの取れない兵は、ただの烏合の衆でしかありません。また、一方的だと思わせられれば、恐怖が伝染し戦う気力もなくなるでしょう。
兵法の定石は、「多数を持って少数を制す」ですが場合によっては「多数であることが欠点に変る(変えられる)」ということでしょう。
No.3
- 回答日時:
少数兵で大軍を破った戦いで、すぐ思いつくものは、
桶狭間の戦い、倶利伽羅峠の戦い、富士川の戦い、などですね。
少数兵が大軍に取り囲まれたら、九分九厘負けます。
兵糧攻めに合うか、火攻め、水攻めなどにあいます。
勝ったケースは、ほとんど、奇襲攻撃・夜襲で勝っています。
800対1200程度の戦いは「小戦」で、戦いとなると万単位、
大戦(おおいくさ)は10万程度の兵力がぶつかる場合です。
戦法とかは、川中島の戦いを記録した「甲陽軍鑑」が面白い
といわれています。
以上
No.1
- 回答日時:
800 対 1200くらいだと 少数兵が大軍をにはふつう言いません。
たとえば、プラッシーの戦いでは「1757年クライブは600人のイギリス兵、800人のセポイ(インド人雇用兵)、500人の水兵を率いて34,000のベンガル太守軍をプラッシーに破った。」
このくらいだと、すげーなという感じです。
秀吉 光秀というと 日本の戦国末期のイメージかしら?
この回答への補足
ありがとうございます。結局、いま知りたいのは勝った負けたの事実ではなく、勝因が「相手を見てから行動した」という行動学的なところです。
「少数兵が」という言葉は、わかりやすく書いたつもりですが誤解を招いたのでしたらお詫びします。
何か歴史的人物でこのような良い例があれば助かるのですが・・・。戦国時代でも江戸時代でもなんでもよいです。
歴史が好きでもないのにこんな夜中まで作業するのは辛いです。
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