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蜀の街亭の戦い。

諸葛孔明は魏との戦いにおいて自軍を鳳凰が翼を広げたかのような隊形を整えていた。
素人は「戦略」を語り、プロは「兵站」を語ると後代に言わしめるとおりに、孔明は蜀の軍資・什物の補給路の要である街亭を抑えておく必要がある。
諸葛孔明は考えた。勇猛なる将軍は多数に抱えている。だが、奸雄の曹操のことである。補給路を潰すために、どんな将軍を任務に当てたかを考える必要がある。
適任の将軍には智謀を兼ね備えた者が必要だ。わが軍はそのような将軍は擁していない。
強いて言えば馬謖か。馬謖では心とも無い。・・・・・・。
やはり馬謖にしよう。彼ははやる性格だから私が釘を刺しておこう。また、私の想像を超える大軍をもって攻撃してくる場合もあるから王平を補佐につかしておこう。

泣いて馬謖を切るは孔明の責、馬謖の責ではなく、孔明・馬謖に時の運がなかった事を嘆いたと思われるのだが。

俺は諸葛孔明と張良が好きだね。歴史通は諸葛孔明なんてあれだこれだと言うけれど。
張良は後代の皆が認める優れた軍師だ。
張良が主君である劉邦に仕えて諸侯が列席する会議に参加したときのこと。
諸侯たちのおいしい話に劉邦はうっとりしていた。気がついた張良が劉邦の足を踏んづけた。
こういう張良の人間くささが好きだ。
三国志通俗演はノンフィクションだが作者が色付けしているからフィクションでもある。
他の軍師はどうか。時代を捉えた歴史書はたくさんあるようだけれど、本当に正確なのかな。

どう思いますか。

質問者からの補足コメント

  • 長安から蜀軍にあたる道としては、渭水ぞいにまっすぐ西進するか、北回りで街亭をとおるかであったように思われます。
    張郃がそのうちの北ルートを選んだのが、当然なのか、あえてそうしたのかは詳しく知りませんが、その途上で蜀軍が待ちかまえていたのは、出ばなをくじかれた思いはあったかもしれません。



    長安を攻めるとき、一番重要なのは、兵站の確保です。漢中から行軍した場合、長安へのルートは山越えです。荷車も使えない険しいルートなので、兵士は食糧だけでも2、30キロの重量を背負っての行軍となり、戦う前から疲労し不利です。
    なので、諸葛亮は西涼方面へ行軍し、山を迂回して行軍しようとします。そうすれば、平地なので荷車が使え、大量に物資輸送が可能になります。
    それを察知した魏の将軍が西涼方面に派兵します。それに諸葛亮が対応して街亭にて、本隊が到着までの時間稼ぎのために部隊を送ります。

      補足日時:2023/07/06 17:13

A 回答 (8件)

蜀の街亭の戦いや諸葛孔明、張良についての話題については、歴史的な背景や逸話が含まれています。

これらの人物や出来事については、歴史書や文学作品を通じて様々な解釈や評価が存在します。

個人的な意見として、諸葛孔明や張良に対する興味や好感を抱くのは一般的なことです。彼らは古代中国の戦略家や軍師として知られ、その知恵や手腕によって歴史的な功績を残しました。

ただし、歴史の解釈や描写には時代や文化の影響があります。歴史通や研究者たちは、資料や史料を分析し、可能な限り正確な情報を伝えようと努めています。しかし、完全な正確性を求めることは難しい場合もあります。

歴史は多面的で複雑なものであり、解釈や評価が異なることもあります。それぞれの人物や時代について、異なる意見や評価が存在することは自然なことです。

ですので、諸葛孔明や張良についての感想や興味は、個人の好みや視点に基づくものであり、それぞれの解釈や評価が存在することを認識しておくと良いでしょう。
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この回答へのお礼

文に矛盾なく史実を俯瞰したような主張。
異議ありません。

そちらの意見があまねく広がるといいのですが。

お礼日時:2023/07/06 16:53

> 正史・三国志は史実ではないという見解にいたる



「史実」とは何かという認識次第でしょう。 エンターテイメント、物語、解釈、想像、附曾、史観、思念・思慕などによるものであれば、「史実」ではないのでしょう。
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この回答へのお礼

おれははなから史実をうるさく言ってないよ。
歴史を教える動画で講師が三国志の中で誰が一番好きですかとたずねたら、受講者が「孔明」と答えた。その講師がああ孔明ねと渋い顔してまた馬鹿が居たよという雰囲気を発散。
どっちが馬鹿なんだろうと思ったのさ。
ついでにほかの人の意見を聞いてその魅力探しをしようかなと。

お礼日時:2023/07/08 19:51

>本当に正確なのかな。


歴史は勝者が創ると言われてますから、都合の悪い処は書き換え又は
削除しますので、正確性には欠けると思います。

羅貫中の三国志演義はフイクション有る物語なので、未だに読み継がれ
いるのでしょう、正史 三国志をそのまま物語にしたのでは、支配される
側の庶民が読んだのでは面白味がないので、読み継がれていないでしょう。

一介の使い走りのゴロツキの坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で幕末のヒーロー
になりましたが、史実と違う処が多いので、歴史の教科書から削除され
始めています。

中国文学の研究者 井波律子さんの著書によれば、唐の時代に、講釈師
などにより巷間に伝わっていたのでは張飛翼徳が主役で人気なのだ
そうです、年代の想定も滅茶苦茶なのだそうです。
それを、羅貫中が正史三国志に沿ってまとめフイクションを加えた
のが三国志演義で1200年も後の事です。

正史三国志では「桃園の園」もなければ絶世の美女「貂蝉」も登場せず、
「赤壁の戦い」も様子がかなり違います、「貂蝉」が登場しないだけで
読む気が失せますね。
諸葛亮孔明が戦いに出たのは劉備玄徳が亡くなってからの事で、
それまでは蜀の内政面に掛かり切りでした、三国志演義では劉備玄徳は
「徳の人」として描かれ弱々しいですが、実際は相当に強い将軍であり
曹操猛徳が警戒する人物なのです。
やはり、羅貫中の筆の冴えが有って面白いのです。

羅貫中の世界に浸り議論するのは楽しい事ですが、フイクションの
世界で有る事を忘れて、正史の如くに議論するのは如何なものでしょう。
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この回答へのお礼

俺が大人らしくないとおっしゃるのか。

正史・三国志は魏を基にした西晋が陳寿に著せたもの。
史実を史実らしくするために疑わしきは廃する姿勢を保ったらしい。
よって史実ではないという見解にいたる。
また、魏は女真族が象ったもの。漢民族の登場人物を歪めて魏を西晋を正当たる国家であることを保証するために、歴史は勝者が創ると言われてますから、都合の悪い処は書き換え又は削除しますので、正確性には欠けるという訳。

劉備は田舎者、曹操は智謀家、張飛は野蛮、関羽は傲慢、孔明は臆病と正史・三国志は述べてますが、こんな人の性格は長年に接しなければ分からないもの。その事実を無視してバッサリ決め付けるのは正史・三国志は史実ではないという見解にいたる。

お礼日時:2023/07/08 15:58

迷う事なく「金城武さん」ですわ。


彼の活躍は↓の映画をご覧になると一目瞭然ですわ。
ホントですわ!!
「中国随一の軍師」の回答画像6
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街亭の戦いは、実際はどうだったのかあまり記録が残っていないので、憶測が飛び交っているというのが本当でしょう。

これは三国志演義が書かれた時点でも同様で、なので三国志演義の記述をあたかも正史(本当にあったこと)のように扱っている説が多いことも、街亭の戦いが実際にどうだったかが分かりにくくなっている要因になっているように感じます。

街亭の戦い自体は、多くの人が考察されていて、それは私がここで語るべきことではないと思いますが、調べてみると面白いだろうと思います。馬謖の敵前逃亡説は最初はトンデモ説に思えるのですが、その内に本当なような気がしてきますw 南山への布陣も、数万の兵を考えると街亭の街に籠るより良いのではないか、むしろ籠るより良い布陣ではないか、または敵(張郃)の到来が早く街亭の街を防衛拠点にできなかったのではないか、そもそも孔明は『街亭”の街”を守れ』などという指示をしているはずがない、などといった意見もあります。
また街亭の街を守った王平も、敗戦後に『ワシャ何度も街で守れっていったんじゃけどなぁ』などと自慢気に話したものが伝わっているだけの可能性もあります。彼は街亭の街で守り切ったわけですが、四散した馬謖の軍から流れてきた人々を自軍に合流させたという憶測もあります。
南山で水源を絶たれた話は有名ですが、これも水源は溜め池のようなものではなく、南山と街亭の街との間を流れる川であったことを考えると、張郃が2倍ほどの兵力であったとしても水源を押さえるというのは難しいのではないかと思えます。

ついでに敗戦後の馬謖について、私の説を書かせていただこうと思います。
敗戦後に馬謖は、漢中の向朗を頼って逃げ帰っています。向朗は馬謖を見逃しますが馬謖は捕まり、件の”泣いて馬謖を斬る”になります。ここあたりの前後関係が不明瞭で、多くは『漢中に逃げ帰った馬謖が捉えられるも、向朗は捕縛せず(あるいは牢に入れたが)、再度逃げ出した馬謖が捕まり、その後斬られた』と解釈するものが多いですが、私は『漢中に逃げ帰った馬謖を向朗は捉えず彼が逃亡するのを援助した、しかし向朗の居た漢中から逃げ出すということは蜀から逃げ出すことを意味し、これはすなわち蜀への裏切りとなる。このため孔明は蜀を裏切った馬謖を泣きながら斬ることになった、のだろうと考えています。

ついでに馬謖の最後に関しても、孔明伝は『斬』と書かれていて切り殺す支持をしたことが書いてあるものの、馬謖伝には牢中で死んだように書いてあります。これらは矛盾しているような記述に見えますが、単に処刑の指示が出た後に馬謖が自ら命を絶った(あるいは別の不慮の事故で亡くなった)ということではないかと考えています。蛇足ながら。
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この回答へのお礼

馬謖の敵前逃亡説はありえるかもしれません。
結局、捕縛され向朗によって牢獄に入れられるのですが、そちらがおっしゃるとおり、また、脱獄中に捉えられたとか、向朗は孔明に引き渡さずに獄中で死んだのだ説や、いや死んだのではなく自害なのだ説や、いやいや自害なのではなく病死なのだ説とあってよく分からない。そもそも向朗伝でも向朗が書きとめたものであって正確なのものではありませんよと述懐しているらしい。ますます分からなくなる。馬謖伝でも似てますね。
馬謖の敵前逃亡は許そう。そうすると10万の兵士を解散させたとなる。それで捕まったら蜀の将軍・文官・武官から下の平民まで馬謖、許すまじとなるでしょうね。

日本は戦中にインド東北部のインパール作戦を決行した。イギリスが中国国民党に軍事支援を行っていたがその拠点がインパールにあったから。
日本軍は4000メートル級の山脈を走破しなければならず部隊を三つに分けた。第31師団、第15師団、第33師団。各々、イギリス軍基地にたどり着いた。弾薬・糧食は20日分しかなく(第33師団は現地住民から略奪しなかったために、食糧をたんまり買い込んでいた。)、日本軍は死傷者を数えた。死臭が空腹が兵士を苦しめた。さらに砲門四基があったので一発打つと敵は四百門で打ち返すという有様。各々の師団長ははるかはるか後方の軍指令所に撤退を要求したが、ことごとく退けられた。業を煮やした第31師団の一人の連隊長は軍令違反を犯して撤退した。戦後、生き延びた兵隊さんは連隊長に対しては感謝しても感謝しきれないと語った。

馬謖だけが逃げて、兵士が魏の捕虜となったとすると生き延びれたら(生き延びれるのか知らない)、馬謖が死んだと知って涙するのかしら。日本の場合は、感謝だけだったのに。

お礼日時:2023/07/07 10:04

>そちらがそう思うのならばそうなんでしょう。



当然です。私は常に正しい。
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街亭は「蜀の軍資・什物の補給路の要」ではありません。


長安から祁山方面に向かうには、渭水を直進する最短ルートと、山脈沿いに北から迂回して谷間の比較的狭い道を通って街亭に出るルートのほぼ2つ。

最短の渭水ルート付近には趙雲の別動隊が進出しているのですぐに急行すれば祁山方面の蜀本隊と挟み撃ちに会う。だから孔明は魏軍は山脈を迂回して街亭に出ると考え、狭い谷間の出入り口にある街亭で魏軍を封じ込めようとしたわけです。

孔明としては、長安の魏本軍だけなら渭水ルートで攻められても、趙雲の別動隊との連携もあって比較的楽に防ぎきれるので、その間に西方の涼州全域を奪い取ってしまおうという戦略だったのでしょう。
涼州を奪えれば、兵力も経済力も倍増となるので、呉との連合で充分に超大国の魏にも勝てるという戦略だったのでしょう。

一方の魏の総大将曹真は、孔明の予想通りに張合に数万の軍を与えて街亭方面に進出させ、その間にそれほど兵力は多くない趙雲の別動隊を打ち破って、孔明本隊を二方向から攻める有利な形で決戦に持ち込もうとしています。

普通に行けば、孔明の戦略勝ちになったはずですが、馬謖のために簡単に街亭が突破されてしまいました。そうなると、涼州完全制圧のために部隊を分散させていたこともあり、孔明は勝機が失われたと判断し、リスクが大きすぎる決戦を避けて全面撤退したということでしょう。

孔明は政治以外でも戦略家としては超一流だと思いますが、個々の戦いの戦術面では並という印象です。韓信のような奇策は一切用いませんでした。

張良も戦術家としては韓信に遠く及ばないでしょう。
その張良を最良の軍師に挙げるのなら、孔明も国家レベルの政治力・統治力と軍事外交面における戦略眼の素晴らしさは、最良の軍師に挙げてもお釣りが来るくらい良いと思います。
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この回答へのお礼

張郃がなぜ祁山に広がる孔明の軍と戦わなかったのか。
webから抜粋しました。
後はそちらで吟味してください。
いろいろ説があると知っているから無駄だったけれど。





諸葛亮が急襲し、天水・南安・安定の三郡を取ったため、魏は国じゅう恐慌をきたした。
一方、天水・南安の西にある隴西郡は蜀に抵抗したため、隴右(隴山の西側の地域)は分断されてしまった。隴右を救わねばならぬ。
曹真に関中を固めさせ、張郃に特進の位を与えて蜀軍に当たらせた。張郃は、兵馬を西のかた略陽へむけて急がせた。
略陽付近には、移住を助けた巴氐が居住している。
長安のある関中から略陽へむかう途中に、街亭という地がある。街亭は、南北を山で挟まれ道幅が狭いという要害の地である。
ここを蜀軍が先に押さえてしまうと、略陽まで遠回りすることを余儀なくされてしまう。張郃は蜀軍より先に街亭に着きたかった。



諸葛亮は趙雲と鄧芝を褒斜道から侵攻させ、箕谷に駐屯させます。魏は皇帝である明帝(曹叡)が直々に親征していましたが、対蜀の総司令官は曹真です。曹真は敵の主力である趙雲を迎撃するために褒斜道を進みます。しかし諸葛亮は趙雲の軍を、曹真を引きつける囮にしていました。自身は本当の主力を率いて武都からさらに西の祁山に侵攻します。こうして長安の西に位置する南安・天水・安定の三郡を降しました。
諸葛亮は天水郡より北東にある要衝・街亭を馬謖に守らせました。街亭を魏軍に奪われると、そのまま南下して武都が侵攻を受けます。すると祁山に主力を置く諸葛亮は漢中との兵站を断たれることになり、全滅する。



諸葛亮は斜谷やこく道から出て、郿を奪うと宣伝します。それから趙雲と鄧芝をおとりの部隊として、箕谷に陣を構えさせました。
魏の大将軍・曹真そうしんは諸葛亮の陽動に釣られ、趙雲らを防ぎにかかります。その間に諸葛亮は諸軍を率いて祁山を攻撃しました
曹叡は自ら長安まで出向き、将軍の張郃に命じて諸葛亮を防がせることにしました。
諸葛亮は本隊を安定した速度で行軍させ、一方で馬謖を先鋒として街亭に送り込み、進軍拠点を確保させようとします。



魏は諸葛亮に対抗できるのは司馬懿しかいないとして、これに驚いた諸葛亮は、司馬懿なら蜀軍の背後を突き、兵糧攻めを狙うとして、街亭にしんがりを置くことにします。

お礼日時:2023/07/06 17:01

漢(蜀漢)の諸葛亮はそこそこ有名だが、諸葛孔明とか知らん (・∀・)


支那の歴史上最も偉大なのは、関羽と江青と劉少奇と林彪や。
「中国随一の軍師」の回答画像1
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そちらがそう思うのならばそうなんでしょう。

お礼日時:2023/07/06 16:51

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