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歴史について、質問です。

江戸幕府は、徳川家康を創始者とし、家康の3男秀忠が徳川名を名乗り、2代目として後を継ぎました。
将軍として跡を継ぐものは徳川の姓名を名乗りましたが、子全員が徳川を名乗っていた訳ではありません。
松平家は譜代や親藩、御家門などと特別扱われていましたが、将軍家のみとされている徳川の姓名を、なぜ将軍にならなかった者たちは名乗れなかったのでしょうか。
例えば家康1男は徳川信康ですが、1男として、名を受け継いだのは分かります。そして、将軍ではない4男は松平忠吉は松平のままです。
婚姻関係で跡継ぎとして徳川ではなく他家の名を名乗ることはありましたが、松平がほとんどなのは何故なのでしょうか。

A 回答 (4件)

2男の秀康は、豊臣秀康の予定が、本人かなりのへそ曲がりだったので、秀吉の養子にするのは拙い。

路線変更で結城家へ養子、結城秀康を名乗りました。いちおう名門の後継者ということらしいです。そのまま変更なし
五男信吉は、武田。旧武田家と親しくするために武田の名跡を継いだ形です。
4男忠吉は、20歳そこそこで死亡。そのごろ、徳川より松平の方が、まだ知名度があった。家康も徳川の苗字をどうするか迷ってた時期でしょう。少しでも家康に係わってたら、松平の名乗りを許してたケースもあります。
後の御三家、尾張や紀伊、水戸など大きな藩の城主として将来も存続する地盤を作ってから、徳川の名乗りをしています。もっとも、助さん格さんをお供にしてたあの人が、俗に水戸光圀と呼ばれたように、正式名称はあまり使われず、水戸の御隠居とか、尾張大納言といった地名+官職名で呼ばれてたようです。
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徳川、という姓に


権威をつけるためです。


三河国 の戦国大名であった松平家康 は、
1566年(永禄9)暮れに松平姓を徳川と改姓した。

このころ家康は三河一国をほぼ手中に収めており、
この地盤を固め、家臣団の統制をしていくうえで自己の
権威づけも必要であった。

そこで朝廷に改姓の勅許を得、さらに従五位下 三河守
の叙任を受けて権威づけを行った。

勅許を得て家康個人が徳川を称したため、
しばらくのあいだ徳川を名のるのは家康1人であった点において、
一族、家臣団統制にも有効であった。

その後、家康は、天下統一者となる。

ついで1603年将軍宣下を受けて幕府を開き、
さらに1605年には子の秀忠 に将軍職を譲って、
将軍職を徳川氏が世襲する体制を固めた。

その当時、徳川氏を称する者は家康と秀忠、
それに家康の末の男子3人に限られ、
他の親族は松平氏を称していたし、
また武士は徳川氏を名のることは遠慮し、
徳川の苗字は絶対的権威をもつことになった。

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松平忠吉は東条松平家を、忠輝は長澤松平を継いだという設定なので松平なのです。

謎なのは秀康です。秀康が存命中に徳川や松平を名乗ったかは史料が無くて不明です。子の忠直から正式に松平となりました。それ以外の子は徳川です。
それ以降、それぞれの「徳川」家の嫡男と将軍の息子以外は松平になるということが習慣化されたようです。
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徳川(得川)という家が清和源氏の流れを汲むものであるからです。



当初は家康にのみ徳川の姓を許しました。

その後源氏の流れであることで征夷大将軍に任命され、その後秀忠に将軍を継承する際に秀忠も徳川を名乗れるようになりました。

そして将軍を継承できる御三家にも徳川の姓が許され、それ以外から将軍が起用される際にも徳川の姓が許されました。
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