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鎌倉幕府の北条氏は、将軍に、ならなかったのですか?それともなれなかったのですか?

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A 回答 (10件)

結論としては「どっちもあるけど『なれなかった』の方が強い」ってところかな.



「幕府」というのは「武士の互助会」のようなもので, その「トップ」が「将軍」. で, 北条氏はその「互助会」のメンバーだったわけで, そこから「トップ」になろうとすると各種の困難を打破する必要がある.

まず「トップ」には「良好な血筋」が求められ, その時点で北条氏には不可能. 源氏だけで考えても足利氏 (実は北条氏と姻戚関係にある) がいる.

もちろん血筋はゴニョゴニョすればいいだけの話だけど, 自分がトップに立つと反発するやつらも出てくる. で, そこで無理を押し通すだけの力もなかった.

というわけで, 頼朝の直系が絶えた時点で (自ら将軍になるのではなく) 親王の下向を求めた.

後半になると北条氏 (特に得宗) が権力を独占するんだけど, その時点ではもはや「将軍という地位」に意味はなくなってしまった (なんなら「執権」すら) ので「将軍になる」ことも無意味.
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/01/20 05:13

源頼朝が幕府を開き、


今後は征夷大将軍は源氏独占と決めた。
そのため北条は源氏が滅びた後、
藤原や皇族を呼び寄せて将軍にした。
しかし、ほとんど飾り物将軍で
治世の実権は北条氏の執権
しかも義時の直系が徳宗家となって実権独占。
これから外れた北条分家も飾り物に過ぎず。

以後、鎌倉幕府が滅びた後も平氏に将軍職回らず。

だから秀吉も将軍職望んだが、平氏を名乗ったことで
失敗。藤原の養子となって関白に甘んじた。

関白は武士ではなく、貴族の棟梁と呼ぶべきである。

徳川幕府に遷れば、徳川が源氏を称して将軍職となった。
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北条氏は、平氏の流れ。


桓武天皇の次男で天皇になれなかった人が、武士に下野。
最初の平氏。
3男嵯峨天皇の子孫が武士に下野して、最初の源氏。
嵯峨源氏。

第57代 清和天皇の子孫も武士に下野。
清和源氏。この源氏のみが、武士の棟梁、征夷大将軍になれる。
栃木足利の、足利家 足利尊氏など
群馬新田家 徳川はこの家系に入れてもらった。

豊臣秀吉は、百姓の子としてはっきりしていたので、没落していた天皇家を助け、摂政関白として。征夷大将軍にはなれなかった。
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北畠顕家という人は、一応将軍になっています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0 …
坂上田村麻呂という人も、将軍になっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A …
出自、名門のものというのは、とても大きな要素で、それだけで10歳前後で高位の官位に登ることは多かったものの、天皇や院・上皇の引きで昇進することも、武力や脅し、あるいは慣例やら周囲の諸般の情勢次第で、将軍になることもあるようです。
北条・北條氏でも、将軍になる可能性はあったのかもしれませんが、そのような官位を受けるとそれへの謝礼や祝いや出費も多く、アホらしいという判断もあるでしょう。 
頼家の追放で、頼家死去に伴う継承をするということで、12歳で源実朝は官位と征夷大将軍の称号をえて、その後に、下のような昇進をします。
1203年(建仁3年)9月  従五位下 & 征夷大将軍
1203年(建仁3年)10月 右兵衛佐
1204年(建仁4年)1月  従五位上
1204年(建仁4年)3月  右近衛少将
1205年(元久2年)1月  正五位下
1205年(元久2年)1月  右近衛中将
1206年(建永元年)2月  従四位下
1207年(建永2年)1月  従四位上
1207年(承元元年)12月 正四位下
1209年(承元3年)4月  従三位
1209年(承元3年)5月  右近衛中将
1211年(承元5年)1月  正三位
1212年(建暦2年)12月 従二位
1213年(建保元年)2月  正二位
1216年(建保4年)6月  権中納言
1216年(建保4年)7月  左近衛中将
征夷大将軍の名称は、頼朝が王朝側に願い出て、王朝側が検討の結果で頼朝に与えたものですが、頼朝が死んでしまったときに、「前征夷将軍源朝臣が遺跡を續ぎ、宜しく彼の家人郎從等を令て舊の如く諸國守護を奉行令め者り⇒前征夷将軍源頼朝の跡目を継ぎ、よろしく、その家人郎従らに、以前のように諸国守護を担当させるべきである」 http://adumakagami.web.fc2.com/aduma16a-02.htm と書いているのは、「王朝側の公領・国衙領・公家領などを、いわゆる御家人が私物化してしまわず、あくまで軍事・警察機能とその報酬範囲から逸脱しないように、御家人・家人・郎従を取り締まる立場を源家総領として・征夷大将軍として守る」という建前を前面にだしたものでしょう。
「征夷大将軍=全国の地で、御家人が荘園を我がものする行為を禁じ、王朝の武力組織であること維持するもの」という認識が、王朝側と鎌倉側とに共有されているのであれば、「実力があるものが、地位も領土も奪取し当然である」と考えられてしまうことになることは、王朝側にしても、鎌倉側にしても、許容はできないでしょう。 御家人が自分の実力と武力で勝手を始める危険を、北條氏も冒したくはないでしょう。 

もしも北條氏が、「将軍」という称号を欲しいだけならば、過去の将軍任命例や自分の血統の正統性を言い立てて、ごり押しができないことはなかったと思いますが、そんな称号や官位(なにも実は伴わないので、王朝内での肩書き・順位でしかない)にこだわるよりも、実をとること、北條氏の一党の繁栄を望む方が、常識的で現実的な選択でしょう。
「鎌倉幕府の北条氏は、将軍に、ならなかった」の回答画像7
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北条氏は武士の棟梁となれる家柄ではなかったので「将軍個人より幕府の権力を強化した」と言うことだと思います。

そのために「将軍」の権力を形式化して、幕府の運営を有力武士団の合議制にし「本領安堵・新恩給与」を将軍個人でなく「幕府」の組織の仕事としたわけです。つまり「なれなかった」から「ならなくても北条氏が権力が握れるシステムを作った」と言うことでしょう。そこには戦国時代のような下剋上の思想は無かったと思います。
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承久の乱後であれば、武力を以て朝廷を屈服させることは可能だったかもしれない。



しかし、元々中程度の三流豪族だった北条氏の基盤はまだ安定していたわけではない。頼朝の外戚としての権威と、頼家を取り込んで最大のライバルとなった大豪族比企氏を滅亡させるなどして、ようやく武力でも三浦氏など他の大豪族たちと肩を並べるところまで来ただけだ。血筋だけで云えば足利氏や新田氏など清和源氏の直系に近い豪族たちも少なくない。

将軍なんていう色気を出せば、周囲から袋叩きにあい、沈没した朝廷も半北条派と手を組んで息を吹き返す可能性だって出てくる。
将軍に色気を出したわけではないにしても、実権奪回に燃えて魔王の如く振舞った異色の天皇・後醍醐の登場を機に、反北条派が結束したために、北条の世は終わってしまった。

北条政権とは、結局は天皇家の血筋の権威に、強く依存していたものだった。将軍とは天皇家の名代のようなものだ。北条氏自身が、自分たちが将軍になれるとは思っていなかっただろうが、仮になろうと思っても無理であることも自覚していただろう。
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朝廷から見た場合、北条氏は家格が低すぎて征夷大将軍になどとても任じられなかったというべきでしょうかね。



征夷大将軍は平安中期以降、極位極官がかなり高い家柄じゃないとなれない官職です(頼朝以降の清和源氏宗家は正二位右大臣が極官。実朝暗殺後は摂家将軍・宮将軍となる)。征夷大将軍は、正四位下相摸守が極位極官の北条得宗家には慣例上与えられない官職になります。

もちろん、朝廷に対して実力を以て強請すれば北条氏だって征夷大将軍になれなくもないのですが、北条得宗家はその必要を認めなかったということでしょう(平安末期〜室町時代の社会では、家格不相応な高い地位役職に就くのはとんでもない横紙破り扱いです)。
その面に着目すれば、征夷大将軍にならなかった・なる必要を認めなかったということでもあります。
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なれませんでしたが、「尼将軍」と呼ばれるほど権力や信頼もありました。

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成れませんでした



ならずとも実権は握っていたので必要無かったですね
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将軍という肩書より、実際の権力を取りました。


将軍という肩書まで取ろうとすると、周りが大騒ぎだったでしょう。
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