
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
幕府の役人名簿である「武鑑」には吉宗が将軍になってから、御休息御庭「御庭之者」という職名がでてきますが、これが通称御庭番の正式名です。
吉宗の頃はぢかに御内命を受ける、将軍直属の隠密でしたが、後に「御庭之者支配」が出来、この支配下になり将軍だけでなく、老中など幕閣からも隠密を命じられました。 表向きの仕事はNo.2さんの書いた通りです。隠密行動は原則単独で、同僚も全く知らないということで、「御庭番衆」という集団行動はありません。 アニメは他の忍者集団と同様にして面白く組み立てたのでしょう。
ついでながら給与については、2百俵(2百石並)、百俵、五十俵で旗本中位の待遇を受けていたといわれ、花形の職だったようです。
明治になり学者が元御庭番「川村帰元」氏と質疑応答した内容も載っている、「旧事諮問禄」が岩波文庫より出たそうです。
分かりやすくそして細かく教えて頂きありがとうございました。
御庭番衆という集団は存在していなかったのですね。
すごくすっきりしました。
No.2
- 回答日時:
庭番は享保元年(1716)八代将軍・徳川吉宗が将軍相続の際、紀州藩より連れてきた隠密御用役の薬込役16人を、将軍直属の隠密として従事させたもので、表面上は休息御庭締戸番や伊賀庭番に命じたので、「庭番」という職名になりました。
同14年には川村新六が先の16名に加わり「御庭番家筋」に定められましたが、後に4家が追放され、13家のうち別家9家が生まれ、幕末まで22家が続きました。
表向きの仕事は江戸城天守台近辺や吹上の庭の警備ですが、内密には将軍・御側御用取次の指令で、諸藩・遠国奉行・代官所の偵察。老中などの諸役人の行状や風評・素行調査を行いました。その力量によっては勘定奉行や遠国奉行にまで昇進する者もいたようです。例えば、但馬国出石藩の仙石騒動を探索した村垣範正は、幕末に副使として渡米しています。
庭番が諸藩へ探索に出る際は、勘定奉行より路銀を受け取り、呉服屋の大文字屋(現在の大丸)で衣装を整えてから旅立ったともいわれますが、単なる言い伝えとされます。
ですから、庭番は務める家柄が定まっているというのが特徴で、必ず隠密御用を務めていたというわけではありません。
参照『国史大辞典』
御庭番の役割を教えて頂きありがとうございます。
ただ、御庭番衆という集団が存在したのかどうかのみ知りたかったので少し気を使わせてしまったようです。
丁寧に書いていただきありがとうございます。
No.1
- 回答日時:
お庭番家筋といってお庭番になれるのは特定の家柄に限られていましたし、彼らは現役の庭番も、お庭番を卒業してもっと上の役職についていたものも一体となってお庭番の活動をサポートしていましたから集団とはいえますが、御庭番衆などという隠密集団は存在しません。
あくまでも将軍直属で将軍の命(実際には御側御用取次を通じて命じられることが多いが、場合によっては直々に命じられることもありました。)で活動しました。
短く簡潔に書いていただきながらも御庭番衆の存在の否かや御庭番の仕組みを教えて頂きありがとうございます。
すごくこの疑問を気にしていたのでほんとはっきりとしたことが分かってよかったです。
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