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蜀漢の諸葛孔明は魏への北伐の際、
魏の司馬仲達と何度も戦ったが、
結果的に勝敗がつかず、引き分けに近い形になっています。
たしかに諸葛孔明は頭脳優秀なのは分かるが、蜀と魏の国力で比べたら、
魏のほうが圧倒的に勝っています。
ましてや司馬仲達も諸葛孔明と同じくらい優秀です。
そう考えたら、司馬仲達は蜀と本気で戦っていなかったのではないですか?
司馬仲達は手をぬいていたのではないか?
本気で戦えば、いくら諸葛孔明といえども魏の国力にはかなわない。
でももし、司馬仲達が蜀漢を滅ぼしたら、司馬仲達の魏での存在価値が微妙なものになる。
「狡兔死して走狗煮らる」の故事にあるように、韓信のような目に遭うかもしれない。
実際、蜀漢を滅ぼした鄧艾、鐘会は悲惨な末路になりました。
だから司馬仲達は適当に負けない程度で蜀と戦っていたのではないか?
そして魏の本国には「諸葛孔明が優秀すぎるので、なかなか勝てません」と
言い訳していたのではないでしょうか?

A 回答 (3件)

孔明は韓信のような世界的な大戦術家ではなく、その用兵は堅実だった。


孔明の本分は内政であり、劉備が戦う際には兵糧調達など後方支援を主に行っていた。

孔明が軍司令官として動き出したときは、劉備が最後の戦いとなった呉との夷陵の戦いに大敗して多くの熟練兵を失った後のことであり、彼は劉備の遺詔である中原の制覇を実現するために軍の再建から始めなくてはならなかった。
新兵に猛訓練を施し、北伐前に行った南征も仕上げの実戦訓練の意味合いが大きかったのだろう。

孔明の作戦は、兵の強さを基盤にした堅実な正攻法であり、世界的名将で変幻自在な作戦で快勝を続けた韓信のようなものではなかった。おそらく猛訓練した強兵を失うことを恐れていたのだろうが、変に応じて作戦を変える軍才は無かったのだろう。

軍才としては、第一次北伐で守りが固まっていなかった長安急襲策を提案した魏延の方が上だったのではないだろうか。魏延は劉備が軍才を高く評価した人物で魏との最前線である漢中の太守を任じられていた人物だ。
結局、第一次北伐では、孔明は武人の魏延を重用せず、最重要防衛拠点だった街亭の守備を魏延に任せず、自分と同じ実戦指揮経験の乏しい文人の馬謖に命じて失敗している。単に魏延とウマが合わなかっただけなら指揮官として如何なものだったのだろうか。

これに対する司馬懿もタイプとしては孔明と同じだった。両者とも極めつけ優秀ではあったが基本は文人だったということだろう。

二人の戦いは変に応じることが苦手な文人同士の戦いとなった。派手な戦いはほとんどなく、互いに陣地を固めて相手が動いてスキが出るのを待つ。そういう戦いになってしまった。

そういうことかと思います。
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司馬懿から見れば、無理せず負けないことが一番の勝利と見えていたのでしょう。


三国志演義では諸葛亮の引き立て役となっていますが、実質的には三国志の真の勝者が司馬懿です。
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優れた軍略家にしてみたら、戦争になった時点で下策。


選択肢がそれしかないのなら仕方ないが、財を投じて、民を減らして、街を壊して、田畑を踏み荒らした上の辛勝なら勝たない方がいいくらいです。
軍略家が大将なら、100%圧勝でない限り決めに来ません。

戦わずして勝つが上策。
諸葛亮は時間が限られていたため下策の戦いを選択し、司馬懿は諸葛亮の時間が限られているのを知っていたから上策の戦わないことを選んだだけです。
片方が戦う意思がない上に、決め手に欠くので決着がつかないのです。
手抜きではありません。
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