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三国志の「街亭の戦い」についてです。
蜀漢の馬謖は街亭を守備する際、山上に陣をとり、
魏軍に大敗北しましたが、
そもそも馬謖は何故、山の上に陣をとったのでしょうか?
山の上に陣をとれば、水不足に陥り、軍が崩壊するのは明らかなのに?

A 回答 (3件)

街亭は、山間の川沿いの道の、出入り口の道が開け始めた辺りにあった。


その出入り口を押さえておけば、いくら敵が大軍で来ようと軍を展開できないので、無理に押し通ろうとしたら三方から包み込むように袋叩きにできる。

出入り口付近に大したものでは無さそうだが城もあったらしいので、普通は誰でも川沿いのそれほど広くない道の出入り口に布陣すれば、敵の侵入を防ぐ目的は達成される。

ただ、その当たり前の作戦では、敵が無理に押し通ろうとしない限り、敵と戦闘にならないので勝つこともできない。

おそらく馬謖は大勝利を挙げたかったのだろう。
だから、山間の狭い道に入り込んだ山の上に布陣したのだろう。
その意図は、敵が山の下の川沿いの道を通り過ぎようとしたら、長く伸びた隊列の中央を突くか、後方の輜重部隊を叩いてしまえば大勝利は間違いない。

だから敵も通過はせずに、山を攻め上るしか手はない。その時に上から逆落としに攻撃すれば大勝利が得られるはず。
そういう作戦だったのだろう。

しかし、敵は山を包囲して陣を構えて長期戦の構えに出た。それで惨敗となった。

まあ、実戦の指揮経験がないために、山上の地の利を得るという兵法の常道に出たのだろう。生兵法。机上の計算。としか言えない。
川から離れたら兵士が水を飲めなくなるという兵法以前の常識も、「大勝利したい」という欲の前に眼が眩んでいたとしか考えようがない。
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そこに山があるからw



そもそも三国志(史書)ですら詳しく書かれていない、という問題がありますし、これに書かれていることが全て真実というわけでもない、という目で読むことが必要なことも私たちは知っていると思います。

以下はやや馬謖に甘い考えのもとの一考察と思ってください。
まず一般的な考えとして、山の上のほうが守りやすいというのがあります。また数千人ならともかく数万人が街亭の街(城)に入って守るというのも、やや無理があると思います。
三国志演義や一般的な話として、諸葛亮が『街亭の街に入って』戦えと指示したとするものが多いですが、そのような資料は残っていませんし、軍を預けた司令官にそのような戦い方の指示をするというのもあり得ないことと言えます。そのような戦略的な面から、山の上に布陣したというのは、十分に考えられる1つです。
さらに敵の張郃の進軍が予想以上に早かった可能性もあります。当初は街で防衛する予定だったものの街亭に付いた時にはすでに敵が目と鼻の先ほど近くまで迫ってきており、街での十分な迎撃態勢が取れなかった可能性もあるのかもしれません。
また張郃は隴西を助けるために急いでいるという面もあり、馬謖は張郃が街亭で持久戦のようなことはしないだろうと考えていたのかもしれません。
また『水源を押さえられ』と言われ、ため池のような一か所を抑えられて水が無くなるような記述が多いのですが、街亭の街と南山の間に川が流れており、魏軍が水源を押さえたというものの、どの程度の実行力があったのかは私はやや疑問が残ると感じています。

さて予想外に持久戦に持ち込んだ張郃に対して、守るには優位な山上も攻めるにはそうでもなく、数万人に対して十分な水が確保できなかったのか、馬謖の指示は一貫性を欠き用兵は上手くいかなかったようです。
水源を押さえた張郃が、このような敵は次に夜襲を仕掛けてくると読み、その通りに夜襲をしてきた馬謖軍を打ち破るという話がありますが、これが三国志演義(作り話)なのか史実のことなのか知りません。

結果的に馬謖は、この戦いで大敗を期し漢中(蜀の都)の向朗のもとに逃げ帰ります。馬謖の敗北を受け、諸葛亮は北伐(第一次北伐)全てが失敗になったことを悟り軍を引くことになります。
一説には敵の張郃軍は馬謖の軍の2倍以上居たと言われていますから、勝つのは無理としても負けない戦をしてくれていれば、と思う人は少なくありません。

以上がまぁ馬謖の肩を持った考え方と言えるでしょうか。
馬謖の副官の王平が、街亭の街で守ろうと馬謖に再三の進言をしていたと三国志(史記)には書き残されています。しかしこれも死人に口なしと言うか、後になって『わしゃ何度も繰り返し言ったんじゃけどなぁ』などと言ってただけなのかもしれませんw
王平は1000人の手勢で街亭の街を守ったということになっていますが、馬謖が敗走した後の残兵をまとめて街亭の街を守ったのでは?と考える人も居ます。

さて、上では馬謖を良く書きましたが、馬謖ってどんな奴だったのかというと、ぶっちゃけ『口だけ男』だったんです。それで諸葛亮にゴマすりまくって気に入られていたわけですが、傍から見ていた劉備なんかから見たら『あいつは口だけ男だから信頼するな』などと言われてたわけです。そういう口だけゴマすり男って身近にも1人くらい居たりして、傍から見ていたらなんであんな奴って思うのに、ゴマをすられている者から見たら、良く出来るやつのように見えていたりするんですよねw

そんな馬謖が初めての実戦で、頭でっかちな考えであーしろこーしろというが、言ってることが伝わらない、聞いてるほうからしたら何を言っているのかよく分からない上にコロコロ言う事が変わる、そんな指揮をされたらどう戦えば良いのかさえ分からない、そんな状況になったんじゃないかと思います。
そうなると馬謖のほうもキレて、こんな軍じゃ戦えないとほっぽり出して逃げたんじゃないかと思います。

以下は、なぜ馬謖は切られたのか、という話になるのですが、結論から言えば、なぜ切られたのか『分からない』ですw
三国志には、諸葛亮の『節度を違えた』から斬られたと書かれているのですが、この節度って何ぞや?ということなのです。
節度というのは一般的には決め事とかそういうことになります。つまり諸葛亮が定めた決まり事を破ったからみたいなことですね。ところが馬謖の街亭の戦いにおいて、何が『節度を違えた』に当たるのか分からないのです。
街亭の戦いで負けたから、と思う人は多いのですが、1度の敗戦で武将を斬るなどということはまずありえません。1度ならずとも何度負けても、それで斬られるというのは、アニメの見過ぎというほどないのですw
なので多くは、諸葛亮が『街亭の街に入って守れ』と指示したのを守らずに南山に布陣したのが『節度を違えた』に当たるとされます。三国志演義でもこれが採用されてたと思いますが、一般的に言われることがこれですね。さらに副将の王平が『わしゃ何度も繰り返し言ったんじゃけどなぁ』などと証言して出世していますので、あたかも諸葛亮がそのような指示をしていたかのように思われがちです。
しかし軍を預けた前線の将に対して、そのような細かい指示を第三者が出すというのはあり得ないという反論があります。実際に戦ではその場その場での臨機応変な対応が勝利に必要となることが多く、遠くに居て言う通りに動くだけで勝てるなどと言うのは、よほど頭の悪い人物といえるでしょう。なので諸葛亮がそのような指示を出して馬謖がそれを守らなかった、などということは無かったと思います。
そこで出てくるのが馬謖の敵前逃亡説です。つまり馬謖が、味方の軍を見捨てて自分だけで逃げたという話です。馬謖の指示が混乱していたのは張郃伝に書かれていたと思いますが、頭でっかちな口だけ男の馬謖が上手く軍を指揮できずにどのような状態になっていたのかは、目に浮かぶような気がします。そして軍を捨てて自分たちだけで逃げ帰った。この敵前逃亡が『節度を違えた』に当たるという考えです。

ついでに私の考えを書かせてもらうと、向朗のもとに逃げ帰った馬謖たちを向朗は『見逃して』、その後に馬謖たちは捕まり斬られることになります。向朗が馬謖たちをどのように扱ったのか、どのような状況で捕まったのか、あたりは書かれていないので私の想像になってしまうのですが、おそらく漢中の向朗のもとに戻ってきたあと、馬謖たちは更にどこかに逃げようとしたのだと思います。どこに逃げようとしたのか?漢中から逃げるということは蜀から逃げるということを意味するのではないかと思います。これは蜀の国を裏切る行為です。私はこれが『節度を違えた』に当たるものではないかと考えています。

余談が多くなりましたが、『泣いて馬謖を斬る』という有名な故事に、このような謎が潜んでいるというのは、なかなか面白い話だと思います。
わたしの説もちょこっとかじった程度の知識でのものですので、自分で調べて見られると、また面白いと思います♪
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何にでもメリットとデメリットがあります。


質問者さんが、感じているのが史実にもあるデメリットの点。

メリットというと、
高い位置から敵を見下ろして、敵が来る方向、敵の戦力、麓の敵の陣形等を探りやすく、また、戦うときに高い位置から駆け下ると勢いがつきやすいなどメリットもあります。

馬謖の場合は、そのメリットだけに気を取られて致命的なデメリットを無視してしまったと言うことでしょうか。


良ければ読んでください。
馬謖と逆に戦場の地形の端にあった、ゴディスの蜂刺されと呼ばれる丘を利用して少数の兵で大軍を翻弄するヒロインのシーンです
https://ncode.syosetu.com/n1223cb/259/
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