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源頼朝は、将の将たる器ではなかったのでは?
三国志の劉備玄徳は、諸葛孔明や関羽などすぐれた人物の上に
たつ器がありましたが、源頼朝には、なにもないですよね。

上総の介広常も惨殺されました。

だいたい源氏というのが仲間割れとか
足の引っ張り合いをする気質があるのでしょうか。
平家は家族仲良い印象なんですけど。

A 回答 (3件)

>三国志の劉備玄徳は、諸葛孔明や関羽などすぐれた人物の上にたつ器がありましたが、源頼朝には、なにもないですよね。



日本で上に立つ人の資格に「高貴な血筋」というのがあります。
頼朝は何のかんの言っても、京都の公家、それも平家と並ぶ威厳をもつ源氏であり、頼朝は直系の頭領でした。

頼朝は「内裏に上がって、直接天皇に拝謁できる身分(だった)」わけで、坂東武士からみれば「とてつもなく偉い人」であり、東国が独立国として動けるようになるには、絶対に必要な「人材」であったといえます。

要するに「権威」なのですが、日本では天皇の勅許をもらわないと何もできない国なのは当時も今も同じ、だから頼朝がたとえ「指揮者として有能ではない」としても権威として十分に上に立つ器とみなされたのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>日本では天皇の勅許をもらわないと何もできない国なのは当時も今も同じ
だから日本ではなんでもが委縮して、スケールが小さくなるんでしょうね...

お礼日時:2022/04/19 06:55

これは全くの誤解ですよ。



鎌倉殿の13人でも分かるように、有力御家人同士の勢力は拮抗していた。その中で誰がトップに立っても足の引っ張り合いが始まる。実際に頼朝が死んだ後、北条氏はじめ有力御家人同士での潰し合いが始まって、時頼の時代にようやく安定する。

言い換えると頼朝がトップにいる間は安定していた。頼朝ならば神輿として担ぐには適任だった。また、いざという時には義経を切り捨てて御家人を守るといった、判断力と行動力もあった。彼に将の将たる器が無ければ、御家人達をまとめる事はできなかった。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
北条氏っていうのは、鎌倉幕府の権力を源氏から簒奪して、地方政権なのに全国に君臨して大したものですね。

お礼日時:2022/04/19 06:56

三國志はフィクションですから。

。。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「赤壁の戦い」とか、魏呉蜀の3国時代はほんとにあったことと思うのですけど...。司馬遷って、歴史家じゃなくて、小説家でしたっけ。三国志は歴史を書いてると思ってました!でも、なんか小説っぽいですね。

お礼日時:2022/04/19 06:59

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