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三国志の呉の本拠地である江東・江南は未開のジャングル地帯みたいな場所だったそうですが、そうなるとさらに遡った「西楚の覇王」こと項羽が生きていた時代の江東・江南はもっと未開だったと思うのです。それなのに何故項羽は秦帝国を滅ぼして、覇王となれたのでしょうか?。秦は西方の騎馬民族。その他北方の趙や燕の騎馬兵も従えていたはずです。軍事力では騎馬兵がいる北方や西方の方が圧倒的だったと思います。未開地で騎馬兵もいない楚の生まれである項羽はいかにして強大な軍事力を得たのでしょうか?

A 回答 (3件)

>秦は趙や燕の騎馬兵も従えていたはず


この部分はノー。
大まかにはこういう順序なので、趙や燕の兵はほとんどいなかったはずです。

陳勝・呉広の乱(楚)
反乱が旧6国に飛び火
分遣隊が魏や趙や燕を占領
秦が根こそぎ動員 約20万
陳勝・呉広は鎮圧
その他も各個撃破
秦軍、鉅鹿(趙)を包囲。
各地の援軍、鉅鹿に集まるも、秦軍を遠巻きにするのみ。
項羽軍もかけつけ、単独で秦軍を撃破。
各地の援軍は項羽軍に味方 合計40万。
秦に進撃。しかし、首都占領は劉邦に先を越される。
劉邦軍は10万なので、以後の主導権は項羽のもの。

つまり、
秦軍VS反乱軍は、マクロ的には 秦VS残り6国(ただし、6国は国力が落ちた後)であり、楚VS残り6国ではない。
項羽は本人が強いので、各地の反乱軍を吸収し、鉅鹿で秦軍を撃破したときに河北がそっくり味方になった。

あと、項羽は彭城(徐州)出身であるので、江東・江南ではありません。
※後漢(黄巾乱の前)の人口は、揚州430万、徐州280万。面積は徐州のほうが大差で狭いので、徐州は未開地ではないです。
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中国の戦国時代七国が覇を競いました。

斉、趙、の順に覇権者が出ましたが、その最後が秦で独り勝ちしました。その間に覇権者として楚がありました。未開地ではないです。
日本は開発されや先進国ですが、山奥に未開の地は沢山ある。
楚は大面積でしたから、都市・農村と言えない未開地は相対的に多かったことは多かったが強国の一つでした。
楚が強国の中で最後まで秦に抵抗しましたから、秦を倒すのはきっと楚人だろう、との噂があったようです。
秦後の動乱、項羽と劉邦いずれも楚の人です。
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日本史でいえば、平家を滅ぼした源義経たちの強さとして、食べ物の差、上品な京料理の平家と、肉食有りの源氏との差、もうひとつは、戦術、壇ノ浦で、非戦闘員の船頭を狙うような非情に徹する性格。


似たような理由だと思います。
加えて、武器の差、楚軍はけっこう軍資金に不自由しなかったようですし、項羽の性格として、お金に糸目をつけず、高くても良い武具をそろえたでしょう。
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