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江戸時代の政治改革の変遷を説明してください
キーワードは農業 商工業 対外関係です 
解答よろしくお願いします 単元は享保の改革
寛政の改革 天保の改革です。

質問者からの補足コメント

  • 中学校です。情報が足りておらずすみませんでした

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/02/05 14:57

A 回答 (4件)

no2です。

やや長文ですが、お許しください
江戸時代中期になると、都市では商工業が盛んとなり貨幣経済がすすみましたが、農村からの年貢は相変わらず米で納められており、それをを取り扱う仕事を商人に任せたため、武士は年貢から利益を得ることができませんでした。その結果貧しい武士が、豊かになった商人を支配するという政治と経済の矛盾が生まれました。そこで、政治改革を行ったのが、徳川吉宗や田沼意次、松平定信、水野忠邦と言った人たちです。その中で徳川吉宗の享保の改革は、年貢を増やす政策(検見法導入)や幕府の財政を安定させる政策(足高の制・上米の制)を行い、田沼意次は商人の経済力を利用したり(株仲間の積極的公認・蝦夷地や中国との交易)、印旛沼干拓を計画して米の増産を狙いました。松平定信の寛政の改革や水野忠邦の天保の改革は農村の人口増加やによる立て直し政策を基本とした政策を実施しました。特に飢饉のための義倉や都市の七分積み金などの制度は、有効でしたが、全体としては武士が商業活動に積極的に介入せず、商業活動と年貢の矛盾を解消できませんでした。
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江戸時代の「改革」は享保の改革をなぞったものだけを言います。


それとは異なる方向性のものは「腐敗政治」とこき下ろされます。
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「単元」という表現から、学校のレポートのような気がしますが、どのレベルで知りたいですか


1中学校
2高校レポート
3中堅大学受験
4難関大学受験
5社会常識程度
この回答への補足あり
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当時は農業が基本の農本制度を


採っていました。

しかし、幕府の財政が悪化して
改革の必要性に迫られます。

そこで将軍吉宗が財源確保のため
「上米(あげまい)の制」を打ち出します。
その他にも色々改革し
幕府の財政は、吉宗の晩年、年貢の徴収高が
江戸時代を通じて最高に達し、一時的に立ち直ります。
享保の改革です。


しかし、あくまでも一時的であり
再び悪化するようになります。

そこで田沼意次が登場し、これは
農本制度を採っているからだ。
金を持っているのは商人だ。

ということで、商工業中心の経済に
変えよう、税もそこから取るように
しようとしました。

更に意次は、貿易にも力を入れ
長崎から、俵物を輸出するように
しました。
また、ロシアとの交易も計画しました。

意次の政治は、経済の発展に着目し、
商人資本を利用する革新的なものでした。

しかし、特権や地位を得ようとする商人や武士により、
賄賂が公然と行われるようになり、
政治の公平性が損なわれていきます。
意次の政治に不満が高まっていきました。

さらに、1783年浅間山が大噴火します。
噴火による火山灰は、関東平野一帯に降り積もりました。
噴煙が日光を遮り、農業にも被害を与えました。
大凶作も続きます。
「天明(てんめい)の大飢饉」です。

天災による社会不安の中で、
意次は次第に勢力を失い、
将軍・家治の死去とともに失脚しました。

その後も幕府の財政悪化はすすみ
松平定信が老中に就任し
「寛政の改革」を行うわけです。

「倹約令」「棄捐令」「七分積金制度」などを
設けるとともに。

「旧里帰農令」を出して江戸での出稼ぎを制限し、
関東の農村から江戸に来ていた定職を持たない
農民たちを故郷に帰し、農業人口を確保しようとします。
また、飢饉に備えて米穀を供出させ蓄えさせる
「囲米」を実施します。

さまざまな改革を行った定信ですが、
11代将軍・家斉(いえなり)と対立し、
6年あまりで失脚。


結局、三大改革のうち、成功といえるのは
吉宗の「享保の改革」だけでした。
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