
京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった、妊娠しても生まれる前に闇に葬って、京都の血が将軍家に残らないようにしたというのは史実ですか。
言われてみれば、至極当然の考え方ですが、びっくりしました。
主に戦国時代の事を指しますが、昔も、じつは女性の影の力は思われているよりも大きくて、人質のように嫁がされても、外交官的役割を自覚して、賢く、たとえ短くても誇り高い人生を生き切った、と、最近の大河ドラマなどを見て、思い始めていたところだったので、この話には驚きました。
どなたかご存知の方がいたらもう少し具体的に教えてください。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
> 京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった
回答としては、微妙なトコですね。
ちなみに徳川歴代将軍で正室との間に子を成したのは、初代家康、2代秀忠、6代家宣、10代家治、11代家斉、12代家慶、15代慶喜の15人中7人。
さらにそのうち、皇族や公家(養女を除く)出身の正室は、6代家宣、10代家治、12代家慶です。
まず、6代家宣。
将軍職就任は宝永6(1709)年のことですが、正室(後の天英院。関白太政大臣近衛基煕の娘)が子供を産んだのは、天保元(1681)年と元禄12(1699)年のことなので、「徳川将軍の正室」が生んだことにはなりませんね(元禄12年の時点では甲府藩主・徳川綱豊でしかありませんでしたから)。
次に12代家慶。
将軍職就任は天保8(1837)年のことですが、正室(後の浄観院。有栖川織仁親王の娘)が子供を産んだのは、文化10(1813)年、文化12(1815)年、文化13(1816)年のことなので、こちらも、「徳川将軍の正室」が生んだことにはなりませんね。
最後に、10代家治について。
将軍職就任は宝暦10(1760)年。
寛延2(1749)年に、閑院宮直仁親王の娘を正室としています。
2人の間には、千代姫、万寿姫が生まれています。
千代姫は宝暦6(1756)年生まれですが、万寿姫は宝暦11(1761)年に生まれですから、「徳川将軍の正室」が生んだ子供になります。
ただ、ご質問が「京都の公家から迎えた徳川将軍の正室」となっており、閑院宮は公家ではなく皇族(世襲制の宮家)です。
ですから、厳密に言えば、「京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった」は事実といえば事実と言えないこともない-となりますね。
> 妊娠しても生まれる前に闇に葬って、京都の血が将軍家に残らないようにしたというのは史実ですか。
こちらについては、そうしたこともあったかもしれませんが、6代家宣の元禄12(1699)年に生まれた子供は男子(ただし死産)であったこと、12代
家慶の文化10(1813)年に生まれた子供・竹千代は、1年程度とはいえ生きていたことを考えれば、一概にそうであったとは言えないと思います。
将軍職就任の年と出生年まで詳しく教えていただき感激です。
「京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは」というのが、厳密な意味で該当するというのも驚きです。
「死産」と「1年程度生きていたこと」というのも、成人した人は一人もいなかったことになり、薬殺、故意の事故死の可能性もあるわけで、そうでなくても、母親であった人はどん
なにか、つらかったろうと、胸が痛みます。
当時の高貴な女性にも、人によっては哀れな人生があったのだと、今さらながらですが感慨深くいたましく思います。
たいへんよくわかり、納得できる回答をいただき、ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
確かに3代家光以降正室の子が将軍職に就いたということはありませんね。
流産させる薬や、子供が殺されていた、というのは現代となっては検証する手立てもありませんが、
徳川家が公家の京都の血を入れたくなかったかどうかは疑問ですね。
下の方の回答にもあるとおり、10代家治の母、側室とはいえ梅渓幸子は公家の出身ですし、正室が亡くなった後はほとんど正室のような扱いだったといいます。
10代や12代の正室はともに皇族の出身ですが、幼いころから江戸に下向し、武家風の生活に慣れさせられていたようです。
家治や家慶とも結婚前に何度か会っており、仲がよくあるようにはかられていたようです。
所詮お飾りの御台所ならここまですることはないでしょうね。仲が良くなるように取り計らい、出来れば正室所生の世継ぎを誕生させたかったのではないでしょうか。
<幼いころから江戸に下向し、武家風の生活に慣れさせられていたようです。家治や家慶とも結婚前に何度か会って>
とは、驚きました。
この質問をしてよかったと思っています。
ようやくほっとする史実を知ることができました。
ドラマや小説も、全く関心のない人におおまかな自国の歴史の流れを知ってもらう点では、意義があるでしょうが、
物語性を優先する余りの誇張など、気をつけなければならないことも多いですね。
鵜呑みにしてはいけないと分っていても、知らず知らずのうちに刷り込まれる怖さも改めて思いました。
ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
#4です。
お礼をありがとうございます。ふたたび失礼します。
お礼に『「死産」と「1年程度生きていたこと」というのも、成人した人は一人もいなかったことになり、薬殺、故意の事故死の可能性もあるわけで、そうでなくても、母親であった人はどんなにか、つらかったろうと、胸が痛みます。』とありましたのを拝見しまして…。
逆に、徳川(武家)の血を天皇家に入れたくない-という動きもあったという説もあります。
第108代後水尾天皇の中宮は、徳川第2代将軍秀忠の娘・(後の東福門院)和子ですが、その間には、2人の皇子と5人(6人という説もあり)の皇女が生まれています。
後に女一宮・興子内親王が後水尾天皇の次に即位して第109代明正天皇となりますが、それは、2人の皇子が、1人は2歳まで生きていませんし、1人は生まれてすぐに亡くなっているからです。
しかも、後水尾天皇の皇子女のうち、東福門院が1620年に入内する以前、四辻与津子(通称・お与津御料人)が1619年に産んだ梅宮・文智女王以外は、ほとんどが、東福門院が最後の皇女を産んで以降(1633年)にしか誕生していないんですよ。
何やら「コントロール」されている印象を受けませんか?
徳川家における「公家から迎えた正室」のようなことが、天皇家で、「徳川家(武家)から迎えた正室」に対して行なわれていたのかもしれませんね。
#3さんのおっしゃっている「お姫さまなので子供を産むにはあまり向いていない体質なのか、江戸城にこもっているのでますます産みにくい体質になっているのか」については、医学的にも検証されています。
日本や中国の名家の令嬢は、自ら動く必要がないので、子宮の発達が悪くなり、イコール受胎しづらく、流産・死産の可能性が高くなるんだそうです。
あとは、当時の「おしろい」の成分が「鉛」であったことにも原因があります。
名家では、子女が産まれると「乳母」をつけますが、その乳母も乳房までおしろいを塗っており、自然、それを口に含む子供は「鉛毒」に害される-のだそうです。
ですから、あえてどうこうしなくても、乳幼児期の死亡率が高くなるのです。
最後に、#3さんがご紹介のネケトさんのサイトは、私もよく利用していますが(最近は専らヨーロッパ系)、情報量が多くオススメです。
締め切らないでおいて良かったと、再びの回答をいただいて、思いました。
ありがとうございました。
第109代明正天皇は徳川の血ということですね。
もっとさかのぼって、天皇家・曾我家・藤原氏のころのことを考えても、いい加減にしてくれと言いたくなるような史実がありましたね。
庶民で、現代に生まれてまあよかったと改めて思いました。
せいぜい活性酸素を余らせない程度の運動に日々いそしむことにします。
No.3
- 回答日時:
そんなことはないですよ。
六代 家宣正室 近衛煕子 豊姫 男子
十代 家治正室 五十宮倫子女王 千代姫 萬壽姫
十二代 家慶正室 楽宮喬子女王 竹千代 儔姫 女子
あと側室ですが
九代 家重側室 梅渓お幸 家治
基本的にお姫さまなので子供を産むにはあまり向いていない体質なのか、江戸城にこもっているのでますます産みにくい体質になっているのかはわかりません。
公家の娘の子供である家治は将軍になっているので、京都の公家の血が将軍家に残ってはいけないという説はなくなるでしょう。
五代将軍綱吉は積極的に京都の公家の娘を側室にしていますので、ますます否定されます。
江戸時代も三代、四代将軍あたりから将軍家、大名家ともに積極的に宮家や公家と交流をして正室を京都から迎えることになります。
武家にはない昔からの公家の権威を求め始めます。そうでなければ正室をわざわざ貧乏な公家から迎えることは考えられません。
参考URL:http://nekhet.ddo.jp/people/japan/tokugawa01.html
具体的に詳しくお返事頂きありがとうございます。
参考URLも、こういうページがあるなんてびっくりしました。
お姫様として生まれても、全く環境も風土も違う江戸に来て、どんなにか大変な人生だったろうと、改めて思いました。
No.1
- 回答日時:
裏の話ですから本当かうそかははっきりとはしませんが江戸時代の中期ころまでは本当にあったかもしれません。
家光の側室に公家出身者がいましたが妊娠するごとに流産させられたという話はあります。また正室のほかに側室もたくさんいましたから妊娠するチャンスが少なかったこともあるでしょうしなんともいえません。
ただ、徳川最後の将軍の徳川慶喜の母は宮家の出身です。まぁ、水戸家からは将軍は出ないはずでしたが。
さっそくのお返事ありがとうございました。
高貴な家柄に生まれても、幸せであったかなかったかなんて、全くわからないことなのですね。
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