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「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」

<質問>
直子が最後に自殺してしまいますよね・・・。
どう解釈していますか?

主人公のワタナベ君を結局は信じられなかった?
精神の病から自殺してしまったのか?

私も今精神を患っており、外泊中です。
直子と境遇が似ている部分もあり重なり気になります
私の入院している病院も比較的軽い患者が多いのですが、一向に回復しない。
死は私の一部。

精神が離人症、パニック障害、解離を起こしている。
レイコさんのように、生きる道を選びたいが、心は、直子と同じ事を望んでいる。

皆さんは、直子の死をどのように捉えましたか?
教えてください。

gooドクター

A 回答 (4件)

 まず、他の回答に対する質問者の反応がないことと、回答が未だ締め切られていないことを大変心配しております。

質問者と同じ境遇で困っている方のお役に、少しでも立てればと思います。
 
 直子の死は、死に引っ張られるワタナベ君(作者)が、これからを生きるための身代わり自殺だと思います。(自分の中にある死に誘われる思想を殺す)
 ワタナベ君を通して、読者は「何の感謝もせず、無自覚に生を貪る人たち」と「生と死の入り混じった様子を感じ取る人たち」のギャップに気付くと思います。「頭のねじまがった連中は元気に外を・・・」など。
 
 私の持論を挟みますが、「生を貪る人たち」がいるために、直子たちのような「責めを受ける人たち」がいるように思えてなりません。自殺志願者が最終的に自殺者になることは、この世界が子供のような無邪気さで「生を貪る人たち」であふれることになり、時代や世界の誤りに気付き、立ち直る可能性を失うことだと思います。
 自殺志願者がシェイクスピアの「生きるべきか死ぬべきか」を考えるときに、本当に殺してしまいたいのは「過去の自分」であり、過去の延長である「惰性的に生きる自分」ではないでしょうか?「生きるべきか」の反対側にあるのは、過去の自分を乗り越え、惰性的に無目的に生を享受するのではなく、「より良く生きるべきか」を求める自分ではないでしょうか?
 「では、私は世界や時代の誤りを正すために、こんなに苦しい思いをしなければならないのか?嫌だ!私は普通の人たちと同じく生を貪ってでも享受したい!」と思うのであれば、やはりあなたは「死にたい」のではなく「生きたい」のではないでしょうか?
 直子が「私のことを覚えていてほしい」と願うのは、上述の葛藤を忘れず、折に触れて再考してほしいというメッセージではないでしょうか?また、生者にとって、死者が生者の思い出の中(心の天国)で生き続けることは、生きながらに天国を体感できる慰めではないでしょうか?

 私のこのような過大解釈は、作品を踏みにじる行為なのかもしれません。しかし、遠からず作者の意図を汲み取ることが出来ていたとすれば、本という「木」に咲いた花を、あなたと私は見つけたことになります。今回は質問の回答に勤めるまでですが、所詮それは「花」であり、私はこの本のテーマ(幹)は違った風に理解しています。そこでの直子の死は身代わり自殺ですらありません。

 「ノルウェイの森」の主人公は最後に自分の居場所を見失いますが、「海辺のカフカ」や「アンダーグラウンド」では、「より良く生きる方法」について、前者ではその道具を惜しげもなく披露し、後者では気付きの重要を訴えています。
 ともかく、本を読めるというのは楽しいことですね!読むべき本が、あなたと私を待っていてくれることは幸福なことです!

 最悪、あなたはあなたの人生を諦め、あなたと同じ境遇で泣いている人たちを助ける側に回るのはいかがでしょう?たくさんの人を救えれば立派なことだと思いますが、それがたった一人でも素晴らしいことだと思います。そのたった一人は、他の誰でもなく、あなたの助けを必要とし、今もあなただけを待ち続けているかもしれません。
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私は直子は直子自身の人生を完結させるために、死を選んだの思います。


それはワタナベ君を信じられなかったのでもなく、精神病からでもなく、ただ死ぬことによって欠けていた「輪」が閉じられるのではないかと・・・・
ちょっとわかりづらくてごめんなさい。
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私は直子がワタナベ君を信じられなかったから死んだのではないと思っています。

精神の病からでもないと思います。キズキの後をおって、というふうにも考えられません。

ワタナベ君は生きているにも関わらず、キズキが死んだ後に何もかもが彼の死を中心にまわっているという不思議な感覚のまま東京の大学に行き、直子と出会う。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」というのは、死からすると生(生き残っている人やすべてのもの)は全く関係のないものになってしまうが、死は生(生きている人々・死んでいないもの)の人生の一部分に存在し続けるものであり、死の観点からの生とイコールにはならないとわたしは考えています。分かりにくい書き方しかできませんが、つまり、死んでしまったら(キズキのような)死んだ人にとっては生きている私たちや世界とは無関係なものになってしまう。(だって死んだら意識自体がなくなってしまうから)。しかし、(ワタナベ君のような)生きている人にとっては身近な人や他人の死はそのひとの人生や意識の淵にこびりついたままになり、生きている人の生の一部分と化すということです。

なんで直子が死んでしまったか、については、私はこう考えています。「直子の生のなかでキズキの死が一部分にならなかった」つまり、直子はキズキが死んだにもかかわらず生き残ってしまい、その死を意識の淵にこびりつかせることができなかったということです。そして、ワタナベ君と出会い、体の関係を持ったことによりそれが可能になりかけたが、それは直子いわく「何かの加減で一生に一度だけ起こったこと」であり、永続的なものではない。そして、「もう誰にも乱されたくない」と言っています。わたしが考えるに、直子は後をおった形にはなっていますが、本当は彼女自身がキズキが死んだ後に自分が死ななかったこと、つまり生きているということが不自然だったのだと思います。生きているという直子にとって不自然な状態の中でワタナベ君と出会ったり病気になったりと乱れてしまうことがあるし、あのまま精神病が良くなってワタナベの元に行ったりするということは、彼女にとってはもっと不自然なことだったのだと思います。彼女にとって自然な形とは、キズキと直子が付き合っていて、キズキが直子とワタナベ君の間に入って3人で仲良くするという形だったのではないかと考えています。その形がキズキの死により崩され、しかもその死を直子の意識にこびりつかせるということができず、病気になってしまった。しかし立ち直ろうという努力をすればするほど自分が不自然な形になっていく。だから自殺が一番の方法であり、自然な形なれるものであると判断したのだと思います。

たぶんもう一度読み直したらまた違う答えになると思いますが、今の私の見解はこれです。決して追い詰められて、という状態ではなかったと思います。自殺することが自然だったのだと思います。それが自分の中で分かったため、精神病が快方に向かったのだと思います。
長くなってすみません。でも、それは直子が病気やワタナベ君との出会いの中で悩んで悩んで出した答えであって、それが決して後追いではない、ということを分かって欲しいです。あなたも自殺を考えているのかもしれませんが、あなたなりの自然な形を見つけることができると思います。頑張ってください!
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こんにちは。



直子はキズキの後をおって自殺した、と解釈しています。

hippo3さんもおつらいとは思いますが、面白い本などたくさん読んでリラックスするのがよいと思います。
がんばってくださいね。
ではではしつれいします。
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