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 ( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。

 ( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。



 民主制の社会では わざわざ《空気》を読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

 KY というときのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。
 そのウッタエとは いわば意識の排泄となって現われる。

 いろんな意味でのみづからの党派の意向を押し通そうとして 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。

 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としてのクウキも 上昇気流となること請け合いであるようだ。

 かくて 先ほどの意識の排泄は ガミガミ電波となって現われ それをアース役が引き受けるかたちとなる。このアース役なる人間のあり方は不当なものであるゆえ クウキを読まない――むしろすでに生理的に読まない――というKYが 歴史的に重要な意味をになって現われたのだ。

 たぶん その場合にも KY としてのクウキも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。



 また ニートや引きこもりなる現象も同じように アース役からの人間性にとって正当な造反である。
 人間の人間による人間のための未来社会構築の過程のひとつである。またそれは もし仮りに疾患だとしても 明らかに社会源病である。

 おのおの《わたしがわたしする》という自己の文体の確立のためであり そうであるが いまはまだその負の姿(陰画のようなかたち)で現われているのであろうか。やがて陰画の現像が陽画と成って現われて来るであろうか。

A 回答 (8件)

菌類は草の根から侵入して病気を起こすものもあるが、菌根菌は草の根と共生して菌根を形成し、草から栄養の供給を受け、肥料分を土壌中から草に運ぶなどの関係を持っています。



このように、草の根の周りでは周囲との間で特別な物質のやりとりが行われ、それ以外の土壌とは異なった環境にあると考えられるのです。

また、クウキ中の湿度は、草の蒸散作用、病害の発生、もやや霧の発生、草のストレス、冷暖房エネルギなどと深い関係があります。

したがって、クウキを読むことは草の根にとって重要で、更にニートは、草が生きていけるように酸素を吸って二酸化炭素を排出するという大切なお仕事をする人たちのことなのです。

陰画と陽画というのはよく解りませんが、ニートのみなさんが草の根で大事な仕事をしていることは確かなようです。

草の根は、ぱっとみると茶色で陰ですが、洗うと白くて陽ですけどね。

深みのある回答が出来て満足しました。ありがとうございます。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。


 末尾で
 ☆☆ ありがとうございました。とは言わないよ。
 ☆ まだ。をつけ加えてください。

補足日時:2012/11/02 10:31
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この回答へのお礼

 うわあ。返答にこまりますね。返答に困るくらい まじめですね。(これで ご回答へのお礼を述べたことにしてもいいかな?)



 ★ 草の根は、ぱっとみると茶色で陰ですが、洗うと白くて陽ですけどね。
 ☆ そうですか。ネガとして表わしたのは あさはかだった。わい。


 ★ 更にニートは、草が生きていけるように酸素を吸って二酸化炭素を排出するという大切なお仕事をする人たちのことなのです。
 ☆ なみだがちょちょぎれるうううーう。


 ★ 菌類は草の根から侵入して病気を起こすものもあるが、菌根菌は草の根と共生して菌根を形成し、草から栄養の供給を受け、肥料分を土壌中から草に運ぶなどの関係を持っています。
 ☆ そうなんですね。
 このたとえを こんどは現実におけるKYやアスペルガーやニートや引き籠もりやうつやの事例とともに 論文なり小説・戯曲なりにしてあらわすと たいしたものになるでしょうね。
 未来へとと言わず このいま・ここでのまだ隠れている光をあらわにして 人びとに明らかにしてください。



 ありがとうございました。とは言わないよ。

お礼日時:2012/11/02 10:30

No.13 お礼欄 >>>


あなたは 容疑者が取り調べにおいておこなった自白は 無効だということを知らない。

 トップダウンとそのクウキが いかなる内容を持っていて その行為は果たして人間のおこなう《社会的な共生》にとってどういう意味を持つのか こういう問いを持ったことがないらしい。とうぜん考えたことがないようです。
<<<

そのことについては、No.13の
>>>
内部の雰囲気とは異質のものが、共同体外部からトップダウン的に侵入し排除しえなかったとき、内部に対し非言語的な雰囲気にてボトムアップ的に作用し、場合によっては悲惨な結果を生み出すこともあるだろう。。。そういった例としては、兵庫・尼崎市の連続遺体遺棄事件やストックホルム症候群、あるいはミルグラム実験(アイヒマンテスト)において認められる現象になるのだろう。。。
<<<

に記しております。

その前段ではKYの起源が「コミュニケーションを行おう」ということにおいて、非言語的な情的側面という非常に大切で必要不可欠な役割を担っているということを記しています。
上記後段では、それにも関わらず、ひとたびトップダウン的な方向からの影響を受けると悲惨な結末になるということを記しています。

下記では、悲惨な結末を誘導しうるであろう種々の仮説に対して思索を巡らせています。

「いじめ」と「知的切断」と。。。知の優位性とその背景。。。
http://jinen.exblog.jp/8425528/

この回答への補足

 えっとですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 まづ基礎にある問題(現実認識)をこう考えるというところを述べます。


 ○ (自生的なウヤマヒ関係と社会的人為的な上下関係) ~~~~
 1. 人と人が出会ったなら そこに通俗的には引き合うか撥ねつけ合うかのチカラがはたらくでしょう。

 2. もし互いがふつうに言わば白紙状態であるなら きわめて単純に相手のふところの深い浅いでだいたいは とりあえずの態度を採ります。

 3. これは 身も蓋もない言い方をしましたが だいたいは自生的な互いのウヤマヒ関係なのだと考えます。これは 民主的な人間関係だと言ってよいでしょう。

 4. ですから 現代において日本語でクウキと言う場合には この民主制における自生的なウヤマヒとしての人間関係ではなくて それにはもとづかないかたちで 組織としてにしろ非公式の集まりにおいてにしろ 通常は上層部の意向としてその方針や意思交通の仕方が決められて行くものだ。というときのその方向性のようなものとしてクウキのことを言っているはずです。

 5. このクウキについて 人びとがどう思っているのか。――ここでは まづは KY と呼ばれる現象を取り上げ さらにはニートや引き籠もりのような現象をもふくめ絡ませて どう捉えらえるか? これを歴史的に見てさらにその展望をも得たい。こういう思わくよりの試論でありたたき台であるわけです。
 ~~~~~~~~~~~


 こういった前提の上で 回答No.13の内容というのは 次の点できわめてあいまいであり そのままだとけっきょく社会力学じょう優位なチカラ(つまりそのクウキ)に人びとは流されるだけである。と捉えたことを 前回のお礼欄では言っており それに尽きます。

 すなわち ひとつに 《自生的なウヤマヒ関係か人為的な上下関係か》の区別をきわめてあいまいなままにしている。
 ひとつに 《非言語的なコミュニケーション》を取り上げ上記のふたつの種類の人間関係を分析するのはよいとして 言語的な・特には権限にもとづく指示・命令関係についての分析をあいまいなままにしている。
 というより けっきょくそのそれぞれの場のクウキは どういう要因によってであれ 成るように成る。のだから 秩序を重んじるなら 一たんさだまったクウキには 従えと言っているのみである。

 なぜなら 次のように言うときである。
 ★★(回答No.13) もし仮に、相互に感じ取られる感情・感覚を意識しつつ、反する言動を行うとするなら、その共同体を解体する意図があるのか、あるいは、共同体の外部に求めるべきものを有しているのか、そういったことがあるかも知れない。
 ☆ 《反する言動》と言うとき それはすでに《いけない》という価値判定をおこなてっていると思われるからです。反対したらダメという価値観がすでに この文章には塗り込められています。
 その証拠に ふたつの内容把握としてのみとらえているからです。
 いったい 相手の発言に対して疑問をいだき質問をしあるいは批判をすること これは あたかも人間の行為に反するとでも言いたげなようであるからです。反対をのべたら そのことは
 ★★ その共同体を解体する意図があるのか
 ☆ と見られるですって? いったいどういうあたまのつくりをしていると そんな反応が出て来るのでしょう?
 ★★ 共同体の外部に求めるべきものを有しているのか
 ☆ まるで レッド・パージか何かの風向きなのですね あなたの精神は。

 言いかえると けっきょく成り行きにまかせなさいというメッセージを送っているのみだとなります。
 ★★ そういった〔=《反する言動》という〕行為を為すものは、共同体外部からのトップダウン的な意図を運び込んでいるのかもしれない。
 ☆ つまり あなたのあたまの中は 人間関係には 《トップダウン的な意図》しか 最終的には ない。と言っているにひとしい。



 ★★ 内部の雰囲気とは異質のものが、共同体外部からトップダウン的に侵入し排除しえなかったとき、内部に対し非言語的な雰囲気にてボトムアップ的に作用し、場合によっては悲惨な結果を生み出すこともあるだろう
 ☆ そういった事例というのは あくまで新規の参入者もけっきょくはトップダウンによる意志疎通の関係しかあたまにない人間だということです。仮りに広く独裁者と呼ぶとすれば この事例は 独裁者どうしのたたかいだというのみです。


 要するに 《自生的なウヤマヒの関係》を忘れています。

 以上が 次の応答の意味内容です。

 ☆☆(No.13お礼欄)  ~~~~~
 あなたは 容疑者が取り調べにおいておこなった自白は 無効だということを知らない。

 トップダウンとそのクウキが いかなる内容を持っていて その行為は果たして人間のおこなう《社会的な共生》にとってどういう意味を持つのか こういう問いを持ったことがないらしい。とうぜん考えたことがないようです。
 ~~~~~~~~~~~~~




 カントールの集合論のその証明の仕方に対して異議をとなえたブロウエルやカルナップ そういう《反する言動》は トップダウン主義者の反秩序的行動であり それが執拗につづく場合には 悲惨な事件に発展しかねない。から やめろ。というあたましか ないみたいです。
 自生的かつ自省的な人間関係があるということ そこにおいても互いにウヤマヒながら 互いに自由に大いに徹底的に学問と自由のために批判をしあうということ。このことが どうにもあたまにも心にも入らないみたいです あなたには。







 ブログの小論を見て思ったことですが まったく上記の内容と同じです。
 
 いったい質問者が 次のように仮説したとき 回答者は それをその当事者たち・すなわち KY や引き籠もりの人たちが そもそもすでに自分たちの意志としてそれを自覚しておこなっていると言っていると解釈しているのでしょうか? そんなことはあるはずがないでしょう。第三者による歴史的な展望として言っているのだということくらいは 分かるはずです。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 このアース役なる人間のあり方は不当なものであるゆえ クウキを読まない――むしろすでに生理的に読まない――というKYが 歴史的に重要な意味をになって現われたのだ。
 ・・・
 また ニートや引きこもりなる現象も同じように アース役からの人間性にとって正当な造反である。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし こう仮説したからには その内容を 当事者の人たちも内に省みて考えて行って欲しい。とは言っているわけです。

 それに対してあなたのくだした判断は いやいや クウキはそれとしてそれなりの成立の事情があるのだ しかも単なる力学上のあやうい均衡であるかも知れないにせよ一定の秩序ももたらされているのだ ゆえに 人びとよ 大いなるクウキに従え。です。それしか 言っていません。あたまの中にそれしかありません。

 これを称して 《アマテラス予備軍症候群》とわたしは呼んでいます。現行のクウキに巻かれろ主義者のことです。

 

補足日時:2012/11/10 12:49
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この回答へのお礼

 これから昼ごろまで野暮用です。補足欄にて。

お礼日時:2012/11/10 09:10

一人の人間が、一人の人間と出会った途端、非言語的な雰囲気というものを感じ取りながら、コミュニケーションを行うことになる。



当初、そこには、トップダウンというものは存在し得ない。

そうして、両者が出会った途端から感じ取る雰囲気から優劣感が生まれうるなら、そうして、それが両者にとって共通認識として把握されたのなら、それぞれの感覚からボトムアップ的に生み出された優劣が、トップダウン的に働きはじめる原初になりうる。

しかしながら、相互に逆方向の優劣感をそれぞれが抱きつつ、そのことを共有可能であったなら、双方が双方をたたえ合いながら、コミュニケーションが為されるかも知れない。

人間が出会い、コミュニケーションをとりつつ共同生活を行うとき、様々な場面で、優劣感のみならず、様々な感情・感覚が微妙に揺れ動きながら、非言語的な空間を共有することになるのだろう。。。
それが二人という限定した人数ではなく、多数という人数になっても同様だろう。。。

もし仮に、相互に感じ取られる感情・感覚を意識しつつ、反する言動を行うとするなら、その共同体を解体する意図があるのか、あるいは、共同体の外部に求めるべきものを有しているのか、そういったことがあるかも知れない。
そういった行為を為すものは、共同体外部からのトップダウン的な意図を運び込んでいるのかもしれない。
外部から持ち込まれたものを、受け入れるのか、排除するのか、それとも無視・放置するのかを決めることもあるだろうが、持ち込むものを排除してしまうこともありうるだろう。。。あるいは、持ち込まれたものを変化させるだけの力を持つなら、融和させてしまうかもしれない。。。

内部の雰囲気とは異質のものが、共同体外部からトップダウン的に侵入し排除しえなかったとき、内部に対し非言語的な雰囲気にてボトムアップ的に作用し、場合によっては悲惨な結果を生み出すこともあるだろう。。。そういった例としては、兵庫・尼崎市の連続遺体遺棄事件やストックホルム症候群、あるいはミルグラム実験(アイヒマンテスト)において認められる現象になるのだろう。。。

。。。

そうそう、KYとニートがどうして一つの質問内部に並列に述べられているのか不明だけれども、とりあえず無理矢理結びつけてみた。。。

K・・・今日は、Y・・・良い日だ
K・・・今朝から、Y・・・酔っぱらっている
K・・・気持ちのいい、Y・・・夜になって
K・・・気ままに、Y・・・夢をむさぼろう
K・・・叶わぬ、Y・・・欲望
K・・・嫌いになった、Y・・・世の中
K・・・今日も、Y・・・休もう
K・・・苦しみは、Y・・・ヤダ

。。。だめかな?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 あなたは 容疑者が取り調べにおいておこなった自白は 無効だということを知らない。

 トップダウンとそのクウキが いかなる内容を持っていて その行為は果たして人間のおこなう《社会的な共生》にとってどういう意味を持つのか こういう問いを持ったことがないらしい。とうぜん考えたことがないようです。

お礼日時:2012/11/10 08:01

KYって。

。。
ある集団が形成された(される)とき、なんとなく生じるがゆえに、本来的にはボトムアップ的にできてくるものなんでしょうねぇ。。。
ボトムアップ的なものなのに、そこにトップダウン的なものを誤って感じ取ってしまうというのが本質なのでしょうねぇ。。。

KY = 「権威」(トップダウン)は「ヤダ」 = 「権威はヤダ」という「空気」 = 「権威はヤダという空気」は「ヤダけど受け入れざるを得ない空気」(トップダウン的な雰囲気)・・・

。。。と、書いている内に、坂口安吾の
>>>
 コタツはガサツで
 親切すぎてイヤ
 なものだが あた
 らぬわけにもいかぬ
 悲しい新潟
<<<
を、ふと思い出してしまいました。。。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 今般の某文科相による新設大学設置に対する不認可なるトップダウンとしての《ことばに出されたクウキ》が きわめてまれな事件であるように ボトムアップの要望がそのままトップの政策や方針となってトップダウンされるということも 稀れなことでしょうね。


 つまり大学設置にうごくという民間のクウキがあって そしてすでにその手続き上の実行もおこなわれている。
 このとき この手続き上の基準や用件をきちんと満たしているにもかかわらず そのボトムアップの思いと考えに反してトップからはトップダウンされた行政上の決定 というような事件がきわめて稀れであるその例と同じように
 人びとの思いや願いや考えが そのまま組織・非組織を問わずボトムアップが成ってさらにそのままトップダウンとして打ち出されるというのも 稀れでしょうね。
 その場合は すでにボトムにおいて形成されているクウキがトップの意向としてのクウキあるいは実際の方針発表によって しっかりと固められるということになりますが こういうような場合は やはり稀れでしょうね。



 なぜなら ボトムアップされたクウキと同じ内容のクウキが トップダウンされたのなら ボトムの人間が どうして KY なる反応をしめさねばならないのか? ですから。




 どうか アマテラス予備軍症候群なる夢の中から覚めていただきたいと切にねがいます。

お礼日時:2012/11/08 07:04

#2の者です。



>( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。
>については どうなりますか?

西欧的な個人主義における議論は、口喧嘩ではない。
最高度のコミュニケーション能力を駆使した口撃であって、
議題を理解しない個人攻撃や中身のない自己顕示では、
いかなる意味での民主主義とも無縁な、アナーキズムに
しかつながらない。
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この回答へのお礼

 わざわざ ご助言をありがとうございます。

 筋が違うということは これまでにもじゅうぶんご説明してまいったところです。もしお忘れでしたら 過去のやり取りをあたってみてください。あしからず。

お礼日時:2012/10/31 20:46

こんばんはです。




理性型の眠り猫は、どーもこの手の感覚的な文章は苦手です。
だって、僕の感性はすでに錆びついてんだもの~。感性は、理性によって脳の片隅に押し込められているんだもの。残っているのは、《あはれ》ではなく、《をかし》部分のみ。
なので、bragelonneさんの感性的なこの文章の《くうき》が読めない。KY!!
誤解したまま、議論を進めると、かみ合わない議論になるので、意味の確認と質問の形式をとって回答します。


☆☆☆☆☆☆
《空気》:物理・化学的空気のように、本来不可欠なものであるが、その存在を意識せずにすむもの。その存在を無視することが可能なもの。世論や民意。
《クウキ》:漠然とした世論。漠然とし、ハッキリとした形をなさない民草の声。
といったところでしょうか?



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
(間接)民主制の社会では わざわざ《空気》を読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。
~~~~~~
間接民主制とは、本来的にそういうものでしょう。有権者は、選挙によって選ばれた政治家に、白紙委任状を手渡すのですから。だから、選挙で誰に投票するのか、その候補者の見きわめは重要。ホニャララの風みたいな、一時の雰囲気に押し流されて、投票すると痛い目にあう。ある意味で、これは自業自得。政治家だけを責めるわけにはいかない。選んだ有権者がアホーだったということ。政治家は有権者が作り、育てるのだという意識が大切だと思います。



☆☆☆☆☆☆
「このいわば白紙であるという意味での空気」とは、政治家に無条件で白紙委任状を手渡す日本国民の政治意識、世論の流れの意味でしょうか?
『オレ達よりアタマのいい政治家なら、きっと何かオレたちにいい事、選挙の投票行為の見返りとして何か利益をもたらしてくれるに違いない』という漠然とした期待感のこと?



☆☆☆☆☆☆
「いわば意識の排泄」
排泄(物)? 老廃物?? ○ンコ???
ご飯を摂った出がらしで、汚らしくて、捨てちゃいたいモノ。それとも、意識(思い)の抜け殻で、多少の役には立つかもしれないけれど、ほとんど、役に立たないモノ???
ではないですよね(笑い)。
意識の排泄物には、何かしらのエッセンスが残っているに違いない。
思わずついた心の《ため息》、かすかにもれた《吐息》、小さなうめき声といったところでしょうか。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。
~~~~~~~
《クウキ》がですか?
政治家はギャーギャーと騒ぎ、国民を何とか煽ろうとしていますけれども、それにやすやすと扇動されるほど、オロカではないでしょう。むしろ、時として《クウキ》を敏感に嗅ぎ分けられる一部職業政治家のほうが、国民の《クウキ》に乗って、党利党略のために奔走しているのでは。でも、その結果、国民は政治家(ではなく、正確にはお利口さんの官僚だな)の手のひらの上で操られているか。。。。最終的には、同じことか。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としてのクウキも 上昇気流となること請け合いであるようだ。
~~~~~~~
お上は、官僚のことですね。
政治家は、所詮、官僚の操り道具!!
キャリアと政治家では、オツムの出来が違いすぎる。
共産党でも政権をとれば、いくらか、変わるのかもしれませんが。
でも、その共産党も、旧ソ連や中国のような強固な官僚組織を新たに作ってしまうんだろう(笑い)



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~~
 かくて 先ほどの意識の排泄は ガミガミ電波となって現われ それをアース役が引き受けるかたちとなる。このアース役なる人間のあり方は不当なものであるゆえ クウキを読まない――むしろすでに生理的に読まない――というKYが 歴史的に重要な意味をになって現われたのだ。
~~~~~~~~
《アース役》?
《クウキ》の流れを読み、新たに当選した政治家のことだろうか?
それとも、政治家一般のことだろうか?
野党のうちはアース役を幾分かは果たせるであろうが、与党になれば、アマテラス公民の一時的市民権を得てしまうからな~。
おっしゃる通り!!



~~~~~~~~
 たぶん その場合にも KY としてのクウキも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。
~~~~~~~~
どうやら、ここで《クウキ》にさらなる意味が加わったようだ。
この《クウキ》を読むのは、国民なのだろうか、政治家なのだろうか。
これは、
『「政治家が民草の声なき声といったモノを読みとれない」ことを、国民は知っていた方がよいはずであり、その結果として政治家のKY現象が起きても構わないし、起きたほうが、国民(or政治家)は、よりいっそう自由である』
という意味だろうか。
眠り猫の、bragelonneさんの文章へのKY現象がさらに深まってしまったようだ。

自由になれるのは、政治家or国民?



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~~
 また ニートや引きこもりなる現象も同じように アース役からの人間性にとって正当な造反である。
 人間の人間による人間のための未来社会構築の過程のひとつである。またそれは もし仮りに疾患だとしても 明らかに社会源病である。
~~~~~~~~
たしかにその一因ではあろうが、政治的無力感、脱力感、政治的閉塞感だけがニートや引きこもりなる現象の原因なのだろうか。
むしろ、適度な経済・物質的豊かさとグローバル化した経済が生み出した鬼っ子なのではなかろうか。
誰も好きこのんで積極的にニートや引きこもりになるわけではない、と思いますが。
こうした存在の受け皿を構築できなかったのは、政治家の責任であり、どうじに日本社会を構成するわれわれ全体の責任ではありましょうが。。。。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
 おのおの《わたしがわたしする》という自己の文体の確立のためであり そうであるが いまはまだその負の姿(陰画のようなかたち)で現われているのであろうか。やがて陰画の現像が陽画と成って現われて来るであろうか。
~~~~~~~
日本国民は、一時の勢い、流れのようなもので、すぐに立ち位置がガラリと変わっちゃうんだから、とうぶん駄目でしょう。
政治評論家が「国民はよく見ています。今回の選挙結果はその現われです」とかまことしやかに言うけれど、実際は、「あっ、しまった」という思いからの単なる揺り返しにすぎないでしょう。政治家に無条件の白紙委任状を渡しちゃう意識が、ぜんぜん、抜けていない。
とーぶん、期待が持てそうにない。

誰か、国会議員の出欠表を載せたり、「誰々さんは、本日、国会(のナニナニ委員会)でこう発言しました」といった信用のおける中立的なサイトを作ってくれないかな。
ほんと、国会議員、国会で何をやっているのか、目に見えないモノ。
これだけで、けっこう、国会議員の意識は変ると思いますよ。
脅しの効果は、十分にある!!
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この回答へのお礼

 ★ だって、僕の感性はすでに錆びついてんだもの~。感性は、理性によって脳の片隅に押し込められているんだもの。残っているのは、《あはれ》ではなく、《をかし》部分のみ。
 ☆ をかしが残っていれば 上等ぢゃないですか。
 
 まさか感性が錆びついているとは――おっと ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――思わなかったし じっさいはそうでもないでしょう。ただし 議論はしづらいということはあるかも知れません。情感をも問うていますから。

 いちばんの問題は 現代社会における市民スサノヲは 寅さんよろしく アース役はつらいよと 言わず語らずに言っているのではないか? です。
 すでに問うたことのある質問ですが いまなお必要であると感じました。


 さて。概念整理ですね。

 ★ 《空気》:物理・化学的空気のように、本来不可欠なものであるが、その存在を意識せずにすむもの。その存在を無視することが可能なもの。世論や民意。
 ☆ 民主制では おそらく――自性清浄心とまでは言わないかたちでも――白紙状態で互いに相手やその人びとの集まりに臨みマジワリを持つと思われます。そういう人間像を想定します。つまり人びとの集まりにおける《空気》とは そういう理念のようなかたちを想定してよいとすれば そういった白紙状態のことを考えます。
 自然本性は――そこに脱線の可能性をはらみつつ―― そういうものだと捉えます。

 ★ 《クウキ》:漠然とした世論。漠然とし、ハッキリとした形をなさない民草の声。
 ☆ この定義された内容との基本的な違いは このクウキの場合には 仕掛け人がいるということです。世論なりあるいは職場などの小さな集まりの場における思潮なりを 仕掛け人は自分〔たち〕の思いに従って誘導するというところ ここにあります。
 ボスの表情や顎のうごきひとつで その場のクウキが決まるといった事例が挙げられます。



 ○ 社会制度一般としての民主制と共同自治のための民主政 / 自然本性としての白紙状態と政治・選挙における白紙委任

 ☆ これらは 上の定義でだいたいお応えしえたかと思います。それぞれの前者の意味合いでの質問です。

 いちばんいい事例は 職場におけるクウキではないでしょうか? 上司の意向が伝えられるといったそのクウキです。
 ただしこの場合は 経営の指針だとか営業政策などのさだまった内容が 組織の権限にしたがって伝達されるといったことではなく それにまつわりつつも或る程度アソビ(余裕)をもったことがらをめぐる範囲で 部下たちのあいだに上司の意向がクウキのごとく伸(の)しかかることを指します。

 単純な例としては 営業成績がわるくてもよくても 上司からガミガミ電波が発せられ 或る程度はこれを受け留めなくてはならないといった事情 そんなことがらです。


 いちばんの問題は 理不尽な話です。不条理な仕打ちによって 人はうちひしがれます。
 そこまでは行かないとしても ガミガミ電波を放つ話が 意味のない内容だったとき――つまりは ただ上司であることゆえに一席ぶつというような話であったとき―― それはけっきょくのところ ただただ意識を排泄しているだけになる。もう要らなくなったことがらをめぐる意識を捨てようとするかのように ぶつぶつ言う。生産的・建設的な考えを言うわけでなし というような場合を言います。

 そのときその場で話を聞く人間は 一般に アース役になる。こう規定します。



 かくして このアース役は 不当な役回りでしかないので 上司のガミガミ電波やそれと同じ磁場を持つと言うべきようなクウキ これに対して とうとう読めない・読まないというあたらしい人類が誕生した。のではないだろうか?
 おっしゃるように 経済的な発展のあとの社会情況において現われたのでしょうね。(それまでは たとえ現われても問題にされなかったのでしょう)。

 この KY は 歴史的に見ても 草の根民主制への第一歩であろうと考えられます。という趣旨です。


 ニートや引き籠もりも まったく同じようにアース役返上への――いくらか消極的なかたちにおける――第一歩である。こう見るという趣旨です。
 むろん好き好んでなっているわけではありません。未来社会への――この場合は あたかも陰画としての――出発を果たしている。のではないか? こんな展望について問うています。


 何かのきっかけで――何かのきっかけで です――これらの人びとは 悠然として・おもむろに立ちあがって あたらしい社会をになって行くでしょう。というひとつの展望です。

 いまの国会議員には期待していません。

お礼日時:2012/10/31 20:43

民主制には2つの方向がある。


西欧的な、個人主義・物質主義的で、利己的な主張をぶつ
けて妥協点を見出す、「議論型民主主義」と言えるものと、
東洋(特に協調性の強い稲作農耕文化圏)的な、集団主義・
内省的で、遠慮・以心伝心を旨とする自己抑制的な「沈黙は
金民主主義」である。

優劣の話は難しいが、第二次大戦でのファシズム枢軸国の
中で、個人主義的な西欧の国は独裁制にはしったのに対し、
日本だけ日和見集団主義の延長で、“独裁者なきファシズム”
となった事からも分かるように、誰もが合意したという意味で
“皆ん主主義”ではあるのだ。
同じようにムチで叩いても、相手がMなら犯罪にはならない、
ていう話で。

ただ、この「レミングの群れ」は、『皆んなやってるから正しい』
という、ビジョンなき猛進をするがゆえに、時々それを正す外
なる規範(渡来系弥生人、遣唐使、黒船、マッカーサー)に
従うのが常なのだ。
ただ、社会主義も資本主義も行き詰った現代、もはや世界に
日本を導く規範はない。
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この回答へのお礼

 だから

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 ( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。

 ( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ については どうなりますか?


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2012/10/31 16:58

そのとおり・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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この回答へのお礼

 ぐしんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 もう一度ありがとうございます。
 賛成の一票に対して。

お礼日時:2012/10/31 14:33

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