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 《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。
 そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?

 地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?
 

 農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?
 そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。

 少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。
 就職の形態が正規でない場合が増える。
 となると あたらしく出来たと思った地縁社縁もほころびて来るのでしょうか?

 昔から無縁仏になるという情況もあったようですが 社会的孤立の量も質も変わって来ていましょうか?
 ヰキぺの無縁社会には 《個人主義》という主題も関連項目として挙げられています。
 経済や社会の仕組みの変化以上に そういったあらたな思想の台頭も影響していましょうか?


 ○ ヰキぺ:無縁社会:
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81% …

 ○ ヰキぺ:個人主義:
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA% …


 ここでは 次の二点を問います。

 A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。
 としか考えられないのですが どうでしょうか?



 B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。

  1. たとえば《無縁慈悲》なる行為をおこなうには――それが 人間のおこないうる経験事象であるとして―― 自分もひとり 相手もひとり それぞれが《ひとり》なる人間であるのでなければ成り立たない。互いに対等な存在であって初めて その愛は成り立つ。
 
 《主人と奴隷》なる A‐S連関制では 何も人間的なことは成し得ません。ほどこしと物もらいの関係では 動物以下の《縁》でつながっているに過ぎません。

 ゆえに 《主義》かどうかを別としても 《個人=ひとり》は 大切なことであり 欠かすことは出来ません。


 2. 全体主義がたしかに対義語であるのかも分かりませんが それはしかしながら先ほどの《A(主人)‐S(奴隷)》の連関制――つまり その主人にしたところでその奴隷がいなくなれば 主人ですらなくなりその限りで人間でもなくなります――が内容だとすれば それはむしろ論外とすべきことがらです。
 ということではないでしょうか?
 (哲学以前という論外だとまづ見なして それとして哲学は扱わねばならない)。


 3. けれども それでは《集団主義》が 《ひとりなる実存としての個人》の対義語になるでしょうか?

 これも《主義》と言うと一般に極論を指し示そうとする傾向がありますので そのあたりのことは別としますが それでもたとえば《集団志向》 これは 単純に人びとが互いに協力するということであり チームワークの問題であって そのときには《個人》をも互いに活かすという前提に立っているのではないでしょうか?
 
 おそらく家族や身内としての集団による拘束から始まって組織集団の内外における人縁は シガラミにまで成り得るので 《個人 vs. 集団》という図式が描かれるのかも分かりませんが 家族にしろ経済活動の組織にしろ 基本的な前提としてじゅうぶんに個人を活かしそれぞれの自由を発揮しまもろうとする志はある。と言わねばなりません。

 自律・他律の問題ではなく それぞれの個人の《ひとり》としての自立において自分も活きるし他人(ひと)も活きるそういう共同・協働の体制であるはずです。

 すなわち 集団志向は個人志向と相容れないものではない。集団主義の対義語が 隠遁だとか言うのもおかしい話でしょう。


 C. あらためて われわれ現代人のあいだに 《無縁慈悲》は成るか? こう問います。

A 回答 (3件)

☆☆☆☆☆☆


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 A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。
 としか考えられないのですが どうでしょうか?
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《無縁》を、他者との関係性やしがらみが失われたという意味で考えるならば、関係性やシガラミが失われた人の間に、その関係性を理由としない慈悲は起こり得るのでしょう。
ただ、それは、《他者との関係性やシガラミの失われた》人が、それと同様な境遇に対する人に対する同情心や強い共感、シンパシーに起因しているのではと思います。
なので、それは、理由を必要とせず、万人に無条件で与えられる《無縁慈悲》とは異なっているのではないでしょうか。
そのような気がします。



☆☆☆☆☆☆
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 B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。
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Wikipediaの記事を読み、わたしも、《全体主義》が《個人主義》の対義語であることをはじめて知りました(ポリポリ)。
全体と個人を対立構造の中でとらえれば、そういうことになるのだろう、でもすこし違うのでは、というのがWikipediaの記事を読んだ感想です。
全体や集団、共同体とまったく無縁な個人は存在し得ません。個人の利益や自由は、個人が所属する共同体によって制限を受けます。その制限は、共同体に所属している個々人の同意や合意の上で成立しているわけですから、Wikipediaの定義は、どうなのかなという気がします。
圧倒的な武力や暴力などを有し、それを背景に一部の為政者がそれ以外の人々を支配し、隷属させているのならば、《全体主義》は、実は為政者の側の利益を守る口実になるのでしょうが、現代の日本においてはもはやこの構図は成立しないでしょう。国家や共同体が構成員である個人に隷属するようになっているのですから。
全体主義と個人主義は、もはや溶け合っているんじゃないですかね。
そして、
そこに今日の状況の難しさが存在していると考えます。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 《 B 》 個人主義・全体主義・集団主義

 ★ 全体や集団、共同体とまったく無縁な個人は存在し得ません。
 ★ ~~~~
 圧倒的な武力や暴力などを有し、それを背景に一部の為政者がそれ以外の人々を支配し、隷属させているのならば、《全体主義》は、実は為政者の側の利益を守る口実になるのでしょうが、現代の日本においてはもはやこの構図は成立しないでしょう。国家や共同体が構成員である個人に隷属するようになっているのですから。
 ~~~~~~
 ★ 全体主義と個人主義は、もはや溶け合っているんじゃないですかね。

 ☆ 最後の一文について やかましい向きに対して予防線を張るとすれば《全体志向》と言いかえておけばよいのだと思います。
 おっしゃるとおり 主権在民をくつがえす現実は 少なくとも理論として もう出て来ないと考えます。


 そしてじつは この《 B 》は むしろ《集団主義ないし集団志向》の問題としてみなさんの見解を知りたかったのですが どうでしょう?

 《全体と個人》が 一定の単位体としての社会としてその中で溶け合っているのなら そこにおいて個人が或る集団と 対等でありつつ むしろ集団のためにも行動するのは 決しておかしくない。いや むしろふつうである。――こう受け取ってよろしいでしょうか?


 さらにじつは 例の《自律・他律》を言う見解を向こうにまわして この《集団主義》の部分は 書いています。
 《集団のためにもはたらく》ことが どうして《自律ではなく他律である》と言われなくてはならないのか? こういう憤慨から発しています。例の《馬車馬のニンジンうんぬん》の《理論》です。

 分からないでもない部分がありましょうが 要するに集団主義をめぐって《自律か他律か》の二者択一を言うのは その見方が理論を成し難い。という物言いです。

 個人をおのおのが活かし集団ないし組織としても安定成長することを目指すというような社会生活において 特に経済的な《自立》の問題は 個人としても社会〔政策〕としてもあるでしょうが 自律か他律かの問いの立て方をするのは どうもピンと来ません。
 たとえば歯を磨いたり栄養に注意して食事をしたりなどなどの健康管理については 《自律》の考え方が当てはまるかも知れないとしてもです。






 《 A 》 無縁社会と無縁慈悲


 そうですね。やっぱしご見解に楯突いてみます。
 つまり
 ★ 全体や集団、共同体とまったく無縁な個人は存在し得ません。
 ☆ なのですから この大前提にもとづくならば まづは仮りに何らかの《慈悲》なる行動に出るというのは その前提にふたつの内容があると考えます。

 (あ) いくら隣は何をする人ぞであり赤の他人ばかりの相互無縁と言っても 《わたし》と世の中とは基本的に――社会的動物としてそして抽象的な心構えのようなものとしてでも―― つながっている。という大前提から来るひとつの前提。

 (い) その上で《わたし》はそのときその場においてワタシ個人の具体的な気持ちや考えにおいて一定の動機をもってその何らかの慈悲なる行動を起こした。というひとつの前提。

 ☆ ですから 次の場合にも この二つの前提は当てはまると思うのです。
 ★ それは、《他者との関係性やシガラミの失われた》人が、それと同様な境遇に対する人に対する同情心や強い共感、シンパシーに起因しているのではと思います。


 ☆ つまり 《慈悲》が中立中性の清浄心であると言っても むしろそれゆえにこそ《友であるという契機》を持っていると言ってよいのではないでしょうか?
 《いつくしみ》と言うなら それは他者のあることを前提にして言っているはずです。ですから共感をいだくことに何ら不都合はないと思えるのですが?

 むしろ中立性を表わすと思われるところの《ワタシと社会との無無縁性》なる大前提をしっかりとわきまえているかどうか この(あ)の要請を満たしているかどうかが問われている。こうおっしゃっているのではないか。と思います。




 じつは今度は
 ★ 同情心ないし 同情
 ☆ というのは 大きな主題になるようなのです。
 
  ○ 倫理の問題として言って 人は同情をしてもよいか?

 といった問いが じつはニーチェから出て来るのだそうです。

  ・神崎繁:『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』 2002

 のごとくです。この本は図書館で見つけて読んだのですが それほど刺激的ではなかったです。この同情論なる問題意識を持ってニーチェを全体として解説しているといった感じでした。

 要するに
 ★ 理由を必要とせず、万人に無条件で与えられる《無縁慈悲》
 ☆ について もしこのことが人間のおこないうる経験行為であるとすれば では それは どのようにか? という問いと重なって来ると考えます。

 ○ 《慈悲と同情》 ~~~~~~
  1. 《もののあはれ・共感・同情・惻隠の情 あるいはそこからの思いやり・なさけ・たすけあい》 これらは オシエによってそのオシエを実行する法縁慈悲でないとすれば――つまり法縁慈悲は措いておいて―― ただの単なる《衆生縁の慈悲》に過ぎないか?

  2. 《同じ人間である》という思いが前提にあるなら それは《無縁慈悲》ではないのか? もし無感情・無感動において無縁慈悲は発現するというのならば それは ロボットではないのか?

  3. 中で《同情》は 特異な性格を持っているかどうか。たとえば互いに対等ではないという要素を持つか? だから同情は してはいけないのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~



 じつは――の羅列ですが―― いちど慈悲については問うています。
 【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】

 無縁慈悲については 一たん経験的におこないがたいものとして結論づけました。他者との関係として捉えるよりも・つまり他者にはたらきかける行為として捉えるよりも おのれの境地の形成の問題に帰着するようだと。

 そして今回は それでも《はたらきかける》のではなく・つまり基本的にはハタラキをあたえるのではなくハタラキを受けてそれに応えるチカラというものの存在を聞いたあと それが無縁慈悲にも当てはまるのではないかと思ったということでした。

 こうして考えて来ますと つぎのように逆に無縁慈悲の側に対して問いたい気持ちにもなります。

 ○ 無縁慈悲は わたしが 自己の境地の形成という道において 一定の集団のためにも仕事を果たすといった社会志向を持ったなら それは自己や集団の問題として自他の区別をしているから 成り立たない。と見るべきなのか?

 すなわち集団や社会をもともとは特定しておらず従って自他を区別していなくても その社会志向ないし他者への向き直りを持つときには 一定の相手として特定される。ゆえに それは 自他の区別をしており 向き直りをしている相手ではないほかの人びとに対して差別をすることになる。――こういう問題なのでしょうか?
 でもこれだとしたら おそらく無縁慈悲を立てる意味がなくなります。文字どおりユートピアです。一度にすべての人に向き直ることは無理ですから。




 どうでしょう?

お礼日時:2012/12/24 08:31

こんにちは。



無縁慈悲は不可能です。
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この回答へのお礼

 さゆりーさん こんにちは。ご回答をありとうございます。


 たしか解説ふうの説明としては そう書いていると思います。

 つまり 神格化されたかたち(すがた)でのブッダのみがよく実践しうる。といったふうにだと思います。

 

 つい最近思い浮かんで書いたことなのですが たとえば上司がですね 部下のあやまちについて――むろん叱責した上でですが―― その責任をけっきょく部下の負うことになる以上に全体としてかぶる。ということがあります。
 
 この事態は 有縁のかたちでの他者に対する或る種の救いですね。

 けれども それは組織上のつながりを別とすれば けっきょく赤の他人であり無縁の人間だと言ってもよいと思われますし あるいはまた確かに職責上のことだと言ってしまえばもう話はおしまいなのですが そうだとしても 地位と人格のすべてを賭けて責任をみづからがかぶる。ということでもあります。

 したがって こういう見方も出来るかも知れません。
 職務の権限にもとづくかたちを取れば ひとはあんがい無限責任のようなものを負うことを成し その意味で無縁慈悲を実践することが出来るし それは起こりうるのだ。と見ることもあながちまちがった見方でもないように思うということですが どうでしょう?




 というのは ・つまり《職務権限にともなう責任》という前提をおいてこの無縁慈悲を考えてもよいのではないかというのは 考えてみれば たとえば原発事故においてけっきょく職務上の責任を果たすというかたちにおいてでなければ 横から無縁慈悲を発揮するのだという人間が出て来ても それはおかしい。と思われるからです。いったい何なんだと奇妙がられるのが落ちでしょう。

 職務に就かせているのは それにもとづき責任を負いこれを果たすというかたちの無縁慈悲を実践してもそれならおかしくないという前提をかたちづくっている。と捉えればよいのかも知れないぢゃないですか。

 なぜって 無縁慈悲は 単なる個人プレーなのではなくあるいは目立ちたがりやのパフォーマンスなのでもないのですから 或る種の前提に立って実践することは ふつうのことだと考えられて来るからです。




 でももっと身近なことで考えるなら 何の前提もなくてもよい。とも考えられます。
 あなたとわたしとは無縁だから この作業をお手伝いします。と言ってもよいだろうし 相手はそれを受け容れてもよい。こう考えられもします。が どうでしょう?
 

お礼日時:2012/12/20 15:35

病院へ行け。

容量と酸素と時間の無駄ですよ。
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この回答へのお礼

 読んでくれてありがとう。

 おそらく理解が成った。ゆえにお怒りなんでしょう。

 しばらく冷ましたあと また考えてみてください。

お礼日時:2012/12/20 13:27

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