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BGM 流浪の民

あなたにとって他人とは、いかなる存在ですか?

あなたにとって社会とは、いかなる存在ですか?

A 回答 (15件中1~10件)

はじめまして、ニャンポコリン2さん。



ちょっと横からひとことだけお許しください。

回答No.13のhakobuluさん。

『あなたにとって他人とは、いかなる存在ですか?

我であったかもしれない存在。
京アニの容疑者は可哀想な存在である。

>あなたにとって社会とは、いかなる存在ですか?

自らにとって善きことは自らの努力のみの結果であり、自らにとって悪しきことは他者の悪意のみの結果であると捉えがちな、自己保全のみに収束する人類という種によって織り成される無知矛盾の集合体。』


100点満点中200点の回答です。

「なぜわたしでなくあなたが? あなたは代わってくださったのだ・・・」神谷美恵子

我であったかもしれない存在。
(京アニ)の容疑者は可哀想な存在である。

カッコ内を加藤智弘にしても永山則夫に置き換えることも可能です。


ニャンポコリン2さん、hakobuluさんにひとつお聞きして言いですか?

上記の回答のようなことを公言して、わたしはいつも袋叩きです。
貴方は何故生き残れていますか?それとも現実には私同様満身創痍四面楚歌ですか?
それともどこか根本的なところで、あなたと私とでは考え方の相違があるのでしょうか。

もう一度、じっくりあなたと話がしたかった。

この違いが更に私を落ち込ませます。

質問者様、大変失礼いたしました。
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#13です。



>分かったと言えば、分かった。分からないと言えば、分からない。

他人の言うことなど、そんなものでしょう。

>つまり、「いずい」(東北弁)んです。

北海道でも使いますよ。

>やはり、学問が身についていないからでしょう。

分かったと言わせられない側こそが学問が身についていない。
せめて、分かったが同意できない、という程度には分からせることができるよう精進いたします。
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この回答へのお礼

とんでもありません。
私のほうこそ未熟を恥じ、不惜身命の精神で精進致す所存でございます。<(_ _)>

お礼日時:2019/08/11 02:36

#12です。



独断的見解に興味を持っていただき恐縮です。
甘えて若干の補足を述べさせていただくことにします。

本能という個別的欲求のみによって生息する単なる動物とは境を異にするという条件の元で人類という種が誕生したのは間違いないでしょうから、我々は超自我的欲求を属性としてアプリオリに備えつつ、この世に生みだされたのだと思います。
しかし、本能と縁が切れているわけではないので、「自我を超える」と言っても限界があります。(縁が切れたら死にますしね)

我々の「自我」は、常に本能と超自我性との板挟みに遭いつつ、何とかバランスをとりつつ自己を対社会的に表明しようとしているわけです。
そして、その表明された結果(自己)は可能な限り真理に近いものであるはずだ、あるべきだと思いたがる。
超自我的欲求を属性としてアプリオリに備えている以上、これはどんな人にも言えること。
我々は真理というもの(真理と自ら思うこと)に逆らうことは決してできない。

ところで、先述いたしましたように、我々は「(自らの意思で)生まれた」わけではなく「(結果的に)生みだされた」存在です。
そんな「我」とは一体何者なのか?
生みだされたことの意義とは何なのか?
仮に(無い、という答えも含め)何らかの答えがあるとしても、そのような意義が必要とされる理由というものは永遠に不可知である、と言うしかないでしょう。
そこに「我」でなければならなかった必然性があるとは到底思われないからです。よって、

「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

と言って良いと思います。

「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

ということにもなる。
宇宙が摂理としてバランスしているのは真理でしょうから、こうした認識もまた真理と言えるでしょう。端的に表現すると、

「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

となります。
これが真理であるとする認識に立つなら、たとえばホームレスを馬鹿にしたり、移民を排斥したりしようとする【積極的な感覚】は、おそらく芽生えないと思います。
うつ病に対して「特殊な弱い人」という認識もおそらく生まれないはずです。
京アニの容疑者は「特殊な酷い人間」でしょうか?
違いますよね。かれは単なる弱者なのです。
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」が真理であるという前提に立てるなら、自然にそう思えるはずです。
重要なのは、アプリオリに備えているはずの超自我的欲求に対しても自然に、あるいは必然的に則った言動ができるという点。
これが重要であるのは、そうした言動が真理に基づくものであるため、真の安定感を我々にもたらすからです。

とはいえ、我々はきわどいバランスの上に生きていますよね。この宇宙自体が保存と破壊のバランスの上に成り立っていることを思えば、むしろ当然のことと言えるのかもしれません。
あとは比重の掛け方なのだと思います。
そして、どちらに比重を掛けるほうが真理に近づけると感じれるのか、ということについては、社会の風潮が大きく左右します。
オピニオンリーダーの重要性は、ここにあります。
森友や加計で仲間うちだけで幸せを享受することを、むしろ当然のことだと考えているような男が行政のトップとして君臨できるような社会では、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」という真理が通用する余地は皆無です。
彼本人には何の恨みもないのですけどね。
わかっとらんなあ・・・という思いはありますが憎しみは全く感じません。
引きずられる人の多い点は何とかしたいものです。
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この回答へのお礼

分かったと言えば、分かった。分からないと言えば、分からない。
つまり、「いずい」(東北弁)んです。
やはり、学問が身についていないからでしょう。

ともあれ、丁寧に説明頂きありがとうございました。

お礼日時:2019/08/10 03:31

>あなたにとって他人とは、いかなる存在ですか?



我であったかもしれない存在。
京アニの容疑者は可哀想な存在である。

>あなたにとって社会とは、いかなる存在ですか?

自らにとって善きことは自らの努力のみの結果であり、自らにとって悪しきことは他者の悪意のみの結果であると捉えがちな、自己保全のみに収束する人類という種によって織り成される無知矛盾の集合体。
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この回答へのお礼

>彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない

この結論に至る論理が、いまだによく理解できないのはやはり私の
学問的知識が足りないことが原因なのは明白です。

この状態では、保身慢心の人間に誤魔化されることもあるだろうし、
第一、自身の思考のある部分に限界を感じています。

>自己保全のみに収束する人類という種によって織り成される無知矛盾の集合体

hakobuluさんの純粋さを感じさせる言葉です。
尤も、若いうちは大抵、純粋であると自認していて、周りを見て馬鹿々々しくな
って自己保全の徒に仲間入りするのかも知れませんが。

お礼日時:2019/08/08 22:17

no9のお礼について



>不特定多数の人を愛する、ということについて。

>イメージとして、神様や仏様のように、どんな悪人さえも慈愛で包んでしまう、
>みたいなことは、我々凡夫にはできないことでしょう。

>私を裏切った人間がこれまで何人かいまして、私は「裏切り」とか「恩知らず」
>が人間として最低の行為だと思っていて、彼らを愛することはできません。かと
>言って怨むこともしたくありませんので、精一杯無視しています。

不特定多数の人を愛せない。
自分が出来ないことを人に求めるな、と。
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この回答へのお礼

世にある「不特定多数の人を愛する」という言葉の「内実」は、
「世のため人のため」という心を失わない、という程度のもので
あって、神様のような心になったつもりでいても、それは嘘にな
ってしまうだろうということです。

中には、本当に慈悲深い人もいるだろうけれど、私をはじめ、ほ
とんどの人がそうではないでしょう、と。

お礼日時:2019/08/08 03:43

哲学的な回答ではありません。



エル・パソで銃撃事件があったばかりです。エル・パソは、メキシコ国境に一番近い、テキサスの街です。この移民騒ぎでも、住民がおっとりと平和なのは、メキシコ国境を越えてくる不法移民は、エル・パソのような田舎にいつまでもとどまっていないで、大急ぎで、大都市部に潜り込むからです。都会には、建築業など、仕事がわんさかあります。ギャングもいるし、ドラッグも売れます。

で、私の住んでいるヒューストンや、銃撃事件の犯人の街、ダラスでは、一年前に安全だと思っていた場所でも、現在、ひったくりや強盗が起こり始めています。だから、銃撃犯の、なんとかしなきゃ、という、センチメントは、肌で感じているのです。不法移民=いないことになっている人間の、犯罪は、解決しません。いくら、セキュリティ・カメラを設置しても、効果はないです。

私の周りにも、ヒスパニックの人たちが多いです。みんな、英語を話さず、スペイン語で、大声で、話をしています。公園などでも、大きな音でスペイン語の歌をかけています。こう、何をするのでも、がさつなんですね。今は、タウンハウスにペンキ屋さんが入っています。全員ヒスパニックです。

今までは、コンタクトを避けて、問題があると、管理人を通して、クレイムをつけていましたが、この銃撃で気持ちが変わりました。共存していかなくちゃいけないんだなぁ、とぼんやり、感じ始めました。まず、元気なあいさつから始めています。ちょっとした問題があっても、親切そうなおばあちゃんに、優しく諭されるなら、まぁ、大丈夫かなぁ、という、アプローチです。親切そうに、みえるのが、ポイントだと思うのです。

社会の変化は、川の流れと同じように、だれにも止めることができません。そこに住む人間は、流れに逆らっていると、呑み込まれてゆくだけです。そこで溺れないようにする、知恵と勇気を身に着けてゆかなくてはならん、と、思ったことでした。

つまらない作文になりましたが、結構、身に染みたことなので。
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この回答へのお礼

>哲学的な回答ではありません。

私は、哲学学にはあまり興味はなく、現実にある一つ一つのことを深く
探ってゆくことに喜びを感ずるタイプですので。

>共存していかなくちゃいけないんだなぁ

さりげない言葉ですが、最も重要な考え方だと思います。
何と言いますか、相手の「基本的人権」に対する敬意、と言いましょうか、
それ以上の、「存在」に対する敬意と言いましょうか、それを失ったときに
動物よりも遥かに強い自意識・尊厳感を持った人間同士が、うまくゆくわけ
はないですよね。

No、つまり、「嫌い」は、これは仕方がないもので、これは隠さずにオー
プンにするべきだと思っています。難しいですが。

例えば、食事の時に齧歯類のような食べ方をする人は嫌い、だけれども人間
として否定するわけではない、ということを相手に正確にさりげなく伝える
ことができたならば、争いを最小限に食い止めることは可能だと思います。

>まず、元気なあいさつから

これは、昔から言われていることで、智慧ですわな。

お礼日時:2019/08/08 03:35

>しかし、そのように進化してきたとはどうも…



そもそも助け合わない人々を見てニャンポコリン2さんが焦燥感を感じていることが、そのように進化してきたことを示す証拠です。もし他人のために尽くす状態に至上の喜びを感じるような情報が人間のDNAに刻み込まれていないなら、ニャンポコリン2さんが焦燥感を感じることがありえないからです。


>不特定多数の人間を愛せる

そんな無理なこと言っているから、いつまでたっても幸せ感を味わえないのですよ。どういうわけか皆に認めてもらいたいと思う人が多いです。違いますよ、不特定多数じゃなくて、この人と決めた人、あるいは自分が身を入れた集団だけを幸福にしてあげたいと身を捧げるのです。そして、その人やその特殊な集団が良し認め、あなたに感謝してくれたら、後の人がなんと思おうが気にしない。あの人もこの人もなんて不特定多数の人を説得するより、はるかに簡単ですよ。自分のできる範囲のことだけを考えていれば良い。できもしないことを夢想しても打ちのめされてしまうだけです。そのような、特殊な限定された愛のつながりが鎖になって広がって行けば幸せを感じることが出来る人が増え、不満分子の数も減って行きます。もし幸せになりたいなら、不特定多数の人たちのことなんか忘れて、自分ができる範囲のことに身を捧げることです。

「身を捧げる」とは行動に起こすことを指しています。ああだこうだと頭の中で思い巡らしていることではありません。
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この回答へのお礼

不特定多数の人を愛する、ということについて。

イメージとして、神様や仏様のように、どんな悪人さえも慈愛で包んでしまう、
みたいなことは、我々凡夫にはできないことでしょう。

私を裏切った人間がこれまで何人かいまして、私は「裏切り」とか「恩知らず」
が人間として最低の行為だと思っていて、彼らを愛することはできません。かと
言って怨むこともしたくありませんので、精一杯無視しています。

ただ、他人や社会に対する慈しみの心というものは誰しもが持っているだろうと
思います。
誰でも、親や配偶者のことを憎んでいても、子供やペットには深い愛情を注いで
いるからです。
また、いわゆる愛国心というものを人々が持ち合わせていなかったならば、日本は
明治維新後に、あるいは敗戦後に驚異的な発展をすることはなかったでしょう。

「人に尽くすことに喜びを感ずる」「世のため人のためになんとかしなければ」と
いう心は、同じ心の二つの面だと思います。DNA云々のことはよく分かりませんが
アプリオリに備わった心で、これが成長過程において培養されるか、枯れ果てるか
という問題だと思います。

すくすくと培養されれば世界平和を願うようになるでしょう。枯れ果てれば、家族
さえ殺すようになる。そういうもんだと思いますよ。

なのに、家族だとか、自分の属する集団にその心を「限定」するということは、極め
て恣意的で不自然なことだと思います。
この地球上の、どこに、どれだけ、どんな歴史を持ち、どんな考え方で人々が生きて
いるのか皆知っていて、対立すればマイナスになることも知っているからです。

>「身を捧げる」とは行動に起こすことを指しています。ああだこうだと頭の中で思い
巡らしていることではありません

当たり前のことです。

お礼日時:2019/08/07 11:19

> 他人には、素粒子一つ分の関心もない



そうではありません。
関心があっても死んで心が痛まない人は他人です。
キライな人や、関係性の薄い普段無関心な人は他人ですが
普段無関心でも可愛い子(女性にとってはイケメン)は死ぬと悲しいので他人ではありません。
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この回答へのお礼

>関心があっても死んで心が痛まない

>普段無関心でも可愛い子(女性にとってはイケメン)は死ぬと悲しい

よくわかりませんね。

汚い老人などが死んでも心が痛まないと、血がつながっていても他人だと、
そういうことでいいのでしょうか?

お礼日時:2019/08/07 10:37

他人とは、死んでも気にならない人の総称

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この回答へのお礼

つまり、他人には、素粒子一つ分の関心もないということですね?

お礼日時:2019/08/06 14:16

>損や災いをもたらす場合も、少なくないと思うのですが…



それはごく一部の事象を拡大一般化してしまう見方でしょう。
73億人の他人のうち、ほとんどの他人が私を支援してくれている中で、微かに数百万人以下の少数者が特異体質で災いをもたらすだけなのです。

この例外に当たる他人とは、ユダヤ人大虐殺とか、広島や長崎の非戦闘員大虐殺、アボリジニの民族浄化などをやった連中で、大抵はキリスト教と共産主義者ですね。

現存する他人73億人に限らず鬼籍に入った他人も考慮すれば、エマニュエルカントやアマデウスモーツァルトやゲオルグカントールなど、私の人生を支援してくれる多くの人も入ってくるわけで、ごく一部の例外的な奴らを「他人代表」にしてはならないと思うのです。

社会も同様です。
もし疑義があるなら、この社会から1億光年ほど離れた宇宙空間に一人で浮遊してみると良い。私たちの社会の本質が良〜く見えてくるよ。
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この回答へのお礼

Mokuzoさんにとっての、という質問でお答えいただいたわけですが、

例えば、虐殺されたユダヤ人や、74年前に死んだ広島・長崎の人々などに
とってみれば、他人とは自分に災いをもたらした存在であると言うでしょう。

そこまでゆかずとも、いわゆる「運のない人」にとっては、損害や災いをもた
らす他人は決して少数ではないと言えるのではないでしょうか?

また、余談ですが、虐殺をやった人間たちは、

>大抵はキリスト教と共産主義者

ではありますが、聖書にあるいは共産主義の理念としてそれがあるわけではな
い。
その「狂気」は権力を持った「慢心」の中にあると見ています。

>この社会から1億光年ほど離れた宇宙空間に一人で浮遊してみると良い

やり方を教えてください。

お礼日時:2019/08/06 14:13

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