土曜の昼、学校帰りの昼メシの思い出

倫理社会で『現代の人間像』というところを学習したとき、アメリカの社会学者リースマンが登場した。
彼の言葉として、「孤独な群衆」,「他人指向型」
というのが出てきましたが、いまいち意味が理解できません。
どういう意味のある言葉なのでしょうか。
ご存知の方は、教えてください。
 ※出来れば9月1日までに

A 回答 (2件)

リースマンの本は、全部読んだわけではありませんがですが、大学の授業で聞いたことと、その後得た情報や部分的に読んだリースマンの文章などから、僕なりに以下のようにまとめてみました。



リースマンは、アメリカ人の性格の分析を通して、「現代の人間像」の一側面を鋭く描き出した社会科学者です。彼に拠れば、アメリカ人の代表的な性格は、時代・社会の変化とともに「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」へと変遷しているということです。

「伝統指向型」の性格とは、中世封建社会を典型とする停滞的な、つまり社会的な階級や場所の移動が少ない伝統的な社会(レヴィ=ストロース的にいえば「冷たい社会」)に支配的な性格類型です。伝統的な社会で人々は、土地に縛られ、階級に縛られ、社会・地理的な移動はほとんどなく、個人の生まれつきの性別や身分などに由来する特定の社会的役割に限定された生活だった、と一般的に考えることができます。たとえば村祭りの役の担い手に規則的な順番が決められていたり、ある家に習慣的に役割が決まっていたりするのは、社会・地理的な移動が例外的な出来事だからだということができます。そのような社会においては、個人の主体的な意識よりも、家長や首長等、権威への恭順などが重要な価値を持ち、従って性格もそのようなものとして社会的に共有されるようになるわけです。伝統指向型が代表的な性格として機能する社会とは、そのような同調性がしっかりと確保された社会であるといえます。

しかし、時代がルネサンスから宗教改革期に至ると、産業の分化が進み、社会が流動的になってきます。そんな流動化する社会の中で、次の「内部指向型」の性格が登場を促されることになったのです。流動的な社会は、既に「伝統指向型」の性格を育んだ社会とは異なって、人々は容易に土地を離れることができるようになったことで、共同体の権威への恭順が最大の価値とされるような状況が崩れ始めました。それに代わって、登場した価値が個人の内面性だったのです。個人の内面的な価値は、たとえばお金であったり、名誉であったり、善であったりするわけですが、それは個人の生活の目標として掲げられます。つまり、「内部指向型」の性格が支配的な社会にあっては、人々の生は、目的・目標を指向するものであって、その方向を決めるのは「内なる声」であるわけです。このような「内部指向型」の性格は、「近代人」の性格と言っても良いでしょう。この性格の発生論的な言説は20世紀の思想家ジクムント・フロイトによって提起されます。有名なエディプス・コンプレックスがそれです。子どもは親の規範を内面化する、というのがその骨子ですが、このようなフロイトの親子関係の捉え方は優れて近代的な人間のあり方を語ったものということができるでしょう。

要するに伝統という安定が得られない中で、人々は新たに自らの内面の主体性に安定を求めることで、この時代精神を形成してきたと言えます。近代哲学は、まさにその中で産声をあげたわけです。近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルトの有名な言葉、「われ思う ゆえにわれ在り」もこの時代精神を体現したものと言えるでしょう。

そうそう、マルティン・ルターが、「人間が救われるためには教会を媒介とした神の恩恵に浴しなければならない」とするカトリック教会の「権威への恭順」を求める態度を拒否して、「一人ひとりの人間がただその信仰によってのみ、神との精神的合一が果たされ、その恩恵を蒙ることができる」と宣言したことに端を発する宗教改革も、伝統指向から内部指向へという人々の社会的性格の変遷を反映した事件として興味深いですね。そしてそのプロテスタンティズムの考えかたが後の資本主義を用意する精神的基盤になったという、有名なウェーバーの資本主義起源論へと繋がっていくわけです。

そして、現代にいたり、通信や交通が目覚しい発展を遂げ、社会の変動はますます急激になります。その中で、内面への指向すら立ち行かなったとき、発ち現れる性格類型が「他人指向型」の性格です。この他人指向型の人がもつ同調性は、フロイトが指摘したような大人(親)の権威を受け入れることより、むしろ同時代の人たちが抱く期待に敏感に反応するようになります。内部指向型の人は生涯の目的に向かって進みますが、他人指向型の人はその代わりに手近にある目標――同時代の人たちが抱く期待――に従います。

他人指向型の人にとって常に他者との関係が気になることであり、他者との関係が良いか、悪いかが、彼の行動の基準になります。ここに分類される性格の人にとって、最も重要なことは、他者の視線です。他者にどのように見られているか、他者に自分をどのように見せるか、それは言い換えれば、他者をいかに上手に操ることができるか、そして他者によっていかに上手に操られることができるか、ということです。つまり、他者の意図をいかに上手く読み取って、いかに上手く自分に好意を抱かせるか、あるいは自分を高く評価させるかということが重要だということです。昨今の心理ゲームや心理本の流行は、この「他人志向型」性格が呼んだものかも知れませんね。あるいは「共依存」という病理現象もこの性格類型の帰結なのかも知れません。

いずれにせよ、リースマンは「豊かな社会」の分析によって、このような性格類型を導き出しました。まとめると社会は豊かになったけれど、僕らは自分のことについて常に他者の目が気になるという状況に置かれるようになった、というわけです。他者はかつての伝統指向段階の社会のように協働の相手ではありません。また内部指向段階の社会であったように自分の目標を追及するだけでいいというわけにも行かなくなりました。他者は常に監視する他者であり、僕らは群衆の中にあっても、周りを意識しつつ、ひとりなのです。これって「孤独」ですよね。
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この回答へのお礼

大変詳しいお返事ありがとうございました。
参考になりました。
人の目を気にする。
人の評価が気になる。
確かに最近はそういう人がおおいように思います。
自分自身もその1人です。
このことを表現していたのですね。

お礼日時:2003/08/28 10:44

私個人ははじめてその言葉を聞きましたので参考にはならないかと思いますが、言葉の感じから私なりに解釈しますと、「多数の意志の中に埋もれてしまって、個を主張できない。

」という意味あいのように感じます。
つまり、他人の顔色ばかりを伺うばかりで、何をするにも他人の意見に左右されて、他人から支持されるのを待っている人間が存在しているということではないでしょうか。
そのような人間のことを「孤独な群集(仲間と群れをなしてはいるが実際は群集の意志には賛同していない)」や「他人指向型(他人の意志を中心に自己の行動を決定している)」と呼ぶのでは??と私は感じますが、リースマン自体初めて聞きましたので、この意見はあくまでも私の感じたままです。
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この回答へのお礼

なるほど。今の人々の状態を上手く表現した言葉ですね。
表面上の友達などというのは、最近多いですからね。
よくわかりました。

お礼日時:2003/08/28 10:42

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