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スレッドを開いて頂きありがとうございます!

ポーランドの社会学者ジグムント・バウマンは、その著書『コラテラル・ダメージ』の中でこのような示唆をします。

「アンダークラスの人々は、自分と同じような惨めな状況にいる他者を決して尊敬しない。アンダークラスの人々が集い、協力し、コミュニティを形成することはない。貧困とは、何よりもまず孤立を意味するのである」

バウマンは、孤立するのは貧困者であると指摘します。
そして私が思うに、このような事は「経済的な」貧困者だけに限った事ではないでしょう。
コミュニケーション能力貧困者、容姿貧困者、運動能力貧困者、学歴貧困者、etc...
貧困であると、競争で負けるだけではなく、本来は利害関係や貧富の差が問われないはずの「コミュニティ」への入場さえ制限されてしまうのではないしょうか。とすれば「コミュニティ」とは、本当は存在しないものなのでしょうか?


ど素人の回答でも全然ウェルカムです。
ただし、PSYTEXの回答だけは断固お断り致します。
よろしくお願いします!

A 回答 (13件中1~10件)

ご回答ありがとうございます!



では、わたくしの考えを記します。

アンダークラスの人々がコミュニティへの入場を制限されるという認識には賛成です。その上で、コミュニティという言葉はもっと広い意味で使われており、その意味においてしっかり存在していると考えます。

コミュニティでの一連の相互作用を動機づけているのは、確かに市場取引のように即物的な利益計算ではありません。それは第一に価値規範であり、第二には「今もらえなくてもいつか貰える」「あなたから貰えなくても別のメンバーから貰える」といった、互酬における対称性への期待でしょう。そういう意味で、コミュニティを少なくとも「利害計算抜きで団結する集団」と定義することには賛成です。

しかし、この定義はコミュニティの成員同士の付き合いについて述べたものです。そこへの無制限な参加を認めることとは関係がないと思います。都市社会に住む市民は、階層・エスニシティなどの資格によってふるい分けられ、ふさわしいコミュニティーに参加する。そしてその内部で「利害関係抜きに団結する」という風に捉えるのが自然だと思うのですが。

これは想像ですが、質問者様はコミュニティを暗に地域コミュニティと捉えているかもしれません。そのうえで、最も資源に乏しい人まで全員を包摂する地域コミュニティこそを、真のコミュニティと定義しているのではないでしょうか。しかしその定義はいささか時代に合わない気もします。社会が流動化した現代では、地域以外にも一応「利害だけじゃない」と言える集団がたくさんあります。趣味集団とか、NGO、同郷会・同窓会、ネット上の相談サイトなどなど...そういった広い意味に「コミュニティ」という言葉を譲るのはどうでしょう。また現実にこの語の意味はそこまで広がっていると思います。 

その上で、最下層をも包摂する集団の重要性を説くのは、もちろんとても大事だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たしかにそう…ですね。
「利害関係抜きに」とは、付き合い方を指した言葉であってコミュニティへの入場審査の際に適用される基準ではないです。僕が勘違いしていましたw

お礼日時:2012/10/19 15:07

いやぁ、こんにちは!!


同い年どころか5日差とは!

質問の「コミュニティーは存在しないのでは?」に対する僕の意見は、『全員の包摂はコミュニティの条件ではない』ということでした。次の「全てのコミュニティはアソシエーションなのか」については、知識量の差を感じますので、これといって反論はありませんw しかし、お礼とまとめに、コメントを残します。

(1)ギデンズの再帰性
そう言われると、いやはや胡散臭いですね。前近代の社会で≪伝統≫(過去への尊敬と反復の原理)がどれほどの力をもっていたかは確かに怪しい。しかし、近代以降≪伝統≫単体には力がないことは本当だと思いますから、とりあえず、伝統に期待する安易な過去回帰論への批判にはなるでしょうか。

(2)弾き出される者 の必要性
なるほど~。社会規範の維持に規範を外れる者と彼らへのみせしめが必要だとします。すると、社会規範が全員の包摂を要請することはあり得ないのかも知れませんね。願わくば、ある集団で排除されている人が別の集団では包摂されるように、誰もがいくつかは「はみ出」さない場所を持って、情緒的な満足を得られると良いですね。


僕はコラテラル・ダメージを読んでいません。貧困者も連帯してるというイメージを持っています。容姿が貧困でもオタクサークルで盛り上がってるとか、学歴や職業的地位が低くても肉体労働者が良く祭りに参加するとか、ホームレス同士で良く飲んで将棋してるよねとか、そういうのを見ての素朴な感想ですね。機会があったら原著を読んで勉強したいと思います。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
僕も知識量の差を感じましたけどねw
わりと極端に考えてしまう所があって、「全てのコミュニティ(アソシエーション?)で人気者にならなくては!」とか考えてしまうほうなので、HUCKLEBERRYさんのようなバランスのとれた考え方は非常に参考になります。ありがとうございます。
また私も、全てのコミュニティはアソシエーションなのかという問いには今は答えられそうもないです。(なんとなくYESな気はしますが。)

もしかすると現代は、伝統が嫌われている(=コミュニティが形成しづらい)代わりに、アソシエーションは形成しやすくなっているのかもしれませんね。ほんの5、60年前は交通網が無かったし、ましてやインターネットなんか無かった。だからこそ地域「コミュニティ」を始めとした、「時間をかけて育む絆」があった。(土地に縛られていたから、何かの集団に所属している!という心理的な安心感を得るには身近なものを大事にするしかなかった。逆に、現代人は身近なものは馬鹿にしていても取り返しがつくだろうという考え方になってしまっている)。ギデンズが示唆する事もそういう事だったような気がしますが、よく覚えていませんw
HUCKLEBERRYさんの言う「複数のアソシエーションを行き来する」生活が、今の自由度が高い社会では人気なのだと思います。
ただしその方法では、コミュニティはどんどん無くなっていくでしょうし、弱者は「社会に存在しない」ものとされるでしょう。アソシエーションに弱者はいませんから。

あなたとの対話で私の考えも深くなりました。ありがとうございます。

お礼日時:2012/10/22 19:30

>「~の回答だけは断固お断り」



>「僕の大学の先生は、・・・」
>「まず間違いなく、私たちの多くは・・・」


>「役に立ったでしょうか」
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連投失礼します。

これがOKwaveで失礼にあたるか分からないのですが。他の解答者さんへのお返事の専門家ぶりに驚きました。↓を取り消したいくらいですw

ところで、(現代において)全てのコミュニティはアソシエーションにならざるを得ないのか...って僕もすごく気になるんです。理論的にも面白いなぞなぞです。さらに現実問題としても重要です。貧困者への経済的・身体的な面倒は国家に任せるとしても、情緒的な支援はやはり地域コミュニティが必須でしょう。以下でまとまりのない私見を披露しますので、良かったご意見を


コミュニティーの貧困者への包摂力はある程度高められる気がします。それは、社会規範によってです。

合理的な思考に立てば、コミュニティはそこに損害だけをもたる人間を受け入れないわけです。ところが、前近代の地域コミュニティで最下層の包摂がある程度成り立っていた。ギデンズ的に言えば、過去の包摂力は、行為への反省(再帰的モニタリング)そのものが今ほど働かなかったことによるものです。その代わりに伝統への無条件の尊敬が行動を規定していました。

ギデンズによれば再帰性、つまり行動を最新の知識に照らして判断することは近代の大源泉の1つであり、不可逆的に進行します。そうなると、伝統だから全員を受け入れる、という形の地域コミュニティーはもう復活しえない事になります。

この状況で、包摂力の高いコミュニティを作りだすには、社会規範、特にヒューマニズムを強化することだと思います。そこで「社会を上手く成り立たせるには、地域コミュニティーがどんな人でも受け入れるべき」という規範が重要です。これを皆に内面化させるための広告・啓蒙・社会運動などを行うしかないのではないでしょうか。地域で仲間外れかっこわるい!!みたいな。

このようにできた集団は、伝統ではなく「全体から見れば合理的な規範」に依拠してるという意味で、前近代のコミュニティとは違います。しかしもし成功すればその機能を担えるのではないでしょうか....

この回答への補足

余談ですが
あなたは僕と住んでる県が同じで、あなたの5日前に僕は生まれましたw

補足日時:2012/10/20 03:31
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この回答へのお礼

力のこもった回答ありがとうございます!

まず思ったのが、
1.ギデンズの言う伝統(宗教や神)VS現代の再帰的社会(その場しのぎの連続)の対比がどこまで本当なのかという事。これはHUCKLEBERRYさんを批判したいわけではなくて、文化人類学からすると社会学の再帰的近代論は胡散臭いそうだから。宗教や神がそんなに日常生活に影響するわけ無いって僕の大学の先生は述べていました。
2.そしてヒューマニズムの話ですが、概ね賛成です。ただし一つ思う所があって、「弾き出される者たち」は、一種の「見せしめ」なのではないでしょうか。これはバウマンやゴフマンも言っているのですが、社会規範(例えば、「最低限の社交性を持ちなさい」とか、「金持ちは正義」とか)を維持するためには、「はみ出し者」が必要なのです。彼らは、コミュニティから弾き出されている必要があるのです。
まず間違いなく、私たちの多くは上2つの社会規範を支持しているし、ということは「見せしめ」も求めています。見せしめの人間と仲良くすれば、自分で自分の支持する規範を否定することになります。

だらだら長く書いてすいませんorz
でも世の中には、ヒューマニズムと適者生存という二つの原理が混在しているのではというのが僕の意見です。
役に立ったでしょうか。
僕の文章へのつっこみがあったら下さいw

お礼日時:2012/10/19 15:32

「アンダークラスの人々は、自分と同じような惨めな状況にいる他者を決して尊敬しない。

アンダークラスの人々が集い、協力し、コミュニティを形成することはない。貧困とは、何よりもまず孤立を意味するのである」

○この反証を挙げるとすると、ブータン国ですね。ブータンという国は最貧国に近い国ですが、国民の幸福度は非常に高いですね。幸福度が高いということは他者を尊敬するコミュニテイができているということですね。
それが反証となりますね。反証があれば命題が間違いということになりますが、何が間違っているかですね。
この命題には心の幸福度が含まれていないからですね。唯物論者の命題でしょうね。
ものや地位や名誉やお金だけでコミュニテイができているのであれば、最貧国など存在できないはずですね。
でも、世界には最貧国の方が多いのですね。つまり、貧しさは孤立の条件ではないということですね。

この回答への補足

ふと思ったんですが、ブータンはみんな貧しいからアンダークラスという概念が無いだけなのでは?

補足日時:2012/10/18 21:13
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
その通りだと思いました。
私の立てた仮説は日本のような唯物論国家で成り立つという事でしょうね。
ブータンにもマネーの論理が侵入し始めていると聞きますが、果たしてどうなるやら…

お礼日時:2012/10/18 19:00

その本を読んでいない素人です。

素朴な質問ですが、ここでの「コミュニティ」には何か特別な含意があるのでしょうか。

共同体を「生活の利害を共にする集団」として捉えれば、『貧困者のコミュニティへ入場が制限されるから、コミュニティそのものが存在しない』という主張はよく分からないのですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
ご指摘への応答ですが、社会学的な文脈での「コミュニティ」という用語は、しばしば「利害関係抜きに団結する集団」という意味で用いられます。
ですから入場拒否者を伴うコミュニティは、コミュニティの利害関係を前提にしている点で語義矛盾ではないかというのが私の疑問です。

お礼日時:2012/10/18 18:57

文中にある「アンダークラス」とは、どの様な人々を指すのかが理解の鍵になると思います。



通常、コミュニティと言って日本人が思い浮かべるのは、中世・近世と続いてきた村社会です。
共同で生産拠点、農地や漁場を持ち互いに生活を助け合うという光景です。

>「アンダークラスの人々は、自分と同じような惨めな状況にいる他者を決して尊敬しない。アンダークラスの人々が集い、協力し、コミュニティを形成することはない。貧困とは、何よりもまず孤立を意味するのである」

意外と村社会は、だれでも受け止めていたわけでは無い様です。
体力・能力が、ある程度高くないと村社会の一員として迎え入れて貰えず「穀潰し」として追放される例もあったようです。

ここで「コミュニティ」と呼ばれる存在は、能力として無能な人間を追放する冷酷な一面をもつ存在として書かれているのでは無いでしょうか。
例えば、業績を上げねばクビになる会社の様な存在では?

ココに書かれている文章からは

アンダークラス → 能力の低い人達
コミュニティ → 業績を上げねばクビになる会社・集団

の様に読み取れます。

通常、コミュニティと言えば能力の有無にかかわらず生活を助けて貰える存在として考えられるのですが・・・
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この回答へのお礼

そうなんですよ。コミュニティ論に関わる学者はしばしば「コミュニティの復興」を唱えますが、本当にどうしようもない人の為のセーフティネットなんて不可能なんですよね。誰でもそういう人からは距離を置きたいでしょうし。
バウマンは『コミュニティ』の中で、現代ではエリートがコミュニティを計画するという労務から撤退したと指摘していて、その指摘が今回私がスレッドを立てるきっかけの一つになりました。全てのコミュニティはアソシエーションの一種なのでしょうか…
社会学の用語ばっかりですみません。でも多分読み取って下さると期待していますw

お礼日時:2012/10/13 20:46

アンダークラスの人々は社会的経済的に不安定ですから流動的な生活を強いられます。


当然、そういう不安定な人と安定的な関係を築くというのはコストパフォーマンスが悪いですから発展しづらい。

また、尊敬しないというのは、流動的だから信頼しないのであって
それはそれで賢い選択といえるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

流動的な人間=芯の無い人間という事でしょうか。
それは怠け者に共通する特徴ではあると思います。

お礼日時:2012/10/13 20:39

>「アンダークラスの人々は、自分と同じような惨めな状況にいる他者を決して尊敬しない」



この1文だけでも、「論理破綻」と疑われても仕方が無いのでは。
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そのジグムント・バウマンという人は、


貧しい生活をする人々のことを
調べて体験して本に書いたのではないとしか思えません。
彼の立場は「持てる人」であり、
持てる人の立場からは、
「そうであるはず、そうあるべきだ」としか思えないはずです。
人間というものは、貧しくなればなるほど、他人への共感が育つのです。
そして助け合いや分かち合いが行なわれます。
エゴというものは姿を消し、助け合って生きるようになります。
私たちが貧困を怖れるのはエゴがあるからです。
そして富めば富むほどエゴと恐怖も増大し、
人々から切り離されていきます。
その結果孤立し、人とのつながりを失い、
人生の意味を見失った人々がドッと押し寄せたのが、貧困層の多いインドでした。
真のコミュニティは貧しさを基盤としたところから生まれます。
豊かさの中で作られた共同体は、貧しくなると消滅します。
正直な気持ち、
このようなことを言う人が社会学者として通用することが信じられません。
それとも、現在の社会学はそういう状況になっているのでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
辛辣なご意見ありがたいです!
zeburaさんの言いたい事もわかりますので、私がバウマンを代弁をしてzeburaさんの主張に反応しようと思います。

貧困者は、コミュニティを形成「せざるを得ない」。貧困者は、孤立して生きていけるほど強くはないから。これはzeburaさんがおっしゃったように、インドのような国に当てはまる事だと思います。
ここで、もし「集団のしがらみから解放されても生きていけるチャンス(金持ちになるチャンス)」があったら?必ず「抜け駆け」する人たちが現れるでしょう。そしてコミュニティに残された人たちも、抜け駆けした者たちを羨むでしょう。
しかし、このような場合ではたしかに、自分の周りにいる「残った」者たちを尊敬しなくなる、という事はまだないかもしれません。一緒に暮らしてきた歴史があります。
では、最初から「残った」側に生まれ、「成功者たち」を見ながら育ったら?成功者を目指すでしょう。そして成功者のコミュニティに、貧困者は場違いです。貧困者とコミュニティを形成しても、はっきり言って「メリット」がありません。

どうでしょうか。

正直、私もバウマンの文に時々胡散臭さを感じます。しかし洞察力に富んだ人なので、本を手にとっています。わたしはバウマン信者ではありませんので、忌憚のない反論をお待ちしております。

お礼日時:2012/10/12 15:28

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