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愛されて生きることは幸せである
愛されていると知ることは幸せである

されど・・
愛されたくても 愛されぬことは不幸である
愛されているのに その愛を知らないでいるのも不幸である
愛されているのに それ以上の愛を求めるのも不幸である

人は この不幸の理由に耐えなければならない
不幸の理由は続くからである
愛されて生きるという幸せの理由と共に続くからである

不幸の理由は幸せの理由の裏返しである
不幸の理由が消えたときだけ 幸せの理由が現れる
不幸の理由が消えたときだけ 人は幸せになれる

幸せでいようとするならば 不幸を覚悟しなければならないのだろうか
不幸を受け入れるという幸せが 続く幸せなのだろうか

(愛される理由も知らぬまま 人は愛され )
(愛する理由もなく 人は愛する )

理由とは後付けである
理由が分かったからといって 人は幸せにはなれない
不幸の理由が分かったからといっても 人は幸せにはなれない
幸せにはなれないが
不幸の理由に耐えただけ 人は本当に愛することができる

どうでしょう?
これでいいんでしょうか・・?

A 回答 (24件中1~10件)

 先を越された。

直前の回答。

 内容が じゅうぶんに《八重垣》をうたっているので わたしはもう沈黙。

 つぎのあたらしいやり取りに移ってからにしましょう。
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この回答へのお礼

お お~いBさん
 
ま まってくれよ~

もういっちゃうのか・・

は~

こまった

富士山だけがきれいに見える・・

そうだ!

富士山にしよう

だれが見てもきれいな 富士山にしよう

変わらない きれいな富士山がいい

いつまでも変わらない 大きな富士山

気がつけば いつでも見える



忘れかけた 何気ない永遠の自然

愛とも言わず 語りかけてくる・・自然

人の言葉ではない 自然の愛

ありがとう

人の愛に疲れたら 

いつでも富士山を見よう

いつでも そこにあるから



終わります。
Bさん ありがとう。
お元気で・・。

お礼日時:2014/01/04 14:49

こんなのでどうでしょうか。


これも聖書の言葉です。


~~~~~~~~~~~~~~


9:7 さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。

9:8 どのようなときも純白の衣を着て/頭には香油を絶やすな。

9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの/人生と労苦の報いなのだ。

9:10 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には/仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。


http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/28kohereto …
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この回答へのお礼

うん

いいですね

味がある。

これからの時間と、これまでの時間を見つめている。

聖なる言葉とは、何気ないアドバイスでありながら、深味があります。

聖書のどのページを広げても、そこには得るものがあるのでしょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/04 15:00

 ひとこと。



 業が屁の河童だからと言って 過去の歴史に対して何もしなくてよいわけではないという一件について。

 靖国神社は:
 1. 宗教としてあるのがいけない。
 2. 皇祖神アマテラスが神勅としてこの国を自分の子孫に統治せよと言ったことが 独り善がりである。
 3. 神勅なら ほかの人間にも通るというのは 考えが狭すぎる。たとえばアイヌには通用しない。
 4. たとえ戦犯であった者でも 死ねば追悼するのは 受け容れられる。という見方を捨てる必要はないように思う。敵であった者でも同じく厚くほうむる。
 5. つまりは 無宗教の施設で敵味方をふくめたすべての戦死者について冥福を祈るかたちである。




 国民を大御宝と見なす問題は 偽悪・偽善という言い方はやめて 上から目線の親分としての愛 と呼びます。要らぬお節介・余計なお世話だという意味です。

 親分が大御宝だと言ったから とうとびうやまうというのでは ただの阿呆です。
 親分が 主権在民とのたまわったから そのように主権が市民らにあるのではありません。天与の生活そのもののとうとさから来ています。

 三角形の内角の和は 180度だというのは 学校の先生が宣言したからそうなのではない。あるいは 神勅でそのように決められたからでもない。天与で自然のあり方なのです。

 それが 八重垣。そこにもうひとえ(一重) 九番目の垣根をつけ足すのは 九重の――親分気取りの余計な――愛です。

この回答への補足

不幸の理由は 見つけなくても訪れる

幸せの理由は 見つけた時に現れる

愛を見つけた時に現れる


消えぬ愛が 一つだけあればいい

人はそれで幸せである


誰かが語る不幸を頷けば

それも愛である

誰かが求める幸せに気付けば

それも愛である


愛することが 愛されるよりも幸せだと知るなら

神様は微笑むだろう

いつも一緒にいる神様が それでいいと

微笑んでくれるにちがいない

補足日時:2014/01/04 12:44
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この回答へのお礼

Bさんありがとう。
Bさんらしい意見だと思う。
すこしは気にいったよ・・。

靖国問題は実際問題として、はぐらかす事のできない問題だ。
大昔ならば、とうに解決できた問題だという気がする。
靖国への神勅という手だてがあったような気がする。
上位の神霊からの神勅という形式をもって、御霊の分祀が可能だったかもしれない。
だが現代では通用しない
現代の状況においても通用しない
英霊に誠ある言葉を一言捧げたいという天皇陛下の御心境はいかばかりであろうか・・
英霊もそれを待っているに違いない
残された解決の道は、国立追悼施設の実現のみである
諸外国に咎められる事のない、鎮魂の場が必要だと思う。
合祀という大失敗を取り返す方法はそれしかないのだと思う。
多くの遺族、多くの国民がそう思っていると思うのだが・・


この事はこれぐらいにしよう。
個人の、不幸と幸せの理由から始まった、この質問は、家族愛や社会愛を考えさせられるところまでいったのだが
その大本を成すことはと言えば・・
やはり
愛すること、と、愛されることだろうか

Bさんもそうした見方は了解してくれると思う(思います)
当たり前の事だからだ(・・だからです)
愛という人間としての当たり前の事を、その行為をどう見るのか・・という事に尽きてくるのでしょう
それを心の深い面から捉えてゆけば、そこには神とも言うべき心が露わになってくる・・
これも自然な事なんでしょうね
一人一人の中にいる神様が、どう顕れてくるのか・・
その確認は、愛の確認でもあると思います。



Bさん・・
最後に、きれいな言葉の一つでも聞かせてくれよ
たまにはスサノオを止めてさ・・
聖書の一節でもいいよ
たのむ・・。

(こっちの締めくくりの言葉を補足欄に書いておくよ)
(ちょっと きれいすぎるんだが・・)
(悪い癖は許してくれ・・)

お礼日時:2014/01/04 12:31

 そうですね。


 きょう次のような議論を見ました。

 ▲ 櫻井よしこ氏 「日本ってすごくいい国。庶民を大御宝とずっと呼んできたんです」
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140102-00000 … 

 ▲ 日本ってすごくいい国です。庶民を大御宝(オオミタカラ)とずっと呼んできたんです。大いなる宝、オオミタカラ。

 ▲ 庶民を大御宝として一人一人が志を遂げることができるような国をつくってあげなさい、一人一人大事なのよと。あなたは身分が低いかもしれないけれども国が危機にあってはあなたの意見もいいなさい、みんなで政治、経済を論じて国をつくりなさいという考え方です。

 ▲ 日本の歴史上、日本は庶民を大御宝として大事にしました、身分の高い低い、金持ちか貧乏かに関係なくみんなが生きる価値がある社会をつくろうという考えがずっと日本の歴史に流れていた。

 ▲ 世界に知識を求めて、大いに皇基、日本は神話の時代から皇室を中心に国が成り立っていて、この皇室は権力じゃなくて権威であり、国民のために神に祈る存在ですよ。その人たちを支える権力を持っているのは、時代によって武士であり、貴族でした。今は官僚・政治家なわけです。ご皇室が中心でその下に権力構造があってこの2つが一緒になって国民、大御宝を守るというのが皇基だと思うのです。そのような価値観を世界に広げなさいと書いてあるんですよね。

 ☆ これは 社会愛としてであるのに 公共の・公共のためでもあり市民のためでもある福祉行為であるから 遠慮も要らないので どしどしつとめなさいと言っているように思われます。

 まぁ偽善というには すでにオシツケになっているので違う感覚がありますが 上から目線でほどこしを成すことに変わりはないように見られます。

 つまりひと言で言って よいことを・つまり愛を 社会の仕組みとして・そしてこの場合は人びとを《大御宝》として位置づけるという仕組みとして その決まった舞台の上でおおいにおこないなさい。と言っています。

 家族愛でもなくじつは社会愛でもなく 自分たちの仕切るための舞台としての社会の中でこそ よいこと・つまり愛をおこないなさい。と言っています。


 こっちの水は甘いぞ。あっちの水は苦いぞ。というようなことですかね。そういった唾が初めにつけられたシルシつきの社会としての愛であるでしょう。

 偽悪と言いたいところですが よいことをやろうとしているのですから 偽善でしょうね。

 相手の自由な意志の発露は けっきょくゆるさない。自分たちの引いた路線の上でのみ 《大御宝》なる人びとの福祉があるのだと決めつけています。

 しかも そのようによいことをアマテラスなる神が命令しているのだから 自分たちはこれにしたがって大いにつとめていますと 堂々とわるびれず顔をかがやかせて《社会福祉》にまい進しているようです。


 ★ 業 / 共業
 ☆ はわたしには 屁の河童です。


 遠慮なく こんなところです。
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この回答へのお礼

ありがとうBさん。

まあ
Bさんらしいジャッジが出たようだ。
話の舞台を、私が「業」の方にもっていったように
Bさんも別な形でそうしてくれたように思う。
ただ、偽悪ではないから偽善というのはどうだろうね?
少し無理を感じるんだが・・
まあ
スサノオらしいご意見としていただいておく事にします。

Bさんのジャッジは
「社会愛の実態はほぼ偽善である」といっているようだ

ここいらで・・私も重い腰を上げてジャッジを下そうと思う
私のジャッジはBさんとは異なる・・

「社会愛とは偽善をも含んだ善である、善であるが故に妨げられる事はない」



>★ 業 / 共業
 ☆ はわたしには 屁の河童です。

あ~ これはもう予想通りでした。
個人的には・・屁の河童でいいんだけど
そこには、屁の河童で済む理由があるはずです。
私には・・そうはいかない理由があります。
国の業というものを考えざるを得ない理由があります。
それは
私の身内で戦死している人がいます。
その御影というか写真も飾ってあります
勲章もその写真に添えてある
仏壇には位牌もある
けれどもお墓には遺骨がありません
はるか南方の島で玉砕して何も戻ってはこなかった
27才の若き写真は今も、こちらを見ています
A級戦犯の合祀という大失敗さえなければ、天皇陛下も総理大臣も問題なく参拝できたはずです
英霊の御霊は、絶対視されていた天皇陛下の誠ある参拝を、今も待っているのではないか・・
かあちゃ~ん・・といいながら戦場に散っていった若い命に
国民の象徴である天皇陛下が参拝すらできない
鎮魂の言葉をかけることができない
なんでこんなことになってしまったのか・・
戦争というものに対する責任と業の解釈がそこにはあると思います。
深くは言いませんが・・靖国問題は国民的問題として避けて通れない事なんです。

まあ
Bさんにとっては、屁の河童でしょうから関係ないんでしょうけど・・
よけいな話だったかな・・・・

靖国神社の桜が、桜の開花の目安になっている
靖国の桜が咲いた・・と知らされる
せめてもの鎮魂がそこにはあるようにも思います。

>大御宝

大御宝への愛・・それは今生きている人へだけのものではないと思います
戦争という不幸の理由を背負ったまま、この世を去らねばならなかった人達に向けられてもよいはずです。
この・・鎮魂という事においても、偽善か否かという事はあるでしょう
儀礼における偽善性というものはあるでしょう
けれども
そうした解釈を越えて必要だと思うんですよ
鎮魂という愛はあっていいと・・
天皇の靖国への参拝はあっていい・・と


と と・・

ちょっと暗くなってしまったか・・
すこし、しゃべり過ぎたかもしれない
屁の河童という言葉を聞いたせいかもしれない・・


そろそろ締めたいと思います。
Bさん、付き合ってくれてありがとう。
あと少し開けておきます。

お礼日時:2014/01/03 20:46

 続きますね。



 ☆☆(回答No.19) ~~~~~~~~~~~~
  ☆ あえて問題提起のために極論を言ってみます。

  ★ 客観的愛
  ☆ わたしの言葉では アマテラス普遍語によるコミュニケーションをおこなうこと(つまり 分かりやすく言えば 上から目線で 相手を気分として覆い庇う)のことです。つまり 偽善的な愛です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これに対して

 ★ (No.19お礼欄) ~~~~~~~~~
 私はそうとは言い切れない
 指標のある愛の実践を・・すべて形だけの偽善的な愛である・・とは とても言えない
 その可能性も見方によっては、無きにしもあらず・・とは思いますが
 微妙ですよ・・正直言って・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 交通法規や目標や指標のある愛は その水準までは こちらが上から目線で義務として ほどこしをくれてやるとなりがちです。そのことを言いました。

 具体的な例として:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえば
 最近、フィリピンで大きな台風による被害があって
 日本からも沢山の人達が現地に行って、被災地の救援活動や復旧活動を行ってきました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この事例で《偽善的な愛》に成りがちだというのは これこれの水準のことをおこなえばよしとする場合です。

 おそらく救援活動をする人びとは その現地の実情に合わせてすくいの手を差し伸べたことでしょう。これは けっして指標に従ったわけではないのです。または 指標があったとしてもそれに自分たちの作業を合わせたわけではないでしょう。

 ここに違いがあります。

 つまりまたまた極端な話をしますが 食糧いくらいくら 毛布いくらいくらを この地とそしてあの地に運び配るといった指標を設定しこれにもとづいて作業をした。という場合は どうでしょう。しっかりと全部やり終えたとしても それは 遠慮をどれだけつつしむかの度合いの問題でもなくなっています。機械的な作業をおこなったということになります。ほとんど偽善でしょう。



 ★ 偽善であるかどうかを決めるのは、その愛の手を受け取った人達が決める事なんだろうと思います。
 ☆ これは ちょっと違うと考えます。まづは すでに本人一人ひとりの心にその場で決まります。
 つまり 遠慮の無さをどこまで出してよいかの問題で悩むのなら 身内の愛と同じこととして 社会愛を実践できます。けれども すでに目標を設定しておいて 遠慮にも自由度にも関係なくその決められた作業を果たすというのなら それは 偽善になりがちである。

 つまり つねにそう成るのではないとすれば つねにただちにそう成る場合というのは 決められた目標を果たすことが 相手に対してこれだけのことをしてやっているのだという姿勢へと変転してしまったときだと考えるわけです。つまりこれが 上から目線のことです。



 まとめますと:

 家族愛も社会愛も 同じ基礎と土壌の上で 同じ人間愛としておこなわれ 成り立つ。
 その違いは 遠慮の無さつまり遠慮の度合いとして現われる。

 ただし このような人間愛とは別の偽善愛はありうる。それは これこれこれだけの助けをおこなっておけば じゅうぶんであろうとすでに初めに自分たちの中で決めておいてそのノルマを果たす場合である。特に 相手に対して ほどこしをくれてやっているという姿勢になってしまうなら もう人間愛からはづれてしまっている。

 この道はづれを是正するには 家族愛を基礎とすることが のぞましいし 修正する手段となりうる。家族のあいだでは そんな機械的な交通をおこなう気遣いはないのだから。 

この回答への補足

あっていい 幸せの理由

なくていい 不幸の理由

書きたくない 不幸の理由

話たくない 不幸の理由

話せる理由と 話せない理由 

一息ついて見上げれば 青い空

ふと見上げれば 光る星

なんにもかわらない

小さな自分の 小さな理由

ちょっとだけ ありがとうと言える

ちょっとだけ

ここに生れて良かった と言える

神様がくれた命の ひとつだけ

自分も もらった

このひとつを粗末にしたら

神様が悲しむだろう

元気で歩きなさいと

神様が いつも言ってくれているのに

ちがいないから

補足日時:2014/01/02 22:18
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この回答へのお礼

う~ん・・

Bさんの話を聞いていて感じるのは

直接愛と間接愛の違い・・といったもののようだ

社会愛が間接愛ならば、偽善にもなりやすい

これはもう当然の事かもしれない

だが・・間接的な愛も愛なのではないか

たとえ偽善といわれようとも愛なのではないか・・?

そんな気がするな・・。

家族愛の姿が、直接愛の姿ならば、そこには確かに「遠慮の程度」がある
相手を思んばかる心があるわけです。
偽善ではない開かれた愛があると思います。
でも、その事に比して、(限られた)社会愛を一様に偽善だと言うのはどうでしょう・・?
平行線かな・・?

思い浮かぶのは・・
「業」という言葉です。
人の業というもの
国の業というもの・・共業ともいいますが
愛という業における真実はいかに・・?

直接愛が人の業ならば、間接愛は共業ともいえる
国の業など知らない・・といってもその国民は背負っている
良い業も悪い業もその国民は背負っている、背負わなければならない
そんな事も考えてしまうんですが・・

社会愛の実践という共業における、善と偽善の秤
さて・・

Bさんは、ほぼ偽善であると言っているようです
私は・・その秤を
善の方に少し傾けたいな・・
甘いかもしれないが

このジャッジは難しい・・
そんな気がしますね。

悪い共業については、もう、何をかいわんやでしょう
未だもって、その解釈をめぐってゴチャゴチャやっている
それに比べれば、社会愛・間接的愛という共業の解釈には、まだ救いがあると思います。


そろそろという気もするんですが・・
気分転換に詩を一つ書いたので載せておきます。
よかったら読んでください。


(あ~・・Bさん )
(最後は ビシッと決めてくれよ )
(なっ たのむ・・ )

お礼日時:2014/01/02 22:05

 あけおめ。

ことよろ。本年もよい年でありますように。



 ふたつ 違いだけをしるします。


 ★ 内なる神
 ☆ つまりは 霊我(アートマン)にひとしいブッダターであり神の霊であると見ますが これは 自分が相い対峙するものではないと思うのです。

 知性で信仰ないし神を考えるときには 概念として相手となっていますが これは あくまで準備体操のようなもの。
 特に しあわせだとか愛だとかの実際問題にとっては 予行演習のようなもの。

 カミ体験が起こるか起こらないかで はっきり違う。


 ★ 宗教があるから神がいるのではなく、(誰の中にも)神がいるから宗教ができたんだろうと思う
 ☆ 心の中に神がいるから それを信じるという信仰が それとして自覚的に持たれた。

 そこからさらにオシエを引き出して来て そのオシエのもとに 人びとよ 群れようとうったえるのは 宗教であり ただのおふざけです。人に対する支配欲を満たしたいとき そして金儲けをしたいとき そのような組織宗教を始めます。




 もうひとつは
 ★ まあ / 社会愛の実践の内容の違いによって、主観的愛か客観的愛か・・という事になってくるのかな・・?
 ☆ あえて問題提起のために極論を言ってみます。

 ★ 客観的愛
 ☆ わたしの言葉では アマテラス普遍語によるコミュニケーションをおこなうこと(つまり 分かりやすく言えば 上から目線で 相手を気分として覆い庇う)のことです。つまり 偽善的な愛です。

 これが 偽善なのです。マチガイのないように結果を出すことを目指すのは 偽善です。

 つまりは 遠慮をどこまでおこなうかの程度問題ではなくなっており いかにうまく体裁をつくりこれを保つかに目標が移って行ってしまっています。

 こんなところです。

 《客観》という言葉に踊らされていませんか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


>カミ体験が起こるか起こらないかで はっきり違う。

もちろんそうですよ。
カミ体験の内容には段階があって一様ではないと思います。
概念として対峙する神の姿も体験の深さによって変わってくる
確定の度合いも変わってくると思います。
絶対・・というところまで行く着くのは大変な事なんでしょうね
そこで・・
絶対他力の信心という、無義の義でもって一足飛び・・
という事も有りうるわけです。
キリスト教ではどうなのかな・・?
まあ そのへんの事は、ここではいいんじゃないかと思いますけど・・。



>☆客観的愛・・・偽善的な愛です。

これはどうなんでしょうね・・?

私はそうとは言い切れない
指標のある愛の実践を・・すべて形だけの偽善的な愛である・・とは とても言えない
その可能性も見方によっては、無きにしもあらず・・とは思いますが
微妙ですよ・・正直言って・・

たとえば
最近、フィリピンで大きな台風による被害があって
日本からも沢山の人達が現地に行って、被災地の救援活動や復旧活動を行ってきました。
これは まあ・・「事実としての愛」という尊ぶべき事なんだと思いますが
国の方針に依った事であり、そこに国民の気持ちが実際どれだけあるのか・・という事になると疑問はあるわけです。
形だけじゃないか? という見方も当然そこにはあると思います。
けれども・・
「偽善的な愛です」とは、言い切れない

偽善的な愛という、半ば、「おせっかい」ではなかったように思います。
偽善であるかどうかを決めるのは、その愛の手を受け取った人達が決める事なんだろうと思います。

ありがとう・・という気持ちで受け取めてくれれば、善き愛でしょうし
いらぬおせっかいだ・・と思われれば、偽善の愛になってしまう

まあ、そういった受け止め方しだいで大分変わってきてしまうと思います。

また、
実際に救援活動に携わった方の中には・・
形だけの偽善と思われてもいい・・やるべき事はやってあげよう
という気持ちの人もいたと思います。
そういった事を考えると、「偽善に込められた愛」というものもあるんじゃないかと思います。

客観的な愛とは、見方によって、受け止め方によって、その評価が大きく変わってしまう、変わりやすい・・
そんなふうに思います。



>《客観》という言葉に踊らされていませんか?

あ~
これはもう・・
そうすね
若い頃から踊らされっぱなしです
とくに
人類史上最大の客観というやつを知ってから、とくにひどくなった
お釈迦様が見たという「縁起」なんだけど
この客観へのあこがれが未だに消えない・・
ひどいもんです・・。

お礼日時:2014/01/02 17:51

 押し問答になっても面白くありませんので かんたんに説明のみ書きます。




 ★ 家族や友人、或いは恋人というような個人同士の愛情を / そのまま同じように、見知らぬ人に注ぐことはできないと思いますね。
 ☆ ですから 遠慮のない場合と遠慮する場合との違いであって 次元が違うわけではない。こういう見方です。

 ★ はっきり言うと、形が求められる・・
 ☆ こたえないのはダメだというかたちでしょう。それが 遠慮だと思います。

 けれども 会社などの仕事でなければ 社会愛においても こたえをあいまいにするというひとつの遠慮の無ささえも 事実としてあり得ます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その形に、心があるかないかによって偽善的か否かという
 まあ
 うわべだけの愛じゃないかといった見方さえ出てきてしまう
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こたえたくないのに答えるときに 心とは違うことを言ってしまう。その答えという形を現わすことは善だが その中身はウソ・イツワリになってしまうという事態でしょう。

 基礎・土壌・土俵・次元は 同じです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 これだけはやってあげなければ・・
 これだけはやってあげてもいい・・
 というレベルがあると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 遠慮です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 そのレベルの捉え方は、やはり社会共通の見方・社会的客観性によるのだろうと思います。
 そのへんが家族愛との違いだと思いますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば義理と人情と言います。義理から行けば恩を受けている人や自分の上司に対して従わなければならない・・・けれども人情から行けば身内の人のためのことを優先したい。あちら立てればこちらが立たずという状態に落ち入る。というだけのことです。

 どのような情況であるなら 人情のほうを優先してもよいとか いやダメだとかというそのような判定基準を 社会共通の交通法規として取り決めあっておけば そのディレンマに遭っても決断しやすいといったところでしょう。

 これも 遠慮をどこまで・どんな形で果たすのか。という問題であり それだけのことだと言ってよいでしょう。




 ★ 客観的な目安・指標
 ☆ と言うと 家族や身内のあいだでの《あやまちうる・遠慮無しのスサノヲ人間語》ではなく 普遍性を問い求めたアマテラス人格語もしくはアマテラス科学語にもとづいたアマテラス客観語が必要とされる。と言いたいのでしょう。

 けれども けっきょくは 《スサノヲ人間語なる基礎=土壌 ‐ アマテラス普遍語による遠慮のかたち》といった構造的な人間どうしの交通(コミュニケーション)という事態には変わりありません。

 もっと簡単に言えば 《余所行きの態度をどこまで示せば 社会愛にとってふさわしいか》というその程度問題である。こうだと思いますよ。
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この回答へのお礼

明けましておめでとうございます。

間をおいてごめんよBさん。


>《余所行きの態度をどこまで示せば 社会愛にとってふさわしいか》・・


これは主観的愛をどのように客観づける事ができるのか、
という事でしょう
社会愛が家族愛の延長であると見る限りにおいては正しいと思いますが

社会愛とは・・何ができたのか、という結果重視である
という見方からすれば、指標の定まらない曖昧さがあると思います。

「奉仕」ならまだいいのですが、「福祉」ともなると
人が人らしく生きられるための明らかな指標が求められてくる
ボランティア活動というような奉仕作業と、福祉活動との違いはその辺にあると思います。

まあ
社会愛の実践の内容の違いによって、主観的愛か客観的愛か・・という事になってくるのかな・・?

社会における愛の手とは何か・・?
実際に「奉仕」や「福祉」に携わっている人に本音を聞いてみたいですね・・

まあ Bさんはくだけた感じで、こうじゃないか・・という事を言ってくれたと思うんですが
どうも まだ私の中で正解が出てこない

家族愛の場合は・・(社会愛と違って)結果よりも、心と過程が大切

思ったようにやれなくて・・ごめん といった感じで済んでしまう場合が多い

けれども 社会愛の場合は・・ごめん だけではダメなんじゃないかと思う

そんなふうに思う。

まあ この話を進めていくと・・なんだけど
一つは
在宅介護と福祉介護のことにも行き当たる
家族愛の限界と福祉のありようの関わり、といった現実の問題にもなってくる
そのへんは・・まあ 置いておこうか・・




次に
個人における、幸と不幸といった事
個人の主観内面における、幸と不幸、そこにおける有りようなんだけど
人がたとえ・・どのような不幸、或いは不幸の理由を背負っていても
それから解放される時間というものは必ずあるような気がする
それは宗教を抜きにしても必ずあると思う。

普通は意識されない(心の底の)心が顕れてきて、嘆く心を包みこんでくれる
そういった時があると思う
普遍的な心、超越的無意識といってもいいかもしれない
それを 内なる神 といってもいいような気がする
誰の心の中にもいる神様なんだろう

見方を変えれば
宗教があるから神がいるのではなく、(誰の中にも)神がいるから宗教ができたんだろうと思う
高次元の心の内在を抜きにして、宗教は有り得ない・・
そんなふうにも思う
不幸の理由は 内なる神が受け取ってくれる
そんなふうに考えることはできないだろうか・・

汝の幸と不幸を ここに置き

と・・
ここ という自分の中にいる神様が受け取って預かってくれる。




それと
「命への実感」というものを考える時に
自らの命への実感が、不幸の理由にもなり、幸せの理由にもなりうる
内なる神の愛が、自らに差し向けられた時に、明らかとなる自らの姿なのかもしれない
こういった・・命の実感、命への凝視といったものが外界に向けられた時には・・どうなっていくのか・・?
前に「無題」として書いた詩が参考になればいいと思う・・

何気ない永遠
何気ない永遠の中に 今 自分がいる

そんな感じでしょうかね・・。



最後に・・

人それぞれ・・内なる神に向かい合う形式があってもいいと思うことです。

言い換えると

人それぞれに合った宗教や信仰があってもいいと思う。

信仰を持たぬよりは、そういった形を通して、内なる神に向き合える時間を多くできるのなら、その方が人として幸せだと思います。
不幸の理由をいつでも預かってくれる神様との出会いです・・。

以上、そんなところです。

お礼日時:2014/01/02 13:58

 日本人のナラワシに従うなら まあだいたいそうですよね 互いに近寄って来ていますよね このあたりで新しい主題にすすみましょうかうんぬんというふうに折り合いをつけるのではないかと考えますが わたしは きちんと互いの異同を明確に知っておくというところまですすめます。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 社会愛の実践においては、個々の主観を越えたものが求められる場合が多いように思います。
 個人の幸福レベルの客観的指標というものがあって、社会愛の実践が成り立っていく
 実践面においては、どうしても客観的指標が必要とされる
 そんなふうに思いますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《客観的指標》というのは 交通標識ともエチケットとも言うと思いますが 要するにそれは 家族のあいだの親しさや遠慮の無さを そのまま出してしまうわけには行かないという時のそのつつしみについて言っているわけです。そのつつしみについて 社会経験をとおして判例集のようにして取り決めておくことだと考えるわけです。

 その意味で 家族愛と社会愛とは 同じ次元でいとなまれ ただそれぞれの場の自由さが違うだけだという見方です。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 共通意識、共生意識という相互愛を基礎として社会愛が成り立っているとすれば
 その相互愛の根底にあるものを明らかにしておく事が、実りある社会愛の実践を可能にする・・
 言い換えれば、偽善的愛をなくすことができる・・ように思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 何だかむつかしいことを言うのだなぁ(むつかしく考えるのだなぁ)という思いなのですが 《相互愛の根底にあるもの》ですか。

 たぶん主観的な《やましさ反応》のようなものかと思いますね。
 自分がいやだと思うことは 他人にもしないといったような。
 して欲しいと思うようなことは なるべく他人にもする。

 これを心の中でいつわれば 偽善に成るでしょうね。つまり 相手の気持ちや思いに それがほんとうは自分の考えでは間違っていると思っていても 合わせるというようなことは 偽善の愛になるのでしょうね。





 ★ 神の愛の想定 / 自己対話
 ☆ これについては留意しつつ保留とします。特にプラスにもマイナスにも反応が焦点を結びませんでした。



 


 ★ 不幸
 ☆ という言葉は わが辞書にはない。と言っているのが ふつうだということになると思うんですけれどねぇ。

 つまり 幸せは 仕合わせであって つねにプラスとマイナスとがありうるということなはずです。わるい仕合わせであっても それなりに過ごして行く。このときには もう不幸という言葉は 要らなくなっていくかと考えます。

 つらいとか 不愉快だとかという気持ちは つねにあり得ますけれど。
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この回答へのお礼

ありがとうBさん。

>家族愛と社会愛とは 同じ次元でいとなまれ・・

ここは見方が私とは違っているな・・という感じがしますね

家族や友人、或いは恋人というような個人同士の愛情を
そのまま同じように、見知らぬ人に注ぐことはできないと思いますね。
同じ人間であり、同じ社会に生きているという共生意識から発した社会愛は
「奉仕」という実践の形であっても、客観的な目安・指標が求められていくと思います。
はっきり言うと、形が求められる・・
その形に、心があるかないかによって偽善的か否かという
まあ
うわべだけの愛じゃないかといった見方さえ出てきてしまう
そうした社会愛への評価はさまざまだと思いますが

これだけはやってあげなければ・・
これだけはやってあげてもいい・・
というレベルがあると思います。
そのレベルの捉え方は、やはり社会共通の見方・社会的客観性によるのだろうと思います。
そのへんが家族愛との違いだと思いますね。


ちょっと用件ができたので
また
正月は忙しい・・
また返事します。 

お礼日時:2014/01/01 14:05

 ★ (No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~


 (あ) 汝は ここを去るがよい

 (い) 汝が知らざる約束

 ★ (No.14補足欄) ~~~~~~~~~~
 (う) 八重の愛・かまどの愛から・・もっと大きなかまどの愛っていう見方もあるんだろう
 共通意識の愛という見方だ・・
 普遍的な意識の働きかけを知らず知らずに受けている
 そこに社会愛の本質があるという見方だ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (あ)の理由が分からない。

 (い)は たしかにやはりわたしは 知らない。


 (う)がそのままわたしの見解でありすでに立っている立ち場(生活態度)です。

 言いかえると
 ★ 社会愛と家族愛の違いは / その実践において客観的な幸福の指標が求められてしまうかどうかにあると思う。
 ☆ というふうに 種類や性質が違うと見るのではなく そうではなく まったく同じく地続きであって・その土壌の上にいて ただよその人に対しては 家族に対しておこなうことの自由さ(遠慮の無さ)を まだ知り合っていないその度合いに応じてつつしむ必要がある。というだけだと思っています。

 だから わたしは ほんとは《甘えた》であり けんか好きであるのですが その百分の一もオモテに出していません。
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この回答へのお礼

Bさんありがとう。
素直に礼をいいます。


☆ (あ)の理由が分からない。


汝の幸と不幸を ここに置き
汝は ここを去るがよい


これは・・かなり気張って書いた詩だから粗削りです
ほとんど主観の中での、神の愛の想定になっている
つまり自己対話に近い
普通の詩だったら・・ここで神の愛に包まれて うっとり・・
という感じだろうけど
自分はどうしても、そうは書けなかった



神は長くは留まらない
自己の内に神が顕れても それは短い時間
一度顕れてそのまま という事はない
神の御前に座れる時間は そう長くはない・・
また自らの意志で その時間を決めることもできない
神が与えし時間とは 人が決める時間ではない

自然と向き合っていると、時々それに似たような感覚におそわれる事があります
主観的錯覚かもしれないが
す-と自分が小さくなっていって、大きなものの中にいるような気がします
自然が心を洗ってくれる・・という事なんだろうと思います。


(う) ・・については Bさんは

社会愛は家族愛の延長である、という立場なんでしょうね
やはり・・
この事については多角的な視点からの捉え方があると思うし、それらを否定する理由ももっていませんが

社会愛の実践においては、個々の主観を越えたものが求められる場合が多いように思います。
個人の幸福レベルの客観的指標というものがあって、社会愛の実践が成り立っていく
実践面においては、どうしても客観的指標が必要とされる
そんなふうに思いますね。
また
共通意識、共生意識という相互愛を基礎として社会愛が成り立っているとすれば
その相互愛の根底にあるものを明らかにしておく事が、実りある社会愛の実践を可能にする・・
言い換えれば、偽善的愛をなくすことができる・・ように思います。


そんな感じかな・・
まだまだなんだけど



現実の・・
家族愛も社会愛も なっとらん!
宗教はさらに なっとらん!
みんな なっとらん!

まあ
Bさんのパンチのきいた言葉が聞きたいんだけど・・

じゃ
また。

おっと
よいお年をお迎えください。

お礼日時:2013/12/31 22:09

 aboutさんの使う“理由”を“因”と受け止めました。


 “因”は先付け。その気づき、解釈が後付け。

 与え心と求め心。

 愛は与え心。
 求め心は・・・

 満たされぬゆえの欲望の対象が愛ならばその欲望は“愛心”なのですか?

 ちなみに“恋”は求め心、ですね。

この回答への補足

落書きをあと一つ許していただこう・・。




汝が 人として生まれてきた約束に

不幸の理由を一つさずけよう

また

幸せの理由を二つさずけよう

どちらかだけ という約束はできない


不幸の理由を嘆くなかれ

汝には それにも増した幸せの理由がある

小さくとも 大きくとも幸せの理由がある


汝が駆け足で止まったところに私は いつもいる

いつもいよう

不幸の理由と幸せの理由を 聞きはしないが

重くなったら 置いていくがいい

すきなように

いつでも そうするがいい


この命を大切に という誓いのなきまま

再び走りだす子よ

後ろから祈ろう

幸いあれ

不幸なき 幸いあれ

不幸あれど 幸いあれ

補足日時:2013/12/31 13:58
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。

>与え心と求め心。

ここにYY8さんの一つの了解が込められていると察します。
通常から、それ以上の段階においても共通性があるという見方です。
その内容は、「信じる」という事におけるやり取りであり
高次元における、「通常の愛を超えたもの」を指し示しているように思われます。


>求め心は・・・

 満たされぬゆえの欲望の対象が愛ならばその欲望は“愛心”なのですか?

渇愛という愛の中にさえある真実は、実は美醜を超えたものである、という見方
密教的表現はご存じでしょうから・・別な言い方で(下手ですが )・・
永遠の命のはたらきを二分して、一つは、愛という創造の力、もう一つは、理知という智慧の力

ここに至れば、通常の愛は愛ではないという見方も生じてしまうように思います。
盲目の愛から、智慧のある愛への変化です。
愛に智慧が加わったものが「慈悲」という、高次元の愛が明らかとなってくる・・
これ以降の解説は、YY8さんには不要でしょう。
私が話す必要もないと思います。

まあ・・
どうしても遊んでしまう・・面白、可笑しくという悪い癖
ご容赦ください。

お礼日時:2013/12/31 12:07

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