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現代の社会において
人々を平等にして、
それを維持することと、
個性を持った個人を最大限に尊重することは同時に行えますか?

A 回答 (11件中1~10件)

「平等」を辞書で引くと【かたよりや差別がなく、みな等しいこと。

】などとなっています。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/188018/m1u/ …
ご質問も、この意味でなさっていると思うのですが、何をもって「かたよりや差別がなく、みな等しい」と言えるのか、という点について詰めることから始めてみたいと思います。

たとえば「男女平等」という言葉があります。
男性が10kgの荷物を持ち、女性が1kgの荷物を持って歩いているとき、これを不平等とは、おそらく言わないでしょう。
10kgと1kgですから、あきらかに「かたよりや差別がなく、みな等しい」と言えないにも拘わらずです。
これはなぜかというと、力の弱い女性が軽い荷物を持つことで楽になるなら、そのことが男性にとっての幸せになるからだと思います。
逆に、女性は男性より上手に料理ができるかもしれませんし、その場合、自分だけ料理するのは不公平だとは言わないはずです。(むろん、同じ重さの荷物を持って歩く女性なら別ですが)
要するに、それぞれの個性に応じて、お互いの幸せに寄与することができるなら、それは平等と言えるのではないでしょうか。

そうすると、次に問題となるのは、何を幸せと感じるか、ということだと思います。
自分さえ幸せならそれで良いのであって、自分以外の人間が幸せになっても幸せは感じない、という人がいるとしましょう。
家族が幸せになれば自分も幸せを感じるが、家族以外の人間が幸せになっても幸せは感じない、という人もいるでしょう。
血縁の人間が幸せになれば自分も幸せを感じるが、血縁以外の人間が幸せになっても幸せは感じない、という人もいるはずです。
親しい人が幸せになれば自分も幸せだと感じるが、赤の他人が幸せになっても幸せは感じない、という人もいそうです。
日本人選手が優勝すれば自分は幸せだと感じるが、外国の選手が優勝しても幸せは感じない、という人は多いでしょう。
アラブの人が幸せになれば自分は幸せだと感じるが、アメリカ人が幸せになっても幸せは感じない、というアラブ人がいれば、
アメリカ人が幸せになれば自分は幸せだと感じるが、アラブの人が幸せになっても幸せは感じない、というアメリカ人もいるでしょう。
このように、何を幸せに感じるか、ということの範囲は人それぞれだと思います。
そこで、仮にですが、
「どんな他人でも、人間が幸せになれば自分も幸せを感じる」という感覚を全人類が共有したとすれば、個性と平等が両立したことになるはずです。
これは、裏を返すと、「どんな他人の悲しみ、苦しみも、自分自身のそれとして感じることができれば、個性と平等が両立する」とも言えるように思います。

たとえが多くて恐縮ですが、たとえば、ホームレスを見て、その悲しみ、苦しみを自分自身のそれとして感じることができるでしょうか。
感じることができる人もいれば、侮蔑の嘲笑いで済ます人も多いことと思います。
こうした両極端の反応の中間としてですが、(尊敬までしなくとも)侮蔑さえしなければ、また、特異な存在として恐れさえしなければ、彼らの悲しみ、苦しみを共有したことになるのではないでしょうか。
おそらくですが、彼らは、理解してほしいとは思っていないような気がします。
ただ、何か悪いことをしたわけではないのだから、馬鹿にしたり、怖がったりしないでくれ。こうつぶやいているのではないでしょうか。
悲しみ、苦しみは、あくまで彼ら自身で乗り越えていけるはずですし、(あくまで自発的に)乗り越えていけるような社会体制が必要です。
同情することが彼らの幸せにつながるわけではないでしょう。同情は彼らの個性の抹殺にもつながるはずです。
テロやイスラミックステートの問題から三面記事まで、毎日のように世界を駆け巡る事件の数々。
こうした出来事のすべてには「侮蔑」というキーワードが潜んでいるように思います。
ホームレスの例も挙げさせていただきましたように、「侮蔑」という心理作用がこの世から消えたとき、個性と平等が両立するのではないでしょうか。

そこで、人はなぜ侮蔑するのか、という問題になってくるでしょう。
「侮蔑」の効能は、他者を蔑む、つまり貶めることで、自分が浮上できたように思うことができる、ということだろうと思います。
人間は常に超自我的な、つまり精神的な成長を望む生き物です。
動物とは一線を画すものとしての起源を宿命づけられている存在として、これは極めて当然のことと言えます。
どんなやんちゃな人間でも、無意識的にこれを希求しています。必須要件と言って差し支えないはずです。
それがため、侮蔑できる機会をそう簡単に逃したりはしないものです。
ところで、侮蔑の対象は、自分(たち)の規範から外れた特異な存在だろうと思います。
他者への侮蔑が、もっとも安易な自己のステージを上げる方法だと無意識的に知っている人が多い世であればこそ、特異な存在は常に新しく作り出されます。
無意識的な場合もあれば意図的な場合もあるでしょう。
この社会は常に、「自分たちとは異なるもの」を、その他大勢の異ならない人のために作り出してきたはずです。
つまり、異なるものへの侮蔑は、異ならないものたちの安定のために為される、一種の社会的心理作用というのが本質だろうと思います。
要するに、自分自らの力で自身の精神性を高めていくだけの能力が、現段階での人類にはまだ備わっていない、ということでしょう。

さて、はしょってしまいますと、「自分自らの力で自身の精神性を高めていく」という作業を、どれだけ多くの人ができるようになるか、によって、その地域や社会、国家などの文化度が決定されていくように思います。
他者との関わりは、必然的に自分自身と世界を共有している者との関わりです。
他者と呼ばれる人は、もしかすると自分であったかもしれないのですし、今現在自分が自分であるのは、あくまで偶然にすぎません。
他者と関わる際に、こうした当然の事実に対して多少なりとも思いを致す。
そのことが、個性と平等の両立に向けての微進につながっていくような気がします。
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「平等」ではなく、「公平」についてお考えになるべきかと思う。

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もちろん同時に行えると思いますよ。


今の日本がそうなっていますね。
政治というものは、その調整機能なのです。
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法的な平等はある程度達成されていると思いますが、全ての個性が全てのローカル社会に置いて尊重されることはないと思います。



 何をもって平等とするかに因りますが、日本ではかなり法の下での平等は出来ていると思います。封建社会であれば、身分の違う人と争った場合に、裁判もなく身分の低い人が泣き寝入りする事が多かったと思いますが、今であれば総理大臣や地主と一般人であっても、裁判所で裁判によって争いに決着を付ける事が出来ます。
 真実が当事者以外には分からない場合や、法的にグレーな部分での裁判の場合、より説得力のある証拠や法的根拠を上げた方が勝つ事はありますが、少なくとも裁判によって決着を着ける機会があるという点においては平等です。
 もし平等の意味が、人の才能を平等にしろとか、生まれた家の財産を平等にしろとか、労働した時間当たりの対価を平等にしろとか、人の好き嫌いや親しさに関係なくお土産を平等に用意しろというなら不可能です。
 ただ労働の対価の平等に関してはグローバル化や技術進歩によって次第に達成されて行くと思います。ただし、日本の中で所得の低い人が、日本の中で平均的な所得を得たいと言う思いは、残念ながら逆向きに進むものと考えられます。グローバル化によって同じ労働ならもっと物価の安い国の労働者の給料と平均化され、さらに下がって行く可能性があります。

 個性を持った個人の尊重に関してですが、日本では個性的な行動であっても合法的な行動であれば、法的に罰せられる事はありません。ただし、周囲の人に嫌われる行動を取れば、合法的な範囲で周囲の人から嫌われたなりの反応を受けるのは当然でしょう。
 ローカルな社会(地域、会社、学校、友人関係)には明文化された、もしくは明文化されていないローカルなルールがあって、そのルールに反するとローカルな処罰を受ける事があります。時にこの処罰が非合法な範囲にエスカレートする事があり、その場合には非合法な処罰を受けた本人や本人を知る人が、法的な解決に乗り出さなければいけなくなる場合があります。非合法な行為があっても、訴える人がいなければ泣き寝入りする事になります。
 全ての個性が全てのローカル社会で認められるわけではありませんが、あるローカル社会で認められない個性も、別のローカル社会であれば認められる可能性があります。例をあげれば、個性的な服装や職務姿勢に関してある会社で認められなくても、別の会社でなら認められるかもしれないし、自分で会社を立ち上げれば、合法的で利益を生んでいる限り、その個性は認められるでしょう。或いは、人間関係に巧みならば、そのローカル社会のルールを自分の個性を認める様に変えていけるかもしれません。
 ただし、働かない・価値を生まないのが自分の個性だという場合には、そういう個性を認める伴侶かパトロンを見付けなければ、生きていけません。当然ながら非合法な行為を行うのが個性だという場合には、日本においてはほとんど認められていません。
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人類は社会生命=多様化による分業化によって発展している。


それは個性を肯定する。
そこにおける評価基準は、多様な個人の比較ではなく、
社会全体としての最大限の機能発揮であり、そのための
社会貢献の比較である。
その成果は社会全体のものゆえ、社会のために活動する
全ての個体にとって等しい喜びをもたらす。
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個人差を考慮に入れた平等のために


その評価のための普遍的な軸が必要になると思います。
現状では難しいかもしれませんが
諦めずにその軸を求めて模索することは大事だと思います。

何を同じにすべきか、何が多様でいいことか、から入って
どう評価すべきかを自然科学に立脚して示すことができるようになればいいなとは思います。
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お礼ありがとうございます。



>そのチャレンジした結果が等しいことが平等なのかもしれません。

もし、そうであるなら私は不平等に感じますね。
個性が全く無視される訳ですから。

誰がオリンピックに出ても、同じ結果ならやる意味は無いし
チャレンジが意味を成さないので、社会も人類も衰退します。

生き物であれば、得るものは与えられるものでは無く
掴むものでなければ、進歩も発展も無い。
それは、不自然でいびつになっていきます。

もし、「科学が進歩しました。平等を享受して下さい。」
なんて話しになって、表面の平等で全員が同じ顔で
同じ好みで、同じ望みを持ち、同じ能力で、とても平等で
雌雄同体まで行くなら、人類は終わりを迎えますね。

何かの危機が来ても、打ち破るような人は出ないですから。
個性って、そうやって補い合うから、肉体的に弱い人類が
多様性でここまで増えてきたので。

違いは、自然の産物です。

平等を人間の都合で定義するより、自然を理解して行けば
誰が出しても結果は大幅に違いは無いと思えます。
不自然さを、誰しも自己都合で持ち込まない事が大切だと
私は思います。
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まず、平等の認識ですよね。


人口が70億人だとしましょう。
すると、70億通りの違いがあります。
同じ家族でも兄弟で、立場が違えば何かの違いが出ます。

多くの人は平等を、そう言う表面的に分かりやすい所で
比較し秤にかけますが、「違い」として存在するものを
「平等」に乗せるなら平等など存在しないとなるでしょう。

誰一人として同じではないから、人生は始まるのです。
だからこそ、一人一人が大切な存在ではないでしょうか。
唯一無二の「あなた」であり、唯一無二の「私」になれる訳です。

平等は、その時その人が手にできるであろうことに
チャレンジする平等性であり、阻害されない自由を
手にできることだと思います。

その自由とは、その個が望むことにチャレンジできるのが
その人の個性が出る所ですから、尊重されることと合致します。

条件の平等を望んでも、私達はロボットではないので
違いを認め合うことから、平等は始まるのだと思います。
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この回答へのお礼

平等とは等しい量のチャレンジするチャンスが与えられるということですね。
しかし、
そのチャレンジした結果が等しいことが平等なのかもしれません。
平等の定義が難しいですね。ありがとうございます。

お礼日時:2015/07/05 21:46

できる、というよりも人類社会は、それこそを目的に進んでゆくべきと思います。


「平等」とは、一人一人の「自由」と「個性」を尊重することです。
「自由」と「放縦」がはき違えられている、「全体のため」の名のもとに、「個性」
が認められていない、というのが現実だと思います。

個人の利益と、社会の利益を合致させればよいのです。個人は、社会の利益のために
個性を発揮し、自由に活動するべきです。
その理想像は、これまでの延長線上にはない。有為な人たちが「チャレンジ」をし、
社会全体で模索してゆかねばならないでしょう。
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この回答へのお礼

社会の利益と大半の人の個人の利益が合致したとしても、
極一部の人の不利益になりえますよね。
平等って難しいですね…

お礼日時:2015/07/05 21:43

個性を最大限に尊重したら、頑張る人、


有能な人が金持ちになります。

頑張らないひと、無能なひとは貧乏に
なります。

だから平等と個人を最大限尊重することとは
矛盾します。

それを実証したのが、社会主義です。
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この回答へのお礼

社会主義も本当に平等かはわかりませんね。
ありがとうございます。

お礼日時:2015/07/05 21:48

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