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愛されて生きることは幸せである
愛されていると知ることは幸せである

されど・・
愛されたくても 愛されぬことは不幸である
愛されているのに その愛を知らないでいるのも不幸である
愛されているのに それ以上の愛を求めるのも不幸である

人は この不幸の理由に耐えなければならない
不幸の理由は続くからである
愛されて生きるという幸せの理由と共に続くからである

不幸の理由は幸せの理由の裏返しである
不幸の理由が消えたときだけ 幸せの理由が現れる
不幸の理由が消えたときだけ 人は幸せになれる

幸せでいようとするならば 不幸を覚悟しなければならないのだろうか
不幸を受け入れるという幸せが 続く幸せなのだろうか

(愛される理由も知らぬまま 人は愛され )
(愛する理由もなく 人は愛する )

理由とは後付けである
理由が分かったからといって 人は幸せにはなれない
不幸の理由が分かったからといっても 人は幸せにはなれない
幸せにはなれないが
不幸の理由に耐えただけ 人は本当に愛することができる

どうでしょう?
これでいいんでしょうか・・?

A 回答 (24件中21~24件)

 そうですね。


 きょう次のような議論を見ました。

 ▲ 櫻井よしこ氏 「日本ってすごくいい国。庶民を大御宝とずっと呼んできたんです」
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140102-00000 … 

 ▲ 日本ってすごくいい国です。庶民を大御宝(オオミタカラ)とずっと呼んできたんです。大いなる宝、オオミタカラ。

 ▲ 庶民を大御宝として一人一人が志を遂げることができるような国をつくってあげなさい、一人一人大事なのよと。あなたは身分が低いかもしれないけれども国が危機にあってはあなたの意見もいいなさい、みんなで政治、経済を論じて国をつくりなさいという考え方です。

 ▲ 日本の歴史上、日本は庶民を大御宝として大事にしました、身分の高い低い、金持ちか貧乏かに関係なくみんなが生きる価値がある社会をつくろうという考えがずっと日本の歴史に流れていた。

 ▲ 世界に知識を求めて、大いに皇基、日本は神話の時代から皇室を中心に国が成り立っていて、この皇室は権力じゃなくて権威であり、国民のために神に祈る存在ですよ。その人たちを支える権力を持っているのは、時代によって武士であり、貴族でした。今は官僚・政治家なわけです。ご皇室が中心でその下に権力構造があってこの2つが一緒になって国民、大御宝を守るというのが皇基だと思うのです。そのような価値観を世界に広げなさいと書いてあるんですよね。

 ☆ これは 社会愛としてであるのに 公共の・公共のためでもあり市民のためでもある福祉行為であるから 遠慮も要らないので どしどしつとめなさいと言っているように思われます。

 まぁ偽善というには すでにオシツケになっているので違う感覚がありますが 上から目線でほどこしを成すことに変わりはないように見られます。

 つまりひと言で言って よいことを・つまり愛を 社会の仕組みとして・そしてこの場合は人びとを《大御宝》として位置づけるという仕組みとして その決まった舞台の上でおおいにおこないなさい。と言っています。

 家族愛でもなくじつは社会愛でもなく 自分たちの仕切るための舞台としての社会の中でこそ よいこと・つまり愛をおこないなさい。と言っています。


 こっちの水は甘いぞ。あっちの水は苦いぞ。というようなことですかね。そういった唾が初めにつけられたシルシつきの社会としての愛であるでしょう。

 偽悪と言いたいところですが よいことをやろうとしているのですから 偽善でしょうね。

 相手の自由な意志の発露は けっきょくゆるさない。自分たちの引いた路線の上でのみ 《大御宝》なる人びとの福祉があるのだと決めつけています。

 しかも そのようによいことをアマテラスなる神が命令しているのだから 自分たちはこれにしたがって大いにつとめていますと 堂々とわるびれず顔をかがやかせて《社会福祉》にまい進しているようです。


 ★ 業 / 共業
 ☆ はわたしには 屁の河童です。


 遠慮なく こんなところです。
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この回答へのお礼

ありがとうBさん。

まあ
Bさんらしいジャッジが出たようだ。
話の舞台を、私が「業」の方にもっていったように
Bさんも別な形でそうしてくれたように思う。
ただ、偽悪ではないから偽善というのはどうだろうね?
少し無理を感じるんだが・・
まあ
スサノオらしいご意見としていただいておく事にします。

Bさんのジャッジは
「社会愛の実態はほぼ偽善である」といっているようだ

ここいらで・・私も重い腰を上げてジャッジを下そうと思う
私のジャッジはBさんとは異なる・・

「社会愛とは偽善をも含んだ善である、善であるが故に妨げられる事はない」



>★ 業 / 共業
 ☆ はわたしには 屁の河童です。

あ~ これはもう予想通りでした。
個人的には・・屁の河童でいいんだけど
そこには、屁の河童で済む理由があるはずです。
私には・・そうはいかない理由があります。
国の業というものを考えざるを得ない理由があります。
それは
私の身内で戦死している人がいます。
その御影というか写真も飾ってあります
勲章もその写真に添えてある
仏壇には位牌もある
けれどもお墓には遺骨がありません
はるか南方の島で玉砕して何も戻ってはこなかった
27才の若き写真は今も、こちらを見ています
A級戦犯の合祀という大失敗さえなければ、天皇陛下も総理大臣も問題なく参拝できたはずです
英霊の御霊は、絶対視されていた天皇陛下の誠ある参拝を、今も待っているのではないか・・
かあちゃ~ん・・といいながら戦場に散っていった若い命に
国民の象徴である天皇陛下が参拝すらできない
鎮魂の言葉をかけることができない
なんでこんなことになってしまったのか・・
戦争というものに対する責任と業の解釈がそこにはあると思います。
深くは言いませんが・・靖国問題は国民的問題として避けて通れない事なんです。

まあ
Bさんにとっては、屁の河童でしょうから関係ないんでしょうけど・・
よけいな話だったかな・・・・

靖国神社の桜が、桜の開花の目安になっている
靖国の桜が咲いた・・と知らされる
せめてもの鎮魂がそこにはあるようにも思います。

>大御宝

大御宝への愛・・それは今生きている人へだけのものではないと思います
戦争という不幸の理由を背負ったまま、この世を去らねばならなかった人達に向けられてもよいはずです。
この・・鎮魂という事においても、偽善か否かという事はあるでしょう
儀礼における偽善性というものはあるでしょう
けれども
そうした解釈を越えて必要だと思うんですよ
鎮魂という愛はあっていいと・・
天皇の靖国への参拝はあっていい・・と


と と・・

ちょっと暗くなってしまったか・・
すこし、しゃべり過ぎたかもしれない
屁の河童という言葉を聞いたせいかもしれない・・


そろそろ締めたいと思います。
Bさん、付き合ってくれてありがとう。
あと少し開けておきます。

お礼日時:2014/01/03 20:46

 ひとこと。



 業が屁の河童だからと言って 過去の歴史に対して何もしなくてよいわけではないという一件について。

 靖国神社は:
 1. 宗教としてあるのがいけない。
 2. 皇祖神アマテラスが神勅としてこの国を自分の子孫に統治せよと言ったことが 独り善がりである。
 3. 神勅なら ほかの人間にも通るというのは 考えが狭すぎる。たとえばアイヌには通用しない。
 4. たとえ戦犯であった者でも 死ねば追悼するのは 受け容れられる。という見方を捨てる必要はないように思う。敵であった者でも同じく厚くほうむる。
 5. つまりは 無宗教の施設で敵味方をふくめたすべての戦死者について冥福を祈るかたちである。




 国民を大御宝と見なす問題は 偽悪・偽善という言い方はやめて 上から目線の親分としての愛 と呼びます。要らぬお節介・余計なお世話だという意味です。

 親分が大御宝だと言ったから とうとびうやまうというのでは ただの阿呆です。
 親分が 主権在民とのたまわったから そのように主権が市民らにあるのではありません。天与の生活そのもののとうとさから来ています。

 三角形の内角の和は 180度だというのは 学校の先生が宣言したからそうなのではない。あるいは 神勅でそのように決められたからでもない。天与で自然のあり方なのです。

 それが 八重垣。そこにもうひとえ(一重) 九番目の垣根をつけ足すのは 九重の――親分気取りの余計な――愛です。

この回答への補足

不幸の理由は 見つけなくても訪れる

幸せの理由は 見つけた時に現れる

愛を見つけた時に現れる


消えぬ愛が 一つだけあればいい

人はそれで幸せである


誰かが語る不幸を頷けば

それも愛である

誰かが求める幸せに気付けば

それも愛である


愛することが 愛されるよりも幸せだと知るなら

神様は微笑むだろう

いつも一緒にいる神様が それでいいと

微笑んでくれるにちがいない

補足日時:2014/01/04 12:44
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この回答へのお礼

Bさんありがとう。
Bさんらしい意見だと思う。
すこしは気にいったよ・・。

靖国問題は実際問題として、はぐらかす事のできない問題だ。
大昔ならば、とうに解決できた問題だという気がする。
靖国への神勅という手だてがあったような気がする。
上位の神霊からの神勅という形式をもって、御霊の分祀が可能だったかもしれない。
だが現代では通用しない
現代の状況においても通用しない
英霊に誠ある言葉を一言捧げたいという天皇陛下の御心境はいかばかりであろうか・・
英霊もそれを待っているに違いない
残された解決の道は、国立追悼施設の実現のみである
諸外国に咎められる事のない、鎮魂の場が必要だと思う。
合祀という大失敗を取り返す方法はそれしかないのだと思う。
多くの遺族、多くの国民がそう思っていると思うのだが・・


この事はこれぐらいにしよう。
個人の、不幸と幸せの理由から始まった、この質問は、家族愛や社会愛を考えさせられるところまでいったのだが
その大本を成すことはと言えば・・
やはり
愛すること、と、愛されることだろうか

Bさんもそうした見方は了解してくれると思う(思います)
当たり前の事だからだ(・・だからです)
愛という人間としての当たり前の事を、その行為をどう見るのか・・という事に尽きてくるのでしょう
それを心の深い面から捉えてゆけば、そこには神とも言うべき心が露わになってくる・・
これも自然な事なんでしょうね
一人一人の中にいる神様が、どう顕れてくるのか・・
その確認は、愛の確認でもあると思います。



Bさん・・
最後に、きれいな言葉の一つでも聞かせてくれよ
たまにはスサノオを止めてさ・・
聖書の一節でもいいよ
たのむ・・。

(こっちの締めくくりの言葉を補足欄に書いておくよ)
(ちょっと きれいすぎるんだが・・)
(悪い癖は許してくれ・・)

お礼日時:2014/01/04 12:31

こんなのでどうでしょうか。


これも聖書の言葉です。


~~~~~~~~~~~~~~


9:7 さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。

9:8 どのようなときも純白の衣を着て/頭には香油を絶やすな。

9:9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々/愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの/人生と労苦の報いなのだ。

9:10 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には/仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。


http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/28kohereto …
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この回答へのお礼

うん

いいですね

味がある。

これからの時間と、これまでの時間を見つめている。

聖なる言葉とは、何気ないアドバイスでありながら、深味があります。

聖書のどのページを広げても、そこには得るものがあるのでしょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/04 15:00

 先を越された。

直前の回答。

 内容が じゅうぶんに《八重垣》をうたっているので わたしはもう沈黙。

 つぎのあたらしいやり取りに移ってからにしましょう。
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この回答へのお礼

お お~いBさん
 
ま まってくれよ~

もういっちゃうのか・・

は~

こまった

富士山だけがきれいに見える・・

そうだ!

富士山にしよう

だれが見てもきれいな 富士山にしよう

変わらない きれいな富士山がいい

いつまでも変わらない 大きな富士山

気がつけば いつでも見える



忘れかけた 何気ない永遠の自然

愛とも言わず 語りかけてくる・・自然

人の言葉ではない 自然の愛

ありがとう

人の愛に疲れたら 

いつでも富士山を見よう

いつでも そこにあるから



終わります。
Bさん ありがとう。
お元気で・・。

お礼日時:2014/01/04 14:49

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