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利他的とは「自分を犠牲にして他人の幸福・利益のために尽くすさま」と定義されていますがそのような行為は存在すると思いますか?

わたしは利他的行為は存在しないと思います。一見、利他的に見える行為もそこから何らかの報酬(物質的・精神的報酬)を得ていると考えるからです。それが良いとか悪いとかいうことではなく、人間とはそういうものだと思います。

仮に利他的行為があるとしたらどのようなものが考えられるでしょうか。

A 回答 (19件中1~10件)

利他的行為は宝くじを買うことです。

利他的行為をするのは難しいです。なぜなら行為と結果に利・損・なしのつながりがあんまりないからです。
問の初めで自分が損をしなければならないという制約があります。質問者さんの場合はさらに自分は利を得てはならないという制約がついてます。他人が利を得るなら他人が損をしてもよいと考える人たとえば、虫歯の子供を嫌がっているのに無理やり歯医者に連れていくお父さんとかがいます。他には自分に利があってもよいとか、自分が損をしなくともよいと考える人もいます。
個人同士ではなくて集団でとらえる考えもあります。

行為となんだかよくわからない結果があります。結果を分類します。己と他があって、利と損とどちらでもなしがあります。利他、利己、損他、損己、なしの5種類があり、利他で損己、利他で利己、利己だけとか組み合わせもあるので全部で16種類あります。利と損はほぼほぼ打ち消しあわないです。私がエビでタイを釣ったりすると、エビを失い、タイを得て、タイにエビを与え、タイは命を失いますから、私は損己で利己で利他で損他します。
問の初めの定義では、水色と緑の重なったところの利他で損己と、水色と緑と紫の重なったところの利他で損己で利己と、水色と緑と赤の重なったところの利他で損己で損他と4色重なった中央の利他で損己で損他で利己の4つの範囲が利己的行為ですが、質問者さんの制約がつくと、より狭まって水色と緑の重なったところと水色と緑と赤の重なったところの2つの範囲が利己的行為になります。ヴェン図を添付します。

量に着目した問がありました。Q:善と悪-もくぞーさんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10106390.htmlです。己と他については見ないことにして、善と悪だけを取り出して、各々の全体の総量が同じか、関係なしか、関係ない場合どっちが多いか考察しています。
上の質問の回答のNo.10と11は私です。No.13さんに感謝されてます。当時は利他しないようにがんばっていたのでふん…勝手にすればと思っていたのでまさしく利他的行為でした。今は役に立ってよかったし、いいことができて嬉しいですし、さらにNo.13さんにこのサイトに登録して今までで一番役に立った情報かもしれないとの評価もらうような回答する私やるじゃん!と誇らしいです。うれしくなっちゃったので自分に利がでてしまい利他的行為ではなくなってしまいました。でもそもそも、知識は与えても減らないので自分が損しないため利他的行為が不可能でした。ぐぬぬ。

『『それはそれ』!!『これはこれ』!!』https://twitter.com/furamuni/status/765120565879 …として、行為についての考察で下記の回答が良かったです。自発性のある/ないの分類をするとよさそうです。Q:因果応報説は 共同主観にはならない。-No.22さんhttps://okwave.jp/qa/q7902069/a21946741.html
~~~~~引用はじめ
私が非自発的行為に疑問を覚えるのは次のようなケースです。夜道で花子がある男に「金を出せ」と脅された。貧乏な花子は金を出したくなかったが、金を出すか出さないかの選択に迫られたことになる。逃げるとか戦うもありますがその選択肢二つが頭に浮かんだとしましょう。結果として花子は嫌々ながら金を出したとします。このとき、花子が金を出したのは自発的でしょうか。ある意味ではそうです。花子が自分の財布を手に取り、そこから金を出したのですから。しかし、この事件を「花子は金を脅し取られた」と見なすのもよいと思われます。たしかに花子が財布を取り出したのは行為です。先に挙げた転落死や足をすべらせたのとは違い、彼女が自分で自分の手を動かしたのですから。ただし、嫌々ながら、望まずながらです。意に反した行為を選ばされたのですから、手を動かす動作などが意図的だとしても、それは非自発的行為なわけです。あなたが転落事故を非自発的行為に分類するとき、花子が嫌々ながら金を出した行為は自発的行為だとなりそうです。なぜなら転落や足をすべらせたさい、彼には意図がなかったが、花子が財布から金を手に取ったのは花子の意図的行為だから。しかし、花子がコンビニのレジ横の募金箱に金を入れる自発的行為と、脅迫されて財布を出す行為には明らかに違いがある。それゆえに「意志なく意図しない場合でも」という条件には反対なわけです。財布を手に取るという意図的行為があったとしてもそれは自発的ではない。「金を出せ」という脅迫に端を発して花子は財布を手に取ったのだから、自発的ではない。行為者に意図がありながら、その行為が非自発的行為である場合がある。
引用おわり~~~~
なんだか花子が非自発的利他的行為をしていてむずむずします。そんなわけで冒頭に戻って、宝くじを買うことは、自発的で、自分が当たらないことが多く損をして、たくさんいる他人の1人が当たって利を得るので、利他的行為であるとしました。
「利他的行為は存在するか」の回答画像19
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被災地へ自腹切って赴くボランティア。

偉いなぁ。
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ううむ。



長男の友人が一家でスキーに行きまして、三人兄弟の一番下の八歳児が、木に激突して、治療の甲斐なく、なくなりました。で、ご両親は、まだ脳死の状態の時に、いくつもの臓器を提供しました。うちも、同じ年代の子供がいますから、泣けて仕方がありませんでした。自分の子供だったら、絶対にできないことです。

もっと、身近なところでは。
道端で、バッテリーがあがって、エンジンがかからない車のボンネットをあげて、しばし、茫然としていると、ジャンプ・スタートをしてくれる人が、必ず、車を止めてくれます。で、エンジンがかかると、さわやかな笑顔で、”お大事に~”と言って、消えてゆきます。自己満足というよりも、それが当たり前、と、躾けられているからでしょう。ちょっとした、親切ですが、本当に助かります。

他にも、あるかもしれませんが、今は、思いつきません。
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私もそう思います。


「誰かに尽くす自分」でいたいのも、自分のため。
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自分を犠牲にして他人の幸福・利益のために尽くすさまを利他的と言うならば、そのようなものは存在しません。


何故なら自分を犠牲にすることを、他人は喜ばないどころか悲しむからです。

ではどのような利他は存在するのかと言うと、自利になる利他は存在します。
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利他的行為が存在しなければ 子供も子孫も育たない それが人倫の為であれば利己も利他もないのでは?

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愛も精神的報酬

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No10の奴質問文ちゃんと読んでないな笑



精神的報酬も利己的であると考えた場合の利他的行為はあるかって聞いてるんだがなw
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言いたい事はわかります。



実際にあった事ですが、妊婦が火災でビルから飛び降りなければならない時がありました。地面にはマットもありますので大丈夫です。

しかし妊婦は何故か、逆さになった状態で飛び降りました。その状態で飛び降りると、頭から地面に叩きつけられる危険性がありますので、マットがあるからといって極めて危険な行為です。

理由は、普通の状態で飛び降りると、脚で着地してそのまま尻などで衝撃を緩和する事になりますが、その際おなかの子にダメージを与えて流産するかもしれないので、自分が死ぬリスクがあってもおなかの子を守る行為をしたそうです。



これも、母親の利他行為と言うよりは、その母親にとっては「自分の命よりもおなかの子の命を優先する方が、自分のためになる」と言う意味で、利他ではなく利己だ。

と言う考えをあなたは持っているのでしょう。確かに、あらゆる利他行為は「何らかの報酬(物質的・精神的報酬)を得ている」のは事実です。





あなたの、その気持ちは分ります。
しかしだからといって、「利他はありえない。全て利己だ」と言う考えは、ただ雑なだけです。
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たくさん知ってます。


本当にたくさん!

利他的行為=自己犠牲の精神を持つ人は意外と身近にいるんですよ。

したいからする。

見返りは求めない。

人に喜ばれることが喜び。

幾つか例が挙げてありますが、他にも災害のときに遠くから駆けつけて下さる方たちもおられます。

動機を疑わずに素直に感謝を表したいと思います。
そうすることで、また自己犠牲の精神を育てることができていくのだと思います。
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Qどうして、人間は殺人や暴力を嫌がるのでしょうか?

小児性愛者やオタクが子供や女性に対して、差別感情と捻じ曲がった性衝動から多くの犯罪、あるいは犯罪を肯定する言動や表現を行っているのは、周知の事実です。彼らの言動や行動に影響を受けて、多くの犯罪が生み出されているにも関わらず、大半の人がオタクに対して言葉を用いた批判、それも攻撃的な言説を避けたものばかりに終始しています。

何故なのでしょう?

多くのオタクが犯罪を行い、また自分たちの犯罪、加害行動を社会が容認するように活動している事実を知りながら、攻撃的な言説を避けたり、実際の暴力を使わない、というのは、彼らの活動を容認しているのと同じなのではないでしょうか?

自慢ではないのですが、学生時代はオタクの同級生や下級生がいれば、級友たちに頼み、男女の差別せず追い込み、学校から排除しました。彼らの中には今でも社会から排除されている者もいます。
また、現在も職場で新人がオタク趣味であれば、他よりも厳しく指導したり、根も葉もない事を吹聴し評価を下げさせたりして、精神や体調を崩させ、学生時代と同様に社会から排除するよう努力している次第です。

しかし、私の崇高な行動を批判する人がいます。子供が被害者となる事件に憤る人でさえも、私の行動を快く思ってくれないです。

小児性愛者やオタクが子供や女性に対して、差別感情と捻じ曲がった性衝動から多くの犯罪、あるいは犯罪を肯定する言動や表現を行っているのは、周知の事実です。彼らの言動や行動に影響を受けて、多くの犯罪が生み出されているにも関わらず、大半の人がオタクに対して言葉を用いた批判、それも攻撃的な言説を避けたものばかりに終始しています。

何故なのでしょう?

多くのオタクが犯罪を行い、また自分たちの犯罪、加害行動を社会が容認するように活動している事実を知りながら、攻撃的な言説を避けたり、...続きを読む

Aベストアンサー

#19です。

>違うでしょう。
生理的嫌悪感を感じる矮小で不衛生な存在と社会を運営するために必要な手段では。

このコメントが、まさに違わないことを証明していますよ。
『生理的嫌悪感を感じる』から、つまり、あなたの感性に合わないから『矮小で不衛生な存在』だとおっしゃっているわけです。(そういう意味の構文ですので否定はできません)

「むきだしになった首筋が、必要以上に性的興奮を助長するから」という感性で、女子高生のポニーテールを禁止した校長先生。
「ユダヤ人は劣等民族である」という感性で、彼らを迫害、追放、ついには虐殺へと突き進んだヒトラー。
彼らとなんら変わらない。

『生理的嫌悪感を感じる』というのは、あくまで個人の感覚の問題であり、独裁者でもないかぎり、それが他者を排斥可能な論理として成立することはない、ということに気づいてください。
僕が嫌だと言ったら嫌なんだよ~~~。
僕は間違ってないよ~。
ってダダを捏ねるのは自由ですけどね。
大人なら、論理(筋)を通さないと。

Q"アホはほっとけ"は正しいか

どうなんでしょう。

Aベストアンサー

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かった気になり、自己満足を優先させる。万能じゃない部分でしょう。

どこまでも、目の前のアホのような奴は、自分とは異なる存在の「他者」であると覚れば、ある程度ほっとけるのではないですか。

相手はいずれ成るように成るもので、何を掴むか、受け取らないかは己がやらなきゃ自分の意味にならない。
他人がどうこうする領域じゃないと知っていれば。

お互いに具体的な言葉にするほど自他の異なりが露わになるでしょう。
同じようで違う、違うようで同じ、というのを確認します。
そうした体験すれば作用にも気づきます。
自分の方法は増えるのですが、人間は頭では体験を超えられません。
冷静に相手の立場に立って出来るものなど取るに足らない小ささに思います。
大人?日本人?は関係を怖れている?みたいに見えます。


ある人に悩みを言ってもらい、何人かで聴きます。
それを後で皆で検討してみると、問題点、課題はほぼ同じ意見ですが、その人をどう思うか、感想を具体的にすると其々です。
相手ではなく、自分というものがそこに出てきます。

相手の立場に立つとは、
人間というものや個人を理解した上でやれる力量かもしれないですね。

余談ですがカウンセリングや相談をインターネットの文字の世界でやれると考える人と反対する人がいるんです。
文字では情報が不十分ですからね。

言い合いをしたり、食い違っても、そういう二人が向き合った体験は後に信頼の間柄になれるものでもあるという実感はありますが、使いわけていますね。

言い合いは悪い結果になると思い込んで、ほっとく、避ける一般の人が多いかもしれないです。

ほっとくの意味一つ取っても、自他は違うんですよね。

相手の立場に立ったつもりで言い、その人をよく知らない第三者からすると正論のようですが、肝心のアホにとってありがた迷惑であったりします。

気遣いができるアホは、無理解な正論にお礼を言うかもしれません。
でも、ほっとけない人が、アホを理解しているとは限りません。
ボランティアと同じです。
自分がしたくてするのか、相手の為なのか、自意識の深めがどの程度かです。


人間というものは、相手の立場に立ったつもりが立てていない時、相手はこころを開かない。

すれ違いながらもお互い辻褄を合わせ、共有した時間に意味を感じることで穴を埋め、その代償行為に気づかず、意味を後付けする生き物です。
その時を穏便に済ませるのですが、そういうときは、後から自分に違和感が出るものなのです。

相手の立場に立つ、は一般的に正しい行為みたいです。

その人の立場って何?
ほっとけない行為が相手を理解しているか?
アホに限らず、
他者である存在に、自分が一人よがりでなかったか?とか、伝わらなさに虚しさを感じるときがあるから、このような問いが生まれるのかなと思ったのですが。
ほっとくにしろ、ほっとけないにしろ、往々にして自分の欲望が勝った、後付けや正当化だとも思うんです。
でもやった後で言うのと、やらないで言うだけでは全然価値が違います。


人間のさだめのようなもので、分かっ...続きを読む

Q認識と意識に付いて。

認識と意識は同じ意味となりますか。

私の考えでは、
認識という心の働きはすべての生物に備わる能力。
下等生物では、物の存在をキャッチする働き。たぶん五感という事になりますかね。
高等動物では、五感に何か加わりますでしょうか。
さしあたり、結論としては五感の作用を認識と云う、と。

そして意識という心の働きは、人間にのみ備わる能力。
〔・・・・・・・・・・・〕
〔・・・・・・・・・・・〕
と、〔 〕内にはいろいろと補助的な一文、を入れられるかも知れません。

ご意見いただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

認識は、認知(cognition)と再認(recognition)を合わせたほどの意味でしょうか。
知覚は感覚情報の検出や処理に関わっていますが、認知や再認は、感覚情報から意味を引き出すのです。
こういう作業を指して、知覚刺激を弁別する、と言います。
そこには、知識の獲得、符号化、検索、再生、マッチングなどの情報処理の過程があり、また、色や顔などに対する特化したモジュールが確認されています。
人間の場合、イメージ情報と言語情報の異なるシステムが相互連絡して、1つの体制を為していると考えられています。

意識(consciousness)は、精神的経験について内観の報告を自分自身が持つことです。人は、遂行されている低次の認知過程を、はっきりと確かめることはできませんが、行動のプランニングやコントロールに関わる情報に関しては意識できることがわかっています。これは、部分的にせよ、自分の認知を認知する、というメタ認知の仕事なのです。

また、人は外界を内的なモデルとしていわばシミュレーション的に構築しており、そこから推論や置換を駆使して汎化しているのではないかと考えられており、現実と言葉(ディスクール)とが照応できるのはそのモデルの埋め込みのためであろうというのが有力な説ですが、意識を支える内観についても、こうした、世界についてののメンタルモデルからの再帰的な埋め込みが欠かせないだろうと考えることができます。

認識は、認知(cognition)と再認(recognition)を合わせたほどの意味でしょうか。
知覚は感覚情報の検出や処理に関わっていますが、認知や再認は、感覚情報から意味を引き出すのです。
こういう作業を指して、知覚刺激を弁別する、と言います。
そこには、知識の獲得、符号化、検索、再生、マッチングなどの情報処理の過程があり、また、色や顔などに対する特化したモジュールが確認されています。
人間の場合、イメージ情報と言語情報の異なるシステムが相互連絡して、1つの体制を為していると考えられていま...続きを読む

Q科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。一方、哲学にはそれに相当するものは何でし

科学には、万人(ほとんどの)が認める「法則」が輝いています。
一方、哲学にはそれに相当するものは何でしょうか?
(主張?かな)

Aベストアンサー

科学は物理、医学も物理、ですよね?
心理学は少し物理があるのかな?

哲学の分野は心の世界でしょ?
だったら釈尊が心の「法則」を発見していますね。

四諦・八正道です。

心の「法則」で、これを超える或いは覆へす“発見”は未だ無いようですね。
証明は釈尊御自身です。

我々はこの「法則」に接すると、成る程と合点するのです。
そして良き人々は、それじゃあ私も頑張ろう、となるのです。

Q“認識”は“認識形式”により行われる、の、“認識形式”とは?

その“認識正式”は人それぞれ、七十億人の人の“形式”があると云う事!

或る質問への回答を見て、このようなことを思いつきました。

ご意見、いただきたく思います。

宜しく!

Aベストアンサー

№11をおぎないます。

対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として考えてみよう。

(あ) まづ《感性 と 〈空間〉および〈時間〉という知覚(認識)形式》

(い) 意外と余裕のある姿に見えた。

(う) 《姿》は テレビ画面では二次元だが 空間は一般に三次元だと知ってい
る。つまり そのような空間という形式をとおして その姿は われわれと同じ人
間だと知る。

(え) 《意外と》というのは 遠くない過去に《急に卒倒した》という事件があ
ったからです。つまりこれは 《時間》という認識の形式をとおして知ることだ。

(お) このような空間と時間とは 誰にとっても同じ認識の形式として作用して
いる。




(か) カテゴリー表の《③ 関係》の内の《因果性》なる形式を当てはめてみるな
ら 卒倒事件の前には 弟子の暴行被害事件がありその告訴があり またその取り
下げといった一連の経過があった。

(き) 一般に時間というのは 過去は現在の記憶にあり 未来は現在の期待(予
想)にあり そして現在は現在の直観としてあると言われるので もし現在におい
て余裕を持っているとしたら 過去からの因果の関係はこれを超えて来ているとも
見られる。
――といった認識を得る。

(く) 認識内容がつねに普遍性を持つというのでなくても 普遍性を持ち得るよ
ように《③ 関係 その因果性》なる形式が はたらいている。



(け) このこと――カテゴリー表の一例――は すでに《判断》にもかかわって
いる。貴乃花の現在の状態を 推測によってでありながら 判断している。

(こ) つまり 《判断表》のやはり《③ 判断の関係 / 仮言判断 「AはBであれ
ば、CはDである」》と相応している。すなわち 《現在の姿として余裕があるよう
なら 過去の・世の中を大きく騒がせた事件の影響は あまり見えないようである》。

(さ) この一例の認識や判断がそのまま《ただしい》というのではなく そうで
はなく 知覚と認識とのそれぞれ形式は 認識の偏頗なあり方をまぬかれさせ普遍
性を保障するようなハタラキをしている。






☆ さて 全体として見て どうであろう? 何が言えるか?

(し) 《物自体》は 要らないのではないか? 人間の知覚や認識の能力が つ
ねにただしいということは――相対性の世界に生きているからには――あり得ない。
・・・と言えば済むことではないか?

(す) 知覚や認識の形式は 認識の普遍性をあたかも担保しており 有効なハタ
ラキを持つと見られる。見られるのだが それは 《形式》が保証しているという
よりは 実際には 認識の内容について いわゆる自同律や因果律に則っているな
ら 妥当性を持つということでしかない。のではないか?


(せ) 物自体と仮象としての認識(特にその形式)とに分けて 認識行為を分析
する意義は どこにあるか?

(そ) 感性の形式としての《時空間》や 認識および判断の形式としての《関係
性かつその内の因果性》は けっきょく大きく広く《認識という行為》をするにあ
たってそれぞれ認識の対象でもある。に過ぎぬ。

(た) 過去とそれをつなぐ因果性というのは そもそも貴乃花という人物を認識
するにあたって その認識の――必ずしも形式としてではなく――ふつうに対象と
して現われて来るものなのだ。

(ち) あらかじめ《形式》として取り出しておいてもよいが けっきょくつねに
対象と一体となっている。はずなのだ。

(つ) 《時空間》という形式ないし枠組みあるいは物指しをあらかじめ用意して
おいて これを道具として認識を始める・・・のであろうか? 

(て) その場やその情況としての時空間は 人物を見て把握しようとするときに 
すべてが一体であり したがって対象の全体となって われわれ認識の主体に飛び
込んで来る・・・のではないだろうか?

(と) 額の皺は 歳を取るという時間性と 対象の全体を構成する・・・と見た
ほうが 自然でふつうであるように思う。

№11をおぎないます。

対象はそれを認識するとき 《物自体》と《ともかく認識した内容》とに分かれる。
これらは:
☆☆(№11) 6-1.☆ おそらく《認識し得ない本体》と《その仮象〔とし
て認識し得たその内容〕》とに分けて捉えられるであろうか。

この《仮象》のようなものでも その認識は 普遍性を持ち得るということを そ
の認識内容がつねに共通の《形式》を帯びているということに カントは 捉えた。



たとえば 貴乃花の年寄り引退についての記者会見を見た。これを認識の《対象》
として...続きを読む

Q素朴な質問シリーズなんですが お知恵を貸して貰えると助かります 続、善悪の定義 (  ̄▽ ̄)ニャリ

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが


集団の教えから離れ
個人的な善悪の判断を迫られた時に
どうやって定義付するのでしょうか?

( ̄~ ̄;)個人的には、どうあっても
善であると、思い込んで生きているが
その、大前提に疑問を抱いた時に

もしも、この世の中に善悪なんて存在しないかも?
でも、自分自身は善であるはずなんだが・・・

そんな状況はまずおこらないでしょうが
おきたとしたら

他人と比較して、他人を悪にしてしまう
悪を造り上げてしまうのかな?
あれは、間違えてるから、悪であって
自分自身は間違えてないから、善である
と、なるのかな?

今ここに居るわたしは、善か悪か解らないが、それで良いじゃないか
と、定義付を辞めるのかな?


誰しも、自分自身が善でありたいとは思われますが

はたして・・・

ほんまに突拍子もない
素朴な疑問なんですが、お時間のあるかた
貴重な回答をお待ちしてますm(._.)m

素朴な質問シリーズなんですが
お知恵を貸して貰えると助かります
続、善悪の定義
(  ̄▽ ̄)ニャリ
誰でも、自分自身は善であると
信じて生きていますが

本当に自分自身が善であるって
どうやって定義してるのでしょうか?

突拍子もない質問なんですけどね(笑)

善悪とは、集団から教えられるとおもいますが
まず最初に、両親なり家族、
それが、1番小さな集団であって

そこから、村なり町の集団があって
解りやすく言うと、学校なり近所ですね

それより大きくなると、
宗教なり倫理や道徳なんてなってきますが

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Aベストアンサー

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 " も
同じに なるであろう

行動で 云えば 宮﨑駿 の
『もののけ姫』が 語っている
他方から みれば 善 であり
また 他方からは 悪 に なる
それは
一方からは " 生きる為に必要な もの" であり
もう 一方では " 生きる為に取り除きたい もの " なのである
利便 快適 を 相対するもの からみれば 搾取であり
また 同時に 糧である(対する位置に 居るものに取れば)

パンドラの匣に 残った
総ての悪 災 禍 が 去った後に残った 希望
そのひとつは
忘れ去る能力なのだ と思う

ただ 総ての 欲を 葬り去れば
無 に しかならない
待つのは 死 (無)である


と こんな事 考えてみました

浅かったら ごめんね

地球に ついていえば
" 世の便利 " は 総て ヒト に
とって…であり 他の イキモノ には "利 " ではない

神が 自分に似せて 人型を造った時点で もう 神と同じ
他の生き物に君臨する
" 荒ぶる神の ようなモノ "
を 落としてしまったのである

バベルの塔 事件で 原語が違ってきて また 理解の能力の
優劣も 出来てきた
捉えように より 善 悪 が
各々ちがってきた
もし 言葉なるもの(知恵の実)が 無く 想いを 脳から 脳へ 伝える事 反映 できれば
争いの 元となる モノも
無くなるし
国々で 異う "神 ...続きを読む

QHaruさんの存在主義の欠点は何ですか

客観的情報が欲しいのでHaruさん以外の人に回答して欲しいです。

Aベストアンサー

Haruさんとは誰?

Q哲学って簡単に言うとなんですか?

哲学って簡単に言うとなんですか?

Aベストアンサー

人間とは何か、人間が考えるとは何か、という学問です。
例えば、アリの生態や行動を解析して、アリは何を考えて生きているのか、
をまとめれば、「アリの哲学」として出版できます。
犬や猫のほうが大衆受けするかもしれません。

Q考えた事がある人なら分かると思うのですが 存在主義 おかしいでしょうか?

私たちは存在する為に生きていますよねえ。存在する為に仕事をし 存在する為に息をして

存在する為に食べて 存在する為に人間関係を持ち 存在する為に法律に従い

存在するための様々な性質を持ち。存在する為に過去38億年生命のバトンを渡して来て

数百万年人のタスキをつないできたのではないでしょうか。

今ここに我々が生きて存在していることは運命であり奇跡です。

宇宙は崩壊しようとしていますが人間は進化しようとしています。

果たして宇宙の行方は?人間の行方は? サイクリック宇宙?

存在することが目的で 存在することが価値で 存在することに意義が有り意味もある

正義は人類みんなが存在し事件を守られること

愛は互が互の存在を活かし合うことだと思います。おかしいでしょうか?

Aベストアンサー

おかしいと言うか、言わんとしている本質がわからないです。
今までの質問でわかった、「存在主義」の内容は以下のとおりです。
1.「存在主義」の存在は、精神をもった存在である。(精神をもった存在とは、人間を意味するようである)
2.動物など、人間以外の生物や、物体は、精神を持った存在では無いようである。
3.上記より、寝たきり老人や植物人間などは、精神の存在が確認できないので、「存在主義」の存在では無いようである。
4.AIなど、高度な精神機能を持つ物と見なせば、「存在主義」の存在である。
5.「存在主義」の存在は、存在する事が目的で、「永遠(存在)」を目指す。

一応、1~5は、論理的に閉じています。
1、2より、存在は、精神を持った人間だけなので、動物や植物を殺したり、収穫して食べるのは、存在が永遠を目指すので、当たり前となります。
3より、寝たきり老人は、存在の目指す永遠に障害になるなら、尊厳死を与えるらしい。(数回、質問していますが、同じ回答です)
4、5より、AIが優れているなら、AIが存在として永遠を目指す事も有りえるらしい。
根拠はわからないですが、宇宙が熱死(これは、宇宙が膨張を続けている限り、起こるかどうかはわからないです)しても、存在は永遠を目指して、他の宇宙にいくらしい。

主張としては、存在(人間存在)は、存在間では、存在をおびやかしてはいけない。(戦争などは、してはいけない)
これを成り立たせる為に、2で精神存在だけを存在としているわけですよね?(人間以外の生物や物体を存在にしてしまうと、存在が存在を食べるので、理屈がとおりません)
「存在主義」と呼んでいますが、キリスト教などの、人間至上主義と同じでは無いですか?(キリスト教の場合、「神」から、人間がその権利を受けたと解釈しています)

わからないのは、何故、精神存在だけが、「存在」なのかの根拠です。(存在しているのは、生物や物体など、いくらでもあるのでは無いですか?)
精神が無いと、行動に制約がかからないと言うのを理由にするのならば、動物などの生物だって腹が空いたり、危害を加えられなければ、余分な行動はしないでしょう?
物体にいたっては、何も出来ないでしょう?
極端に言えば、人だって、限られた資源しか無いならば、利害が衝突します。
その場合は、どうするんですか?(寝たきり老人や植物人間は、「存在主義」では存在では無いから、良いのかもしれませんが、それ以外はどうするんですか?)

おかしいと言うか、言わんとしている本質がわからないです。
今までの質問でわかった、「存在主義」の内容は以下のとおりです。
1.「存在主義」の存在は、精神をもった存在である。(精神をもった存在とは、人間を意味するようである)
2.動物など、人間以外の生物や、物体は、精神を持った存在では無いようである。
3.上記より、寝たきり老人や植物人間などは、精神の存在が確認できないので、「存在主義」の存在では無いようである。
4.AIなど、高度な精神機能を持つ物と見なせば、「存在主義」の存在で...続きを読む

Q無から有が生まれるのか、生まれないのか?(生命の起源)

永遠のテーマといいますか、忘れ去られつつあるテーマと言ってよいかと思いますが、
これを何故問うかといいますと、知りたいからであり、それは仮に私がこれを知った時
には人生において何の変化もないとは思わず、この根本的問題をベースにしてあらゆる
ものを一歩深く知り感じ、とても豊かな知的生活がひょっとしたらできるのではないか
と期待するからであります。

科学的にはおそらくこれを確かめるすべはないと思いますが、どのように迫っているのか?
また、哲学ではどうなのか?それ以外ではどうなのか?

1.科学的見解をお願いします。

2.哲学的見解をお願いします

3.非科学的見解をお願いします。

4.個人的見解をお願いします。

Aベストアンサー

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということになるのでしょう。

でた、中。空の面でも同じことが起きているのではないか、となるとそれは考えられ得るでしょう。で、”中”の抽象化における働きですが、これが、先ほど疑問を持っていただいた”飛躍”の話ともつながって来るようです。

私どもは概念によって思考する訳ですが、今話題にしてるのは概念よりもずっと広大な世界についてです。概念はどうやってそんなことができるのかという事を説明するのが”飛躍”です。概念の本質に”中”があるというのは前に少し話題に上りました。私が思ったのは、あらゆる世界の階層の境界に、”中”が存在していて、一度この”中”を知ると、どの境界にも一瞬に思考を飛躍させることができるのではないか?という事です。概念を極めてその本質である”中”を知った時に、同時に”中”を介して他の世界、例えば生命とか、時間とか、混沌とか、あるいは一なる存在とか、言葉について知ることができる、と。

>「無限の非存在」「存在でも非存在でもないもの」「あらゆる可能性」…
存在に非ざるもの、存在・非存在に非ざるもの、あらゆる可能性、観念でない理解をしよう
と努力しましたが、どうも発想が出ないですね。

いや、これは発想が出なくていいんです。もし混沌について具体的な何かが発想できたならその人はどこかぶっ飛んでることになります。

>キサラギさんとしては「あらゆるもの、すべてのもの、全きもの」というものを想定してい
る、ということに意味があるという風に私は理解していますので、まずはこれでよいかなと。

あらゆるもの=混沌ですが、すべてのもの、全きものというのは、一なる存在のことです。
にゃんぽこさんのおっしゃる空に、ある意味で混沌は似ています。その内実は知りようがないという点が、似ているのです。

さて、抽象化に話は戻りますが、抽象化とは純化の一種ではないかとも思えます。そのものがそのものであることの根拠を満たしている、そのようにすることが抽象化ではないのかと。易しい言葉で言えば、形(すがた)を与えるということです。だからこれは、”中”の働きという事になってくるのではないか。

>とすると、人間も動植物も、地球も、太陽も、星雲も、同様の「抽象化」ということにな
るだろうと。

そうです。他の人から見ればこいつらに何言ってんだ?となるような発言ですが、今話題にしてるのはそういう事です。抽象化ってなんやねんと。

>そもそもこの「抽象化」という行為は、人間の脳の中で行なわれているように思えますが、
仏教の考え方では脳という「仮」の面で行なわれているということは、「空」の面でも同じ
ことが行なわれているということになると思います。
その原動力は「中」ということ...続きを読む


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