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愛されて生きることは幸せである
愛されていると知ることは幸せである

されど・・
愛されたくても 愛されぬことは不幸である
愛されているのに その愛を知らないでいるのも不幸である
愛されているのに それ以上の愛を求めるのも不幸である

人は この不幸の理由に耐えなければならない
不幸の理由は続くからである
愛されて生きるという幸せの理由と共に続くからである

不幸の理由は幸せの理由の裏返しである
不幸の理由が消えたときだけ 幸せの理由が現れる
不幸の理由が消えたときだけ 人は幸せになれる

幸せでいようとするならば 不幸を覚悟しなければならないのだろうか
不幸を受け入れるという幸せが 続く幸せなのだろうか

(愛される理由も知らぬまま 人は愛され )
(愛する理由もなく 人は愛する )

理由とは後付けである
理由が分かったからといって 人は幸せにはなれない
不幸の理由が分かったからといっても 人は幸せにはなれない
幸せにはなれないが
不幸の理由に耐えただけ 人は本当に愛することができる

どうでしょう?
これでいいんでしょうか・・?

A 回答 (24件中1~10件)

>これでいいんでしょうか・・?



まあ、よくないでしょうね。

>愛されていると知ることは幸せである

相手を受け入れることが困難なら、不幸でしょう。

>愛されているのに その愛を知らないでいるのも不幸である

知らないんだから、不幸になりようがない。

>愛されているのに それ以上の愛を求めるのも不幸である

愛を求めることが即ち不幸なわけではない。

>人は この不幸の理由に耐えなければならない
>不幸の理由は続くからである

不幸に耐えるのであって、理由に耐える理由はない。
もしくは、実力行使で原因を取り除けばよい。

>不幸の理由は幸せの理由の裏返しである

論理の裏返しが正しい訳ではない。

>不幸の理由が消えたときだけ 幸せの理由が現れる

不幸の理由が続くと言っているのだから、論者は永遠に幸せにはなれない。

>不幸の理由が消えたときだけ 人は幸せになれる

幸せの理由も続くと言っているのだから、論者は永遠に不幸にはなれない。
つまり、前提が明らかに間違っている。

>幸せでいようとするならば 不幸を覚悟しなければならないのだろうか
>不幸を受け入れるという幸せが 続く幸せなのだろうか

論理が間違っていることに気づいたのなら、前言を撤回すべきでしょう。

>理由が分かったからといって 人は幸せにはなれない
>不幸の理由が分かったからといっても 人は幸せにはなれない

不幸の理由を実力行使で排除すればよいのでは?
幸せの理由が分かるのであれば、継続する努力をしなさい。

>幸せにはなれないが
>不幸の理由に耐えただけ 人は本当に愛することができる

元々の論理が間違っていれば、結論もでたらめにならざるを得ない。

こんな回答でどうでしょうか?
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この回答へのお礼

いいですね・・

感激

の 涙・・

ちったあ 褒めてくれよ・・。

(お~い )

お礼日時:2013/12/24 21:43

もしかしたら



不幸の理由に耐えた(または乗り越えた)人達は、愛する(愛される)ことが出来るのではないのかなぁとも思いました・・。
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この回答へのお礼

まあ

自己分析という感じだったんですが

悪い癖で・・

どうしても最後は きれいに締めくくりたいという思いがありまして

こ-ゆうのを自己陶酔というんでしょうね(しかられるかな・・)

でもま っ

愛に関する 不幸の理由ってのは 誰にもあるんじゃないかと思いますね

べんけいさんの話から思いついた、悪人になってしまった理由がそこにあるんじゃないかと

愛に飢えた姿が、どうもチラついて見えるような気がします


>不幸の理由に耐えた(または乗り越えた)人達は、愛する(愛される)ことが出来るのではないのかなぁとも思いました・・。

私もそんな感じがしますね・・。

青春の反抗期を思いだす・・

ジェームスディーンもあったか・・

お礼日時:2013/12/24 22:03

今が不幸なら、永久に不幸



天秤の問題
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この回答へのお礼

わっ 厳しい

私に ぴったりだ・・

困った

どうしよう・・。

お礼日時:2013/12/24 22:05

詩としてなら、別に悪くはないと思います。


どうでもいいといえば失礼ですが
詩 は手前勝手なものですから、
論理性は皆無でも存在理由はあります。

哲学としてはいいとはいえませんね。
それなりのつじつまがあわねばなりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>詩としてなら、別に悪くはないと思います。

やっと お褒めの言葉をいただいた。

よかった

うれしい。



>それなりのつじつまがあわねばなりません。

実例を書いてもいいんだけど・・

結果だけだと・・

そーゆう若者と たまに再会して

お~い 元気か 何やってる・・

っていう挨拶だけはする

ちょっと笑いながら

憎めないですね

さんざん叱ったんですが・・

お礼日時:2013/12/24 22:15

言語の前提として、


幸福や不幸とは、

「誰かが誰かを見て、述べる感想」

ですので、これを主観として体感する事は不可能です。

日常の中で、
お腹が一杯になったときとか、
仕事が上手く言ったときとか、

大変気分が良いときに、
少し大袈裟に「幸せだ」と一人思うのもであって、

これでさえ、

「この気分がもしや?
 ドラマや本の中に出てくる”幸福”と言う奴なのかもしれない。
 まあ、あれは漫画だし、面白い事を考える人もいるものだが・・・」

とするのが正しく、実際に存在するものではありませんよ。
五感で認識できる感覚と、脳の疲れや認知力の低下により溜まるストレス
によって、

「速く寝ろ」

と言うシグナルが出て休息を必要としている状態があります。
ところが余り無理をすると、スムースに睡眠に移行できず、脳が休めない
変な癖が付きます。

このときは判断力が鈍っており、日常にある何かが原因で気分の良し悪しが
変化したと勘違いをしています。

実際は、
これから訪れるかもしれない、
明るい未来、暗い未来などを予感し、
これらを具体化するための決定権が自分に無く、
ストレスが溜まっているときと、
これらが解消されて楽になったときがあり、

其々に対して、
頭が疲れているのに眠れない苦しさ。つまり不安感。
やっと頭を休めて寝れるかもしれないという期待。つまり安心感。

があるだけです。
この原因を引き起こすものが、人間関係でも、災害でも、貧困でも、恋愛でも
同様ですから、これらに対して文学的な表現として幸福や不幸を述べたのでしょう。

本来は、飢える不安と、満腹して眠れると言う安心感をさし、
それが故に幸という言葉があてられています。

元の意味ですら、愛とは全く関係ありません。

愛が幸福と結び付けられて、大衆の中で関連があるように述べられる様になったのは、
女性向けの恋愛創作が商業的に作られるようになった以降です。

それまでは特殊な文学の世界か、精神構造を分析するための用語として使われたのであり、
私達が日常で理解している”愛”とは全く別の観念にあてられておりました。

昔の女性は、食べていく=幸=男性の庇護を指し、
如何にして男性のハートを射止め、生活の基盤を安定させるかに興味があり、
しかし、階級制度が定着している社会では、身分を越えて家庭を築く事が難しかった。

それが故に、愛と言う力が社会構造を破壊するほど強く、女性を庇護するようなもので
あったら良いのに! と言うコンセプトの創作が売れたんです。

今で言うと、数千年生きる古き血を引く吸血の美少女が眷属たちを連れ、学校で暴れまわる
ようなタイプの人気ストーリーですね。

現代では中二病と言われますが、少し前は少女趣味と言われていたものです。
現代では伝説の力と友情がテーマでしたが、
少し前は愛と幸福がテーマでよく作品が描かれていたんですよ。

これを好きだった人もやがて大人なり、子供がいても楽しんで見ていたわけで、
それを嘘だと知っていた世代から、これを大人が見ているんだから本当なんだろう
と誤解した世代に引き継がれ、

この人たちが更に作品を作ったり、子供を教育するので、
すっかりと本当に存在するように錯覚されたというのが経緯じゃないでしょうか。

五感以外の観念で精神的なストレスが溜まり、
認知力が低下する場合は、
引き起こした原因や対象の解決ではなく、

健康を取り戻して、脳を休息させるようにするのが一番です。

これを昔は頭を冷やすと言っておりました。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ん ん まっ・・ありがとう


>「誰かが誰かを見て、述べる感想」

どこかにあったな
そ-ゆうの・・

「不幸を不幸と思わぬ不幸」

なんていうのも そうだろう。

反対に

「幸福という名の不幸」

というのもあった。

いったい 幸せも不幸も誰が決めるのだろう・・

人は愛されぬ時、愛するものがあれば耐えられるのだろうか

また、いかに満ち足りていようとも、愛なくば空しい、のかもしれない

幸福と不幸に定義はない
かりにあったとしても、誰も決められない・・
主観の幸福と、客観の幸福は違うもの
主観の不幸と、客観の不幸も・・


山の彼方の空とおく 幸い住むと人のいう・・


寝ましょう

今日は

はやく

お正月も近い

掃除も洗濯もしなくちゃならない

あ~ おれは

おれは

どっちなんだろう・・

お礼日時:2013/12/25 21:03

A様、こんばんは。




>「人は本当に愛することができる」

これはまた、そう簡単ではない問題であると思います。
「自分の幸福しか、人に分けてやれない」とか。


「・・・愛することができる」

・・・単に「いいなあ」と羨む、のが「愛」ならば、そうでしょうか?


分け(てあげ?)たところで、「それは、違うよ」ということも、ありそうです。



!・・・「大事にする、大事にされる」。それでいいや
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この回答へのお礼

>「大事にする、大事にされる」。それでいいや

お分かりに なっていらっしゃる・・

表現は平凡でも、的を得ていますね。

愛する 愛される って基準がないんですね

主観って基準がないものだと思います。

まあ 愛に対する(ちょっといい加減な)感想なんですが・・

「愛してる」っていう言葉には、半分、嘘があると思ってます

愛の半分が優しさで、そのまた半分が親切で
その親切を半分にすると・・ただ何となくという
そ-ゆう、いい加減なものかもしれない
そんなふうにも考えられるわけです。

結局、難しく考えてもしょうがない
愛してる、のだから
そのまま認めて
>それでいいや
となるんでしょう。

「愛する理由もなく 人は愛する」

でしょうね・・

やっぱり・・。

お礼日時:2013/12/26 22:20

 “人は本当に愛することができる”とは“本当の愛”のことですよね。



 個の愛と絶対の愛とを混同していることが一般ですが、aboutさんも混同してませんか。
 aboutさんはこの“個”と“絶対”のあいだを行き来しての質問になっていることに気づいていますか? 

 我々“個”は“絶対”と繋がっています。例えれば親子関係のようなもの。
 だから、混同が起きます。

 言い換えると刹那的幸せと、永遠?の幸せを混同しているように思います。

 個の幸せは刹那的ですよね。それゆえに“疑問”が起きるのでしょう。
 永遠の幸せを求める心がどこかにあるから。

 そして“理由”は“個”であることを気づかせるための踏み台。

この回答への補足

YY8さん、お礼忘れてました。
すいません。
ありがとうございました。

補足日時:2013/12/28 11:36
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この回答へのお礼

出てきましたね・・

>絶対の愛

あ~
「絶対」 といわれると何でしょうか・・

「神の愛」でしょうかね

与えっぱなし というもの

何も求めず、ただ与えるだけ愛

無償の愛、至上の愛、永遠の愛・・


ちよっと脱線して・・
まあ 
実際の話なんですが
私の知り合いに天理教の布教師みたいな?人がいまして
その人と話をしていると
とにかく、ものすごく純粋な感じを受けます
毎年年末になるとやって来て、残りもののカレンダーをもってゆきます
何にするかというと、老人ホームにいるお年寄りに差し上げるのだそうです
これが大変喜ばれて、自分も嬉しい・・という事を言っていました
私も、それなら遠慮なくもっていってくれ、という事でずっとやっています
まあ
そうした事に限らず、話をしていて感じるのは
とにかく無償の行いの連続で・・
私なんかと違って、泥臭さが無い
神を信じていると、こうなるのだろうか?
そんな印象を受けてしまいます。
ざっくばらんに言えば・・きれいすぎる

その人を何十年も前から知っていますが
変わらない
そんな感じです
きれいな不動の姿勢が変わらない

私は、一種の恐ろしさみたいなものを感じた事もあります
別な天理教の信者の方も知っていますが
その人は、言い切ってしまうんですね
教義の内容を信じる事に迷いがない・・そんな感じで話しをします
まあ
まあ
信じるという事は・・すごい事です




「無償の愛」

愛することには、愛されようとする心が働くと思います
愛されようとしながらも、それ以上に愛するのが
人の・・無償の愛 のような気がします
まったく見返りを求めない愛に比べて、それは汚れているかもしれない
けれども、それは人として恥ずべき愛ではないと思います
愛されるよりも愛する、という選択のできる事が人間らしい

「愛に疲れて・・」
という、その選択の連続さえあるという
疲れても、なお、愛するという人の愛
永遠の愛からは程遠い、現実の愛の姿
あ~
ためいき・・


>個の愛と絶対の愛

選択のない愛、絶対の愛
楽でしょう
そこまで行けば・・
迷いがない
でもそれは
きれいすぎる

迷いつつも、人が人を信じて愛するっていうか
そんなところに惹かれちゃうんですね・・
これでいい・・という愛はないけれど
これしかできない・・という愛は素晴らしい
そんなふうに思います。

お礼日時:2013/12/27 23:26

「愛されたくても 愛されぬことは不幸」というのは、


独占欲を伴う性欲や自己顕示欲(自我の成立に
他人の評価に依存する)である。
最もの不幸は、愛されない事ではなく、愛するもの
もない事だ。

自己存在の成立の必要(社会生命的自覚~自我
仮説の相補としての時空仮説)としての他我=
博愛において、世界が自らの本質であり、愛すべき
人の多い世界こそ生きるに値する世界であり、個人
の所有の概念は社会的方便に過ぎない。
世界は予めあなたに“所有”されており、自らの思いが
通じないとすれば、それはその「自ら」が、真の自己で
はなく、その部分に過ぎない肉体的な自己(衝動的
・即物的欲求)に支配されているからに他ならない。
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この回答へのお礼

ん~・・

pさんと私ではちょっと違うかもしれない

不幸の理由の最大は・・

「愛されたくても愛されない」

だと思うんだが

不幸の理由の二番目が・・

「愛したくても愛せない」

どちらも辛い・・(涙がでるほど )

pさんと私の見方の違いは、どうやら主観と客観の違いらしい


「愛」というものなんだけど
幸せの理由は、愛だけじゃない
けれども
愛のない、幸せの理由はない
pさんの言っていることは、ここなんだと思う
愛するもののない人生は不幸かもしれない
それは客観的な不幸なんだと思う
客観的な不幸なんだけど・・
(本人にとっては)不幸でない場合もある
と思います。

私は、幸せと不幸を主観的に見てしまいがちです。
そうした見方からすると・・
「愛に飢えた・・」ということが
どうしても一番重く感じてしまいます。

主観と客観の両方の見方があることは当然でしょうし
そこにおける本人の客観があることも自然です
本人の客観と、本人以外の客観にはズレがあると思います。
自らが思う理由と、人が思う理由にはズレがある・・

なかなか単純ではありませんね

そうです・・

人間って・・そ-ゆう複雑な生き物なんです

あ~

私も単純になりたかった・・

苦しまないですむという

手遅れなんですが・・

お礼日時:2013/12/28 12:09

 A さん こんにちは。



 《愛》は――ましてや 《幸福》は―― 哲学としては そこにある共通の要素や要因を分析しておくのみであると まづは考えられます。

 幸福なら おそらく 身もこころもすこやかであるといった要素くらいでしょう。
 この状態を互いに自由にとうとび 自由にまもりあう。これくらいでしょう 愛なる意志行為は。


 むろん 普遍妥当性を問い求める哲学とて 究めていったその先では おのおのの主観をこそ問題とし その価値判断についてこそその内容の意味するところを明らかにして――つまりは 批判を互いにおこない 言わばほとんどつねに けんかしつつ――すすみます。

 そういうものだと考えますが 愛やしあわせについては 例え話のような理論になるのではないでしょうか。あるいは ウタにして捉えるといったような。

           *

 たとえば

 ▼ (旧約・詩編 122編) ~~~~~~~~
 6節 エルサレムにやすらかな日々を問い求めよう。
  (シェアルー シャローム ィエルシャライム)

     おまえを愛する人びとにやわらぎのあるよう
     (イシュラーウー オーハバイク)
 7節   おまえの石垣の内にやすらぎのあるよう
     おまえの八重垣の内にみのりのあるよう

 ▲ (古事記歌謡・1) ~~~~~

  やくも立つ
  いづも八重垣 

  つま籠みに
  やへがきつくる 

  そのやへがきを
 ~~~~~~~~~~~~

        *
 

 愛は 中立でいられないウゴキであるようです。

 人と人とがいれば そこに二格関係または二角関係が出来ます。

 この二角のあいだには まづ互いの対角線が発生します。

 やがて その線には 正負の向きがかたちづくられます。
  
 この向きが ヱクトルとしての愛であろうと見られます。

 好き嫌い あるいは いつくしみ・あわれみ・そして にくしみといった正負の向きが 愛のかたちです。(正負の両方が 愛です。その自由で おおむねおだやかな持続が 愛です。プッツンも愛だと言えましょうか)。

      *


 八雲立つ空のもとでやへがきをつくるのは 愛の原点であるかと考えます。

 たえずどこまでも自由に相手をとうとびつつけんかをし合える仲としての二角関係
 
 およびそれを中核とした三角関係。そこからは 社会へと・世界へと広がります。

 原点としてのニ角関係は ツイ(対・ペア)の関係でしょう。

 このツイ関係を中軸として 上の世代にも下の世代にも 二角関係の正負の愛は 伸びます。
 
 言いかえると 家族が かまどであり 出発点である。

     *

 ところが この家族としての八重垣のさらに上を行こうとした《愛》なるウゴキもあるようなのです。

 それが 九重です。

 これは 宮中とか内裏といった意味がありますが 言ってみれば 社会の神だなとしてのお二階へとアマアガリする愛です。

 空に立つ八雲をもしのいで行くところの愛です。

 かつて経済が世界の先頭を切って走っていたときに日本人は ジュー( Jew )の上のイレヴンだとあだ名されたことがあります。アマガケリ・アマアガリが得意な一面があります。

 あるいは 世界へのイリ(入り)――世界・内・存在――をするのではなく 世界を・人びとをヨセ(寄せ)することが 得意である一面があります。たばねる愛です。

 これが ココノへ(九重)の愛です。

 
       *


 そこは おまえたちの土地ではなく おれたちが 昔むかしから持っていた土地だ わるいことは言わないから 返しなさい 出て行け という上から目線をおこなえる愛。これが ココノへなる愛。

 その人たちの考える自由であり これでも愛であるようなのです。


 あるいは 駄々っ子のように・ただのわがまま嬢ちゃんのごとく・あるいは自分は死神となってこそ生きるという死をも愛だと思い込んでしまった男や女であるかのごとく 下からココノへの愛をうったえる国もあります。空へ舞いあがったかのような気分になっていつつ 実際は 地べたに這いつくばって愛をうったえる。それでもココノへだと言うからには その姿勢は 上から目線であるようなのです。




 もし《九重》なるあらたな舞台に上がって アマテラス語なる人格と科学との極致を行く模範なる愛だというのならば それは 市民スサノヲたちの八重垣なる愛の核心を成す内容であるでしょう。それに磨きをかけた姿を現わしてもよいでしょう。これをしめしたまえ。

この回答への補足

Bさんがよく言われる「共生」というものなんだけど
人同士だけではないと思っている。
そんな見方で読んでくれたら・・と思う。



「無題」

寒い風の中の鳥が見上げる

広い空と雲

凍てついた土を踏みしめ 蹴って 羽根を広げ

飛び立つ

青い麦がすこし出た畑から

ゆっくりと動く大きな雲に向かって

翼が見えなくなるまで 見送った私は

まだ風の中にいる

飛び立つ前の 風に乱れた鳥の羽根も

空を見上げる その眼も忘れない

私にかまわず飛んでいった鳥は

私に教えてくれた

翼を広げた鳥の姿は 永遠への飛翔

私が聞いた音は 永遠への飛翔の音

補足日時:2013/12/28 22:35
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この回答へのお礼

おやおや・・
どうしよう
先生が
>これをしめしたまえ。

と きちゃった・・


と こんばんわ Bさん。
ご回答ありがとう。

浅い段階で、モタモタするな!
と はっぱをかけられている感じです。

早く結論を出せ!
出せないならグズグス言うな!
とまあ
言葉だけは
おだやか~に言っているというのか
(失礼・・)


え~と

>家族が かまどであり 出発点である。

レベル2の見方で出発ですね
それも悪くない

>ココノへ(九重)の愛
>《九重》なるあらたな舞台に上がって 
>八重垣なる愛の核心を成す内容
>これをしめしたまえ。

ときているんだが・・

先生・・

もう先生が書いた言葉に出ちゃってる
以下の言葉に

>エルサレムにやすらかな日々を問い求めよう
>おまえを愛する人びとにやわらぎのあるよう
>おまえの石垣の内にやすらぎのあるよう
>おまえの八重垣の内にみのりのあるよう

普遍意識の愛というものが表されている感じがします。
煮詰めると・・以下の言葉

やすらかな日々
人びとにやわらぎのあるよう
やすらぎのあるよう
みのりのあるよう

言い換えると・・
愛と平和と豊かさ
になるんでしょう。

ちょっと どろどろとした個の世界からの飛翔といった感じもします
高次元の愛が、現実の実際の愛の姿に、どう関わっているのか?
示してみなはれ・・?

ということでしたら
別な表現でもってお答えしなければ Bさんは納得しないでしょうね・・
少なくとも・・

もう愛のゴチャゴチャはいいから・・きれいなやつを早く出せ!
出せんのか!



らしい。

聖書にも等しいやつ・・となると大変だ
なんせ
聖書の詩文は完成されたものだから
このおびただしい完成小節の群れが語るものに抗することは大変だと思う

ひとつだけ分からないのは、Bさんが求める普遍意識の段階が、どのようなものなのか だ・・
ただ単に現実以上、通常意識よりも上の段階においてという事だけでは捉えようがない

聖書におけるレベルが最高のものであると仮定しているのならば
案外簡単に答えられそうな気がする
なぜなら
最上のものを確定してしまえば、それと等しいもの、或いはそれ以下のものも確定しやすくなるからだ

あれほど・・
見事な壊し屋を演じたBさんだから
今度は Aというやつも壊してみよう・・(失礼)
って とこなのかな・・?

Bさんが求めるものとは違っているかもしれないが
一応・・
Aと自然の関係の一部というものを補足欄に試しに書いてみることにしてみよう
私と、私なりの普遍意識への繋がりみたいなものだ
幼稚で笑われるかもしれないが・・
どう汲み取っていただいても構わないんだけど・・。

お礼日時:2013/12/28 21:42

#1です。



>ちったあ 褒めてくれよ・・。

すみません、哲学カテゴリなので。
他の方も回答されていますが、詩としてはまずまずだと思います。
人生相談のカテゴリなら、もっと温かい回答を期待できると思います。
幸せや不幸の定義は他の方に回答していただけると思ったのであえて割愛しました。

>これでいいんでしょうか・・?

と哲学カテゴリでおっしゃられたので、釣り行為に対する単純なツッコミの回答になってしまいましたね。
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この回答へのお礼

おっお・・

>詩としてはまずまずだと思います。

よかった

これで今夜も眠れる

ありがとう。



>>これでいいんでしょうか・・?

さ~~~と 脳裏に浮かんでくるやつ
書かなければ気が済まないというバカな男が一人
許してやってください・・

お礼日時:2013/12/29 21:16

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