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 1. 自己主張でない自己表現は ありますか?

 2. 自己表現して生きる人間は 自己の利益を求めてのほかに どういう目的や場合がありますか?

 3. 自己表現は 自己顕示欲を満たすことと関係ない場合がありますか?

 4. 自己を思惟や行為の中心におくのではない――つまりその意味で自己中心的ではない――自己表現はありますか?

 5. いちど問いましたが では 利他って何ですか?

 6. 自己中で利己的で自己顕示欲をともなうのではない自己表現が 《社会貢献》を成すことがありますか?

 7. 《社会貢献》を目指す自己表現が 自己主張を持たないということはあり得ますか?

A 回答 (13件中1~10件)

 こんばんは にゃんこです




> 1. 自己主張でない自己表現は ありますか?
↓↓↓

 基本的には、「ない」、でしょう。


> 2. 自己表現して生きる人間は 自己の利益を求めてのほかに どういう目的や場合がありますか?
↓↓↓

 社会的利益、社会貢献、いろいろとありますが、では、その“利益”、“貢献”とは誰がそう判断するのか? なのですが、これは、そのひと(その人の主観)、となります。
 テレパシーが使えるのならば別ですが、自分という経験等を介して、“利益”、“貢献”というものを察するのだと思います。
 そう考えるならば、「99%ない」、となります。


> 3. 自己表現は 自己顕示欲を満たすことと関係ない場合がありますか?
↓↓↓

 マザーテレサの場合は少々異なるかもしれませんが、ですが、彼女自身も主張は持っていました。これが自己顕示欲かどうかは判断しかねますが・・・
 この資本主義に身を置く以上は、ほぼ99%は「自己顕示欲」とは無関係ではないでしょう。
 これは、科学のみならず、どの分野でもそうだと思います。


> 4. 自己を思惟や行為の中心におくのではない――つまりその意味で自己中心的ではない――自己表現はありますか?
↓↓↓

 上記“2”でも言及しましたが、これはありえないでしょう。


> 5. いちど問いましたが では 利他って何ですか?
↓↓↓

 辞書では、「他人に利益となるように図ること 自分のことよりも他人の幸福を願うこと」
 とされていますが、では、

他人の利益とは?
他人の幸福とは?

 これを想定する、もしくは最終的に判断するのは、そのひと(の主観)、なわけです。このため、自分とは超越したところには、利他は存しないと考えられます。

 もし、”客観”なるものが存在するならば、その存在を証明をすべきかと考えます。何分、ここは哲学カテですので。


> 6. 自己中で利己的で自己顕示欲をともなうのではない自己表現が 《社会貢献》を成すことがありますか?
↓↓↓

 「絶対にない」、とは断定(証明)できませんが(いわゆる“悪魔の証明”となりますので、証明はほぼ不可能です)、

社会とは?
貢献とは?

 ですけど、これを決定しうるのは、そのひと自身な訳です。


> 7. 《社会貢献》を目指す自己表現が 自己主張を持たないということはあり得ますか?
↓↓↓

 既に述べました通り、ありえない、というのが率直な意見であります。
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この回答へのお礼

 にゃん_にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 《利他》というなら その内容をそのように判定するのは 自己ないしその主観である。
 ★ 自分とは超越したところには、利他は存しないと考えられます。

 《社会的利益、社会貢献》という場合にも 同じくだというご見解。

 そして
 ★ もし、”客観”なるものが存在するならば、その存在を証明をすべきかと考えます。何分、ここは哲学カテですので。


 これで 議論は足りていると思います。議論は終わっていると思います。
 (というよりも このような主題が議論を経なければならないというのが おかしな話だったのだと思います。でも しておかなければならないと思いました)。





  マザー・テレサの場合が 問題として残りましょうか。
 ★ ~~~~~~~
 > 3. 自己表現は 自己顕示欲を満たすことと関係ない場合がありますか?
 ↓↓↓

 マザーテレサの場合は少々異なるかもしれませんが、ですが、彼女自身も主張は持っていました。これが自己顕示欲かどうかは判断しかねますが・・・
 この資本主義に身を置く以上は、ほぼ99%は「自己顕示欲」とは無関係ではないでしょう。
 これは、科学のみならず、どの分野でもそうだと思います。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《自己を主張すること》が 自己顕示欲から離れているというのは まづないでしょうね。とにもかくにも《うったえる》のですから。

 では 世間の知るところとならず 人びとの福祉のためにはたらいたという場合は どうでしょう。
 わたしがここまでで述べて来たことは 贈与や援助を申し出るとき 相手が よろこんでお受けしますと答えたそのとき もうこちらの《利他》を目指したこころざしは消えるということです。

 互いの意志行為のまじわるところとなった。それだけのことだという意味です。
 そしてもしその結果 一方の側が何らかの利益を受けたとするならば それは 意志行為のマジワリとしては 相互利己の行為として成り立っている。こう捉えます。
  
 すなわち 初めに確認したとおり 《利他》なる志は おのれの主観の内にとどまる。これです。
 いかに贈与や援助をおこなうにしても その行為は 双方の意志のマジワリであり互いの自己の主張の受け容れあいである。そのように成り立っている。利他として 成り立つものではない。せいぜい意志による同意を実現させようというのならば それは むしろ利己なる行為である。

 結果として 相手側に便益が得られたのであり こちら側に《利他》なる心が 主観としては 持たれている。という恰好である。

 マザー・テレサの場合にも まったく同じだと考えますが いかがでしょう。

お礼日時:2013/07/09 22:59

 こんばんは




> それで・そのようにして 受け取ったほうは恩義を感じていればよいのですし あたえたほうは その授受の成立という互いの意志行為が成った・そしてそこにおいて《利他》も《自己主張》も終えたと思っていて ちょうどよいのだと考えられます。
↓↓↓

 はい。そのぐらいが一番いいいと思います。
 受け取った側は、また何かの機会があればご恩に報いることができれば、という気持ちが心のどこかにあれば、それでいいと思いますし、一方、与えた方も、まずはその時点で《利他(行)》がなされた、と思うことができれば、それでいいと思うのですが。

 
> あと たとえば次のことが なかなか通じないように思います。
 ★ ~~~~~
 <中略>
 ~~~~~~~
 ☆ これが 通じないばあいがあるんです。自分の考えを述べて回答すると 《ルール違反》だと言う考えを表明する場合があるんです。
 こまったことだと思います。
↓↓↓

 世の中には、「明解な答えがある」と断定しうる問題・課題の方が少ないと思うのですが。これは自然科学でもそうであります。わからないことの方が多いのですから。


> どういうあたまの回転によってそうなるのか。こまったことだと思います。
↓↓↓

 「朕は法なり」と勘違いしているのか・・・
 なぜ、自力救済に及ぶのか? また、たとえそうでなくとも、どういう根拠でもって《ルール違反》だと(私刑によって)下せるのか? はわたくしには理解できません。
 “利用規約”や“ネチケット(こちらは禁止事項ではないですが)”に抵触するというのならば、一言注意をしてあげればいいわけですし、抵触していなければ、それはリンチ(私刑)以外のなにものでもないでしょう。

 もしかしますと、自分のまわりを地球が回っている、いや太陽すらも回っていると、そう思っているのかもしれません。


> この質問は このあたりでよいでしょうか どうでしょうか。
↓↓↓

 わたくしとしましては、特に何もございません。他の人達からの反論等ありましたら、対応致したく存じます。


 現時点では時期尚早かもしれませんが、どうもお疲れ様でした。
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この回答へのお礼

 ★ もしかしますと、自分のまわりを地球が回っている、いや太陽すらも回っていると、そう思っているのかもしれません。
 ☆ そうなんですか。そうなのかも知れません。
 コペルニクス的回転はまだ成っていないのですね。

 あぁ 地球も自分のまわりをまわっているのですか。はっはっは。おもしろいですね。

 あと
 ★ “利用規約”や“ネチケット(こちらは禁止事項ではないですが)”に抵触するというのならば、一言注意をしてあげればいいわけですし
 ☆ これがないのです。声をかけるということがないのです。

 その筋の話ですが ですから 補足要求をひとつの質問でしてはいけないと言うものですから さらに質問をあらたにもうけて問い返しました。ですが それにはもう回答が来ません。

 というような情況・状態です。


 大事なことなのに なんかむなしい感じもしないでもなく これは 何と表わせばよいのでしょう。悲喜こもごもではなく 勇んだ感じとむなしさとが こもごもでしょうか。

 

 もう少しひらいていましょうか。

 あっ ごあいさつも忘れていました。
 こんばんは にゃんこさん。ご回答をありがとうございます。

 
 《反論する気、満々の質問。》(回答No.9)とも言われてしまいましたが 確かに変な《常識》がまかりとおっていることには 憤慨しています。というような性格の質問でした。

 では もう少しひらいています。

お礼日時:2013/07/12 23:46

 No.8です。

もしかしたら質問の意味を取り違えていたかもしれません。自己主張をもたない自己表現があるかということでしょうか。たぶんあると思います。

 それは何も利他のためというばかりでなく、自己にとっても都合がいいことです。自分の発見は、世の中の大半、サラリーマンからパートまで、自己主張をもたない自己表現で成り立っているということです。多くの人がたぶんそれほど自己表現を持たずに自己表現をして働いています。
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは のうばうんどさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 つまりたとえば
 ★ 多くの人がたぶんそれほど自己表現を持たずに自己表現をして働いています。
 ☆ とおっしゃるように まづは ひとの行動はすべて自己を表現するというかたちである。こう考えます。

 そのとき〔たぶん 初めの《自己表現》は 《自己主張》の打ち間違いだと思うのですが〕 そうしますと《自己を表現する》のなら 何らかの自己自身にかんすることを――ワタシはこれこれこうであるとか あれそれそれが欲しいとか――うったえている。こうなると考えます。つまり そういう意味でつねに《自己主張》なのであると。

 しかもついでに添えますと そのとき《自己顕示欲》も多かれ少なかれ現われましょうし 自己の利益を何がしかにしても考慮に入れている・つまり《利己》がある。――こう見ようとしています。

 つまり 仮りに人間に《利他》やそれとしての《社会貢献》といったことが心としても行動としてもあるとするなら あるとしても そのような心も行動も じつは大きくは《自己の利益を思うところから来ている》ということではないか?――このように問うています。

  すなわちさらに言うならば たとえ仮りにおのれの利益を省みずあるいはいのちをも省みず ほかの人のために尽くすという場合 そういう場合でも そうすることが自己の存在としての利益になると考えていることになる。そうすることが自己の生きることだと その意味で自己を思惟と行動の中心に据えて ふるまっている。――こうではないかと問うています。



 ★ それは何も利他のためというばかりでなく、自己にとっても都合がいいことです。
 ☆ この《自己にとって都合がいいこと》 これが 大きく利己であり自己中心思考であり 自己主張をともなった自己表現である。こうではないかと問うています。

 ★ 自己主張をもたない自己表現があるかということでしょうか。たぶんあると思います。
 ☆ たぶん ないとわたしは思います。


 ★ 自分の発見は、世の中の大半、サラリーマンからパートまで、自己主張をもたない自己表現で成り立っているということです。
 ☆ このときそれは あたかも夢遊病者のごとくであって 何も考えずにふらふらとして行動しているという自己表現だとしますと そうだとしても そのように《自分の考えをすでに打ち捨ててしまって もう何も考えずに生活して行こう》と考えた結果なのではないか?

 いえ そのときにももう考えることすらしなかったとすれば そうだとしても イメージや感覚として そうするよりほかにないと どこかで心得た結果なのではないか?

 そうだとすれば すべて利己であり自己中心思考であり そういう――仮りに主張することはゼロであったとしても そのゼロであるということを消極的ににしろうったえるところの――自己主張をおこなって自己表現をしている。

 こういう見方です。

 《根無し草・ハイマートロス(故郷喪失)》として自認しふるまう期間があったとしても そのときでさえ その自己表現は そういうかたちで自己を主張していることとなっている。――こういう見方です。

 考えることなく考えを持つことなく生きていても 人間は 動物とは違うのですから そのような《さまよえる我れ》について じゅうじゅう知っているのです。
 自暴自棄になったとしても そうしてやれという決断があったはずなのです。おのれの行動について知らないわけがないと言わなければなりません。




 昔むかし 寄らしむべし 知らしむべからずと言ったりしていました。
 知らせるなではなく いかに共同自治とは言え国家の大事としての政策にかんしては一般大衆には知らせて理解させることは望みえないという意味でです。

 まぁ 何も言わず声を立てず黙々と生活し仕事をし ただ投票では 政権与党に入れてくれればよいという大衆観のようです。

 もし市民のあいだに《自己主張は してはいけない》というような考え――あるいは あたまの中にこびりついたお上からの指示命令――があるとすれば そういう考えを後生大事にしていてほかの人にもそう言ったりする人もいることでしょうが 哲学はこれを断じてゆるしません。
 そんなことをみとめたなら 哲学の死であり 人間の放棄になる。こう考えるからです。

 いまだにいるのです。自己表現には いい自己主張とわるい自己主張があるという人が。
 そりゃあ 主張の内容にかんして判断するのは そうしなければならないことですが そうではなく初めっから《いいものと わるいものと》があってこれらをきちんと分けるという。つまり中身をまだ見ていない先から よい自己主張とわるい自己主張とがあるとかたくなに思い込んでいる。

 つまりそれは だいたいが 現状肯定や現状維持の《主張》はよいもので 現状への疑問を投げかけ現状を否定する主張は 《わるい》とその人たちは まるで条件反射のごとく(つまり あたまをカラッポにして)決めつけその決めつけにしたがって行動するのです。

 ● 他人の迷惑を思いやり、ルールを守り、相手や社会の役に立つための自己の“意見の”主張。
 ☆ これなら よい自己表現でありよい自己主張であるということであるらしい。

 《現状肯定》ゆえに 一部分の少数の人たちには《迷惑》がかかることもあります。
 《現状維持》のまま行ったら その《ルール》がすでにふるくなっていて ルールを守ることのほうが 現状を悪化させるということもあります。
 《相手や社会の役に立つ》かどうかは そういうかたちの自己表現をしようとするその人自身が自分の判断として決めることです。つまり 自己主張にもとづいており 自己の判断で《人のためになる》とあらかじめ思い決めているということです。

 そのようなことは まづ人びとが自由に自分の意見を明らかにして そこから皆で考え合って行けばよいのであって 初めに《よい自己主張とわるい自己主張とがある》と決めつけているあたま このようなあたまというのは いったいどこから生まれて来たのでしょう? 
 お上の言うことを何でも聞くという《おとなしい》思いと考えからでしょうか?
 これは アマテラス予備軍のおこなう行動であり それは アマテラス予備軍症候群と言えると思います。刷り込まれたまま 条件反射すなわち無条件反射として 行動しています。

 
 哲学の死をゆるすことはなりません。
 人間の放棄を見過ごすことは出来ません。
 
 自己主張を持たない自己表現はありますか?

お礼日時:2013/07/12 06:59

 こんばんは




> これで 議論は足りていると思います。議論は終わっていると思います。
 (というよりも このような主題が議論を経なければならないというのが おかしな話だったのだと思います。でも しておかなければならないと思いました)。
↓↓↓

 了解致しました!
 

> では 世間の知るところとならず 人びとの福祉のためにはたらいたという場合は どうでしょう。
↓↓↓

 わたくしも、「障害者問題」取り組んだ経験がありますが、これら団体(NPO等)の上部層は、それはそれは、自己顕示欲の固まりようなひとだったかと記憶しています。


> わたしがここまでで述べて来たことは 贈与や援助を申し出るとき 相手が よろこんでお受けしますと答えたそのとき もうこちらの《利他》を目指したこころざしは消えるということです。
↓↓↓

 「感謝の気持ち」が相手の顔色含め、言葉として表現された時点で、既に終えていると思います。


> すなわち 初めに確認したとおり 《利他》なる志は おのれの主観の内にとどまる。これです。
↓↓↓

 「いかに贈与や援助をおこなうにしても その行為は 双方の意志のマジワリであり互いの自己の主張の受け容れあいである」は、当然のことであります。
 相手の真の望み、期待、これらはわからないからであります。


> マザー・テレサの場合にも まったく同じだと考えますが いかがでしょう。
↓↓↓

 突き詰めれば、同じでしょうね。

 まず、断っておきたいのですが、
 “自己顕示欲”、換言するなら、“目立ちたがる想い、または行為”そのものは、悪でも何でもないんです。

 もしかしますと、このOKWaveについての問題かと思われましたので、2、3ご勘弁を <(_ _)>

 まず、このQ&Aコーナーの回答に際して、“事実のみ”を回答しなくてはならない、などといったルールはないはずです。回答は、いわゆる“私見(自己が持つ主張)”でもいいわけです。というより、それしかないはずなんです。例えば、“恋愛カテゴリー”などもそうでしょうが、万人に通用する絶対解なんて存在しないからです。

 もちろん、質問内容が、あるひとにとっては、“ひんまがった自己主張”であったとしてもそうです。もし気に入らないのならば(
これは、個人の自由です)、自力救済のようなことをせず、このOKWaveの「通報する」をクリックし、問題点を述べればいいだけのことですし、さらにまた、そもそも回答の義務などは課せられていないのですから、ことさら指摘するようなことをせず、放っておけばいいだけのことです。
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この回答へのお礼

 にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ほぼぜんぶそのまま受け容れます。

 ★ 相手の真の望み、期待、これらはわからないからであります。
 ☆ この点で こちらからも考えをのべます。

 つまり感謝というものは たとえば日本語で《可能性の低さ》をたたえるような意味内容で表現します。
 何も 援助を受けたから その相手の奴隷になるわけではないからです。贈与をあたえる・受け取るといった意志行為のマジワリが成立するというだけのことです。

 それで・そのようにして 受け取ったほうは恩義を感じていればよいのですし あたえたほうは その授受の成立という互いの意志行為が成った・そしてそこにおいて《利他》も《自己主張》も終えたと思っていて ちょうどよいのだと考えられます。




 あと たとえば次のことが なかなか通じないように思います。
 ★ ~~~~~
 まず、このQ&Aコーナーの回答に際して、“事実のみ”を回答しなくてはならない、などといったルールはないはずです。回答は、いわゆる“私見(自己が持つ主張)”でもいいわけです。というより、それしかないはずなんです。例えば、“恋愛カテゴリー”などもそうでしょうが、万人に通用する絶対解なんて存在しないからです。
 ~~~~~~~
 ☆ これが 通じないばあいがあるんです。自分の考えを述べて回答すると 《ルール違反》だと言う考えを表明する場合があるんです。

 こまったことだと思います。

 どういうあたまの回転によってそうなるのか。こまったことだと思います。
 
 この質問は このあたりでよいでしょうか どうでしょうか。

お礼日時:2013/07/11 23:15

社会的な産物を創出しようと思うならば、個人の殻を一度破って、社会的な立場に立っての自己を見出せてこそ、世間に通用する何某、つまり思想なら思想、あるいは他の作品、例えば映画なら映画などが作り出されるのではないでしょうか。

ステージが一つ上昇するので、世間における認知も広まる。
一方、個人的な事柄に終始した場合は、やはり趣味と言うか、そのレベルも個人的なつながりのみの狭い世界でのお遊びと言うことになると思います。
思想や作品のダイナミズムのようなものが、社会性をもった産物には保持されているのではないかとおもいます。
自己表現にも二種類あって、仕事になるものか、趣味のものかというレベルの違いがあるのではないでしょうか。
自己表現自体は悪いことではないですが、場違いであってはどうしても軋轢や違和感が生じます。例えばスポーツグラウンドで、キャンプファイヤーをすれば迷惑になるようなものです。世の中は広く、自分の意見を表明できる場所というのも存在します。本も書こうと思えば誰でも書けますし、電子出版も可能です。
このQAサイトはあくまでこのQAサイトの範疇にある機能しか付与されていないので、自己表現の場とするにはふさわしくないでしょう。
討論も禁止されていたはずですから、哲学カテといえども、なんでも話せるというものではないでしょう。実質的に見て、このカテゴリは今現在哲学カテゴリとしては機能していないようにおもいます。
しかしながら、このカテゴリにこれだけのいわば難民が集結するのには理由があって、それは無視できないものであると私は見ています。
ですから、このカテゴリの現状を黙認するという形で、特に危惧するということもしていません。
少し話がずれたでしょうか。

ともかくも、表現というのは多面的であり、自分、他人と割り切れるものでもないと思います。色々なシーンが世の中には溢れていますから、それに応じた形で、それぞれの表現者に形が具現するのではないかと思います。ある人は自己表現として、ある人は媒介者として、ある人は受容者として、ある人は客観的表現者として、とある表現に纏わる機能をその身に保持するのではないかと考えます。
その変化の様を自由と呼ぶのかもしれません。
私は、自然体の自己表現、支持しますけれど。
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この回答へのお礼

 れいんとーくさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 私は、自然体の自己表現、支持しますけれど。
 ☆ これが基本的な姿勢だとしますと これから互いの違いを捉え 共通事項や歩み寄れる内容とそうではない内容となどを明らかにすることも必要ないとは思いますが いちおうしておきます。


 まづ 《自己表現 / 自己主張》という用語じたいについて定義が 質問者とは違っているようです。

 違いを明らかにして 互いに歩み寄りできるものなら 止めて一段高いところへ揚げたいと考えます。

 ★ このQAサイトはあくまでこのQAサイトの範疇にある機能しか付与されていないので、自己表現の場とするにはふさわしくないでしょう。
 ☆ まづ OKWAVE にかぎらず社会一般における自己表現について それはつねに自己主張でもあって けっしてわるいことではない。これを問うています。

 OKWAVE の場合には いま見たら 利用規約が少し変わったのでしょうか。

 ▲ (OKWAVE 利用規約) ~~~~~
 第3条(本サービスの概要と範囲)

 本サービスは、会員による投稿・編集・評価・コメントを通じた「ガイド」(*)の作成および利用者による情報収集・閲覧の機会、ならびにそれらの環境を提供することを目的とします。

  * 「ガイド」:第2条(用語の定義)「ガイド」とは、本サービス上のコンテンツをいいます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 以前は 要するに《情報交換》を内容とするとうたっていました。《情報収集の機会を提供する》のなら 同じようなものだとは見られます。

 ですから要するに 質問者と回答者とは 互いに情報を交換しあう。これです。

 これでじゅうぶんではないでしょうか。

 どこから《あくまでこのQAサイトの範疇にある機能しか付与されていない》という受け留め方が出て来ましょうか。

 ★ 討論も禁止されていたはずですから、哲学カテといえども、なんでも話せるというものではないでしょう。
 ☆ 情報収集に際して 回答内容について分からないところは 根掘り葉掘りたずねるということが――質問者にも一定の情報がある場合には―― 互いの討論のようにも見える。こういうことでしょう。それに過ぎません。




 ★ ある人は自己表現として、ある人は媒介者として、ある人は受容者として、ある人は客観的表現者として、とある表現に纏わる機能をその身に保持するのではないかと考えます。
 ☆ ここについても 違う考えを持ちます。

 ひとは みな・つねに 自己表現をして生きています。ひとの行動はすべて 自己表現です。

 《媒介者となる》にしても《受容者である》場合にもです。それらはまだ全面的に自己を表現し切らない場合のあり方です。それに過ぎません。

 《客観的表現者》については 《客観的》が それほど自明ではありません。むしろ人間が《客観》を得るということは 究極的には無理だと考えます。世界のすべての因果関係を把握して どのように縁起の過程が成っているかを知るには 人間には限界があります。

 《客観つまり 事実の客観ないし 客観的事実》があるとして 一人ひとりは一般にその客観であろうとして その主観において自己表現するに過ぎない。ので 実際にはいくらかはその主観において客観に近づくということでしかない。というふうに捉えます。
 つまり その場合も すでにつねに 自己表現であることに変わりありません。



 いちいち揚げ足取りをすると思われてもいけませんが
 ★ 社会的な産物を創出しようと思うならば、個人の殻を一度破って、社会的な立場に立っての自己を見出せてこそ
 ☆ これは そういうことなのでしょうが けっきょくすべては自己表現の中身が問われるということだと考えます。

 《個人の殻に閉じこもっていた》としても 自己表現したその情報の有効性や有益性いかんにかかっている。早く言えば 中身で勝負だ。そのように単純に見ておけば 済むことだと捉えています。


 けっきょく――最初の最初に確認しましたように―― 回答者さんは 反語のかたちで問うた質問の言おうとするところをすべてうべなっていて 趣旨として違いは無い。こう受け取ってよろしいでしょうか。



 つまり要するに 世の中には どういうわけか《自己主張をしてはいけない》という考えが頭の中にこびりついているという場合があるようなのです。それについて 情報交換するのが この質問のねらいでした。ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/11 05:17

わるいもんでも喰ったのか。

変な薬でものんだのか。

悪はないとか、スサノウがどうだとか主張しておきながら、なんだこの質問は。
あなたのひんまがった恣意的自己主張ってのは、すごくわるいからやめたほうがいい。

反論する気、満々の質問。一貫性のない、回答者を翻弄する質問とお礼があなたの自己表現。

明るく、かろやかに、楽しくやれよ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 まぁ いろんな角度から事態を見てみなさいって。

 そういうことであれば その見方を裏返して 《自己主張はいけない》という思い込みが よほど人びとの頭にこびりついているということ。

 これは 放っておけないってこと。

 自分のためおよび日本のためって言ったぢゃん。


 ★ 明るく、かろやかに、楽しくやれ
 ☆ ない事情が 相手側に大有り。ってことを読み解かなくちゃ 一人前ではにゃあ。

 自分の根性を
 ★ ひんまげ 
 ☆ てでも この問題は処理せずにはおけない。

 もう一歩およばなかったみたいだね。

お礼日時:2013/07/10 13:20

自己表現の中には、アドリブという分野があります。

思いつきでしゃべる。どこが利点かというと、臨機応変。自由に話が飛んで、思わぬ方向に行くので受ける。

自己主張は首尾一貫が大事なので、話が飛ぶと変に思われます。献立料理ですね。たぶんアドリブは創作料理でしょう。いまや多くの人は創作料理を求めています。

献立料理は自分のために作ればいいんであって、人前に出すんであれば、従来のものとは相当違う新作、新説が必要なのではないでしょうか。論文に載るような。
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この回答へのお礼

 のうばうんどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 自己主張ってそんなにわるいことですか?
 ★ いや むしろ《献立料理》として・つまりは〔あらかじめすでに固められたところの〕自己主張として ふつうに存在する。けっしてわるいことではない。


 ☆☆ 1. 自己主張でない自己表現は ありますか?
 ★ 自己表現の中には、アドリブという分野があります。思いつきでしゃべる。どこが利点かというと、臨機応変。自由に話が飛んで、思わぬ方向に行くので受ける。

 ☆ すなわち 《創作料理》というアドリブ表現があって 《献立料理》としての自己主張ではなく 自己表現が成っている。と。

 これは どうでしょう。《思いつき・臨機応変・話が自由自在にあちこちに飛ぶ》ゆえに 《自己主張》ではない。ですか?

 でもそういう話術あるいは創作料理を 人びとに提供するということは 違っていないですよね。別のことではないですよね。そしてそれは 取りも直さず《自己の主張》をおこなっている。のではないでしょうか?




 ★ 献立料理は自分のために作ればいいんであって
 ☆ という場合もありましょうが 《人前に出す》場合もあります。献立料理もです。



 おっしゃる方向をつかみかねているかも知れませんが。

お礼日時:2013/07/09 23:13

1・あると思います。


 「私は自己主張をしない人間です。」というのは一種の自己表現でしょうね。
2・>自己の利益
 の範囲をどう取るかで異なってきますが、たとえば「俺はいいから、君、これを食えよ。」という意思表現も自己表現だといえます。
3・>自己顕示欲
  の範囲をどう取るかで異なりますが、普通あるはずです。
4・多くの場合小説家は自分を投影した主人公を第3者的に描写しますが、これは自己中心的な描き方とはいえません。
5・私の解釈では、人道的篤志家の行為の中心課題を一言で言えばそうなります。
6・>自己中で利己的で自己顕示欲をともなうのではない自己表現

 イメージをつかみにくいい文章です。具体的な例でしめしていただけないでしょうか。
  たとえばこのひとは自己中で利己的なのでしょうか?そうではないのでしょうか?

7・どうしてこういうご質問をされる必要を生じたのか、良く分かりませんが、社会貢献というのは、自身の力だけでは出来ないことです。大抵は多くの周囲のひととの関係性からなしうることです。それが単なる自己表現だけで終わるのであれば、社会貢献は不可能でしょう。つまりその自己表現は他者への影響力を持たねばなりません。つまりそれは自己主張を含んでいなければならないということです。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

 こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 1. 自己主張でない自己表現は ありますか?
 ★ 1・あると思います。
 「私は自己主張をしない人間です。」というのは一種の自己表現でしょうね。

 ☆ ん? この一文が 《あると思う》一例ですか?

 だって 《「私は自己主張をしない人間です。」》なる《一種の自己表現》は そういう自己主張ですよ。《自己主張をしない自己》を表明し主張しています。まぎれもなくです。


 ☆☆ 2. 自己表現して生きる人間は 自己の利益を求めてのほかに どういう目的や場合がありますか?
 ★ 2・>自己の利益
 の範囲をどうう取るかで異なってきますが、たとえば「俺はいいから、君、これを食えよ。」という意思表現も自己表現だといえます。

 ☆ という事例についてでしたら その遠慮としての意志が表明されたというかたちで 自己主張であり しかもその遠慮――遠きおもんぱかり――として長期の自己の利益を欲している。と言えませんか?
 
 あてにしてなくても 利己を放ったらかしにしてはいないでしょう。

 それに もしまだ資力もあればその料理のお代わりもあるといった情況においては そういう控え目な行為というのは やはり長い目で見て利己としてのおもんぱかりでないとすれば ただ相手へのオシツケ行為になります。相手に恩に着せる行為になります。


 ☆☆ 3. 自己表現は 自己顕示欲を満たすことと関係ない場合がありますか?
 ★ 3・>自己顕示欲
  の範囲をどう取るかで異なりますが、普通あるはずです。

 ☆ 例示がのぞまれます。


 ☆☆ 4. 自己を思惟や行為の中心におくのではない――つまりその意味で自己中心的ではない――自己表現はありますか?
 ★ 4・多くの場合小説家は自分を投影した主人公を第3者的に描写しますが、これは自己中心的な描き方とはいえません。
 ☆ という表現方法を駆使して その作品が売れるように・つまり自己を行為の中心に置き―― 表現行為をおこなっています。


 ☆☆ 5. いちど問いましたが では 利他って何ですか?
 ★ 5・私の解釈では、人道的篤志家の行為の中心課題を一言で言えばそうなります。

 ☆ その篤志家は 必ずその利他というときの《他者》に対して実際に これこれの贈与をしてもよろしいかと尋ねるはずです。じぶんがしなくても 代理者はそうします。つまり その問いに相手が ええ どうぞと言ったなら その言った時点ですでに《利他》という行為は消えています。
 自分の欲することをおこなおうとしたまでであり そうしただけのことです。つまり 自己の――長い人生のためとしての――利益をもとめて 自己の意志行為をおこなっただけのことです。
 
 相手がそれによって利益を受け得たとしたら そうだとしても 利益の享受ということは お互いさまです。つまり それは相互利己の行為なのです。人間のおこなう意志行為で 純然たる《利他》はあり得ません。


 ☆☆ 6. 自己中で利己的で自己顕示欲をともなうのではない自己表現が 《社会貢献》を成すことがありますか?
 ★ 6・>自己中で利己的で自己顕示欲をともなうのではない自己表現

 イメージをつかみにくいい文章です。具体的な例でしめしていただけないでしょうか。
  たとえばこのひとは自己中で利己的なのでしょうか?そうではないのでしょうか?

 ☆ これは 舌足らずだったようです。

   《自己中と利己的と自己顕示欲》をともなうのではない自己表現が 
  《社会貢献》を成すことがありますか?

 と読んでください。次の項目が関係しています。

 ☆☆ 7. 《社会貢献》を目指す自己表現が 自己主張を持たないということはあり得ますか?
 ★ 7・どうしてこういうご質問をされる必要を生じたのか、良く分かりませんが、社会貢献というのは、自身の力だけでは出来ないことです。大抵は多くの周囲のひととの関係性からなしうることです。それが単なる自己表現だけで終わるのであれば、社会貢献は不可能でしょう。つまりその自己表現は他者への影響力を持たねばなりません。つまりそれは自己主張を含んでいなければならないということです。

 ☆ まったくの同感です。
 こういう質問をしなければならないと思ったのは ほかの回答を見てもらえば分かるかと思いますが それはひとことで《自己主張》というものは いけないことだと思っている人が多くいると知ったからです。

お礼日時:2013/07/09 22:36

自己主張が良いか悪いか 勿論一概には言えません



日本人は和を重んずるそうで 聖徳太子以来の伝統か分かりませんが


その和の中で 皆が和気藹々としてる中で「俺は嫌だ 面白くない」と自己主張すれば

何かそれで更に良い事が提案できない限り 出る杭は打たれる 雉も鳴かずば撃たれまい。

と言う事に成りかねません。


しかし昔「青年の主張」と言うのが在りました。後に「青春のメッセージ」となって終になくなりましたが

あれは良かったと思います。私は大人になったのでこの様に思う と

大人として自己主張するのです。大人として自分の意見を持つ。これは大切な事です

今は能力ばかりが重視されますが 思想信条と言うものを持っているか と言う問いが必要です。

宗教でもいい 哲学でも 道徳でも それこそ自己主張でも 自分の意見を持っていなければ

社会全体が根無し草のようになって さあ憲法は?原発は?TPPは?と問われても判断が付きません


自己主張は実は大切な事です ただ日本の土壌では無闇に圧殺されたり 無視されたり碌な事がない事が多い。

だから利他心(宮沢賢治 雨ニモマケズ参照)や愛を自分の中に育てて

自己の夢や希望や目的を持ちながら 自己主張が有効な時や場面を待って 言うべき時にハッキリと言える

そう言う日本人に成りたいものですねえ。

7.自己主張を持たない自己表現と言うのが昔よくあったものです。失われつつ在るでしょうねえ グローバルスタンダードとやらで。
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この回答へのお礼

 ゆにこ99さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 わたしの見方からすれば 勘違いをしておられるようです。

 ★ その和の中で 皆が和気藹々としてる中で「俺は嫌だ 面白くない」と自己主張すれば
 ☆ もしそれを自己主張と呼ぶのであれば 《皆が和気藹々としてそれぞれが持つその思いや考え》は まだ言葉に出して表現こそしていなくても 間違いなくこれも《自己主張》なのです。

 《これでよい・いまこのままで 俺はよい。面白い》という自己主張です。
 多数派は 同じ自己主張でも 善で 少数派は 悪だというなら もはやおてんとさまは西から上がって来ましょう。


 ですから
 ★ 自己主張が良いか悪いか 勿論一概には言えません
 ☆ などという気遣いはまったくありません。すべて自己表現は おのれの主観を表明するという自己主張なのです。どうでしょう。

 ★ 出る杭は打たれ 雉も鳴いて撃たれた
 ☆ としても 自己主張ということ自体にわるいことはいっさいありません。むしろその杭を打ち鳴いた雉を撃つほうが 阿呆でしょう。何の考えもなく ただただその場のクウキに寄り憑いて行って そのクウキに異を唱えるものが出たら条件反射のごとく(つまり頭は空っぽにて)反応しているだけなのですから これを阿呆と言わずして何を阿呆と言うのでしょう。



 ★ 自己主張は実は大切な事です ただ日本の土壌では無闇に圧殺されたり 無視されたり碌な事がない事が多い。
 ☆ ええ。それは 《クウキ》の問題です。いまふたつその問題を扱った質問をしています。

 そういうクウキ教の信者は アマテラス予備軍症候群と呼びます。あほばか教徒とも呼びます。
 


 ★ だから利他心(宮沢賢治 雨ニモマケズ参照)
 ☆ お節介焼きか あるいは 小さな親切 大きなお世話 ではないでしょうか?
 まづ相手に 何かお手伝いすることはありますか? と尋ねなければいけません。そういうものです。
 そして そこで手助けをすることが出来たとしても それは 自分の意志において自分のコトとしてやったのですから ただ自己満足を得るためにおこなった。となるのみです。何ら利他ではありません。

 こどもを看病したり 疲れた母の稲束を担いでやったりしたとしても それは おのれの意志においておのれの成すコトとしてやったまでです。相手の意向にかまわずやったとしたら それは 人権蹂躙です。ひとの意志を踏みにじっています。

 相手にお手伝いすることはありますか? とかお手伝いしてもよろしいですか? と尋ねるのが ひとのふつうの道です。どうぞと言われておこなうことは すべて自分の意志の欲するところをおこなうだけのことです。結果として相手にとって何らかの助けになったとしても それは 手伝いをさせてもらったという時点で 自分とは関係のないこととなっています。

 《利他》などという行為は ほんとうにはありません。ぜんぶ利己としてやっています。誰もがです。
 せいぜいが 相互利己なる行為です。

 その行為にしても 大きく括れば《自己主張》としての自己表現です。まったくふつうの人間の意志行為です。


 こういった趣旨説明欄の内容として・つまり たたき台として この質問を問うています。どうでしょう。

お礼日時:2013/07/09 22:01

A1.他人の迷惑を思いやり、ルールを守り、相手や社会の


   役に立つための自己の“意見の”主張。
(それに対し、肉体的な個人の自己顕示のために、何の役
にも立たない言葉を飾っただけの俗な文章をタレ流すのが
単純な「自己」主張)

A2.「自己の利益」が、肉体的な自己の物質的な利益か、
   社会生命的な自覚(他我愛)に基づいた精神的な充足
   (利他による)を指すかの違い。

A5.肉体的な自己(短絡的な意識)に基づいた即物的利益
   や短絡的な感情的充足感の追及は、他を不快にする。
   自己の感情の発露に、自己の社会生命的な自覚を通す
   時、利他的な行為が自己の精神的充足となる(他人の
   喜びを自らの喜びとする=助け合いとしての社会行動)。

A7.上記のような意識があるか否かによって異なる(ルールを
   破ったり他人を不快にしても平気など<迷惑でしょう)。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ Q1. 自己主張でない自己表現は ありますか?
 ★ A1.他人の迷惑を思いやり、ルールを守り、相手や社会の
   役に立つための自己の“意見の”主張。

 ☆ Q1-1. 《自己の”意見”の主張》は 《自己主張》ではないということでしょうか?

 Q1-1-1. 《自己主張》は 初めからいけないものだというご見解のようですが それは どうしてですか?

 Q1-2 《他人の迷惑になることでも それを控えるのではなく 思いやるなら》 自己主張ではない。ということですか?

 Q1-3. 《自己主張》は 《ルールを守らない》とお考えなのでしょうか?

 Q1-4. 《相手や社会の役に立つ》かどうかについては 《自己主張》を悪だと決めつけているその自己の主観によって判断しているということですよね?


 ★ ~~~~
 (それに対し、肉体的な個人の自己顕示のために、何の役
 にも立たない言葉を飾っただけの俗な文章をタレ流すのが
 単純な「自己」主張)
 ~~~~~~
 ☆ この自己表現が 自己言及性がないという判断であれば よほどおめでたいと拝察いたします。おめでとうございます。

 ☆ Q2. 自己表現して生きる人間は 自己の利益を求めてのほかに どういう目的や場合がありますか?
 ★ A2.「自己の利益」が、肉体的な自己の物質的な利益か、
   社会生命的な自覚(他我愛)に基づいた精神的な充足
   (利他による)を指すかの違い。

 ☆ Q2-1. いづれの場合にも 《自己表現》は 《自己の利益を求めている》。こうですね?

 これは 次の問いに継ぎます。

 ☆ Q5. いちど問いましたが では 利他って何ですか?
 ★ A5.肉体的な自己(短絡的な意識)に基づいた即物的利益
   や短絡的な感情的充足感の追及は、他を不快にする。
   自己の感情の発露に、自己の社会生命的な自覚を通す
   時、利他的な行為が自己の精神的充足となる(他人の
   喜びを自らの喜びとする=助け合いとしての社会行動)。


 ☆ 《肉体的な自己(短絡的な意識)に基づいた即物的利益や短絡的な感情的充足感の追及は、他を不快にする。》――おめでとうございます。としか反応しえない。

 Q5-1. あなたが 飯を食って食欲を満たすたびに 他を不快にしている。――こうですね?

 Q5-2. ★ 自己の感情の発露に、自己の社会生命的な自覚を通す時、利他的な行為が
 ☆ そのどこが《利他的》なのですか? 《社会生命的な自覚》はすべて《主観》の判断によるものですよ。

 Q5-3. ★ 自己の精神的充足となる(他人の喜びを自らの喜びとする=助け合いとしての社会行動)。
 ☆ 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないか?

 Q5-4. 《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないか?

 Q5-5. 《助け合いとしての社会行動》は 《利己》ではないか?
 そうではなく 《利他》もあると言おうと思うなら それは わづかにその手助けの行為についておこなってもよいかと問うて相手から同意・了解を得ているときに 自己の満足(自己のよろこび)とともに味わう共同作業のよろこびのことでしょう。困ったときはお互いさまということです。それが 基本です。――つまり殊更《利他》を《主張》しうる事態でもないでしょう。

 ☆ Q7. 《社会貢献》を目指す自己表現が 自己主張を持たないということはあり得ますか?
 ★ A7.上記のような意識があるか否かによって異なる(ルールを
   破ったり他人を不快にしても平気など<迷惑でしょう)。

 ☆ Q7-1. ですから その《意識》は ひとの《主観》が判断することに過ぎないのでは?

 Q7-2. 《ルールを破る》ことのない《自己主張》で 《社会貢献を目指す》場合について問うています。《他人を不快にしても平気など<迷惑でしょう》とは無縁な自己主張で 社会貢献を目指す場合についてです。ありますか?

お礼日時:2013/07/09 17:52

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