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ダーウィンは自然淘汰という自己の理論をうち立てるに当たって、アダム・スミスの理論を自然に対して適用したので、われわれは明らかな調和のための説明を、自然淘汰が諸個体に与える利益のうちに求めなければならない。
(スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来』浦本昌紀・寺田鴻訳 ハヤカワ文庫150ページ 「竹とセミとアダム・スミスの経済学」)

*** *** *** *** ***

素数蝉についてのエッセイのなかで、グールドは、ダーウィンがアダム・スミスの理論を借用したことを述べてゐます。ダーウィンは何でもありの視野の広い人でさまざまな学説を取り入れましたが、このアダム・スミス『国富論』を適用したといふのは、ほんとうなのですか。できれば、素数蝉との関連を教へてください。

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    「この回答へのお礼」の訂正です。といつても、お礼をしたのが、まちがひだつた、といふわけではなく、私の記載に誤りがあつただけです。

    >櫻町翠軒訳 ハヤカワ文庫(下)94-96ページ

    下巻ではなく上巻でした。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/17 11:44

A 回答 (3件)

まあ!又同期(共鳴)しちゃったのかしらん。


この質問を読む前に進化論と国富論と関係があるかもしれない質問を私もしたから。

遺伝子は無害で無益なもの(鶏の歯や馬の指)のような「余分」も運んでいる?
しかし、異なった階層構造レベルで望まれるものかもしれないということ。
利己的遺伝子は表現型に効果を及ぼさなくても永続、あるいは広まる傾向があるという。
いやしかし、多くの効果を及ぼしうる。
「ディープソード(深く考える)」ためではないかとか。
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この回答へのお礼

ありがとう

いつも楽しい回答を寄せてくださり、ありがたうございます。

>進化論と国富論と関係があるかもしれない質問を私もしたから。

ふたつあとの「お洒落遺伝子 VS パンイチ脳 」ですね。おもしろい質問です。cyototuさんが投稿してくださるとよいのですけれど。このサイトには、cyototuさんのやうな素直な見方のできる人がリーダーシップをとる必要があるやうに感じます。先日も書きましたが、『土佐日記』には女が書いたと記されてゐますので、そのとほりに読む、そんな人は貴重です。別の回答で苦労なさつてゐるやうですね。物理学の理論にすぎない相対性理論と、人間の精神の主観客観の問題とは、まつたく無関係なのですが、何の脈略もない文章を当然のことのやうに理解できる人が、なぜmiko-desiさんの意見にてこずるのか不可解です。このところOKWaveでも書いてゐるのですが、科学的になにやら難しげなものを無条件にありがたがる風潮が蔓延してゐます。あの内容がわかるなら(サイト内の多くのわからない人全員に)教へてもらひたいものです。

>無害で無益なもの(鶏の歯や馬の指)のような「余分」も運んでいる?

これもグールドの内容ですね。
『ニワトリの歯』(渡辺政隆・三中信宏訳 ハヤカワ文庫 14章「ニワトリの歯とウマの指」)
いはゆる「先祖返り」と呼ばれる現象ですが、しばしば「退化」とみなされますが、ダーウィンやグールドの見解のやうに進化の貴重な一例だと私は思ひます。ちなみに同書13章は「遺伝子が利己的にふるまったら体はどうなるか」です。これまたグールドの意見に賛成です。

>「ディープソード(深く考える)」ためではないかとか。

おつしやるとほりと存じます。ただし私にできることは、わからないものを、わからないと言ふことくらゐです。

お礼日時:2015/06/17 19:17

№1です。



 ★ 引用先のグールド『パンダの親指』は第5章「ダーウィンの中道」ですね。(櫻町翠軒訳 ハヤカワ文庫(下)94-96ページ)「市村註」と付記なさつてゐる箇所もグールドの記述で、このコラムの内容はただの受売りです。
 ☆ あぁ。早まったようですね。早合点でした。

 スミスは 人間観として《同感人――シンパシー または コモン・センス――》を推し出したとすれば そこには言わば互いに対話をおこないつづける《会議人――欧文でどう言いましょうか》をかかげたと考えられます。民主制ですね。

 両性の平等を執拗にまで説いたところのK.マルクスが この《会議人》なる人間観を継いだと言ってよいと思います。『共産党宣言』には 《婦人の――霊的な――共有》が触れられています。(読み方によるとも考えられますが)。

 政治革命論は 別です。そして ソヰエトというのは じつに《会議》という意味の言葉です。《助言・友愛・和合》といった意味もあるようです。
 市町村ソヰエト・地域ソヰエト・連邦ソヰエトが民主制のもとにあったならいいのですが 知識人は 異端視されれば排除され 何よりも商売という利潤行為は貶められ経済活動は 《友 愛》 の も と にしかやれなくなりました。

 ポルポト権力のもとでは 学校の先生という先生はみな殺されたと言われます。

 これを自然淘汰とは言わないと思います。

 素数蝉は 或る回答者からその話題を提供してもらったことがあります。日本人は 蝉の声は岩に浸み入ると聞くけれども 欧米人は虫の声が雑音としか聞こえないという話から だけれども素数蝉が現われると 日本人も大いなる雑音としか聞こえないんだという話でした。或る日本人の体験としてそうだったと言います。

 そのような繁殖が 自然にもとづく適者をえらぶ闘争として現われるというのでしょうか。ここらへんは 何とも分かりかねますので パスです。
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この回答へのお礼

助かりました

追加回答をありがたうございます。

>スミスは ......そこには言わば互いに対話をおこないつづける《会議人――欧文でどう言いましょうか》をかかげたと考えられます。

アダム・スミスの理論は社会や人間をありのままに見据ゑたもので、至極当然なものに思へます。といふより多くの古典は、ものごとを総合的に捉へ、還元主義や単純理想論には陥つてゐません。だからこそ現在まで読みつがれてきたのでせう。

>両性の平等を執拗にまで説いたところのK.マルクスが この《会議人》なる人間観を継いだと言ってよいと思います。

重要な御指摘と存じます。「両性の平等」は
「たんなる生産用具にすぎない婦人の地位を廃止することこそわれわれの目的であるということなどは、彼ら[plapoti註:ブルジョア]には思いもよらないのである。」
(マルクス,エンゲルス『共産党宣言』マルクス=レーニン主義研究所訳 大月書店国民文庫51ページ)
のあたりでせうか。ぶらげろさんの御意見のとほり、マルクスの思想も、右翼左翼などといふ区別から離れたところで解釈する必要があると感じます。それはともかく、ほんとうに平等なのですか。

>素数蝉は 或る回答者からその話題を提供してもらったことがあります。

このお話は初見です。日本人は毎年蝉の声をききますから、13年に1度とか、17年に1度とかになると、感覚が違つてくるのかもしれません。それは蝉の捕食者にとつてもあてはまるのでせう。おもしろい見解です。グールドの素数の解釈は質問文の書物に記載があるのですが、閲覧者への先入観になつてしまふので、あへて書きませんでした。

これから半日仕事に行つてきます。

お礼日時:2015/06/17 11:30

アダム・スミスの側から その思想を確認するかたちを採ります。



 ▼ (市村清英のコラム:進化論とアダム・スミス)~~~~~~~~~
  http://wwwkicolumn.blogspot.jp/2010/06/blog-post …

  スティーブン・J・グールド〔は〕『パンダの親指』の中で述べている。
  《自然界のバランスや秩序は[・・・] 各自の利益を求めるための(*市村註:今日の言葉で言えば、生殖において各個体が成功をおさめることにより、各自の遺伝子を未来の世代に伝えるための)個体間の闘争の結果として現れるのである》。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《各自の利益を求めるための個体間の闘争》という見方については おそらくスミスの側からは そこに――レッセ・フェール レッセ・パッセなる方針のもとにも――各自に《同感の原理》がはたらくということを前提としていたという物言いがつくと思われます。

 ▲ (A.スミス:同感の原理) ~~~~~~~~~~~~~~
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80 …
 § 2  道徳感情論

 『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)によれば、人間は他者の視線を意識し、他者に「同感(sympathy)」を感じたり、他者から「同感」を得られるように行動する。この「同感」という感情を基にし、人は具体的な誰かの視線ではなく、「公平な観察者(impartial spectator)」の視線を意識するようになる。

 「公平な観察者」の視線から見て問題がないよう人々は行動し、他者の行動の適宜性( propriety )を判断することにより、社会がある種の秩序としてまとまっていることが述べられる。このように社会は「同感」を基にして成り立っているため、社会は「慈善(beneficence)」をはじめとした相互の愛情がなくとも成り立ちうると論じた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 《同感 sympathy 》は 《内なる人 man within 》となると言います。

 J.-J. ルウソから得て来たという見方がされています。(現在の研究では どうでしょうか)。
  
 この同感の原理の上に 《各自の利己心の追求》がなされると説いたと言います。
 
 ▼(スミス:同感と利己心) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 文明社会では 人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。[・・・]人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。
 だが その助けを仲間の博愛心( benevolence )にのみ期待しても無駄である。むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心( self-love )を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益になるのだということを仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。
 (A.スミス:『国富論』 (1) (中公文庫) 大河内一男監訳 Ⅰ・Ⅱ)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《素数蝉》について分かりませんが 《自然淘汰》説とは ひと味は違うように思います。



 メモ:
(1) 同感(sympathy)という仲間意識(fellow feeling)。または 共同主観(common sense)。
 わたしたちは 他人をも幸福な人間として・もしくは 幸福であるべき人間として 愛し接すると言う意味らしい。(愛するというのは 生きる・共存するというほどの意味である。)
(1-1) 同感は 《合意ないし同意》に 発するか・もしくは 現われる。

(2) 《われわれが必要としている相互の助力》がある。これは 《必要ないし必然》という点で 特には経済的なモノ・コトを言っている。
(2-1) この《相互の助力の大部分をたがいに受け取りあう》のは 同感によって成り立つ経済的な行為にほかならない。
(2-2) これは 基本的に 《合意ないし契約》にもとづき 《交易・購買》等として 現われる。

(3)この《取引しようという人間の本性上の性向》の発現によって 《分業》が形成されていくという。
(3-1) ある人の卓越した技術が 専門的なものとなっていくことに 人びとが同意した。
(3-2) このとき 分業のもとでの専門化は 自分の利益にもなり 他の人びとのためにも役立つと考えられた。つまり 社会的な分業は すなわち 社会的な協業である。
(3-3) 《自分自身の労働の生産物のうち自分の消費を超える余剰部分 の交換》という考え方および事態。

(4)分業の発生したあとの時代をつうじても 《わたし》という同感の主体が存在する。 
(4-1) 同感という仲間意識は 博愛心でもあるが それは 固有に(=適宜性において)《わたし》の博愛心であって 《わたし》を言うときには 幅広いかたちの自愛心が 介在している。
(4-2) 分業形態における同感の適宜性ないし有効性は 重心が 博愛心から自愛心に移ったと見られる。と同時に 自愛心――しばしば利己心――のみによって成り立つものではないだろうと考えられている。ちなみに 自愛心=利己心の優勢になった情況に対して 同感の宣揚そのものによって どうにかしようとするというのでもない。それだと それは ある意味で原始心性に戻ってのような宗教的な仲間意識=博愛心 という幻想となるのであろう。

(4-3) 自愛心をとおしての同感関係は 価格を用いて社会的に協働関係が推移することへと 帰結して来た。これが 便宜的にでも適当だろうと議論される。
(4-4) 《見えざる手に導かれて》というのは ここで 同感行為を超えたことがらである。《わたし》という主体の力を超えている。その限りで 直接には 論議の対象にならない。

(4-5) 《社会の利益のために》というのは 同感のなかでも 特に博愛心の具体的なありかたとして 言っているのであろう。そして 《人のため 自己の利益を含めた人の利益のため》のことだとすると しかしそれは むしろ《自愛心》とそれほどちがわない。けれども 有効性は 博愛心という観念(ことば)そのものの思い込みによるのではなかったゆえ 自愛心とそれほど違わないところの博愛心も このゆえ しりぞけられている。

(4-6) ややこしい言い方だが 言いなおそう。もし 《見えざる手によって 社会の利益の増進へ導かれる》ことを いまの議論の中に入れるとすると――ということは 《見えざる手》を《見える手としての人びとの同感行為》が部分的に実現させていると見るとすると―― 自愛心と博愛心とは 盾の両面であることになる。もしくは 象の鼻と頭とであることになる。

(4-7) となると 《自分自身の利益を追求するほうが 〔総体的な〕利益を増進することがしばしばある》のは 《自愛心の発動に対する同感の主体どうしの過程的な・構造的な了解関係》そのものをやはり言っている。そして 自己の利益の追求がどう有効なのか その何が有効となるのか これは じっさいにはスミスの《当面の研究主題の中には入っていない》。

(4-8)分業発生の以後の時代において 乞食ですら同感の主体たる《わたし》となったこと そしてそのとき自愛心を介在させていること これらのことと 《何がなんでも自己の利益を追求せよ》という姿とは 互いに実質的にはそれほど 離れていないけれども 別である。そしてスミスの見解では このことが あやふやである。《見えざる手に導かれて》という条件句で 処理している。

(4-9) ところが――というか したがってけっきょく――問題点は つきつめていえば 《自分自身の利益の追求の仕方》に 帰着する。そこで人びとが 同感をどのようにはたらかせるか これは 依然としてなぞのごとくに課題として残っている。

(4-10) 重複をおそれずに整理すれば 《分業以後の時代》では 《〈わたし〉という個体的な存在が一人ひとり 同感の主体である》のだから やはり《一般に自愛心が 同感行為には介在する》そのとき 経済活動として言えば 一方で《自分自身の利益を追求せよ》 他方でこの《自分自身》とか《その利益》とかあるいは《追求の仕方》とかは まさに――《見えざる手に導かれる》かどうかを別としてさえ―― 人びとの同感行為の対象となって つねに過程的に判断され自由にあらそわれ 推移してゆく。スミスは こう言ったもののようである。《社会生活》という基礎と基軸が――まったく単純なことであろうけれど――打ち出されているように思われる。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ありがとう

ダーウィンの著作は『種の起源』と『ミミズと土』しか読んでをらず、『国富論』も雑な読み方しかしてゐないので、アダム・スミスを参考にしたのかどうか判断できません。素数蝉について以前ねこさんに取り上げていただいたので質問したいと思つてゐました。引用先のグールド『パンダの親指』は第5章「ダーウィンの中道」ですね。(櫻町翠軒訳 ハヤカワ文庫(下)94-96ページ)「市村註」と付記なさつてゐる箇所もグールドの記述で、このコラムの内容はただの受売りです。

>《各自の利益を求めるための個体間の闘争》という見方については おそらくスミスの側からは ......物言いがつくと思われます。

グールドはそのやうに書いてゐますが、そもそものアダム・スミスの側の思想から考へてみるべきですね。おつしやるとほりです。『道徳情操論』は読んでゐません。質問文に書きましたが、ダーウィンは世界を小さな理論で解明できるとは考へず、多様性を認めてゐました。「闘争」にこだはつてゐたわけではないと思ひます。これは、アダム・スミスについても同様なのでせう。

引用の『国富論』における人間関係の考察は、実社会を反映した的確な指摘に思はれます。単純な愛や正義のやうな、きれいごとや理想論で人間が動くわけではありません。「認識」を深めれば深めるほど、そのやうになつてゆくのではないでせうか。

興味深い見解を御教示くださり、ありがたうございました。

お礼日時:2015/06/17 08:46

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