1. たとえば 次のように言っています。
▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~
1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。
1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。
1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。
1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。
~~~~~~~~~~
2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。
3. だとすれば アミターバ・タターガタの《他力》については いちいちわれわれ人間が考えることはない。と言っているはずです。
4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。
5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行やあるいは思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。
6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。
7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?
8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう?
9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?
9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?
9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?
10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?
11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?
12. たとえば:
▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~
12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ
いつくしもうと思う者をいつくしむ。
(出エジプト記 33:19~ローマ書 9:15)
12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み
〔弟の〕ヤコブを愛した。
(マラキ書1:2-3)
12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ
かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。
(ローマ書 9:18)
12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。
(テモテ第一書 2:4)
12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8)
~~~~~~~~~~
13. このあと 《だから 言わんこっちゃない これこれなのだ》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。
自由なお考えを待っています。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
《義なきを義とす》
親鸞の魂の叫びではなかったかと思います。
どうしてもそう言わざるをえなかった。
(彼が感得した)
如来の大悲の無辺さを、そう言わざるをえなかった
のだと思います。
義とは信心において、受け取ろうとするところにおいての形を定めようとするものです。
でもそれが及ばない。
思慮分別をこえてしまっている。
他力の義とは無義である
無義であるがゆえに他力である・・・といいたかったのでしょう。
私が定めることができないものを、私は受けている
という実感でもあったかと思います。
仏との対面において・・・と書き添えてもいいような気がします。
煩悩具足の親鸞が出会ったもの
一行念仏の義をさとした法然が指さした世界、であったと思います。
えこひいき・・はどうなんでしょう
礼儀だけは必要である、必要ですよ・・・というようにも聞こえてくるのですが
甘えてばかりではいけませんよ・・・という戒めでしょうか。ね
おおおおおおおおおおおおおおおおう!
わたしの趣味や意見に合わせようとしているとか何とか言われかねませんが その言やよし。ではないでしょうか。
★ ~~~~~
私が定めることができないものを、私は受けている
という実感でもあったかと思います。
仏との対面において・・・と書き添えてもいいような気がします。
~~~~~~~
☆ なんで もっと早く 出さなかったの?
いいワインを先に あとのは 少々安物でもよい。よっぱらっているから。
○ えこひいき
☆ は 入口としては 趣旨説明のごとくに提出してもよいと思って出しましたが まだまだ 練り上げていかねばならないと思っています。
★ 礼儀
☆ ですか。でもね:
☆☆ ~~~~~~
12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み
〔弟の〕ヤコブを愛した。
(マラキ書1:2-3)
~~~~~~~~~~
☆ こんなことも書かれています。《礼儀》どころの話ではないみたいなのです。
★ 甘えてばかりではいけませんよ
☆ これは これとして当てはまるみたいですけれど それで終えてしまうのも いまひとつに思えます。
《生きながら無口にされてしまった》人間もいることですし。・・・
No.10
- 回答日時:
No.5です。
十分に分かって答えているのではありません。参考までに。依怙贔屓については 引用させてもらいますが
『▼(親鸞:有念無念の事) ~~~~~~
1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。
6.信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。』
からも理解できると思いました。1はどんな他宗派であっても、死にさいしては来迎(阿弥陀仏は迎える)される としており、6は信心したとき生きたままで 往生(死の来迎)が約束されるということでしょう。ここは、人はいずれにしても 全て来迎が約束されている ということでしょう。信心していない 生きている人に あなたは死後浄土に行くとか行かないとか発信することは無意味であり 上のような言葉になったと思うのです。いろんなことを発言行動していても 結局 死ねば来迎がある というのは全て平等に扱う ということではないかと おもうのです。
『(16)☆ 《死後》は まるっきりどうでもよいと親鸞は言っています。』は言ってないとおもいます。浄土は意味のある世界である、と言っていると思います。
『(15) もうひとつは 《依怙贔屓》のない人間の社会的な境遇が実現したことはあったでしょうか?』 多くの人が現実の社会を依怙贔屓のないものにしたいと願い努力もしたと思います。が限界があり結果不十分なのです。親鸞は現実社会で率先して実行していたとおもうのです。不十分であることを知った上で 最低限全ての人を救済する方法を考案したとおもうのです。それが人の心を救う阿弥陀仏であり浄土であったと思うのです。それ以外の 例えば死んだ人を生き返らせるとか大金もちにさせろとか の万人向けの約束はできなかった と思うのです。
現実世界に利益をもたらせない宗教は意味がない、というご指摘は 半分は当たっているとおもいますが、意味があると考える人には大きな意味があると思います。
以上失礼しました。
たぶん
▼(親鸞:有念無念の事) ~~~~~~
4. 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住す。
4.(現代語訳) 如来回向の信心にあずかる人は 如来の大慈悲にもれなく摂取され最終的にも摂取されたゆえに まさしく往生することが定まっている人すなわち正定聚(しやうぢゃうじゅ)のくらいに住している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この命題が いちばん重要だと考えますが どうでしょうか?
おうけい9606さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
すなわち 《このいま・生きているときに 正定聚である。ということは すでに往生している。つまり すでにすくわれている》と言っていて これがいちばん大事だと考えます。
その意味は:
(あ) すでにこのいま――過程的にですが・つまり すでに完全だという意味にまではなりませんが―― 即得往生として すくわれているなら 死や死後のことは どうでもよい。と言っているはずです。
死はそして死後も いまこの現在のわれにおさめられてしまっています。
(い) 《1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。》は 自力の行者をほんとうには アミターバの信徒とはみとめていません。なぜなら
▼ ~~~~~~
2. 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。
2.(現代語訳) 臨終に来迎を期待するということは 修行を積んで成仏する人に言うことである。いまだ阿弥陀仏からの他力なる真実の信心を得ていないゆえ。
~~~~~~~~
というように 少なくとも同じ信仰ではないし 類型としても信仰を同じくしているとは思えないと言っているはずです。
(う) すなわち 《念仏は 非善非行なり》というごとく
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行やあるいは思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。
~~~~~~~~~~~~
と見ているはずだからです。
(え) すなわち こと信仰にかんするかぎり 自力で得たということであれば それは 神もブッダもまた信仰じたいも 人間の想像力の産物だということであると言わなければならないからです。
(お) つまり 義無きを義とするのではなく 人間のハカラヒとしての義によって義を得るとし そのようにみづからがつくった信仰において 人間はすくわれるのだと言ったことになるからです。
★ ここは、人はいずれにしても 全て来迎が約束されている ということでしょう。
☆ 《来迎》はまったくどうでもよい。こう言っていると受け取っています。
▼ 5. このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。
★ いろんなことを発言行動していても 結局 死ねば来迎がある というのは全て平等に扱う ということではないかと おもうのです。
☆ それが いかにむなしい人間の想像力の世界のことであるかということではないでしょうか? 《いま・ここのみ》。という実存の世界を生きること。これを言っているはずなのです。それが 人間の自由ということであり その自由があることが 互いには平等という考え方です。
けれども 胎内にあるときから 双子の兄のエサウを憎み 弟のヤコブを愛したと神が言ったと 預言者は言ったようなのです。
先の実存志向における人間の自由かつ平等 この原点が いかに経験世界にあって 一人ひとりにおいて どう生きる動態となるのか? この問いを問い求めていくのが 親鸞に共感するアミターバの徒の重要な課題なのではないでしょうか?
あらためて言えば:
★ いろんなことを発言行動していても 結局 死ねば来迎がある というのは全て平等に扱う ということではないかと おもうのです。
☆ これは なるほど無差別の愛としての慈悲 この特に無縁慈悲が目指すところです。ただし これは ただただ想像力ないし理性によって 人と人との関係として 三人のあいだでは 正三角形としてすべてつねに等距離だという幾何学の線をチョークで引いたというだけのものだとお考えになりませんか?
博愛は とうといですよ。でも じっさいにはどうなんでしょうか? という問いです。
★ 浄土は意味のある世界である、と言っていると思います。
☆ すなわち いまここで浄土にあるゆえに 人間の自由および互いにみなが自由であることによる平等という原点が成るのです。即得往生としての現在が浄土だという《非思考の庭》 そういった無根拠による根拠が 意味を持ちます。それによってこそ 《現実のえこひいきや 不遇の問題》にむなしさを返上してあたることができます。
ただしその実際のあゆみは むつかしい。それで この質問をかかげています。
★ 現実の社会を依怙贔屓のないものにしたいと願い・・・親鸞は現実社会で率先して実行していたとおもうのです。
☆ 《弟子ひとりも持たずさふろふ》と言いました。つまり 互いに《みな同朋》であると。むろん 親鸞じしんもです。僧侶もへちまもないという意味です。(その後 浄土真宗はまた変化していきました)。
★ 現実世界に利益をもたらせない宗教は意味がない、というご指摘・・・
☆ ここまで以上のように考えてきたということは 現実世界において・そしてこの経験世界においてこそ 人は生き動き存在するということを言っているのだと見ます。そのことを アミターバとわれとの関係からみちびきだしている。という実存志向ではないかという解釈です。
《宗教が利益をもたらす》のではありません。現実にあって動態として成り立っているのが 信仰であるゆえ つねに次の一手としての実存を考えよということではないでしょうか?
結果がよいにこしたことはありませんが まづつねに一歩という動きのことを言っているのではないでしょうか?
No.9
- 回答日時:
反論ありがとう。
まあ、「マーシーは打たれ弱い」という点に関しては異議はないと思う。
きちんと返答してくれてありがとう。
マーシー氏については 番組は見ていたけれど その後くわしい経過を知らない。
それと再犯が事実だとすれば 志村けんが言っていたように思うけれど やはりおかしい。
というような感じがあります。
この質問は 《神の愛の――あるいはブッダの慈悲の――えこひいき》という見方は出発点なのであって それには終わらないという出で立ちなのです。
さらに問い求めがすすめられるようのぞんでいます。
No.8
- 回答日時:
>ちょうどこのあいだ ようつべで 某かつて有名だったエコノミストの事件釈明ないし解明ないし弁明の発言を聞いて これは 冤罪だなとの印象をつよくしました。
つまり 生きながら無口にされてしまった場合です。
彼はすごいね。
普通自殺しちゃうんだけど、逆に売りにしてるからね。
かれは逆境を逆境と思い込まなかったからたちあがれたと思う。
>生きながら無口にされてしまった。
本当に賢ければ、無口がなんぞや。
裏から操ればいいんやでー。
それに比べたらマーシーは打たれ弱いよな。
そうかも知れないけれど 個人の問題とともに 冤罪一般論としてもあると思うのです。
ご回答ありがとうございます。
つまり 犯罪と冤罪とは別ですし 偶然の冤罪とは別にさらにいわゆる国策としてのあちらからの罠に落ち入る場合もあります。
つまり 国か誰かの意図的に犯す犯罪のもんだいです。
★ ~~~~~
本当に賢ければ、無口がなんぞや。
裏から操ればいいんやでー。
~~~~~~~
☆ というんだったら その《裏》はあっていいし それの確信犯としての犯罪もあっていいと言ったことになります。
つまり 《えこひいき》の問題であり それを称して《義なきを義とす》という人間存在とその社会にかんするナゾの原点(推進力?)をめぐる捉え方が出て来ます。
問題は それでよいか? それでおしまいか? 人間はそれ以上の認識も考え直すべき思考=および行動の形式もないのか? です。
絶対他力ということは 経験世界にあっては 絶対的に自力で考え合い共生して行けということなはずです。
どうするすべもありませんか?
No.7
- 回答日時:
阿弥陀仏にまかすというのは、自分が馬鹿だと自覚し判断もまかすわけです。
ただし、本当に教祖に判断を任すとカルトですから
実践的には自分が馬鹿だと自覚し難解な判断をしないということになります。
雨が降ったら傘をさす。これくらいの判断でいいんです。
逆境とかそういうのはTVの視すぎです。
もぐ777さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ 逆境とかそういうのはTVの視すぎです。
☆ こちらから行きます。
ちょうどこのあいだ ようつべで 某かつて有名だったエコノミストの事件釈明ないし解明ないし弁明の発言を聞いて これは 冤罪だなとの印象をつよくしました。
つまり 生きながら無口にされてしまった場合です。
これなどは エコヒイキの問題をさらに具体的に問い求めて行く事例であるように思ったのです。
神の愛と言うと とっつきにくいのだと思いますが では 慈悲ならどうか。と捉えて行くことは出来ると思うのです。そういう問いも含まれています。
★ 阿弥陀仏にまかすというのは、自分が馬鹿だと自覚し判断もまかすわけです。
☆ 何だかどこだか 微妙に違うような感じを受けるのですが。どう違うかなぁ。
ええっとですね。
☆☆ 1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。
☆ ですよね。
ううーん。どうですかね。
あぁ こうですかね つまり:
アミターバのこころのままにというふうに身も心もまかすというのは そのときに《義なき》なのだと思われるからには けっきょく
★ 自分が馬鹿だと自覚し
☆ の内省の行為はなく あるいはまた
★ 判断もまかすわけです
☆ の任し方において 《判断》が思いや考えのことだとしたら そういうハカラヒはいっさい無いということになる。こう思うのです。
微妙であって 詭弁のように聞こえるかも知れませんが
☆☆ 1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。
と言っているのですから そうなると思うのですが どうでしょう?
アミターバと我れとのあいだに いっさいの夾雑物を入れない。それが《義無き》ではないか?
★ ~~~~~~
ただし、本当に教祖に判断を任すとカルトですから
実践的には自分が馬鹿だと自覚し難解な判断をしないということになります。
~~~~~~~~~
☆ ということは 《ハカラヒ無き状態において 義なきを義としている》でしょうか?
だとしたら 前半からのつながりが はっきりしなかった。ように思えます。
もっとも《義なき》というのは 《馬鹿だと自覚するしない》も《難解な判断をするしない》もかかわりのないことだとは思います。そのハカラヒ無きという意味において。
ちょっと揚げ足取りではありますが。
でも微妙ですから 細かく見て行く必要があるように思います。
いやぁ まだ微妙ですね。勇み足がありましたでしょうか?
No.5
- 回答日時:
よくは分かってませんが、感想です。
『無義をもって義となす』が依怙贔屓を表すとは思いません。親鸞は 人は何をしようが所詮 煩悩具足の凡夫であり だれであっても 死後 阿弥陀仏が浄土を約束してくれている、と言われていると思います。人が阿弥陀仏を信仰しようがしまいが 関係なく浄土を約束しているのです。全ての人を対象にしている立場から 『無義をもって義となす』とは 義に意味があるなら無義に意味がないわけがない、と言われているとおもいます。依怙贔屓なく浄土を約束してくれているのです。それ以上の現世の利益は何も約束していないと思います。煩悩具足の凡夫は 夫々の人生を思い切り生きよと言っているように思います。
以上の理解を踏まえて、
9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?=>同意します。
9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?=>阿弥陀仏を信じなければその通りでしょう。
9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?=>たたえなくてもおしまいと思います。
10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?=>阿弥陀仏は何も約束していないと思います。
宗教としては分かりやすいのではないでしょうか。
おうけい9606さん こんばんは。
思いっきり正直にご返答するのがいちばんよいと考えました。
★ 〔アミターバ・ブッダが〕依怙贔屓なく浄土を約束してくれているのです。
☆ この命題について ふたつ疑義が生じます。
(14) ひとつは 《浄土を約束する》とは どういうことか?
(15) もうひとつは 《依怙贔屓》のない人間の社会的な境遇が実現したことはあったでしょうか?
そしてこのふたつの問いは 次の問題とからまっています。
★ 親鸞は 人は何をしようが所詮 煩悩具足の凡夫であり だれであっても 死後 阿弥陀仏が浄土を約束してくれている、と言われていると思います。
(16)☆ 《死後》は まるっきりどうでもよいと親鸞は言っています。
▼(親鸞:有念無念の事) ~~~~~~
1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。
2. 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。
3. また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。
4. 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住す。
5. このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。
6. 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。
(末燈抄・一 伊藤博之校註)
☆ (試訳) ~~~~~~~
1. 臨終のときに阿弥陀仏が極楽へと引き取るためにやってくるという来迎は 修行や善行を積むことによって往生する場合のことである。自力をたのむ行者であるゆえ。
2. 臨終に来迎を期待するということは 修行を積んで成仏する人に言うことである。いまだ阿弥陀仏からの他力なる真実の信心を得ていないゆえ。
3. あるいはまた重い罪を犯した人が 臨終の折りに導師に会って念仏をすすめられるときに言うことである。
4. 如来回向の信心にあずかる人は 如来の大慈悲にもれなく摂取され最終的にも摂取されたゆえに まさしく往生することが定まっている人すなわち正定聚(しやうぢゃうじゅ)のくらいに住している。
5. このゆえに臨終正念というような往生のかたちを俟つ必要がない。来迎をたのむこともない。
6. 信心の定まるとき 往生が同じく定まるのだ。来迎の儀式を俟たない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《どうでもよくない》とは言っていないゆえに 《どうでもよいと言っている》とわたしが拡大解釈したのですが それでも《このいま》においてすでに――過程的に――《往生している》ということは言っています。
《即得往生》と言われています。
ですから (14)は 問題になりません。いま・ここが すでに浄土です。
(15)は 経験則として つねに人間の社会には 不遇にある人びとはいるわけです。
そうしますと (16)で死後はどうでもよいとなるとすれば では どう考えるか? よって こうなると思われます。
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~
10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?
11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ひとまづ 現象としては《えこひいき》になっている。こう帰結されるのではないでしょうか?
そしてそのあと 次の問い求めが来ます。
☆☆ ~~~~~
13. このあと 《だから 言わんこっちゃない これこれなのだ》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。
~~~~~~~~
☆ すなわち 《えこひいき》なる現象は もうそのことの認識でおしまいとなるのか? それとも まだまだわれわれ人間の考える余地があって どうにかすることが出来ると捉えるのがよいか? だと思います。
その前に もう一度議論を振り返ってみますが
★ 人は何をしようが所詮 煩悩具足の凡夫であり
☆ こんなことは 言わずもがなではないでしょうか? 確かに親鸞はとびっきり他を圧して そういうことを書いたりしていますが それはそれ 個人としての自己表現のひとつの色合いといったところでしょう。何も 理論立ててそういうことを ことさら言っているとは思えないのです。ごくふつうのことだからです。
強いて言えば その煩悩具足の凡夫であることについての自覚の違いは 人によってある。というのみではないでしょうか。
★ 全ての人を対象にしている立場から 『無義をもって義となす』とは 義に意味があるなら無義に意味がないわけがない、と言われているとおもいます。
☆ この場合注意しなければならないと思われることは アミターバが
★ 全ての人を対象にしている立場
☆ だというのは 問題ないと思われがちですが そうではないと思われることです。《アミターバが全ての人を対象にしている》という見方をするワタシの立ち場 これがあるのみなのです。
それと この場合つぎの命題は むつかしいですね。
(17)★ 義に意味があるなら無義に意味がないわけがない
☆ 《義》は 現代では基本的には死語だとわたしは考えますが この場合には
☆☆ 2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。
と解釈しています。そして じつはこの(17)として出された命題については まだよく読み取れません。とそのままお伝えするしかないです。分からないです。
(18)★ 依怙贔屓なく浄土を約束してくれているのです。
☆ これは いま上に触れました。そのように判断することは あくまで個人の主観の内に起こる出来事です。自由ですし その表現も自由ですが それ以上にその主観内容がほかの人びととのあいだに共同化されるかどうかは また別のことです。
というより もしそう言うのであれば 《現実における現象としての不遇な生を送る場合》についてどうしてそれが エコヒイキではないと言えるのか。論証しなければならないと考えます。それが 問い(13)です。
★ それ〔つまり (18)の内容〕以上の現世の利益は何も約束していないと思います。
☆ 《浄土を――おそらく死後に――誰にでもエコヒイキなく約束している》ことが どうして エコヒイキでないのか? 現実に不遇であるのは もう忘れろということなのでしょうか? なんでそんな結論を無造作に出して来れるのでしょう? だって《エコヒイキしない》と言ったその矢先で おちぶれた人生をあゆむ者は あきらめろと言っているのですから。
★ 煩悩具足の凡夫は 夫々の人生を思い切り生きよと言っているように思います。
☆ そんなことは分かり切ったことです。《煩悩具足》も その自覚が多かろうが少なかろうが 《人生を自由に生きること》も 分かり切ったことです。
言ってもいいとしても それは ただ死後に平等な状態になるのだから この現実においては 思うようにならないことはいっさいあきらめろ・・・でしょうか?
★ 9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか?=>阿弥陀仏を信じなければその通りでしょう。
☆ どうして 《死後の世界》が そんなに断定できるほど分かるのでしょう?
しかも次のところでは 死後の世界はないとも受け取れる発言をされています。
★ 9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか?=>たたえなくてもおしまいと思います。
★ 10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?=>阿弥陀仏は何も約束していないと思います。
☆ となると いったいアミターバは なんのためにいるのですか?
意味がないのではないですか?
★ 宗教としては分かりやすいのではないでしょうか。
☆ 《人びとをして現実の不合理や不条理について見ないようにし また見たとしてもそれについて批判的な目を向けることをしないようにするための》という規定を ここでの《宗教》につけ添えるなら そうだと思います。
No.4
- 回答日時:
#2ですが。
え~~~~偏った思想が多い書物等をたくさん読み過ぎると劣等感ばかりが強くなってしまいます。好きな本しか読まないでしょ。 失敗を恐れずに考える前に実物を見たり体験したりすることにより経験を得た 行動力があって決断できる人達より 劣るのではないのでしょうか。
おまけに 神様等に憧れたりして妄想が膨らみ 占い師の話やおいしい話にだまされますよ っと。
お釈迦様が書物にしなかったでしょ。書物は理解が困難な代物なんですよ。感性、理性、悟性が伝わらない。
会話ならoK・・・wave 「ありがとうございます」で救われた!!! っと言わせたいの???う~~~ん
まぁ~本は参考になりますが。
たしかに警戒していてふつうであるのかも知れません。
なかなか 本を読むにも人を読むにも ふつうにしていても うまく行かない場合も多くあります。
ということだとしたら 警戒するでしょうね。
まぁ じっくり読みこなして行くというところでしょうか。時間をかけて行くのでしょうね。
或る程度まとまった理解ができれば それを基礎として読みこなして行けるようになると思います。
ということで。
てふ_てふさん ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
> もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう?
今、この瞬間に浄土、地獄に居るとは夢にも思わないからです。
正確に言えば、この瞬間の浄土、地獄と死後の浄土、地獄は同じだという認識が無い。
地獄にいながら浄土の夢を見る。
地獄にいるから、せめて浄土の夢をみたい。
きわめて人間的な・・・
ん?
まづは もぐ777さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
☆☆ もしこうだとしたら
というのは
☆☆(趣旨説明欄) 6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。
ですよね。つまり 即得往生しているのですから――もちろんそれは 完全にそうなったということではありませんが つまり過程としてすでに往生しているという意味になるのだと思いますが そうであれば――
★ 今、この瞬間に・・・地獄にいながら浄土の夢を見る。
☆ は実現していると思います。
その上で
☆☆ 9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか?
になると思うのです。どう生きても すでに浄土に往生してしまっています。すでに往生しているので いまこの瞬間ごとの思いと考えそして行動が 自由で答責性のあるわが確信に満ちた実存のかたちになるのだと思います。むろん あやまちますが。
そのときやっと
★ きわめて人間的な・・・
☆ と言えるのではないでしょうか?
《夢》にいわば無根拠の根拠が得られたというところから 人間的な試行錯誤の道をあゆむことができるというような。・・・
ただし
☆☆ 10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか?
の問題はまだまだ しっかりと考え尽くす必要があろうかとは思いました。《自由な実存のかたち》が とかくむなしいように思えてしまうからです。
おそらく《むなしい》と思えてしまうほうが 錯覚ではないかと思うのですが でも無常感は 感覚として相当しつこいものがあります。
体験をとおした認識を みなで分かち合っていくのがよい。こう考えました。
と思うのですが どうでしょう?
No.2
- 回答日時:
#1です こんばんは。
そうですね アミニズムについては考えない方がいいと思います。何故なら 他人の助言等は 何もならないからです。実際他人の助言では 何も事態は変わっていないでしょう。 私は 個人の感性、理性、悟性はその人だけのものだと思います。
お早うございます。ご回答をありがとうございます。
アニミズムの件 分かりました。
★ 他人の助言
☆ については たぶん最終的に決めるのは 自分ということになりますが その助言を参考にするのも わるくないと思いました。
本を読んでその考えを参考にすることもありますから。――ではないでしょうかねぇ。
と思いました。よ。
No.1
- 回答日時:
こんにちは。
私は bragelonneさんがおっしゃっているとおりだと思います。
人間は 一瞬ふっと 何もかも忘れたように気が楽になったと思う時があるのではないでしょうか?ああ~救われたんだ!!!
私は聖霊と精霊の信仰者ですから。(笑)
なるほど。
☆☆(趣旨説明欄) 12-5. 風は思いのままに吹く。
(ヨハネ福音 3:8)
ってわけですね。そして確かに 何も――この風の吹くことにかんしては―― 努力もしないし 特に考え及ぼうとすることもない。・・・これでいいですかね?
★ 精霊
☆ は 呪術としてのアニミズムですよ? それでもよいのですかね。《聖霊》のほかにこの《精霊》にも親しむということでしょうか。
魚が網に掬われるように からだが浮いたごとくに楽になれれば まづは それに越したことはないと思います。ヒラメキに付随する効用でしょうか。
☆☆(趣旨説明欄) 1-3.(末燈抄:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。
これで いいわけですね? その《すくわれる》ときに 義=ハカラヒなどはなかったということで。
てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございました。遅ればせながら。
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