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哲学科で論理学と倫理学どちらを学んだほうがより論理能力をつけることができるでしょうか?

ここで注意してもらいたいのが
確かに論理学と倫理学どちらも論理能力は身につきはするでしょうがここで問題にしているのは、「どちらがより論理能力をつけることができるか?」です。
大学ではどちらも大差ない、優劣なんて決められないなどは回答になりません
そこを了解してもらえるようお願いいたします。

・ここでは論理学側と倫理学側の主張から、その中での疑問についてお答えしてもらうようお願いいたします

1、論理学で「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」、ということを研究したほうが複雑な論理方法や論理のルールを身につけられて結果倫理学をやるよりもより論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく
2、論理学はやらないが倫理学で実践的に論理を使い、実践的に論理能力を養っていくほうが論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく

1、についての疑問は
・「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけたからと言って論理的に思考する能力がつくとはいえるのだろうか?
論理学の成果を利用して、多様な主題について検討し研究し、議論していったほうが論理能力は身につくのではないだろうか?
2、についての疑問は
・「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけていったほうが論理について詳しくなる=論理に強くなるのではないだろうか?
論理学の成果を利用しているだけでは論理能力はつかないのではないだろうか?



回答のほうよろしくお願いします

A 回答 (5件)

旧帝大の博士後期課程でフランス哲学を学んでいるものです。




>哲学科で論理学と倫理学どちらを学んだほうがより論理能力をつけることができるでしょうか?


私は論理学だと思います。
論理学は、人間が物事を理解する枠組み(認識)となるものです。私たちにとって論理形式が真理を持ちうるからこそ、思考できるとも言えます。論理学にも「数論理学」や「形式的論理学」、「超越論的論理学」などそもそも論理がなぜ成立するのかを根本的に問う領域もあります。

倫理学は、人の「正しさ」を見出すとても大切な分野ですが、この学問だけで、論理能力が著しく高くなるとは思えません。難易度も桁違いに論理学が難しいです。

ただ、両者はどちらも現代哲学のトピックスですが、需要としては「倫理学」の方に分があります。正しい論理よりも、例えば、教師の倫理観を高めるにはどうしたらよいか、などの方が世間的には重宝されるのです。
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この回答へのお礼

お礼入力で催促をしてしまいすいません。
厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うまく説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということです。
 
ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。ということだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもらってもよろしいでしょうか?

お礼日時:2013/01/23 19:16

「論理について詳しくなる=論理に強くなる」「論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく」という目的は、「論理的に正しく考える力量を駆使できるか」とは関係がないか、関係が薄いことと思います。

 
多くの人は論理的には考えないし、論理的な厳格さは心理的な拒否反応を惹起することが多いです。 むしろ、修辞学や言論術、社会心理などをマスターした方が有効です。
演劇で演技力が高いのと、有名さ・ブランドイメージ・衣装・舞台装置・共演者・演出・音響効果などの綜合で演技力がさほどではないのと、一般の評価や人気、観客への影響力を比較したら後者です。前宣伝が効いていれば、その効果は抜群です。
 
体育学、スポーツ医学、運動工学を勉強しても、優れたスポーツマンになるものではないです。
しゃにむにスポーツにのめり込んでも、優れたスポーツマンになるのは簡単ではありません。天賦のものも、科学的に裏打ちされたトレーニングや休養や肉体作りも必要ですし、メンタルなものも、偶然の要素も大きく関係します。
 
「論理について詳しくなる=論理に強くなる」「論理的に考え、整理し、相手に伝える力が身につく」という目的で、(a)「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいか」を論理学コースで研究する、(b)「実践的に説得能力を養っていく」のを倫理学コースで実践する を比較するならば、(b)の方が効果的でしょう。 
しかし、大学で倫理学という専修コースに進んでも(b)が出来るかどうかはわかりません。
対象として考えている学科の先生のなさっていること、カリキュラム、シラバスなどを調べて、そうした実践的な能力取得が可能そうなところを探してみてください。
http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/class12.html
http://www.kokushikan.ac.jp/faculty/Letters/depa …
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「論理的に正しく考えるにはどうしたらいいかを研究し、複雑な論理方法や論理のルールを身につけたからと言って論理的に思考する能力がつくとはいえるのだろうか?」


論理学の成果を利用して、多様な主題について検討し研究し、議論していったほうが論理能力は身につくのではないだろうか?


前提1「私は男である」
前提2「ある者xが男であるならば、xは女であるすべての者よりも背が高い者である」
ゆえに、前提1.2により、
結論「女であるすべての者よりも私は背が高い」
これは三段論法であり、この推論は形式的に真です。論理的に妥当な推論とも言います。論理的に妥当であるとは、ある結論が前提から必然的に導出されるような推論のことを言います。
「私は男である」「すべての男は同性愛者である」ゆえに「私は同性愛者である」
これも論理的に妥当な推論です。
質問者さんの言う「論理的に正しい」が「(演繹)論理的に妥当である」を意味するなら、対偶や逆や裏、そして推論規則を覚えてそれを使用することが重要です。つまり上の論証では、「私が男であり、かつ、すべての男は同性愛者であるならば、私は同性愛者である」わけですが、「私が同性愛者でないならば、私は男ではない、またはすべての男が同性愛者であるわけではない(男のなかにも異性愛者はいる)」となるわけです。

もちろん、ある推論が論理的に妥当であることは、前提として置かれている命題が真であるか偽であるかとは別の問題です。私は男であり、かつ異性愛者です。これは前提「xが男であるならば、xは同性愛者である」に反します。したがってこの前提は偽です。上の論証は論理的な妥当な論証ではありますが、論理的に健全な論証ではない、となります。論理的に健全な論証である条件には、論証に用いられる前提がすべて真であることが含まれるからです。
もし質問者さんが、形式的に妥当な推論を行うことが論理的に考えることだと見なしているならば、やはり推論規則などを学んで使えばそれでよいわけです。

「複雑な論理方法や論理のルールを身につけたからと言って論理的に思考する能力がつくとはいえるのだろうか?」
私が推論規則を身につけそれを使用できることができるならば、私は論理的な思考が身についている者、厳密に言えば演繹論理的な思考が身についている者です。
しかし倫理的な問題を論理的に思考しようとするならば、つまり論理的な能力を倫理学に応用しようとするならば、論理学だけをやってもしょうがありません。


あと私には質問者さんが演繹と帰納をあまり区別していないように思われます。というより、どういう意味で「論理的」という語を使っているのかよくわかりません。「私はチョモランマである。チョモランマは地球である。ゆえに私は地球である」、これも演繹論理的に妥当なわけですが、こんな文を作ることは質問者さんの言う論理能力とはたぶん違いますよね。

「論理的に」が「演繹的に」を意味しているなら、推論規則を学ぶことがすなわち推論能力を鍛えることになるでしょう。しかし「論理的」が「演繹的」だけを意味しないならば、推論規則を学ぶことだけでは鍛えられない論理的思考があるとなります。
ちょっとやって見ます。
「Aは人を殺した。人を殺した者に人権はない。ゆえにAに人権はない」
この議論は論理的に妥当に思われます。この議論に対して私なりに論理的に反論するならこうなります。
「殺人者に人権がないとするならば、殺人者に裁判を受ける権利もないということになる。ところで人権はすべての人間が生まれながらにもっている権利である。だとすると、殺人者が人間ではないときにかぎり、殺人者には人権がない。殺人者が人間であるなら、人権の定義により、殺人者にも人権がある」
これは前提の一つ「殺人者には人権がない」を批判した議論です。この反論には演繹論理を用いていますが、では演繹論理的な推論規則を知っていればこの反論ができるのでしょうか。そうではないでしょう。ある論証が健全な論証であるかどうかは、その論証に含まれる命題が真であるか偽であるかを判別しなければなりませんが、その判別を推論規則によって実行することはできません。三段論法や人権がすべての人間が生まれながらにもっている権利だと知っている人でも、「犯罪者に人権はない」と主張したりするわけですからなおさらですね。でも、「Aは人を殺した者である。人を殺した者は人権をもたない。ゆえにAは人権をもたない」も論理的ではあります。論理的に考えるという点では、この論者もそれに対する反論者も共通しています。両者の違いは何でしょうね。すくなくとも前者は自己批判ができていないように思われます。

「複雑な論理方法や論理のルールを身につけていったほうが論理について詳しくなる=論理に強くなるのではないだろうか?」
詳しくはなります。しかし論理に詳しくなることがすなわち論理に強くなることではありません。先にも述べたように、人権の定義や三段論法を知っている者でも「殺人者に人権はない」と主張したりするからです。推論規則に詳しくなっても、それだけでは「殺人者に人権はない」という命題を批判的に考察できません。

「論理学の成果を利用しているだけでは論理能力はつかないのではないだろうか?」
つきます。むしろすでについています。既存の推論規則を正しく使えることは論理的な能力です。論理学の成果を利用できる能力があるなら、それは論理的な能力があるということです。

「どちらがより論理能力をつけることができるか?」
演繹論理や推論規則を身につけてそれらを使用するためには、倫理学ではなく論理学の講義をとり、演習を通して訓練したほうが適切です。

議論に関心があるのなら、形式論理学だけでなくクリティカルシンキングをオススメします。
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こんにちは。



質問の回答になっていないかもしれませんが、少しいいですか。

身内の一人がいま語学留学にでかけています。遠く離れていてもスカイプ繋げば顔を見ながらリアルタイムで話もできちゃうんです。夜な夜なスカイプでお喋りしています。でね、彼女が言うには、留学した先にはいろんな国から語学を学びに人が集まってきているそうです。授業の間は学びにいった先の言語で会話がなされます。生徒間の会話もね。授業が終わり休憩時間となるとそれまでとは一変して英語が飛び交う。共通言語が英語。英語に不慣れな彼女は嘆いていました。文法をもっと勉強しといたらよかったと。

論理と文法と語学

他言語を話す際、文法をマスターしていることは言いたいこと伝えたいことをよりよく話すたすけになるようです。

論理学と倫理学、どちらの入り口から入れば?と、もしお悩みなら論理を学んで倫理を知ることもできるのではないですか?


難しいことはよくわかりませんが、ふと彼女が溢した言葉が頭に浮かんだもので…


余計な書き込みとなりましたらお許しを
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倫理学は、道徳や規範を研究するものですから、論理と関係ないでしょう。

最初から比較が成立していません。心配なら、さらに雄弁部にでも入って、論理学の成果を実地で試してみたらいいでしょう。
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