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数学基礎論の林晋先生の「ゲーデルの謎を解く」という本を読んで疑問に感じていることがあります。
この本の最初に「ホーキングの疑問」と銘打って天才物理学者の下記の疑問をゲーデルの不完全性定理になぞらえています。
「本当に完全な統一理論があるならばそれは人類の行動をも決定するだろう。ということは、統一理論自体が、人類の統一理論探求の行方を決定することになる! だとしたら、どうして、人類が正しい結論にたどり着ける、と決まっているだろう?」

もし、統一理論がニュートン力学と初歩的な電磁気学で構成されていたとしたら、そのような世界では、ニュートン力学を理解できるような知性は生まれえないということでしょうか。

自然科学は暫定的な仮説の総体と言っても良いはず。無矛盾を前提に証明された不完全性定理を自然科学に適用するにはもっと慎重であるべきではないかと思います。

統一理論(というより宇宙)の自己言及性という問題があるとすれば、次のような状況ではないかと考えます。宇宙の全要素の状態を超巨大コンピューターに入力できて、宇宙のすべての状態を把握できるようになる。そうするとコンピューター自身も宇宙の一部ですから、そのデータも自分自身に入れなくてはなりません。
つまり人間の能力は余りにも小さいので、自然科学分野では不完全性定理が障害となるような事態はあり得ないと考えています。

以上のような私の考えに対してサゼスチョンがあれば聞かせていただきたいと思います。
勝手ながら、回答は数学科か哲学科の方か同等の知識のある方にお願いいたします。

A 回答 (24件中1~10件)

量子力学によると、位置と運動量は同時に正確に測定できません。

よって、そのコンピューターに正確なデータを入力できないので、宇宙のすべての状態を把握できるようにはならないということになります。

これは不確定性原理というよりは、カオス理論の範疇だと思います。「初期値鋭敏性ゆえに、ある時点における無限の精度の情報が必要であるうえ、数値解析の過程で出る誤差によっても、得られる値と真の値とのずれが次第に大きくなっていく。そのため予測が事実上不可能」

>つまり人間の能力は余りにも小さいので、自然科学分野では不完全性定理が障害となるような事態はあり得ないと考えています。

物理学などの分野では、非ユークリッド幾何学が使われることもありますが、その際、(不完全性定理がでてくるような?)数学は手段として有用かどうかで取捨選択されるのであり、ちょっと雰囲気が違うと思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AA% …

この回答への補足

申し訳ありませんが、質問の趣旨は論理学上のものであり、それ故回答者を数学科か哲学科の方に限定させていただきました。
ホーキング博士の疑問の中でも「本当に完全な統一理論があるならば‥」とあるように、統一理論の自己言及性について説明するために仮定の話をしています。

最近、高名な物理学者の方が不完全性定理を引用して自然科学の限界について言及しているのをインターネットで見かけたので、問題提起のつもりで投稿したような次第です。

補足日時:2009/12/04 18:42
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この回答へのお礼

回答有難うございました。
説明不足でしたが、おかげで私の質問趣旨がより明確になりました。。

お礼日時:2009/12/04 18:46

理論と物質との対応関係、すなわち、哲学で言うところの、「認識と存在」の対応について、考えるべきでしょう。


ゲーデルの不完全性定理の前提条件を、ざっくりととらえるなら、「記述可能な(認識可能な)あらゆるものを、(認識可能な)ゲーデル数に対応させる」ということになります。
すなわち、「りんご」なら「りんごを構成しているであろう」原子・分子の「理論的な記述」や、その構成要素間の「関係」の記述などなど・・・そういったものを、コード化することに対応するでしょう。「認識しうる限りのあらゆるもの」です。認識の範疇に「無限分割可能なりんご」という概念が含まれているならば、「無限分割」という概念も「コード化する」わけです。たとえ、存在としての「りんご」が「無限分割不可能」であったとしてもです。

すなわち、存在と認識の間のギャップについては、認識側からの「想像・空想・想定・知的優位性」にて、軽々と越えうるという錯覚を、前提にしています。
そういった「コード化可能かつ無矛盾かつ論理的、かつ自己参照的な」概念を扱うというときに出てくる問題がゲーデルの不完全性定理でしょう。

コンピュータ科学では、「自分自身を自分自身で記述可能な」LISP処理系が開発された当初から、ゲーデルの不完全性定理を内部にて実現する試みがなされています。
http://www.unfindable.net/~yabuki/article/unknow …

もし、「統一理論」なるものが「人間の知」にて扱われることになっても、それは、「理論的・論理的な説明可能性の選択肢の一つ」であり、「認識」を越えるものではないでしょう。
「存在」は、そういった「幻想的な認識」と深い関連性を保ちながらも、「なぜ?」といった疑問を越えて、「存在」しつづけることでしょう。。。

この回答への補足

ゲーデル数は不完全性定理を証明するための道具立てですよね。リンゴをゲーデル数化してどうしようというのでしょうか。

私の提示した問題は、ゲーデルが証明した不完全性定理を引用して、自然科学の限界を云々することが妥当かどうかということです。

補足日時:2009/12/04 20:41
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

>「自分自身を自分自身で記述可能な」LISP処理系‥‥
面白いですね。時間があれば勉強してみたいと思います。自分自身を記述したら無限循環に陥らないのでしょうか。

お礼日時:2009/12/04 21:00

>>>No.2 補足欄


ゲーデル数は不完全性定理を証明するための道具立てですよね。リンゴをゲーデル数化してどうしようというのでしょうか。

私の提示した問題は、ゲーデルが証明した不完全性定理を引用して、自然科学の限界を云々することが妥当かどうかということです。
<<<

。。。

(認識としての)自然科学という「知的概念構成」をゲーデル数化する(すなわちコード化する)ということです。そのための例として「リンゴ」を出しています。

「リンゴが落ちる」、「リンゴが腐る」、「リンゴに2種類の金属を差し込んで電池とする」などという現象をゲーデル数化できれば、不完全性定理がどのように関与してくるか?を「知的・幻想的に捉えうる」ということです。

そのためには、リンゴを構成している原子や分子に番号を割り振り、化学的な結合関係にも記号を割り振ってやり、構成分子同士の織りなす変化(受粉から果実への変化の過程や、甘く熟していく過程)をも述語論理としてゲーデル数化することが可能です。無論、「リンゴ」の実体が構成されているわけではなく「知的・幻想的な」作業でしかないのですが、「科学的理論の正当性」というレベルでは、「確かに、リンゴを、その高さから落とせば、そういった潰れ方をするよね」といった記述を表現することも可能なコード体系なわけです。

そうして、そのような「自然科学的な現象」をゲーデル数化することが可能だということは、そのまま、プログラムとしてコンピュータ上に関係を構築可能だということです。
コンピュータ内部で扱うのは、まさに「コード」であり、諸手続を行う関数にも、それぞれ「コード」が割り振られて「区別」されます。内部でのデータ処理は、最終的に一連の論理演算へと変換可能なため、コンピュータがたとえ並列処理をおこなったとしても「チューリングマシンを越えるコンピュータは現行存在しない」と言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5% …

LISP処理系は、自己参照系の記述が可能で、さらに、「コード化された関数」を関数の要素として扱うことが可能な言語であり、ゲーデルの不完全性定理を「実行する」ことが可能だとされています。(たしか、林氏の本にも記述があったはずです)

したがって、コンピュータでシミュレーション可能だという範疇での自然科学の(知的関連性に限定した)概念の「論理的・無矛盾・自己参照系の記述」は可能なわけで、そういったレベルでは不完全性定理からは逃れられないと思われます。

また、No.1でも触れられていますが、認識と存在の狭間には、ハードプロブレム、量子相関など、さまざまな問題が横たわっていることも事実であり、科学的記述のみ(すなわち認識側からの自然科学的な世界の記述のみ)で、全てを尽くし切ることは不可能だと思われます。
もし、そういったことが「論理的・無矛盾」に説明可能になったとしても、ゲーデルの不完全性定理という呪縛から逃れられないとわかっているわけです。

このことは、
>>>
もし、統一理論がニュートン力学と初歩的な電磁気学で構成されていたとしたら、そのような世界では、ニュートン力学を理解できるような知性は生まれえないということでしょうか。
<<<
の回答にもなっています。
すなわち、上述のようにはならず、
===
もし、統一理論がニュートン力学と初歩的な電磁気学で構成されていたとしたら、そのような世界では、電磁気学はもとより、ニュートン力学や、統一理論を理解する知性が生まれるでしょうが、「その知性の内部には、それら理論によって、証明も反証もできない命題が存在する」(第1不完全性定理)でしょうし、「その理論自身が自身の無矛盾性を証明できない」(第2不完全性定理)
===
となるでしょう。

(自然科学的な)理論は、認識論としての「一つの説明可能性」であって、(知性の存在をも含めて)「存在」そのものには言及できないということです。したがって、上述のような「知性」の存在の有無には言及不可能だということです。

このことは、ゲーデルが試みようとした「神の存在証明」にも如実に表れていると思われます。
「不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。」の回答画像3

この回答への補足

<<‥‥などという現象をゲーデル数化できれば、不完全性定理がどのように関与してくるか?を「知的・幻想的に捉えうる」ということです。>>

なぜゲーデル数化すれば、不完全性定理がどのように関与してくるかを見ることができるのでしょうか? おそらく「知的・幻想的に」捉えることは不可能だと私は思います。
「(認識としての)自然科学という『知的概念構成』をゲーデル数化」の具体的イメージを描きながら述べられていますか?。
自然現象をどのようにゲーデル数化するというのでしょうか、ごく簡単な例で方向性だけでも示していただきたいと思います。
ゲーデルは対角線論法による自己言及命題を示すために、ゲーデル数を発案したのだということを思い起こしていただきたいと存じます。

<<LISP処理系は、自己参照系の記述が‥‥、ゲーデルの不完全性定理を「実行する」ことが可能だとされています。>>

不完全性定理を「実行」などできないですよね。「証明」の実行という意味ですか?

補足日時:2009/12/05 00:20
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これは回答ではありませんが、私自身の参考にしたいので、



>最近、高名な物理学者の方が不完全性定理を引用して自然科学の限界について言及しているのをインターネットで見かけた

に関して、何処のインターネットで見かけたのか教えて下さいませんか。

私は物理学の研究で飯を食って来た者ですが、私の拙い認識では、カント以降の分析的真偽と総合的真偽の違いの発見によって、数学と自然科学は本質的にその対象も興味も違う物だと理解しております。この違いの現象論的な表出としては、数学者は常に論理の一般化にその主眼をおいておりますが、自然科学者はその論理の特殊化に全神経をそそいてでおり、その興味の方向が正反対な方向に向かうと言う振る舞いの違いとして現れております。私は、「物理学者の興味と数学者の興味は直交している」と、仲間内でよく冗談を言っております。自然科学が対象とする真偽とは一切無関係な分析的真偽を論じている数学が、それにも拘らず、どれだけ自然科学の真偽の判断に関して意味のあることが言えるのかに、私は個人的に大変興味を持っています。参考にしたいので、是非教えて下さい。

また、この質問に関して、哲学に強い方にお聞きしたいのですが、もし数学が自然科学の真偽に関して判断を下せるとするなら、カントは間違っていたと言うことなのでしょうか。それとも、カント以降の哲学の発展により、数学と自然科学の間のカントによる分類を弁証論的に昇華した私の知らない新しい発見でも成されたと言うことなのでしょうか。その辺りも教えて頂けると、物理学で私自身が何を研究しているのかに関して、現在持っている私の認識に果たして修正がいるのかどうかが分かるかもしれませんので、その辺りも教えて頂けると、有り難いです

この回答への補足

先般大阪市立大学を退官されました菅野礼司先生の「自然と科学 市民社会における科学の役割」というブログです。本人へのことわりもなくお名前をここにあげましたが、菅野先生は立派な見識をお持ちの優れた科学者であることは間違いないと思います。私の呈した疑念に対してもブログ上でこの上ない真摯さでお答えしていただいていることを強調しておきたいと思います。

私は最近哲学を勉強し始めたばかりでカントについての知識もありませんので、cyototuさんのご質問にはお答えしかねますが、この方面に明るい方がいれば、このスレッドを利用していただいて差し支えありません。私も興味があります。

物理学と数学の関係については、自然現象をうまく説明するための数学モデルを構築するのが物理学の役割であると考えています。

補足日時:2009/12/05 09:04
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>物理学と数学の関係については、自然現象をうまく説明するための数学モデルを構築するのが物理学の役割であると考えています。



自然科学者にとって、数学とは文法学です。したがって、貴方のこの数学に対する主張は、「歌や詩や小説や文学などが対象とする人間とは何かと言う説明をするための答えの文法学的モデルを構築するたのが、歌人や小説家の役割だと考えいます」とも受け取られかねない表現になっていると思えるのですが、私の誤解でしょうか。

この回答への補足

「構築」という言葉に引っかかったのでしょうか、不用意な言葉使いだったと反省しております。

「数学は意味を持たない。」とするのが現代的解釈です。自然科学者は自然を観察した結果をもとにその性質を抽象し、それに適合する公理系を自由に選べる、というような意味と受け取ってください。

補足日時:2009/12/06 11:37
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不完全性定理の言う、「公理系は不完全な場合に無矛盾であり得る」は、


そのまま、「決定論に基づいて構成された物理学が、その決定性の限界を示す
不確定性原理とセットである事で無矛盾であり得る(=有限な存在性を記述し得る)」
という自然科学に、そのまま射影しています。

この回答への補足

「公理系は不完全な場合に無矛盾であり得る」は不完全性定理とは何の関係もない無意味な言明です。

不確定性原理と不完全性定理がリンクしているという証拠はどこにもありません。衒学的な言葉を使って無責任なあてずっぽうを言わないでください。

補足日時:2009/12/06 11:46
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No.2 & No.3です。


結局のところ、実無限と可能無限との違いでしょうね。

LISP処理系で証明可能というのは、まさに「無限を実無限として扱いうる」という前提条件で成り立っています。
そこで証明可能ということは、「無限を実無限として扱う限り」(すなわち、仮想的に)「実行可能」ということと等価なわけです。(すなわち、下記に述べることが「可能であるならば」となります)

>>> No.3補足欄
自然現象をどのようにゲーデル数化するというのでしょうか、ごく簡単な例で方向性だけでも示していただきたいと思います。
<<<

宇宙全体の法則を全てコード化「可能とするならば」ということが、
>>>
宇宙の全要素の状態を超巨大コンピューターに入力できて、宇宙のすべての状態を把握できるようになる。
<<<
と等価になるということです。(すべての状態を入力できなくても、多くは「法則=関数」の形で入力しておけば済むでしょうし、コンピュータ上では、ビッグバン以降の宇宙の大規模構造生成をシミュレーションすることも実際に行われています)

で、自然科学とは、
>>>「宇宙に法則はあるのか」ジョン・D・バロウ, p.45
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
(中略)
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。
<<<
ということを、暗黙裏の前提にしています。

この前提と、ゲーデルが不完全性定理から推論したとされている数学実在論&機械論の考察の帰結とが関連し合っています。

途中を省略しますが、高橋昌一郎氏の「ゲーデル哲学」(講談社現代新書)のp.172からのゲーデルの帰結を引用しておきます
>>>
帰結5:人間精神は脳の機能に還元できない(反機械論)
帰結6:数学的対象は、人間精神から独立して存在する(数学的実論)
選言B:帰結5または帰結6、またはその両方が正しい。
<<<

このあたりは、
二元論や一元論およびチャマーズのハードプロブレム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98% …
と関連するでしょう。

この回答への補足

「無限を実無限として扱いうる」の件については、私はLISP系についても無知であり、私の能力を超える問題のようですので、パスさせていただきます。

ジョン・D・バロウについては承知しておりませんがヒュームの懐疑を一旦棚上げするという意味の前提でしょうか。その「暗黙裏の前提」をもとに議論していることは認めますが、「この前提と、ゲーデル‥‥が関連し合っています。」とあえて言明していることには違和感を感じます。その前提がなければ、物理学は単なる砂上の楼閣でありここでの議論はあり得ないのは当然のことではありませんか。

高橋昌一郎さんからは、ゲーデルが「人間の精神はいかなる有限機械をも上回る。」と考えていた、と匂わせるような印象を受けました。ひょっとしたらそうかも知れません。でも私はゲーデルが最後まで決定的な結論を述べなかったことの方を重視しています。

補足日時:2009/12/06 12:03
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この回答へのお礼

誠に勝手ながら、難解な知識の紹介はもう結構ですので、もっと的を絞ってわかりやすく噛み砕いた説明をお願いいます。

お礼日時:2009/12/06 12:47

>もし、統一理論がニュートン力学と初歩的な電磁気学で構成されていたとしたら、


>そのような世界では、ニュートン力学を理解できるような知性は生まれえないということでしょうか。
現実の科学史で否定されます。
ニュートン力学(の基本部分)が確立した時点では、ニュートン力学が適用できないような
事象は見つかっていません。したがって、それ以上のこと(相対性理論)のような、系外のことナシで
ニュートン力学は発見されています。
そもそも、不完全性定理では、発見できないとは言っていません。
発見できたとして、それが真実なのだから矛盾した観測結果は無い、そういった場合、
真実なのかそうでないのか(=真実の近似解であるのか)判定する方法が無い、ということです。

極端な例:(不完全性定理の具体的な証明例にもなっています。)
・世界1分前仮説
 この世界ができたのは今から1分前で、それ以上古くみえるのは、そう感じるよう記憶ごと作られたからである。
・グルーのパラドクス
 ○○年○○日(現在より未来)までは法則Aに従い、それ以後は法則Bに従う。
現代科学の全ての観測結果を動員しても、これらを否定することは不可能です。


>無矛盾を前提に証明された不完全性定理を自然科学に適用するにはもっと慎重であるべきではないかと思います。
もっと状況が悪いです。
たとえば、ニュートン力学は数学的には無矛盾です。だからといってニュートン力学は真理ではありません。
観測結果でニュートン力学に矛盾する結果が多数観測されたため、
ニュートン力学は単なる近似解であり、相対性理論の解が厳密解である
(相対性理論において、光速=無限、プランク定数=ゼロとすると、ニュートン力学に一致する。)
となったわけであり、
今後の観測結果次第では、統一理論も近似解なのかも。
そして、近似解であると断定できるのは、「反例が見つかったとき。」
不完全性定理ふうに言えば、無矛盾という前提が崩れたとき。
(ただし、数学と自然科学で、無矛盾の意味するところが違う。)


要するに、世界1分前仮説みたいなのをナシにしても、
・ある現象を説明するのに、複数のモデルがありうる。
・まだ発見されていない事象にまでモデルが適用できるかどうか不明である。
ということから逃げられません。
 ※統一理論も逃げていない。現在知られていない何かがある可能性は否定できない。
そして、そういうこと(=全ての理論は、いいところ近似解であり真理ではない)を認識していない科学者はいないと思うが....
ですので、不完全性定理が要請する「無矛盾」にいつまでたっても到達しないので、不完全性定理を考える意味は無いでしょう。

この回答への補足

「もし、統一理論がニュートン力学と初歩的な電磁気学で構成されていたとしたら」というのは、この世界が量子論も相対性理論も必要のないシンプルな成り立ちで、シンプルな統一理論によってすべてが機械的に決定する、そのような世界を仮定しています。
つまり、「シンプルな決定論に支配されている世界では、そのシンプルな法則さえ理解できない知性しか生まれないのか。」という反語的命題を提示したつもりです。

「極端な例」が不完全性定理の具体的な証明例になっていると言うのは、真偽決定不能命題の例として提示されたのでしょうか?
つまり、そのことを自然科学における「不完全性定理」の現れである、という主張ですか?
世界一分前仮説はそもそも反証不可能ですので、科学法則にはなりえず。グルーの法則においても法則Bの成立のための蓋然性が示されなくては科学法則とすることはできません。

科学法則が暫定的なものであるという見方は、私も同様です。(というか現在の科学哲学における共通認識であると思います。)だからこそ、純粋理論の不完全性定理を自然科学の限界の理由づけに使用するのはおかしいと思っています。

ホーキングも「完全な統一理論」があるとは考えていないだろうと思います。あるとしても到達はかなり難しいという意味で発言していると思います。私が疑問に思ったのは、よりによって論理学の専門家である林晋先生がホーキングの言葉を不完全性定理に関係しているかのような取り上げ方をしていたからです。
もちろん林先生は不完全性定理については私などよりはるかに深く理解しているわけですから、余計納得がいかないわけです。ひょっとしたら、わたくしが何か見落としている点があるのかもしれないので、ここの乱をお借りして議論をしてみたいと考えた次第です。

補足日時:2009/12/06 12:53
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
科学法則が永遠に暫定的なものである故、不完全性定理を持ち出すのはおかしい、という趣旨ですね。

お礼日時:2009/12/06 14:42

No.2,3,7です


>>> No.7 補足欄
「無限を実無限として扱いうる」の件については、私はLISP系についても無知であり、私の能力を超える問題のようですので、パスさせていただきます。
<<<

。。。実無限と可能無限の区別は非常に重要だと思っています。
特に、抽象的な世界を処理可能な数学(知的思索の世界)と、具象的な世界に関連する物理学的な思索との間の差異として、ゼノンのパラドックスに関連しています。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4966862.html
での回答No.6からの引用を参照願います。
たとえば
http://www6.plala.or.jp/swansong/002400kanntorun …
が参考になると思われます。

統一理論が完成するにしろしないにしろ、現在複数の仮定が並列しています。
多くの理論が乗り越えるべきところとして、量子力学での無限発散という問題と重力理論との組み合わせにあるようです。
このうち、量子力学での無限発散関連の問題は、まさに、可能無限と実無限の取り扱い方に関連しているようです。

たとえば、ループ量子重力理論においては、「時空間を無限分割可能」という概念をとらずに、「有限な分割しか許容しない」として上記の問題を解決する手段としているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC% …

すなわち、物理学的に記述可能な世界が「実無限」の世界でないならば、対角線論法すら無意味な世界だということになるかもしれません。

あと、「宇宙に法則はあるのか」ジョン・D・バロウ 著 松浦 俊輔 訳
については、発刊元(青土社)に資料があります。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B1%A7%C3%E8 …

この回答への補足

>。。。実無限と可能無限の区別は非常に重要だと思っています。
ところで、実無限というものはあるのですか? 言葉の使い方が違うのかもしれませんが、もし「実無限を扱う」ことができるなら、ゴールドバッハ予想などはたちどころに証明できそうな気もするのですが、‥‥。

ゼノンのパラドックスをここで持ち出して来る理由がわかりません。
無限の点を有限の時間で通過する、といってもその点というものの性質がわからないまま議論しても始まりません。点は一見自明のような概念でありますが、限りなく調密でありながら、たがいに隣り合っている点がないというわけのわからないものでもあります。
そもそも一様連続で無限に広いユークリッド空間を現実の物理空間に当てはめてよいかどうかは不明です。ユークリッド空間は私たちが体験できる限界を超えて広いし、体験できえないミクロな世界まで連続であることを想定しています。実際の物理空間においては、最小の距離単位が存在する可能性も否定しきれないと私は考えています。


「量子力学での無限発散」については、これも私の能力を超えているのでパスさせていただきます。前回も申しあげたように、難解な情報の紹介はもう結構です。どうせなら、「これこれは可能無限と実無限の取り扱い方に関連しているようです。」というだけではなく、どのように関連しているのかを私にでもわかるよう説明していただきたいと思います。

補足日時:2009/12/08 10:12
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著者はその箇所で、不完全性定理を敷衍し、ホーキング博士の疑問について解釈し、論じているのですか?


それとも、ホーキング博士の疑問を導入にして、不完全性定理の解説をおこなっているのですか?
自然数論の含まれる公理系という条件の重要性を考えた場合、
定理が条件下につくられる系の内部で証明されるものであること、それ自体は、数学でも物理でも同様であると言うまでもないですから、
双方の条件の近似性や相違について問題とするに価するかどうかが、違和感の出るところではないでしょうか。

著者は「イメージの導入」として、下記のような作業を、無限を含む系についてホーキング博士も行っていると著者は言いたかったのではないでしょうか。

ある公理系を選択するとします。その規則性にのっとって真である命題Aがあるとします。
そのような命題Aを含み複数の命題を関連付けることのできる理論がひとつ手元にあるとします。
真であるところの命題Aを証明することのできる別の公理を含む体系に拡張すると、真である命題Bがあります。
理論の修正をおこない、複数の命題があらたにきちんと関連付けられましたが、
さらに
命題Bを証明することのできる別の公理を含む体系によって新たな理論へ到達するためには。。。

 
統一理論は決定不可能な命題を回避できないであろうこと、そしてまた、
無矛盾に仕上がった理論が、その理論のシミュレート可能な系においては証明も否定もできないということを、
ホーキング博士が言わんとしていると著者は解釈したのではないでしょうか。

それにしても、超ひも理論の次なるM理論を突き詰めておられるホーキング博士ですが、博士のこの疑問自体はずいぶん表現を端折っている感が否めず、
むしろ複雑系に言及したようにも取れますし、カプラの著したタオ自然学のような流動性を彷彿とさせますね。
このような文の抜き書きだけでは、厳密でない戯言とも取れますし、あるいは、形容しがたい内容を含む容易ならざる発言とも取れます。
自己言及のパラドクスであるとばかり取らずともよろしいのではないかと思います。

たとえば宇宙が超ひも理論による決定要因の集積であることが正しいとしたならば、
現在・此処のすべての条件が、超ひも理論の公理系に従った制約のもとに存在としてあらわれ、すなわち他の存在のしかたが隠れ、
またそれに基く演繹的作業と帰納的作業が、命題を証明していこうとしなければならない。
そして統一理論である以上は、現在・此処の決定の集積である未来もまたシミュレート可能なものとして、上記のように存在をあらわすが、
このような一貫的な(consistent/無矛盾な )未来決定性には異議がある、という発言主旨による反語表現ではないかとわたしは思いますが、どうでしょうか。

出身学科も関わる分野も違い、回答資格があるかどうか自分ではわかりませんので、補足要求とします。

この回答への補足

自分の文章を読み返してみて、全くご指摘の通り不十分なものであると痛感いたしました。林先生が引用したホーキング博士の言葉をあらためて提示します。

<<宇宙の法則が勝手に決まっているのでないなら、宇宙を完全に記述する統一理論のたんきゅうこそ、我々のなすべきことである。しかし、人類による完全な統一理論の探求には、根源的なパラドックスがある。(中略)本当に完全な統一理論があるならば、それは人類の行動をも決定するだろう。ということは、統一理論自体が人類の統一理論探求の行方を決定することになる! だとしたら、どうして、人類が正しい結論にたどり着ける、と決まっているのだろう? 人類が間違った結論にたどり着くように決まっていたとしても、おかしくはない。あるいは、全く結論にたどり着けなかったとしてもおかしくはない。>>

林先生はホーキングの上の疑問を数学の上の疑問と構造的に近似しているとし、ホーキングが提示した三つのシナリオを引用しています。
・最善のシナリオ 完全で正しい統一理論が完成する。
・最悪のシナリオ 間違った統一理論が完成する。
・事前のシナリオ 完全で正しい統一理論は完成しない。

林先生は上記の三つのシナリオの「統一理論」を「数学の理論」におきかえて、数学においては、不完全性定理によって最善のシナリオは否定された、として話の導入部としているだけで、ホーキングの疑念を不完全性定理に結び付けているわけではありません。
ホーキングの疑念を不完全性定理に結び付けている、としているような私の表現は明らかに間違いです。申し訳ありません。
私が引っかかったのは、ホーキング博士の「統一理論自体が人類の統一理論探求の行方を決定することになる! だとしたら、どうして、人類が正しい結論にたどり着ける、」という箇所で、統一理論自体の自己言及性にふれていることと、この話を冒頭に持ってくることで、どうしても自然科学に不完全性定理による限界づけを印象付けているのではないかな、ということです。


>定理が条件下につくられる系の内部で証明されるものであること、それ自体は、数学でも物理でも同様であると言うまでもないですから

この意見には賛同できません。数学の定理と物理法則は明らかに別個のものです。数学の定理は公理から論理的に導かれるもので、物理法則は観測結果を説明するための後付けの仮説です。

補足日時:2009/12/08 08:40
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。

お礼日時:2009/12/08 10:04

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