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人間は何故、植物や絵画や音楽など、芸術を感じることが出来るのでしょうか。
動物も感じることが出来るのですか?

A 回答 (15件中1~10件)

学者でもなく、そういった勉強をしていた訳ではありませんが


思考としては、一つこういった考えもあるのではないでしょうか?

芸術ということを論理的に説明することは難しいと思いますが
感覚として、自分はこの絵が「好きだ」と感じた時に
自分の中にある、一定のラインを超えたからこそ「好き」と感じたのではないでしょうか?
そのラインは、他人と比べる事はできませんし
他人の評価に、自分の評価がそぐわない事もあるかと思います

ただ、他人と同じく評価できたものがあるとすれば
その芸術品が「優れている」と考えるよりも
「同じレベルの感覚の持ち主である」と考えた方が建設的かもしれません

芸術に関して、感覚に優劣を付けられるものだと思いません


動物についてですが、動物学者さんにお聞きになられるか
考え方の一つとしては、動物の感覚を聞くこと、知ることができないので
芸術を当てはめて考えることはできないと、個人的に考えます

この回答への補足

それもそうだなと思ったので一応ベストアンサーにさせて頂きます。
回答を下さった皆さんありがとうございました。

補足日時:2011/05/26 18:20
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なんだか人間は不思議ですね。

お礼日時:2011/05/10 16:03

世界を一元的でなるべく単純な法則で理解したいという欲求は


人間も動物(パブロフ)もすることだとは思いますが、
では多様な比喩的理解を肯定するおおらかさは人間的といえな
でしょうか。このようなポスト構造主義的挑戦は私にはどうし
ても「たまくしげ」の思想とかさなってしまうんですが、ちが
うんでしょうか、どうなんでしょうか。
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12番の文章もが中途半端な内容に留まっていましたので、


御詫びのつもりで、再び勝手に追加の内容を添えさせて頂きます。

そこで、端的に申しますと、空間的な論理を盛り込めば、芸術にもブロードキャスト的な役割りを託せる、と思われます。

つまり、貴重な閃きが他の思考の過程の途上で色褪せない様に、自己の外部の媒体へ投影していく、という行為でも、自分だけがその情報を独占的に利用する場合には十分に機能しますが、共有させ得る配慮が盛り込まれていてこそ、それ等の作品群が別の時代にも評価され得るのでしょう。
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eckored さんの問いを棚に上げてではないですが、


名前負けであっても、自分で産んで、実名よりも;呼ばれて私自身も愛着のあるHNですし、
更に好く言って頂き幸せ。名前そのものは所有の対象になれるものでしょうか?師匠?


>芸術を語るときの反面教師とか智の病理を語る以外に
>「奇を衒う」はキーワードになっていないと思えます。


商品に成り得ないものに、作者名を掲げて
美術館という人間の威厳、尊厳をかけた空間にわざわざ所有させて
管理して置かれるって確かに不自然に映りますよね。
ほんなら被災地やスラムなんてそのまんま巨大モダンアート大会にもしてしまえるやんかいさです。

不謹慎なことを言いました。
芸術と規定するなら無情でも不謹慎でも飾れる自由が、あります。
しかし、所有したい根拠は自慢することが出来るやも、であるはず。

人間は自慢領域が動物より遥かに広いってことなのでしょう。か?師匠。
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#8の者からの再投稿です。


私の未熟な意見で御迷惑をお掛けしましたので、御詫びの言葉を申し上げます。
失礼を致しました。

そこで、拙い表現で再び畏れ入りますが、素晴らしい御指摘を賜れましたので、それを踏まえさせて頂きまして、勝手な私見を申し上げます。

#10の先生の御意見を私が理解出来ているとは思われませんが、相関的な美しさを自己の外部で共有するべく、その情報を再現させる為には、論理的な秩序を把握出来ていなければならないですね。

そういう意味では、ツカツクリの巣作りの装飾とか魚群の纏まりのルールとかには見られない素晴らしさが芸術には盛り込まれている、と言えるでしょう。

因みに、論理的な再現によって芸術作品を作り出していた方々は歴史上に少なくないと思われますが、20世紀の日本の事例で申しますと、「山下清氏」の創作方法が特殊です。殆どの場合に、彼は対象の風景の前で作品を作っていらっしゃらないどころか、スケッチを取ったりもせず、帰宅後に思い出しながら作品を創作なさっていたそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%90% …
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#8の自動車会社さんと#10のミコ弟子さんへ



先ずは巫女弟子さんへ、そう呼ばして下さいね。わたしはその響きと字の組み合わせが大好きですから。

私は#7で申し上げたように、モダンアートと呼ばれるゴミを人間のやる芸術だと認めること出来ませんので、芸術を語るときの反面教師とか智の病理を語る以外に「奇を衒う」はキーワードになっていないと思えます。


次に自動車会社さんへ

>論理的な分析に基づかない情緒的な表現の中で、、、

論理という言葉を大変狭い意味でお使いのようですね。これから述べるように芸術は立派な論理的行為です。

論理には少なくとも時系列的な論理と空間的な論理があります。時系列的な論理は言わば数学の証明のような論理のことで、甲は乙を導き、乙は丙を導き、、、と時系列的に並んで行く論理のことです。従って、これをやはり時系列的な表現である言葉の列で表現が可能な論理です。

一方の空間的論理とは絵画的な論理のことです。絵画では決して山の中腹の東屋が月を導き出し、その月が群雲を導き出しているわけではなく、山、東屋、月、それに群雲が収まるべきところに収まっている。そしてそれ以外の位置ではダメだとう論理です。実はもっと掘り下げると、この収まるべき所に収まるとは、空間的な相関関係と言う概念で認識出来ます。相関には相関の距離と言うものが定義出来る。そして、そこに存在している色々な物の間の相関の距離が長ければ長い程、自然と収まるべき所が決まって来る。だから、そこには何お脈絡のなく物が散らばっているわけではなくて、空間的な相関の中に論理が在る。

子供や象が時々ピカソにも匹敵する抽象画を描きますが、それを誰も芸術だとは言わない。何故なら、子供や象には空間的相関と言う形で認識されている論理がないからです。だから、彼等は偶然に素晴らしい絵を描くことが出来ますが、その絵を破られてしまうと、もうその素晴らしさを再生出来ません。ところが優れた画家は何度絵を破られても、その素晴らしさを再生出来る。何故なら、言葉には表現出来ていなくても、その画家には空間的相関によって認識された論理が存在するからです。

そう言う意味で、子どもは天才だ、と言った岡本太郎や、雲は天才である、と言った石川啄木は共に芸術のなんたるかを言葉で徹底的に押し込まずに表層の思い付きを言っただけなのか、あるいは、言葉で遊んで皆を嘲笑しているかのどちらかです。多分、これらの表現は、言葉の論理その物をライフワークとしてきたわけでもない人達が、自分の専門でもない論理に関する事象に口を挟んでやってしまった、何処にでもある陳腐な失敗例ではないでしょうか。しかし、誤解なきように。彼等のライフワークの分野に関する作品に対しては、私は十分に尊敬しておりますから。

絵画とは対照的に、音楽は確かに時系列として表現されますが、ここにも音と音の間の時間的な相関がありますので、音は単純な時系列的な一方方向に流れるものだけでは捉えられない論理が存在します。我々が音楽を楽しむときは、今まで流れて来た音の列を把握して次にどんな音が出てくるかの予測をしながら楽しんでいます。その予測の根拠になるのが音と音との間の時間的相関です。そして、その音楽の聴衆者は予測が当たったときにも楽しみ、また、その予測が外れたときの驚きも楽しんでいます。さらに、音と音との間の時間的な距離が離れていても、その音が出鱈目に出ていないと言う意味での相関があり、その相関の距離が長く成ればなるほど複雑な構造が出来、芸術的に高度な音楽を形作ることになります。

そう言う意味では、時系列に並んでいる詩や散文の文章でも、ここの言葉の間に長距離相関があればあるほど、複雑な構造を示し、その相関の間に人々は美を見付け出すことが出来ているようです。それどころか、本歌取りのように、違った作品に対する相関すら人々は楽しんでいるようです。

ここで、特に#8さんの好きな連歌についてですが、ある意味で、この芸術も作品と作品の間の相関をひねり出すことを楽しむ芸術として捉えることができると思いますが、如何なものでしょうか。更に言うと、この芸術は他の人が気付き、それを書き残した相関を楽しむことよりも、その作品を作り出し、相関を創り出すことに参加するときに、至上の悦楽を味わうことができる芸術のようですね。

私事になりますが、芸術が論理的な行為であると気が付いたのは、私がある学問をやり始めた若い頃、私の先生と徹底的な激論を何度も経験した後、何も知らずに東大寺の戒壇院を訪れてそこの四天王の一柱の広目天を見たときでした。その時に芸術とは大変に論理的な行為であると、目から鱗が落ちたのです。その当時は等身大の四天王を安置してある床に直接入ることができて、自分の目の高さで見ることが出来ました。従って、現在下から見上げるように鑑賞するのとは全然違った迫力がありました。目の間に皺を寄せ、遠くをじっと見つめている広目天の顔を見たときに、私が激論しているときの私の先生の顔を見ました。そして、そのとき、この彫刻の作者は、人が本気で考えているときの顔を見たことがある方だと気付いたのです。その論理性に私は愕然としました。
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芸術=奇をてらうもの。



奇?は受動態にはならず、能動態として自省能力を発揮するからです。
人間だけが自分に対しての自己主張(自己確認)を尊ぶからです。
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動物は種族保存のための本能だけです。


食欲、性欲・・・など。

「美」の表現を求めるのは、人間だけですね。
鳥類の求愛ダンスなどのディスプレーは性欲ガラミです。
人間はそういう本能とは無関係に、道楽?として「美」を求めます。

人間は、動物と違って、大抵の人が食欲、性欲などについて満足できる生活ができるようになりました。
そうすると、そういう本能以外のところ、すなわち「美」について、手を出したくなったわけです。
動物的本能以外の新しい欲望の出現です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
外界から受けた刺激を私達が勝手に「美」と思い込んでるだけかもしれませんね。

お礼日時:2011/05/26 18:05

私の学習が及んでいないせいで、


自然と芸術との峻別の根拠が分かりませんので、
失礼な表現になっていましたら、申し訳が御座いませんが、
誤りの御指摘を賜れますと有り難いものですから、参加をさせて下さい。

論理的な分析に基づかない情緒的な表現の中で、
人工的(Artificial)な物だけを人間が「芸術」の範疇に纏めて、
それ等を特別視しているのではないか、
と私は勝手に妄想しましたが、謬見なのでしょうか?
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この回答へのお礼

自然と芸術との区別は私も分かりません。

人間が作り出したものを、人間が勝手に芸術と言ってしまってるということでしょうか。

何てことないものも、芸術と言ってしまえば芸術になってしまいますからね。

ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/26 18:03

モダンアートと言うゴミを作っている動物達も芸術を感じることができるらしいですよ。



私はある近代美術館で天井から5メートル幅のワイシャツがぶら下がっていたのを見たことがあります。また、ある美術館の近代芸術コーナーでは、ムール貝の殻をバケツに入れて会場の隅に置いてありました。それを天井から出ているレーザー装置かなんかで保護してあって、人が余り近づき過ぎるとブザーが鳴るようになっていました。そうしておかないと掃除のおばさんにそのゴミを捨てられてしまうので、それを防ぐためです。時々そのバケツに他のゴミが放り投げ込まれていました。ゴミ箱と間違われたようです。

また、同じ美術館の一部屋に工事現場のセメントの付いた板きれが立てかけてありました。私は初めその部屋は工事中かなと思ったのですが、よく見るとその板きれの立てかけてある壁に、誰々作品と言う札が張ってありました。こんなゴミを芸術だと感じる力を人間は持っていません。だから、動物も芸術には興味があるようです。

そして驚いたことに、そんなゴミをこの美術館では買い上げていたようです。
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この回答へのお礼

私はあまりモダンアートには詳しくないのですが、それなら図工の時間にも作れそうです。
しかし、本人にとっては何かコンセプトがあったのでしょうか……。その作品のタイトルが知りたいところです。
美術館側は、それを美と感じ展示したのでしょう。
お客さんがそれを見てどう感じたかは別として。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/26 17:55

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