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これは僕の母が言っていることです。
昭和40年代、母の家族は梅島という(当時は)洪水の多い田舎町に
住んでいたそうです。
その母曰く、当時の東武伊勢崎線では木造の電車が160キロ運転を
していた、というのです。
現在の常識でも考えられないことですが、当時沿線に住んでいた人達
はみんな知っている、というのです。
また曰く、電車は越谷とかによく定刻10分前に着いていた、とも。
何より自分自身の目で、運転台のメーターを見たと言っています。
伊勢崎線は線形が良いので、あり得ない話ではないかな、と思いつつ
もやはり事の真偽を知りたいのです。
当時の伊勢崎線の様子や、出来ればその当時現役の運転手だった、な
んていう人のお話もお聞きしたいです。
宜しくお願いします。

A 回答 (5件)

こんにちは。


鉄道ファンでもなんでもないのですが・・・
でも、自分の住んでいる沿線の鉄道の歴史には興味あるし、愛着がありますよね。
(私は東京にいた時は京王線の沿線に住んでました)
こんなページを見つけましたので、掲示板でお問い合わせになってみられたらいかがでしょう?
余談ですが、20数年前、東武野田線(たぶんその時は単線?)の車内に「ゴキブリホイホイ」が置いてあったーと主張する人がいて、ひとしきり話題になりました。
あれはホントだったのかな~?

参考URL:http://www4.justnet.ne.jp/~kuni_ito/to_top.htm
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そんなことはありません。

160kって国内だとほくほく線のスーパー
特急ですよ。
私は48年から50年まで竹の塚にいましたが、木造車は少なくとも杉戸
(今の東武動物公園)までは見た事はありません。
いたとしても太田からさきや新栃木から先だと思います。

当時は73改造の7300や今の主力8000、営団乗りいれの2000、快速は6000
特急はDRC、急行は先ごろ一般改造されたもと350が走っていましたし、
修学旅行で栃木に行った時も木造車改造の3000がゴロゴロしてました。

また今でこそ線形が良いですが、当時は複々線など全くなく準急が
ぶっ飛ばしていたという印象は0です。

コンプレッサーの表示と間違ってしまったのではないですか?

この回答への補足

ご返答ありがとうございます。
ただ折角のご説明ですが、おそらくこちらとそちら様の描いている
「東武伊勢崎線」のイメージが食い違っているのではと思います。
説明に至らなかった部分があるので、補足させて頂きます。

木造車、といっても内装や床が木造であった、とのことです。
更に外装は、黄色とも赤ともつかないツートンカラーだった、と。
そして「飛ばしていた」区間は越谷辺りから先だそうです。

昭和48年から50年では、もう沿線はかなりの都会だったのでは
ないでしょうか。(少なくとも家はいっぱいあったでしょう)
時代は高度経済成長のピークですから、8年もすれば沿線状況は
一変します。
昭和40年(代といったのがいけなかったかもしれません。)の
東武界隈の説明をします。
その頃には日比谷線が北千住に乗り入れていたのですが、蒲生から
上はまだ「ど田舎」だったのです。北千住駅のホームでは、日比谷
線乗り入れ用のステンレス車とさきの木造電車が混在していたのです。
当然、越谷から先の日中ダイヤはスカスカだったと思われます。
このようにして、木造電車がぶっとばす環境があったわけです。
松原団地が出来たばっかりの時代、と言えばいいでしょうか。

個人的に、ぶっとばした車両があったとしたら、それは「5700系」
じゃないかと思っています。40年くらい現役だったらしいです。

最後に、見間違いではというご指摘ですが、勿論その可能性もあり
ます。しかしまた、電車は時速160キロを出せなかったわけでは
ないのです。
確かに信じがたい話です。しかし万が一にも事実ならば、東武鉄道は
その時代に160キロ出せる電車を持っていた、ということになりま
すから。

説明で恰も僕が見たかのような書き方ですが、母やその家族から
聞いた話をまとめただけですから悪しからず。

補足日時:2001/05/23 19:49
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とてもじゃありませんが通常の狭軌鉄道で160km/hなんかで運転できません。



おそらく文脈からその車両は5700形だと思いますが、つりかけ式駆動の車両では構造上とても160km/hを出すことは出来ません。
鉄道はブレーキをかけてから600m以内に停止できることが義務付けられてますが、昭和20年代の車両にそのようなブレーキは付いていません。
それにそんな速度を出した場合はフラッシュオーバーがおこり抵抗器が焼け焦げます。

また普通の鉄道車両の均衡速度は140km/h位ですのでそれ以上の速度は物理的に出すことが不可能です。

当時の東武鉄道の最高運転認可速度は110km/hですので160km/hは見間違いだと思います。
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僕はその時代の人間ではないので、技術的な方の話をさせていただきます。


既に書かれているように、
この時代の営業車で、新幹線以外に160km/hで走れる車両は存在しないと思います。
当時の電車は全て直流モーターで、大半が釣り掛けという駆動方式でした。
釣り掛けは歯車の構造などから、回転の伝導効率が悪い上に出力も劣っています(今日のモーターに比べると)
最高速度も100~110km/hが限界ではないでしょうか。

更に東武線は全線1067mm軌間であり、この軌道幅ではそれ程の高速運転すると車体が安定しません。
恐らく台車も今と違って、衝撃吸収力も優れていないかもしれないし…。
もしも強引な高速運転をすると最悪の場合、尼崎事故のようになる可能性も大いにあります。

間違えている部分があるかもしれませんが、このようなものではないかと思われます。
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>その母曰く、当時の東武伊勢崎線では木造の電車が160キロ運転を


>していた、というのです。

昔の車両と今の車両では、体感速度が違うと思います。
多分その当時だと、まだ複々線かされてない時期でしょうかね。
当時と今を比べると、線路自体も良くなったし、車両も良くなっています。
となると、同じ速度で走った場合、
複々線化され,ポイント通過が減り,揺れが減った上に新車両の今の環境より
複線で,ポイントの通過が多く,揺れが大きかった上に古い車両の昔の環境の方が
今よりもずっと速く感じたと思います。

160km/hというのは、実際にスピードメーターで確認した数字でしょうか?
体感速度というのは本当に当てになりません。私も時々,運転席のスピードメーターを覗いたりするのですが,自分がこのぐらいかなと思ってスピードメーターを見てみると,かなり違った数字になっていたりする事もよくあります。

きっと、走ってる最中の揺れ、モーターの音で、160km/hぐらい出てるんじゃないか?と錯覚させたのではないでしょうか。

>また曰く、電車は越谷とかによく定刻10分前に着いていた、とも。

それはもしかして、通過待ちで越谷駅発車時刻の10分前に着いたという事ではないでしょうか?
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