【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

 1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか?

 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?

 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか?

 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。


 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか?

 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。

 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか?
 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか?
 
 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。
 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか?



 広く自由なご見解をお寄せください。

A 回答 (22件中1~10件)

ジャン・ジャク・ルソーやアダム・スミスが言ってますが、人間の本質に憐れみや同情の心があるのではと思ってます。



子どもの頃、描いた夢や理想。

もちろん不屈の精神と努力で手に入れた人もいますが、実際には、現実という困難なものの前で、妥協せざるを得ないことが多い、私です。

しかし、そういう、私であるから、自分の弱さを受け入れ、同じ困難に陥った、境遇の人々に同感を感じ、相手を受け入れ、思いやり(利他)が生まれます。

もし、私が成功していれば、逆に高慢になって、人間の弱さを否定し、人から嫌われても、利己のために突き進む人になってしまったかもしれません。

子どもと思われる方もいらしゃる方も知れませんが、前に進むために、まだ、夢や理想を追いかけ、理想と現実の狭間にゆれる毎日です。

追伸

なにやら投稿が削除されてしまったようですが、この投稿サイトを使い始めたばかりで、不手際があったことをお詫びいたします。
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この回答へのお礼

 あめんほてぷさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 まづ 《追伸》の
 ★ なにやら投稿が削除されてしまったようですが・・・
 ☆ については知らなかったものですから よく分かりませんが 特に問題がないと分かっていても杓子定規で対処される場合があるのかも知れません。お気になさらずに どうぞ。


 さて 全体として・おおむね《思いやり》という主題として捉える観点を打ち出しておられると受け取りました。
 《助け合い》の前段階としてと言いましょうか 重要な要因ですよね。(わたしは 書き落としました)。

 ひとつに この《思いやり》のあとカッコ書きにて《利他》と記されたかたちで 利他に触れておられること。このことについて あとで考えてみたいと思っています。

 もうひとつには 人間の弱さあるいは社会的な弱い立ち場なる視点を導入され 議論を展開されたこと。これは 分かりやすいですし あるいは《シンパシー》なる概念を推し進めるかたちでけっきょく弱い・強いにかかわらず一般的な議論として シンパシーならそこから《あわれみ・同情》を経て基本的には《同感》でしょうか この同感の理論を打ち出されているものと思います。

 スミスに到っては 第三者からの同感を得られるかどうかをコトの良し悪しを判定する基準にするわけですから すでに《感情》から抽象概念をも含む判断を言っているとも思われます。


 こういった理論からながめて
 ★ ~~~~
 子どもの頃、描いた夢や理想。

 もちろん不屈の精神と努力で手に入れた人もいますが、実際には、現実という困難なものの前で、妥協せざるを得ないことが多い、私です。
 ~~~~~~
 ☆ という感慨および理論の行方にかんする思いは 大方の《同感》をさそうものがある。こうわたしも考えます。《手に入れられなくても ゆっくりとした不屈の精神と努力で》一歩一歩日々の生活日常を送る。こういうことに落ち着くのではないかと考えます。



 

 さて あとは 次の問いを取り上げます。

  ○ 思いやりは 利他か?

 そうですね。ここからのわたしの議論は ためにする議論であるかも知れません。極論の提起によって互いの問い求めがよりいっそう進む場合があると思われるからです。

 (あ) まづ最初から ふたつの問いを持ちます。

  ( a ) そもそもわれわれの意志行為は 《利とか利益》を追うものなのか?

  ( b ) あるいは自己表現にあらわされようとする主観内容が 《利己》と《利他》との対立する二項に分けられてしまうものなのか?

 (い) もし利益を追い求めるのが 人間の意志行為であるなら その利益とは 自分のも他人のもあるいは社会の利益をも――そしてあるいは時によっては・人によっては それらにとっての負のものをも――含めた《よきこと(時には あしきこと)》なのではないか?

 (う) 誰かひとりその人だけのために都合のいい主観内容かつその自己表現というものがあるか?

 (え) 何か純粋に自己の利益を省みずほかの人びとのためにのみ自己表現する主観内容はあるのか?

 (お) だから 《利己と利他》という二分思考に何か妥当性や効果があるのか?

 (か) だからワタシ(任意の或る人)のあらわす《思いやり》は 利他のみなのか? 利己という基礎もあってこその他者への心つもりではないのか?

 (き) あるいは 心づもりとしての主観内容とそれを実際にあらわす自己表現とのあいだには まだまだその意志行為が いったいどういう社会的な行為であるのか。これが 定まらないはずだ。

 (く) なぜ定まらないかと言えば 《他者》がいる情況での行為は 自分ひとりの心づもりだけでは成り立たないからである。

 (け) たとえ他愛無い思いやりであっても 相手がいる場合には――相手がいるのだから―― その主観内容は まづ《思いやり》の内容を相手に打ち明けて そのことを相手に向けておこないたいと表明しなければならず しかもそれだけではなく 相手の同意を取りつけなくてはならない。からである。

 (こ) つまり 人の意志行為は 利己であろうと利他であろうと こちらと相手との互いの意思表示によって成り立つ。(合意が出来なければ ご破算になるといった《同感》として 互いの自己表現が互いに受け留められる)。

 (さ) ここであらためて 《思いやり》は 《利他》か?

 (し) 少なくとも分かっていることは こちらの主観内容のみによってその行為は成り立たないということである。

 (す) おそらく相手の同意を取りつけるときに その対等の立ち場の確認において すでに《利己・利他》の区別は消えてしまっているはずである。さもなければ 主人が奴(家つ子)にほどこしをあたえるということのほかではなくなる。

 (せ) 言いかえると 民主制にあっては――たとえアマテラス公民圏の住人としてのお二階さん(公務員)からスサノヲ市民圏の人びとに対する《実際の具体的な思いやり》であったとしても 民主制のもとにおいては―― ただただ人びとが互いに共生していて共生して行くために それぞれがそれぞれの主観内容を持ちつつも その自己表現を互いに提案しつつ《同感》しあうかたちで コトの実施・実行を果たして行く。

 (そ) その共生なる社会に その内容一色の《純粋なる》行為としての利己や利他なる主観表現がありえようか?
 
 (た) 《思いやり》とその対極の《つれなさ・無関心》 これらもみな《社会行為としてのそれぞれ自己表現》であるのではないか? 対極のほうは 負のかたちであるようだけれど。




 このように質問者も 情報交換に参加します。どうでしょう?

お礼日時:2013/03/02 15:06

ブロジェンヌさん こんばんは。



帰宅したら、私の素朴の文章が、このように分解されたことに、哲学の思考方法を教わりました。ありがとうございます。

私的メールでなく、このような場所を借りて投稿することにいささか抵抗がありますが、投稿いたします。

私は、

アダム・スミス 堂目卓生 著 中公新書

を読みまして


アダム・スミスの「道徳感情論」というものにかなり影響を受けております。

 
>○ 思いやりは 利他か?
>(あ) まづ最初から ふたつの問いを持ちます。
>( a ) そもそもわれわれの意志行為は 《利とか利益》を追うものなのか?


アダム・スミスも言ってますが、人は喜びという感情を追い求める。

これが、利といえるのではないでしょうか?

俗くさい表現かもしれませんが、現在の資本主義社会の中で仕事をして、給料日はやはり、うれしいものです。いろいろ方法はあるのかもしれませんが、自分の労働という行為が、お金という目に見えるものになりますから。自分が行為が何かしら社会役に立ち還元されていることも含め喜びを感じます。


>( b ) あるいは自己表現にあらわされようとする主観内容が 《利己》と《利他》との対立する二>項に分けられてしまうものなのか?


ここは難しいです。

アダム・スミスは、自分の感情や行為が他人の目にさらされていることを意識し、他人から是認され、他人から否定されたくないことを願い、心の中に公平で公正な裁判である「胸中の公平な観察者」を提案してます。

本には書いてませんが、私は自身は、利己と利他における中立的なもので、自分を客観視するなどという場合の「客観」がこれに当たるのではないかと考えてます。

どうでしょうか?
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この回答へのお礼

 あめんほてぷさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
  >( a ) そもそもわれわれの意志行為は 《利とか利益》を追うものなのか?

 アダム・スミスも言ってますが、人は喜びという感情を追い求める。

 これが、利といえるのではないでしょうか?

 俗くさい表現かもしれませんが、現在の資本主義社会の中で仕事をして、給料日はやはり、うれしいものです。いろいろ方法はあるのかもしれませんが、自分の労働という行為が、お金という目に見えるものになりますから。自分が行為が何かしら社会役に立ち還元されていることも含め喜びを感じます。 
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりました。《よろこび・たのしみ・うれしさ・ここちよさ》をひっくるめて 《利益》ですね。なるほど そういう利己の振る舞いであると。

 ★ ~~~~~
  >( b ) あるいは自己表現にあらわされようとする主観内容が 《利己》と《利他》との対立する二項に分けられてしまうものなのか?


 ここは難しいです。

 アダム・スミスは、自分の感情や行為が他人の目にさらされていることを意識し、他人から是認され、他人から否定されたくないことを願い、心の中に公平で公正な裁判である「胸中の公平な観察者」を提案してます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ええ。 

  ○ 「胸中の公平な観察者( internal impartial spectator )」

 でしたね。《良心》のごとく 主観内面にはたらく判断力などでしょうか。

 それでわたしは このとき――ひとは広い意味での利己をひとつの基礎としつつ―― おそらくその同じ基礎において 〔利己をむやみに否定するというのではなく それをも活かしつつ〕社会における生活としての共生といった要因もはたらくのではないかと考えました。

 ★  本には書いてませんが、私は自身は、利己と利他における中立的なもので、自分を客観視するなどという場合の「客観」がこれに当たるのではないかと考えてます。
 ☆ すなわち
 ★ 利己と利他における中立的なもの
 ☆ として 《同感人》なる出発点を ひとつの人間類型として捉えようとし そのような見方を打ち出したいと思いました。

 ルウソのむしろ純粋な《自然人》では必ずしもなく 《万人が万人に対して狼》だというときの《狼ないし闘争人》でもなく あるいは単純にその《たたかい》の権能をその闘いが起こらないようにどこか社会の高いところの権力に預けるといった社会契約をむすんだという《契約人》でもなくというふうにです。

 

 《利己・利他》に異をとなえたのもそうでしたが 《中立》あるいは《客観》という用語にも 表現のかたちとしては 反論をつけ添えたいと思います。

 人は 広い意味では《利己的な傾き》あるいはそして《自己中心的な物差し》を持っていると考えられます。
 これを《利他》といった他方の極へ振り子を振れ切らせるのではなく あるいは無私なる精神と言ってそれこそがサトリだというまでに抽象的な議論をしたいとは思わず ましてや利己を否定するのでもなくまた《自己中心》をはづしてしまった判断力の中心をどこかに据えるというのでもなく それら利己・自己中心を保ちつつも その利己行動の中身についてけっきょくほかの人の主観によっても一般によきこととして同意が得られるように考える。これだと思います。

 ですから 《主観の共同化》あるいは《利己の共同主観化》あるいは《同感の確認》そしてあるいは《共生なる生活態度の確立》などなどのように言い表わすとよいかと考えます。

 《中立》と言うよりは やはり《利己 / 自己中心》寄りでありましょうし 《客観》と言うよりは《主観の共同化 / 共同主観なる視点》ということではないかと考えます。



 だって 社会生活は 共同生活ではないですか。自分の意志として自分ひとりで そもそもは行動するわけですが その社会行為が互いに関係しあっていないわけはないのですから 自分がよろこぶ行為であるなら ほかの人もその行為に関係しているはずだ。その行為関係ないし人間関係において 互いにじゅうぶんその生活共同の視点を持って 同感を形成しあって行けるものと考えられます。
 《他人の目が見ている》といったことだけでも 同感形成の実際だと考えられます。




 それを 言わば出発点としての《同感人》と呼びました。やはり広い意味では《社会人・社会生活人》のように言っても同じだと思います。


 ○ 同感人とは? ~~~~~~~~~~~

 生活態度における:

 A.出発点(=推進力)  : 同感人
         (互いに同意を形づくり得る関係存在であること)

 B.〔推進の〕踏み出し地点: 同感動態
         (同意成立へ向けての対話交通)

 C.踏み出し(=出発進行=推進):同感された思想の実践
         (同意にもとづく生活の推進)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ A から順番に 思いやり(同感の素)と 思いやりの表明(意志表示)と それをめぐる互いによる同感を経ての実行です。

 この《同感人》なる思考=および行為の形式が 互いに利己を共同主観(≒コモンセンス=常識)において活かして生活しようとする人間だと考えます。
 よって:

 ☆☆(趣旨説明欄) 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?

 まだちょっと極論すぎましょうか どうでしょうか。

お礼日時:2013/03/02 22:13

ブロジェンヌさん。

お礼ありがとうございます。

少々哲学書的な視野から外れてしまうかもしれませんが、週間ポストにこのような興味ある記事が載ってました。

特別攻撃隊という「思想」ではなく「感情」が特攻行為に働いた。
特攻という「思想」に共鳴できなくても、宮武大尉には、ついていこうという「感情」が勝っていた。 老兵100人の遺言 門田隆将 

現在、この本を購入し、まだ、読みかけなのでなんともいえませんが、戦争などという負の究極状態において、亡くなっていった方々は、やはり、自分の国の愛する妻子や尊敬する友人のため、命をもなげうつ覚悟で亡くなっていったのではないでしょうか?これは利他行為では?

私は、戦争を知らない世代です。ブロジェンヌさんは、そのような体験を経験された世代と思い、哲学的な解釈の文章に噛み砕いてくださると幸いです。

頭を使いすぎて疲れたので今日は寝ます。
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この回答へのお礼

 あめんほてぷさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 § 1 ほかの人の投稿内容に触れて投稿することについて

 この点を先に取り上げます。
 ★★(回答No.1) ~~~
  追伸

 なにやら投稿が削除されてしまったようですが、この投稿サイトを使い始めたばかりで、不手際があったことをお詫びいたします。
 ~~~~~~~~~~~~

 《お気になさらずに》と言ったこちらがこだわるようで申し訳ないのですが これはわたしが勘違いしていました。自分のこの質問で起こったことかと受け取ってしまったようです。

 【Q:カトリック  「愛」ってなんですか?】でのことですね。そこでの削除ということ自体は やはりわたしは知らなかったのですが けっきょくわたしの記憶の限りではほかの回答者の名前が出てしまっていたこと おそらくこの一点で――内容にかんして何らいわゆるアラシのようなところはないわけですから―― はねられたようです。

 考えてみれば このわたしの質問も何を隠そう あめんほてぷさんとその関心のあり方としては同じことでして 内容は別としても けっきょくわたしも《横レス》をしているわけです。たぶん 主題を独立させて立てているので 規則にのっとった質問になっているのだと思います。

 この点余計なことかも知れませんが ひとこと触れました。


 § 2 国とその同胞を守るために戦争におもむくのは 《利他》行為ではないか?

 いくつかの主題ないし論点があろうかと思います。
  § 3 戦争そして戦争におもむくとは どういう意志行為か。
  § 4 国家としての国を守ることと腹柄(はらから)としての国民を守ることと。
  § 5 《敵》なる人間をころすこと及びみづからの命をもってくにびとを守ることは 利他か?

 § 3 戦争そして戦争におもむくとは どういう意志行為か。

 ★ 戦争などという負の究極状態において、亡くなっていった方々
 ☆ 《負の究極状態》をめぐって考えます。

 (あ) 戦争は たとえ人ごろしを含むとしても 政治ないし国際政治関係の延長であって 政治があくまで《共同自治》であるとするのならば 一般に国民はみなその意志決定や実行について関与している。と考えられるか?

 (い) けれども自治ないし共同自治は ヒトが生きることおよび人びとがともに生きることを目的としている。とするならば 《人ごろし》なる意志行為は 無効である。

 (う) 国家が或る種の仕方で主権を持ち その主権の範囲で 国民に敵なる人を殺せと命令しうるか?

 (え) 《共生》をめざすときにも 自己防衛の意志行為は ゆるされるか? この《自衛》行為の延長(?)として 敵国との戦争は ありうるのか?

 (お) それに参加する人間の意志行為は 有効なのか? おそらく《生きることと共に生きること》を国是ならぬ《人是》とするならば 人殺しはいかなる場合にも 無効である。しかも自己防衛ないし緊急避難の場合は やむを得ざる《無効に対する例外》なのだろうか? (有効になるわけではない)。

 (か) 戦争という手段を取ったとしても それは大きく人間の共同自治における《共生》のための意志行為であると言い得るか?

 (き) だとしたら 戦争に否が応でもおもむいた人びとは 共生のもとに自己が生きることを目指して大きく利己的な行為として・と同時に相互の利己行為として ぞれぞれ自己表現した。か?

 (く) なおわたしは戦後生まれですので ドンパチの体験はないのです。


 § 4 国家としての国を守ることと同胞(腹から)としての国民を守ることと。

 (け) 国家どうしにおいては 互いに主権を主張しますが その国家に先行して市民に主権があります。

 (こ) 家というからには 二階建ての構造になっている。もっぱらの公民が二階に住んでいて 一階の市民たちの思いと考えを代行していると言えるかどうか?

 (さ) たぶんお二階さんのお偉方が決めた戦争であっても 人びと一般は――共同自治であるからには――自分たちが決めたというふうに腹をくくったと思われます。ただし 反対をつらぬくことも 自由だと考えられる。(公理であると見られる)。

 (し) おそらく国家の意志決定を みづからのものと――いやいやながらも――見なした人びとは 論じるなかれ わが愛するはらからを守ると決心したに違いない。
 ★ やはり、自分の国の愛する妻子や尊敬する友人のため、命をもなげうつ覚悟で亡くなっていったのではないでしょうか?

 (せ) けれども 敵なる相手の国にもそういう守るべきいのちは存在する。では なんで――世界の共同自治にとって―― 戦争をせねばならぬか?

 (そ) お二階さんとのあいだにわれわれ市民は きちんとした話し合いが持てていないのではないか? お上が暴走するのか? それとも人びと一般が のんきなのか?

 (た) お二階というからには 初めの平屋建ての市民社会からそこへアマアガリして行ったに違いない。もういっぺんアマクダリしてくるのではないか?

 (ち) もしくは アマクダリして元々の平屋建て市民の心意気において 一階のムラムラとの話し合いをしっかりきちんとつねにおこなうようにするのが よいか? 
 
 (つ) それには わが国一国だけではなく 同時にほかの国々もそのように《二階から一階への大政奉還》が成らなければ実効性に欠ける。か?


 § 5 《敵》なる人間をころすこと及びみづからの命をもってくにびとを守ることは 利他か?

 (て) どうなのでしょう?

 (と) つまり質問者の気持ちは なんで《利他》という言葉を使わなければならないのか? という疑問にあります。せいぜい《相互利益》ではないか?

お礼日時:2013/03/03 11:21

bragelonneさん、こんばんは。




「他者のために何かしよう」という時、その他者「本人」の意思なり意図なり、が、思いの他、重要と思います。
(もっと言うと、これは民主主義の問題か)


「金持ちの気まぐれな慈善」なんて、19世紀に始まって20世紀で卒業、ね?
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いいことおっしゃる。
 おそらく回答No.1およびNo.2でのやり取りをご覧になってご見解を寄せてもらったのだと思います。

 ★ 「他者のために何かしよう」という時、その他者「本人」の意思なり意図なり、が、思いの他、重要と思います。
 ☆ そして
 ★ (もっと言うと、これは民主主義の問題か)
 ☆ というこの視座について もろ手を挙げて賛成です。
 いくら援助を無条件に受けると言っても そういう情況であっても――むろん受けるほうは感謝するのですが―― あくまで双方は対等なのです。どうしようもなく 人間はいかなる場合であっても対等である。こう思います。(公理だと思いますから あまり説明や論証はないのだと思います)。


 究極の――いわゆる無私なる――《利他》が仮りに成就したとしましょう。けれども 人間であるかぎりは その《究極の利他》をもおのが心づもりにおいておこなった。つまり 《無私》なる精神にわざわざ成って その究極の精神を――いささか減らず口をたたくならば――これ見よがしに発揮した。とも考えられます。
 どこまで行っても 《利己》でありましょう。





 なお最初の二件の回答のほかに回答No.3においても あめんほてぷさんからツッコミが入りましたので けさはガンバってご返答を書きました。

 つまり そのNo.3でのやり取りで このくりなるさんのご回答No.4へのご返答が重なるかなと思います。どうでしょう? ご覧になってください。
 上の《民主制》の問題についても 少しばかりは 伸ばせたかと思いますので。

お礼日時:2013/03/03 11:40

これは簡単な質問ですね。


利己とは、短絡的なものから長期的なものまで連続しているイメージ。
この「長期的な利己こそ、利他と同義であること」を、あなたはイメージできないようで、悲しいことです(言葉では困難でしょうね)。ていうか、質問者さんは、哲学を誤解し、家族団らんの雰囲気で楽しもう、という目的がバレバレな点が悲しい。楽しむなら他の何かがきっとあるはずなので、是非とも、出会って、残りの人生を有意義に過ごしてもらいたいと祈るのみです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 全体としても個々のご見解としても意味が取れないでいます。

 ★ これは簡単な質問ですね。
 ☆ どう《簡単》なのか。つづくご議論で説明なさっていると受け取ったのですが それがわたしには見当たらず残念です。

 ★ 利己とは、短絡的なものから長期的なものまで連続しているイメージ。
 ☆ 何が《短絡的なもの》なのか。《長期的なもの》と言っても 何から何まであるように思います。

 まづは《意志行為》だと見るなら その意志の内容のことでしょうか? 
 つまりあるいは 意図なり欲求なり願望なりそれらの実行のことなりを言っていましょうか?

 もし人の意志行為について〔事後的にみづからの意志だとみとめることになるような〕突発的な衝動的なもしくは不可抗力によるような《短絡的な意志表示およびその実行》を取り上げてみましょう。

 これでよいのかどうか分からずに進めますが おっしゃることはこの《短絡的な意志行為》が 《利己》であっても その《長期的な意志行為》というものまで《イメージとして連続している》。――こういうことでしょうか?
 これが 分かりません。

 あるいは 初めにおのが《長期的な意志》が持たれていて そのつどまたは何かの拍子でそのとき 《短絡的なもの》としてでも 現われた。つまりそれとして――部分的にでも――意志行為として出現した。――このようなかたちで 《利己が 短絡的なものから長期的なものまで連続しているイメージ》だということでしょうか?
 これも分かりません。

 おそらく長期と短絡的とを分ける意味がないでしょう。そのときの現在時点におけるワタシ(任意の或る人)の実存と言いましょうか これはそれとして全体的です。そういう意味なら・つまり《未来と現在とが――その意志内容についても――つながっていて それは現在時における実存におさめられている》という意味なら分かりますが これはしかしながら《イメージ》ではなく ふつうの《意志なる行為能力ないし能力行為》のことです。いちいち《イメージ化》する必要もなく また時空間をいちいち分断することもないはずです。

 むしろ意志内容は 全体として個々の部分的な内容は互いに一体であるはずです。したがって その意志の実現に向けて《当面の短期的な目標》だとか《一年を超えるような中期的な実行過程》だとかあるいはさらに《長期的な総合的な計画》だとかに分かれたとしても それは 意志内容としてすべて同じものです。

 そしてこの意志行為について 質問者は一般に《よろこび・たのしみ・うれしみ・ここちよさ》などまでを含めて《利益》と見て その広い意味で《利己》ではあると言っています。

 ただしその《利己》なる意志行為にしても すでに初めに人はその人間なる存在の条件からして社会における共同生活をいとなんでいる。ゆえに いまの広義の《利益》は 自分だけのではなく何らかのかたちでほかの人びとのものにもなっている。つまり利益は 相互に浸透しておりからみ合っているとも考えられます。

 つまりここで わざわざ《利己》と《利他》とを あたかも対立する二項のごとく 分ける必要はない。またむしろ分けることこそが マチガイを引き起こす元になるとまで考えます。




 ★ この「長期的な利己こそ、利他と同義であること」を、あなたはイメージできないようで、悲しいことです(言葉では困難でしょうね)。
 ☆ 《言葉では困難》ということですから そのままにしておきます。


 ★ ていうか、質問者さんは、哲学を誤解し、家族団らんの雰囲気で楽しもう、という目的がバレバレな点が悲しい。
 ☆ (あ) どう《哲学を誤解し》ていますか? 言葉で説明するのは困難ですか? (説明困難だと言えば 何でも書き込んでよいとお考えでしょうか?)

 (い) 《家族団らんの雰囲気で楽しもう、という目的》という解釈が合っているとして 《利益》という概念にそういう意味内容を当ててはいけませんか? どう間違っていましょう?

 (う) この《目的》が どう《バレバレ》なのでしょう? つまり一方で《利益》を楽しみなどの内容を含めて広義に理解していることは バレバレなのではなくきちんと表明していることですし 他方で ではバレバレだと見なされるような隠し事があったのかな? と考えていますが その点心当たりがありませんので できればおしえてください。

 

 このように――補足欄にこそ書きませんでしたが―― 補足要求いたします。

お礼日時:2013/03/03 10:14

ブラジュロンヌ様おはようございます。


いつもながら興味ある遊び場を設けられますね。ちょっと失礼して隅でごそごそさせていただきます。

>利他って何ですか?

難しいテーマですね。いきものは自分が生きのこることで継続していく世界ですので、利他行為、ひいてはその極限にある自己犠牲という発想は一見矛盾している、というかあってはならないことなのでしょう。母性本能をいっておられますが、これは親が子供と一体になって生命を維持していくという合目的性があります。これはいいのです(かな?)。

共生というヒントを頂きました。私も生命現象を考える時、人間だってばらばらの個人ではない、ホヤの群生のような、大きな生命体の一部分としての個人という意識がやはりどこかにあるのではないか。本来が生命というのは社会を形成するのが自然なのだ、そうすれば、全体における個人、全体に対する愛のようなものが生命体の初期から遺伝子に書き込まれていても不思議ではない、その発現がのださんを日本の政治へ献身させる力にもなっているのではないか?これは飛躍が過ぎるでしょうか。


見返りを期待しないボランタリーな行動は、いずれ人間社会には必須の大きなムーヴメントになるだろうという考えがあります。あまりに社会にエゴ椅子チックな思想が栄え始めたことに対する反動というより、社会そのものが進化によってその方向へ進まざるを得ないだろうというもののようですが、この方向性が本来の生命体の中にあった性質の発現なのだとすれば、そしてそれが人間達の共通の思いになれば、案外愛の国は身近に実現しそうな気がします。
どんなものでしょうか。
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この回答へのお礼

 こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 同感です。

 志向性もしくは時代の方向性においても 大きく採ったその視座についても。
 ★ あまりに社会にエゴイスチックな思想が栄え始めたことに対する反動というより、社会そのものが進化によってその方向へ進まざるを得ないだろうというもののようですが・・・



 利己を社会としての視点からも捉える。もしくは利己などの個人の行動が 社会という全体のあり方にもすでに――その自然本性において――かかわっている。
 ★ 本来が生命というのは社会を形成するのが自然なのだ、そうすれば、全体における個人、全体に対する愛のようなものが生命体の初期から遺伝子に書き込まれていても不思議ではない


 ★ その発現がのださんを日本の政治へ献身させる力にもなっているのではないか? これは飛躍が過ぎるでしょうか。
 ☆ 野田さんの事例は 分かりやすいかも知れませんし かえって反論してくる向きもあるかも知れないと思いました。



 ★ ~~~~~
 見返りを期待しないボランタリーな行動は、いずれ人間社会には必須の大きなムーヴメントになるだろうという考えがあります。あまりに社会にエゴイスチックな思想が栄え始めたことに対する反動というより、社会そのものが進化によってその方向へ進まざるを得ないだろうというもののようですが、この方向性が本来の生命体の中にあった性質の発現なのだとすれば、そしてそれが人間達の共通の思いになれば、案外愛の国は身近に実現しそうな気がします。
 ~~~~~~~~~
 ☆ たぶんまだまだ《科学的証明》が少ないといった反論が出るのでしょう。
 わたしも まだ《芽生え》のようなことしか言っていないようにも思います。

 水かさを増して行きたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/03 11:52

相変わらず定理を無視しているので


回答をスルーして下さっていいのですが

思いついたので書き込もうと思いました。

感性の問題だと、
共感というのが問題になるのではないか、と。
シンパシー。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「共苦Mitleid」あるいは「同情」(ニーチェとロラン・バルト)


われわれが他人の悲しみを本人の感じているがままに感じとれるーーショーペンハウエルが共苦と名づけたもの、より正確には、苦痛における合体、苦痛による結合とよばれているものーーとしたら、他人が、たとえばパスカルのように、自分を憎むべきものと感じているときは、われわれもまた彼を憎むことになるはずであろう。(ニーチェ『曙光』)

http://yokato41.exblog.jp/14513313/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


それで、ここからはいつものようにトンデモなのですが、

初期の仏教の、苦しみを滅するという感覚的なパラダイムから
大乗仏教の、智慧の完成(般若波羅蜜多)を目指すパラダイムへと
シフトしたのではないか?と。

というのも、仏性というものが出てくるわけがわからなくて。

誰にでも仏性がある。誰でも悟れる。
という大乗仏教の思想は、

誰にでも理性があるから、真理を理解できる。という話ではないか?と

読み替えてみたのですがどうでしょうか。

仏性を理性と同一視して、智慧をいわばヌースと考えるのは
短絡的でしょうか。

あと私は以前は
仏教の慈悲と、キリスト教の愛は同じだと考えていましたが
どうも違うのではないかと思うようになりました。

悟って慈悲深いブッダが共に苦しむというのは
なんだかイメージがわかないのです。
アルカイックスマイルな仏像が苦痛の表情で歪むというのがピンときません。
感情的なものから離れているような気がするのです。

キリスト教の愛は英語だとloveなんでしょう。
もっとこう人情的なものではないか、と。

これを渇愛と批判されてしまうのはしかたないのではないか、と。

やむにやまれぬ心といいますか。

ここら辺の比較はわたしにはまだまだできません。
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この回答へのお礼

 ええっと 主題がまたはその焦点が散らばっているように思えるのですが まづは ご回答をありがとうございます。

 扱いやすいところから行きますが:
 ★ ~~~~~
 キリスト教の愛は英語だとloveなんでしょう。
 もっとこう人情的なものではないか、と。

 これを渇愛と批判されてしまうのはしかたないのではないか、と。

 やむにやまれぬ心といいますか。
 ~~~~~~~
 ☆ 《キリスト教》というのは 漠然としていると思います。いちばんよい取り上げ方は 自分はこのように考え定義するというふうにご自分の見解を打ち出すことだと思います。

 《愛》は ご存じのようにギリシャ語では アガペー・ピリア・ストルゲー・エロースと分けて捉えるようですが 自分はこれだと――問題に応じて適宜に――定義して議論するのがよいと思います。

 《渇愛》がどうのこうのというのは その取り上げている相手の《愛》の概念にあてはまっていないなら 屁の河童です。勝手にほざいてろとなります。

 ★ もっとこう人情的なものではないか
 ☆ これで定義はよいのかも知れません。ですがそうならば いま少し説明をおぎなうならば 議論がかみ合いご回答が引き締まるものと思います。

 ★ やむにやまれぬ心
 ☆ として《思いやり》が生じると言えるかも知れません。たぶんそれを《利他》と呼ぶのは 何ともそぐわない。という方向を結論は向いているかとも思われます。

 先の《人情的なもの》というのも やはり生活日常に根づいた人びとの思いや振る舞いを指し示そうとしており それを利己か利他かという二律背反のごとき――コンピューターもどきの――思考形式や行動様式において捉えるというのは やはりやはりさらにやはり 日本人の社会生活にとっては合っていない。


 エゴイズムとアルトルイズム。
 エゴーは――Greek: egoo; Latin: ego; Sanskrit: aham から変化したように―― 英語のアイ( I )と同じ語です。ドイツ語では Ich と言って元の g / h が残っています。

 アルテルとは 《もうひとつ別の》の意味だそうです。( al- :向こうの・別の。 -ter : 比較級を示す接辞。要するに英語の other です)。
 アルテルは 必ずしも《第三者》ではなく 《両者の内の向こう側・相手》のことを言ったそうです。

 つまりは エゴーとアルテルとは 《我れとなんぢ》のことらしい。
 何も日本人でなくても いま向かい合っている相手のことを思うのは ふつうのことではないでしょうか?

 利己と利他とに分けるということは あちらの世界では《われ》と《なんぢ》とは 渡り合えない溝が初めから横たわるとでも言うのでしょうか? そういうことなのでしょうか?

     *

 ( a )★ シンパシー。(J.-J.ルウソおよびA.スミス)

 ( b )★ ~~~~~~~
  われわれが他人の悲しみを本人の感じているがままに感じとれるーーショーペンハウエルが共苦と名づけたもの、より正確には、苦痛における合体、苦痛による結合とよばれているものーーとしたら、他人が、たとえばパスカルのように、自分を憎むべきものと感じているときは、われわれもまた彼を憎むことになるはずであろう。(ニーチェ『曙光』)
 ~~~~~~~~~~~~~

 ( c )★「共苦Mitleid」あるいは「同情」(ニーチェとロラン・バルト)

 ( d )★ ~~~~~~~~~
 初期の仏教の、苦しみを滅するという感覚的なパラダイムから
 大乗仏教の、智慧の完成(般若波羅蜜多)を目指すパラダイムへと
 シフトしたのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ( e )★ ~~~~~
 誰にでも理性があるから、真理を理解できる。という話ではないか?と

 読み替えてみたのですがどうでしょうか。

 ( f )★ ~~~~~
 仏性を理性と同一視して、智慧をいわばヌースと考えるのは
 短絡的でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ ( a )のシンパシーは 回答No.1及びNo.2でのやり取りに触れることが出来ました。見ていただければさいわいです。《思いやり》として受け留めてもよいのではないでしょうか。

 ( b )の《共‐感・共‐苦》≒ミット・ライト≒シン‐パシー(シュン‐パトス)がもし ( c )のように悪く言えば機械的に解釈されるなら ふさわしからぬ解釈をするのなら呪われてあれ(オニ・ソワ・キ・マリ・パンス)! とでも言いたい気持ちに片向きます。

 ( d )以下のようにそれが 《感性》を離れて・排除して《理性》のほうへ向かうのなら それはどうしてか? どうして理性一辺倒のごとき《わたし》のあり方をしなければ成らないのか?

 それは 《智慧の完成(般若波羅蜜多)》つまりはサトリには そのように理性ないし《ヌース》がどうしても重要なハタラキをするという理論があるということでしょうか?

 《真理》を理解するというのは おそらくその(真理の)代理ないしシルシをとおしてであろうと思われます。
 仮りに《真理を理解しえた》といった場合です。仮象としてです。

 そのとき 最終的に認識して言葉による説明をあたえるのは《理性》でしょうが その前の段階においても たとえば感性が――直感ないし直観として――何ものかを捉えたとひらめくことはあるのではないでしょうか?

 それは 《実存》の全体で感じ認識すると言ってみては どうでしょう?




 こんな感じです。

お礼日時:2013/03/03 14:23

ブラジュロンヌ様。

 こんにちは。

ブラジュロンヌさんの許可があるなら、お礼の宿題をここで書いても良いですが、この「利他とは」という投稿サイトが建設的になるように別の視点で述べてみたいと思います。

こまあすさんの社会はホヤのような集合体であると言う考えに触発されました。

私は昔は生物の研究者を目指していましたが、専門的言葉になっていたらすみません。

個人というものが個々のの細胞であると考え、社会と言うものが個体であるとします。

こまあすさんはホヤと投稿しましたが、現在社会では価値観が多様化し、ホヤより進化した生物の個体(わかりやすく人間とします)に社会が進化したとします。

ある価値観を肯定する集団を体の器官(脳、心臓、胃、肝臓などなど・・)

しかしこれらだけでは人間の部分です。

私はキリスト教を信仰してますが、聖書にあるように、教会はキリストを頭とし、各個人は体の一部と表現されてます。

ですから、すべての器官が必要。

生物に戻りますが、細胞は癌化しそうな場合アポトーシス(細胞の自立的死)を起し、周りに影響を与えないような仕組みがあります。細胞の自殺とも表現されています。まさに利他です。

しかし、私は人間の自殺と言うものは否定します。いろいろ困難はありますが、せっかくの一度きりの人生の命ですから。

利他とは何かの回答になっていなかもしれませんが、利他を考える場合、ある価値観の集団(国、会社、ソーシャルネット等)に中で、お前の考えは癌だと言われても、それは体の器官の一部のことですから、自殺などせず、もっと広い視野(グローバルには)で、体全体の中では何か役に立っていると考えると、利他的行為と言うものをもっと肯定できるのではと考えます。

脱線しましたか?

この回答への補足

 ★ ブラジュロンヌさんの許可があるなら
 ☆ 《許可》も何も どうぞ まったく自由ですよ。

補足日時:2013/03/05 10:49
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この回答へのお礼

 うううーーーん。とまづは うなって ごあいさつを申し上げ ご回答への感謝をお伝えします。


 じつは 何を隠そう このあと聖句――たとえば《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(ヨハネ福音15:13) ――についても問うつもりでいます。

 これも《利他》ではないか? と問い返されるものと考えます。

 ★ 生物に戻りますが、細胞は癌化しそうな場合アポトーシス(細胞の自立的死)を起し、周りに影響を与えないような仕組みがあります。細胞の自殺とも表現されています。まさに利他です。
 ☆ まぁ この事実そのものは あくまでも部分あるいは体の部位としての問題だという見方で 直接の反証にはならないと思っています。

 けれども 問題はそのような事実をたとえとして 実際にひとりの人間の存在がそのような行為におよぶ場合 《それ以上に大きな愛はない》と捉えるごとくに 《利他》ではないかという議論が提起されるときにあります。もし
 ★ ~~~~~~
 私はキリスト教を信仰してますが、聖書にあるように、教会はキリストを頭とし、各個人は体の一部と表現されてます。

 ですから、すべての器官が必要。
 ~~~~~~~~
 ☆ というごとくに 《器官》という部分や部位が そのままひとりの人間の存在にあてはまるとき 問題が起きます。


 あるいは――先にご見解のほうを復唱しておきますが――
 ★ ~~~~~
 ・・・利他を考える場合、ある価値観の集団(国、会社、ソーシャルネット等)の中で、お前の考えは癌だと言われても、それは体の器官の一部のことですから、自殺などせず、もっと広い視野(グローバルには)で、体全体の中では何か役に立っていると考えると、利他的行為と言うものをもっと肯定できるのではと考えます。
 ~~~~~~~
 ☆ つまり《アポトーシス(細胞の自立的死)》ということについて 枯れ葉がみづから落ちてゆく場合だけではなく 落ちてでも落ちる前にでも枯れ葉として部分的に全体の生命のために しかるべき行動を起こし 《共生》を担う一環と成っているという場合。

 つまりは《共生》という大きな命題(目的)のもとに その一環としての一部位をになって おのが自己表現を果たしている。そのときそれが担うハタラキは 《利他》ではないか? と。



 そうですね。大前提として《共生》。個々の場合に《利己ないし利他》の互恵的な意志行為。こうなるでしょうね まづは。

 それでももしその一部位の担うハタラキが アポトーシスのごとく《犠牲になる・ないし自死に到る》という場合には どう考えるか?


 ★ しかし、私は人間の自殺と言うものは否定します。いろいろ困難はありますが、せっかくの一度きりの人生の命ですから。
 ☆ わたしも このもうひとつの大前提の内容に拠ります。他殺も自殺(ないし自死)も すべて人殺しです。《カイン》の血を わたしたちは――めぐみとしてでしょうが―― もはや承けていません。《アベル》の血からも自由になっています。(これも 公理です。信仰の側からは またイエス・キリストの歴史的な登場を持ち出しましょうが)。


        *

 

 さらにあらためて考えました。
 アポトーシスの場合には 自己がすでに何らかのかたちで《朽ちて来つつある》という事実があって しかもこれを自己が自覚している状態にありますね?

 《朽ちつつある》ものが 朽ちて行くのは それほど問題になるとも思われません。そのときに《おのれの命を省みず ほかの人びとのために おのれのハタラキを果たす》と言っても それがどうして《利他》なる行為として分類されることになるか? 
 利他なる要素はあるけれども ひとつの《利他》というカテゴリを立ててそこに分類されるほどの内容は 必ずしもまだ成っていない。のではないか?

 なぜなら 《朽ちる》ことは おのれの広い意味での〔負のかたちにせよ〕利己行為であり そこに利他の要素も見られる。ということのようですから。


 ふううーう。どうでしょう?

 

お礼日時:2013/03/03 16:18

なにをぬかすか。

誰かの利の為に死ぬなら、利他なのだ。

身代わりになって死を選ぶってこと。
是非はともかく、戦争に志願し戦死するとか、特攻もそうかもしれん。

死をもって自分を生かす道などとぬかすかもしれんが、父性というのも、母性と同等の利他。

父性と母性が何を守るかと言うと「死」なのだ。その裏は「生きる力」となり、これらの欠落こそ人間にとって最も危険なものなのだ。

父性にしろ母性にしろ、利他の精神性の元はここにある。
単純にそれだけだ。

それを幻想と言いたがり、共生行為としたがるお前の精神性の元とは根が違うだろ。
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この回答へのお礼

 うきよとんぼさん しばらくですね。お元気そうで。まづはご回答をありがとうございます。

 ★ 特攻と利他
 ☆ これは あめんほてぷさんがNo.3で取り上げておられます。そこへのわたしの返答を合わせて読んでもらえればさいわいです。

 と押さえて 次のような言い返しで返答を始めてみます。

       *

 つまり
 わたしのこの質問が何を守るかと言うと 利他などないと言いそれは幻想に過ぎないという問いかけをなすことによって じつは 「死」なのだ。その裏は「生きる力」となり、これらの欠落こそ人間にとって最も危険なものなのだ。

 人間性にしろ社会性にしろ、利他の精神性の元はここにある。
 単純にそれだけだ。

 それを何をぬかすかと言いたがり、共生行為としたがらないあなたの精神性の元とは根が違うだろ。

       *

 まぁ これは じょうーーーだん。じょうだんですよ!!!

 まぁ 鼻息が荒いので ちょっといなしてみたのみ。



       *


 さて 次の命題を取り上げましょう。
 ★ ~~~~
 誰かの利の為に死ぬなら、利他なのだ。

 身代わりになって死を選ぶってこと。
 是非はともかく、戦争に志願し戦死するとか、特攻もそうかもしれん。
 ~~~~~~
 ☆ これではまだ質問者は納得が行きません。なぜなら:

 (あ) 《誰かの利の為》というとき《利》とは どういう内容か? これがはっきりしない。それは《死ぬ》ことでも《死なない》場合でも 同じ疑問が生じそれは取り払われません。

 (い) 言いかえると 《身代わりになる》ということが 明らかではない。代わりに死ぬというとき
  (i) 代わりに死んでくれと誰かに頼まれたのか?
  (ii) みづから志願して身代わりになったという場合にも なんで《身代わり》なのか?
  (iii) 非戦闘員であっても敵は攻撃してくるのだから 単純に《身代わりになる》ということがどうして言えるのか?
  (iv) 《戦死》すれば えらいのか? 残された者・生き残る者にとっては 《ありがた迷惑》ということもありうるのではないか?
  (v) ただただ死ぬことの大義名分を勝手に考えついただけではないと言えるか?
  (vi) 早く負けたほうが どれだけ《利益》が広くもたらされるか。ということをも考え合わせてみたことがあるか?
  (vii) どうして《是非はともかく》というような条件づけで考えることが出来るのか?


 ★ 死をもって自分を生かす道などとぬかすかもしれんが
 ☆ あめんほてぷ氏とのやり取りで 《自殺をみとめることはない》とすでに言っています。(No.8)。誤解なさらないように。


 いづれにしましても 次のようにすでにやり取りをしています。
 
 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~
  § 2 国とその同胞を守るために戦争におもむくのは 《利他》行為ではないか?

  いくつかの主題ないし論点があろうかと思います。
 
  § 3 戦争そして戦争におもむくとは どういう意志行為か。
  § 4 国家としての国を守ることと腹柄(はらから)としての国民を守ることと。
  § 5 《敵》なる人間をころすこと及びみづからの命をもってくにびとを守ることは 利他か?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 提題を掲げたのみですが 参照されたし。


 あるいはまた
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか?

 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ というのは 言わば作業仮説であって それは極論を提出することによって 問い求めを推し進めようとしたものです。
 
 まぁ 自慢ぢゃないですが ここまででは案外・意外に・想定外に(?)なのかどうか まだ反駁はされ切っていないように思います。



 
 かんたんにまとめてみるなら:
 (う) 戦死することによって《身代わりになる》というのなら それは 恩を売っているのではないか?

 (え) それは押し売りではないか?

 (お) 遺された者にとっては ありがた迷惑にならないか?

 (か) 利他というのなら その他者とのあいだの話し合いをとおして 互いにその人格どうしの同感・同意のもとに成り立つというものでなければならないのではないか? 

 (き) 直後の回答でくりなるさんが

   ◆ (回答No.10)・・・「だから、人権を侵害しないでね」

 と書いているのは 上のような主題ないし論点のことを言っているのではないか?

お礼日時:2013/03/03 21:18

>「誰かの利の為に死ぬなら、利他なのだ。




あはは。
・・・「だから、人権を侵害しないでね」
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 またまた くりなるさんへのご返答は ほかの回答者とのやり取りをもって 代えさせていただくこととなると思います。

 直前のNo.9。そしてすでに 直後のNo.11にも うきよとんぼさんからの回答がつづいて来ているようです。


 このくりなるさんのご回答は 《民主制》における《助け合い・利他》のあり方を問うものとして 前回につづいて 受け取りました。

お礼日時:2013/03/03 21:22

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