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 KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか

 民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

 日本人にあるまじきKYだ と言ってそれを読めという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。

 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の中に持ち込み人びとに飲み込ませようとするときの思潮やまた圧力と感じられもする雰囲気のことである。

 この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)》が人びとの心の中に見られる場合がある。

 あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》という無謬性の神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。

 これらの風潮がはびこっている。
 この風潮を読まないというKY は 未来社会への旗手である。

 たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。

 ご見解とご批判をたまわりたく。


 なお最後にですが あらためて定義です:

  ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 
  言論をとおしてというかたちを超えて 
  おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って
  ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの
  意向をすでに汲み取って―― 
  多くの参加者の意向がそれになびいているとき 
  そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (14件中1~10件)

ようやく質問者のおっしゃるクウキが何かわかったような気がします。

感覚的にですが。
つまり、先生の言うことは聴かねばならない、とか、お上が言うのだから従わなければならない、などの、権力による強制力のようなことかなと。
合っていますか?

それで大体OKならば、そういうクウキは別に必要ないでしょうね。権力という機能や強制力、決定権については必要だろうと思いますが、立場の上のものが言うのだから、個人的な見解でも自身を曲げなければいけないとか、そういうことは必要ないと思いますよ。

例えば、名画と言われているからといって必ず感動しなければならないなどということがないのと同じで、権威ある人が言うからと言って、従わなければならないなどということはないということですよね。

ただ、権威や権力を持っている人は強制力や決定権、人事決定権なども持っていますから、ある程度言うことを聞かないと自分の立場が悪くなってしまうとか、そういう計算はみなさんあるのではないかと思いますが、苦い話ですよね。

ただ、実際、政権などにしてもコロコロ変わるのは、国民に駄目出しされているからであって、日本の議会制民主主義は、機能している方だと私は思います。

話は咬み合ってきましたか?

この回答への補足

 ● 宇宙の法則
 ☆ とは 人間が知ることのできるものなのですか?

 知ることが出来るとすれば それは 神ではないでしょう。
 なぜならば すでに人間の知識の中におさまるものだから。
 
 人間の知識の内容をもって 神として作ったとなります。

 ぢゃあ 何でも神として作ることが出来ることになります。
 鰯の頭に 宇宙の法則が凝縮されているのだから イワシノアタマが 神なのだと言えることになります。


 知り得ないとすれば それは 神ですが
 その神の名前は 何でもかまわないとなります。
 アルケーに限りません。知り得ないのですから アルケーであるとも知り得ないのです。
 ただし仮りに ブラフマンとでもヤハヱーとでもあるいは《無い神》とでも 自由に名づけて自分自身の神とすることが出来ます。

 神とは そういう存在(ないし非存在)です。
 思考における論理を超えています。

 無根拠として存在します。
 この無根拠を心にいだくときひとは 意外とチカラが得られるものです。
 そのパタンには 無根拠すら無いととなえる無神論もまったく同じかたちで入るのです。
 無根拠は 無いと言われてもビクともしないからです。


 問題は タコツボ問題です。閉じるかひらいているか。
 ふとつの名前の神が唯一だとは 言っても自由だとは言え 人間は知り得ないのです。つまり断定できません。

 ぎゃくに《全体としてただひとつの神》とは言えます。無根拠とは そういうものです。
 その神の名前が さまざまに呼ばれている。そういうかっこうです。
 全体という蛸壺なら それはひらいています。全体より大きいものはないからです。

補足日時:2013/07/08 09:07
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 つまり、先生の言うことは聴かねばならない、とか、お上が言うのだから従わなければならない、などの、権力による強制力のようなことかなと。
 合っていますか?
 ~~~~~
 ☆ ええ。さらにふりかけをつけ添えるなら それはすでに言葉で伝えることを超えているというのが ミソです。

 先生や先生の意をいだいた親らが 生徒らにすでに顔をしかめるだけで 《言うことを聞きなさい。したがいなさい》という意味のことを伝え得ているなら それは《クウキ通信》です。

 つまりは お上が言っていることに逆らおうとしたら その場の周りの人たちが一斉に声も音も立てずにブーイングをし出したとか そのしかめ面だけで その人の心を決めつけようとする。出る杭を打とうとする。そのような情報通信のあり方。



 ★ 立場の上のものが言うのだから、個人的な見解でも自身を曲げなければいけないとか、そういうことは必要ないと思いますよ。
 ☆ ええ。このことです。そして 歴史上そのようなしかるべき潮の流れをかたちづくろうとしているのは じつは KY と呼ばれるその行為ではないか? というところまで議論を伸ばして問うているわけです。

 上層部が言うのだからと言っても 問題は何を言うかその中身であって 誰が言ったかは関係ない。そんな子供だましみたいなクウキ通信は どうでもよい。――と KY の人が言っているとしたら それこそが あたらしい時代の幕開けなのではないか?

 しんじんるい。
 

 ★ 例えば、名画と言われているからといって必ず感動しなければならないなどということがないのと同じで、権威ある人が言うからと言って、従わなければならないなどということはないということですよね。
 ☆ このことを KY の場合は 身をもってからだで表現しているはずです。

 これは もともとそういう振る舞いの仕方が 自然で人間的で道理にかなっていて 人間にとってきわめて自由な・希望に満ちた人間のすがたなのではないか?



 ★ ただ、実際、政権などにしてもコロコロ変わるのは、国民に駄目出しされているからであって、日本の議会制民主主義は、機能している方だと私は思います。
 ☆ これはですね。たぶん――いえ そういう事態なのだと思うのですが それでも何かあたらしい潮の流れを嗅ぎ取ろうとするならば―― おもには外国との関係において 《クウキ通信》による権威づけや権威の保守が必要だと人びとにおいて考えられたからではないかと思います。

 原発事故での対応のまづさも――つまり国内問題も――かかわっているでしょうが 情報隠しにかんしては 自民党も同じようなものだと思われますから おもに国際関係における危険さのような思いが 政権をふたたび昔の政党にもどした。のかと思っています。


 ★☆ 話は咬み合ってきました〔ね〕。
 

お礼日時:2013/07/07 16:10

私の言っていることは、不文律を尊重しようということではなく、発言や態度によって、空気や流れが形成される、ということですので、質問者さんの前お礼とは解釈がずれているかなと感じましたが如何でしょうか。

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 
 ★★(回答No.12) ~~~~~~
 良くも悪くも現実的ということです。私は、空気や潮流といったものを作る働きの方が、読む読まないよりも大事なのではないかと思っていて、一人一人がそうであってこそ、それでこそ本当の意味での空気感や潮流ができるのではないかと考えています。
 ~~~~~~~~~
 ☆ この内容について見解の違いを浮き彫りしたところは:

 1. 《良くも悪くも 空気や潮流を作る》というとき その理論や提案の中身をめぐってかたちづくられる雰囲気としての評価やうわさは――たしかに或る程度の・場の空気の流れをつくったり変えたりすることがあるとは言え―― 問題としていません。

 2. けっきょく権力か権威か権限のある者の――しばしば個人的な意向をともなった――見解が その中身の評価とは別にさらにその上に帯びさせられて来るそのあたかも圧力のような雰囲気。これを クウキと言い それは読まなくてもよいと言って 問題にしています。

 このことを重ねて説明しますと:
 ★ 発言や態度によって、空気や流れが形成される、
 ☆ というとき 

 3. (1)で言うように その見解について実質的によいかわるいかの中身によって 人びとの評価が持たれ それによってその場に賛成や反対の空気の流れがつくられることはありますが そのような事態については 問題にしていません。それは それぞれ自分自身の考えにしたがって言わば投票するということなわけですから。それは 民主制です。

 4. 問題は 《発言や態度によって》 上のような中身の評価とは別に言わばその上に 権限などを有する者の――しばしば個人的な意向をふくむような――賛成か反対かの態度が あたかも人びとのあいだに・あるいはその上に何らかのチカラ関係としてのしかかって来ている。この場合〔が 問題〕です。――これは 民主制ではなく 民主制を踏みにじるものだからです。




 質問者から見て問題をしなくてよいと言う場合(1=3)と問題にしなくてはならないと言う場合(2=4)とのこれら両方がみとめられる。何ら問題はないということですか? 

 

お礼日時:2013/07/07 14:15

日本人と言えども意見は結構割れるものだと思います。

ですから、空気を読んで同調し、その場が緩く治まるのは、飲み会などのレクリエーションの場くらいではないかと思います。他方、議会、例えば国会など利害の浮き立つ議場では、はっきりと対立が存在しています。

君子は和して同ぜず。
周囲と異なる意見であっても、自分の意見があるなら言う、そのような人は普通にいるでしょう。
同じて和せずの人々もあるが、それは民主主義的とは言えないでしょうね。

空気を読む、読まないと言っても、その場の利害関係で同調したり対立したりすることが、結局は多くて、理想に邁進するような人々は少ないないのかもしれませんね。良くも悪くも現実的ということです。私は、空気や潮流といったものを作る働きの方が、読む読まないよりも大事なのではないかと思っていて、一人一人がそうであってこそ、それでこそ本当の意味での空気感や潮流ができるのではないかと考えています。
こんなところで回答になったでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~
 良くも悪くも現実的ということです。私は、空気や潮流といったものを作る働きの方が、読む読まないよりも大事なのではないかと思っていて、一人一人がそうであってこそ、それでこそ本当の意味での空気感や潮流ができるのではないかと考えています。
 ~~~~~~~~~

 そうしますと
 ☆☆(趣旨説明欄) 民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。
 ☆ という見方に真っ向から反対であるという見解でしょうか。

 
 ★ 周囲と異なる意見であっても、自分の意見があるなら言う、そのような人は普通にいるでしょう。
 ☆ すなわち 話し合いは 話し合うために持つものであり それぞれが自分の考えを述べ合って行く中で みんなにとってよい結論を互いに得ようとする場だと思われます。

 そのような話し合いないし議論のほかに すでに決まった答え(結論)をクウキという圧力を手段を押しつける必要はないと考えます。

 それとも それでもよいという考え方でしょうか?

 あるいは 圧力ではなく何か潤滑油のようなハタラキであり手段であるという別の考え方なのでしょうか?

 でも それが 不要なのではないか。だって皆がそれぞれ考えを出し合って話をすすめれば ほかの手段は必要ないと思われます。

 表明された意見についてはすべて KY と言われる人であってもその内容を《読む》のですよ。その意味で或る種の流れが出来る 流れが変わるということなどは起きます。これは ボスの意向を反映させるためのクウキとは 別です。

お礼日時:2013/07/07 07:05

~~~~~~


☆ つまりは いまここなる社会では たまたま わたしの仕事が人びとに便益をあたえたという恰好になっている。その努力・労働は 便益を社会や人びとに たまたま あたえている。ということは 事実である。となります。
~~~~~~
この事実をサンデルは認めます。
このことを認めた上で、
労働の成果に対して社会から支払われる代価は、個人のみの努力で生まれたのではない。であるとするならば、《リバタリアニズム》はおかしいのではないですか?
という疑問をハーバードの学生さんたちに投げかけているのですよ。

サンデルの考える《リバタリアニズム》の大原則は、
 「わたしはわたし以外の誰のものでもない」
 「わたしの財産はわたし以外の誰のものでもない」。
本当に、「わたしはわたし以外の誰のものでもない」のか?
このことも、暗に学生に問いかけているのでしょう、たぶん。


☆なんでものごとを一面的にしか見ようとしないのか? 見ても一面的にしか表現しようとしないのか? という問いです。
◇意図的に一面的にしか見ないようにしていると思います。
極論を提示し、
学生さんたちの議論を活発にするためなんでしょう。
───多くの人間を助けるために、一人の人間を殺していいのか?
食べるものがないとき、人間を〔殺して〕食べていいのか?
それは、正義・JUSTICEにかなう行為なのか?
サンデルは、結構、極端な例を引き合いに出します───
そして、サンデルは、講義の中で、自らの回答を与えようとはしません。
  自分で考えろ。そして、自分なりの答えを導き出せ!!
「それが[政治〕哲学の始まりだ」と最後の講義で結びます。
「オレは、魂を揺さぶる、《タマフリ》役だ」と、格好良く結ぶわけです。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~
 サンデルの考える《リバタリアニズム》の大原則は、
 「わたしはわたし以外の誰のものでもない」
 「わたしの財産はわたし以外の誰のものでもない」。
 ~~~~~~
 ☆ 所有権は 法律ではそううたっているのではないですか?

 《わたし》の存在は 意志自由としては 人は人とかかわりを持つという前提を置いたとしても 仮りのかたちとしては ひとりの行為主体にその行為の責任はあると考えられているからには 《わたし以外の誰のものでもない》と言える側面があるとは思います。

 ですから おそらくそのような大原則に対する批判としては 法律以前の慣習法(不文法)や条理そしてあるいはひとりの人間の主観といった淵源に議論をもとめて行くのが ふつうではないのでしょうか?

 ◇ ~~~~~
 この事実をサンデルは認めます。
 このことを認めた上で、
 労働の成果に対して社会から支払われる代価は、個人のみの努力で生まれたのではない。であるとするならば・・・
 ~~~~~~
 ☆ というかたちでの批判は 非常にあいまいになると思います。
 すなわち 《個人の努力でもたらされた価値だ》という部分をもみとめた言い方をしているのですから。


 ◇ そして、サンデルは、講義の中で、自らの回答を与えようとはしません。
 ☆ サンデルは分かりましたが では ロールズは どうなんでしょう?
 サンデルの説明によるかぎりでは 同じように極論からもう一方への極論へと移って行くという話をしてはいなかったですかね。サンデルだけのことでしたか。

 でしたら 《クウキ》論にかんして どんぴしゃりの議論はないということですよね。

お礼日時:2013/07/06 20:16

NO7のお礼に書いてある


bragelonneさんの違和感の最大の原因は、
サンデル語の《恣意的》と《偶然》の二語だと思います。

サンデル語の《恣意的》は、ふつうに使われる「恣意的」という意味以外に、
「国籍や人種、性別、歴史、文化、文明、○○という親のもとに生まれた、足が早い遅いなどの先天的な能力など、自分の努力ではどうにもならないものに対して」つけられる形容詞、《枕詞》なんですよ。
《偶然的》といってもいいのかもしれません。



☆私がそれらの才能を使うことによって得る便益は、道徳的な観点からは、やはり、恣意的な要因によって決まることになるだろう。
◇このサンデル語の文章は
それらの才能→「先天的な能力・才能などは、偶然の産物である」
それらの才能を使うことによって得る便益→「その才能や、その才能の派生物を評価し、しかもそのサーヴィスに対して対価が払われる時代・社会に《たまたま》生まれただけだ。お前さんが自分の努力、あるいは〔自由意志による〕選択でこの時代や社会に生まれたのでもなければ、お前さんがこの時代や社会を作ったのでもない。よしんばそうだとしても、お前さんの才能は偶然の産物じゃないか。お前さんは、《自由意志に基づく選択・判断》で誰々の両親のもとに生まれようと決めて、生まれたんかい?」
《恣意的》な要因→「《偶然的》な要因」
と翻訳して、読まないといけないんですよ(笑)。


☆私の才能は、市場経済で、どんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。需要と供給の法則によって決まるのであって、私の行いで決まるのではない。
◇私の才能→私の才能の評価


☆貢献と見なされるものは、社会が偶然重んじるものの資質で決まる。
◇サンデル語のキーワードである《偶然》がまたまたでてきました。


☆私たちの多くは、幸運にも、この社会が偶然重んじる資質、社会が要求するものを提供できる資質を大いに持っている。
◇《偶然》ということば、サンデルは好きですね~。もう止まりません。



☆資本家の社会では、企業家精神を持っていることが役立つ。官僚的な社会では、上司とうまくやることが役立つ。大衆民主主義社会では、テレビ映りを善くすることや、手短に表面的な話をすることが役立つ。訴訟社会では、ロースクールに行くことや、そのための試験でうまくやることが役立つ。
 しかしこれらは、いずれも私たちの努力とは関係ない。
◇サンデル「《恣意・偶然》理論」とでも申しましょうか。。。
すべてを偶然性の中に包んでしまいます。
そして、サンデルの投げかけるのは、アメリカを支配しているロック、もしくはリバタリアニズムの「《個人の努力・労働》によってのみ価値が生まれる」的な考え方に対する疑問です。
もし個人の努力・労働によって本当に価値が生まれるのであれば、あるいは、その努力・労働の成果に価値があるのであれば、law school出の学生を原始時代に連れていっても、その努力の成果である法律的な知識をもってマンモス狩りをうまくやれるであろう。そして、その法律的な知識をもって狩猟採集時代の人々から英雄視されるであろう!!
しかし、このようなことはありえない。
つ・ま・り、
個人の努力・労働によって価値が生まれたのではなく、その個人のその努力・労働〔の派生物〕を評価する時代・社会に《たまたま》いるだけにすぎない。
時代・環境がかわれば、その努力・労働は、便益を社会や人々に与えないのだから。



☆ロールズやサンデルは 何を言おうとしているのだろう?
◇アメリカ、世界を支配している《リバタリアニズム》への批判です。
確か、
サンデルは、もともと《リバタリアニズム》的観点からロールズを痛烈に批判していたんですよ。
で、
今は、コミュニタリアニズム(共同体主義)の立場からロールズ批判をしているんじゃなかったかな。
実は、結構、危ない思想家なんです、サンデル(笑)。

http://www.visualecture.com/wordpress/?page_id=3 …

の第09回~第12回の講義を見る、聞く、講義録を読むと、
サンデル思想の《危うさ》の一端が理解できると思います。

コミュニタリアニズム(共同体主義)
────────────
共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。
共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わない、というような全体主義・国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ、共同体主義が自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C% …
────────────

リバタリアニズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90% …



☆☆☆☆☆☆
NO8で出されている
~~~~~~~~~
《原罪》の問題なのかも知れませんし 《苦や無明とそこから脱出するさとりのあいまい性》の問題かも知れませんし ですがヒトの《自然本性》をどう捉えるか? これを議論したほうが早いかも知れません。
~~~~~~~~~
のご批判は、ゴモットモだと思います。

ロールズの《JUSTICE・正義》は、あえて、そこまで踏み込んでいません。《道徳》レベルで終わっています。
ただ、
ロールズの哲学は、《政治哲学》ですので、《契約》と《契約のもとでの正義》を説明できる理論であれば、それで十分という考えも成り立つと思います。
《政治哲学》ですから(笑)!!
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この回答へのお礼

 いやぁ まだ分かりませんね。ご回答をありがとうございます。

 たとえば
 ◇ ~~~
 個人の努力・労働によって価値が生まれたのではなく、その個人のその努力・労働〔の派生物〕を評価する時代・社会に《たまたま》いるだけにすぎない。
 時代・環境がかわれば、その努力・労働は、便益を社会や人々に与えないのだから。
 ~~~~~~
 ☆ ということは 

  ○ たまたま生まれて来て 何がしかのことを学び自分でもたまたま考え
   仕事をもした。
    たまたまわたしの時代と社会とは その仕事の成果に価値をあたえた。
    ゆえに わたしの持てる能力を活かしてはたらいたその努力と成果は
   たまたま わたしという人間に関係する。
    むろんただし 社会という仕組みじたいは すでに人びとの互いのチ
   カラを合わせてつながりを持った関係構造となっており ワタシもおの
   おのその中に位置している。

 とは言えるはずです。

 ▲ しかしこれらは、いずれも私たちの努力とは関係ない。
 ☆ これがおかしい。一方の極に話を振り切らせなければ済まないというような話の進め方です。

 ◇ 時代・環境がかわれば、その努力・労働は、便益を社会や人々に与えないのだから。
 ☆ つまりは いまここなる社会では たまたま わたしの仕事が人びとに便益をあたえたという恰好になっている。その努力・労働は 便益を社会や人びとに たまたま あたえている。ということは 事実である。となります。

 なんでものごとを一面的にしか見ようとしないのか? 見ても一面的にしか表現しようとしないのか? という問いです。




 ◇ ロールズの哲学は、《政治哲学》ですので、《契約》と《契約のもとでの正義》を説明できる理論であれば、それで十分という考えも成り立つと思います。
 ☆ だとしますと クウキおよびその批判としての理論には 採用しにくいものがあるように思います。

 とりあえずの秩序や治安あるいは経済的な安定を その結果において判定するような立ち場に身を置いているでしょうから。

 どうでしょう。

お礼日時:2013/07/06 16:11

>KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


> 意向をすでに汲み取って―― 
> そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。

聞いたことの無い定義ですねえ。

意向が汲み取れないのがKYであり、意向を汲み取って大勢が決まっているのを知りながら
それに逆らうのKYというのは聞いたことがありません。
KYとは危険予知のこと という定義なら聞いたことあるけど。

アタリマエのことですが、自分の意見が大勢に位置するのか、少数に位置するのかで
意見の述べ方は異なります。KYは、それが出来ない。
それでは説得できない可能性が高くなります。
だから、空気読まないと。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 聞いたことの無い定義ですねえ。
 ☆ そうですかねぇ。

 ★ ~~~~~
 意向が汲み取れないのがKYであり、意向を汲み取って大勢が決まっているのを知りながら
 それに逆らうのKYというのは聞いたことがありません。 
 ~~~~~~
 ☆ クウキが読めないというのでなくて 読めたほうがよいとは すでに趣旨説明にあきらかにしています。

 それとの関連を込めて書いていますが それとは別に 次の点は 誤解があるのではないでしょうか?

 すなわち 
 ★ 意向が汲み取れないのがKY
 ☆ であるとしても そのとき
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
  ・・・〔一般にボスの〕意向をすでに汲み取って―― 
  多くの参加者の意向がそれになびいているとき 
  そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このことも KY の持つ内容であると言えるのではないでしょうか?

 つまり 《場を支配するクウキとなったボスの意向が 汲み取れない》としても そのクウキに同調する人びとの心の片向きを意に介さないというところです。
 もちろん いわゆるナンバー2なるボスのもとにただよう第二グループのクウキをも読まないわけです。

 つまりもっと言えば 《クウキ》という現象について いっさい知らない関知しないという態度 これを持っているという意味です。

 しかもそれだけで 未来社会への――巧まずしての――旗手となっている。


 ★ ~~~~
 アタリマエのことですが、自分の意見が大勢に位置するのか、少数に位置するのかで
 意見の述べ方は異なります。KYは、それが出来ない。
 それでは説得できない可能性が高くなります。
 だから、空気読まないと。
 ~~~~~~
 ☆ これでよいという理論です。よいだけではなく あたらしい社会――つまり人間関係のあり方――を切り拓いて行ける第一歩である。こうも言おうとしています。

 言いかえると 
 ★ 自分の意見が大勢に位置するのか、少数に位置するのか
 ☆ そんなことは どうでもよいことだという意味です。それこそ歴史の《大勢に影響しない》ことです。

 ましてその《位置の関係》のあり方
 ★ で 意見の述べ方は異なります。
 ☆ ということほど あほらしい考え方はありません。トイレの蠅がどの扉から入ろうかと迷っているようなものです。

 ★ KYは、それが出来ない。
 ☆ そのことこそが あたらしい――人間のあたらしい――チカラです。

 KY がかなしくも もし何らかの症状を呈しているとしたなら その症状は こういった未来へのさきがけになることのためにそう成ったと考えるべきでしょう。

 《クウキ》に頼ることの出来た昔むかしのおえらい方々は しっぺ返しをくらっている。こうも歴史を見渡すことが出来ましょう。


 まさ2211さんも こういったあたらしいくうき(?)の流れを読んでみてはいかがでしょう。

お礼日時:2013/07/06 12:03

原初状態についての質問がありましたので、調べてみました。



原初状態
(I)客観的条件
 (a)同時期に人々が同時間を一定期間内とともに過ごしていること
 (b)人々の身体的能力・精神的能力がほぼ類似していること
 (c)人々の協働を必要としないほどあまり豊かではなく、かつ彼らの協働を可能としないほどあまり窮乏していないほどの穏やかな状態

(II)主観的条件
 (a)合理的で平等でかつ自由であること
 (b)相互に無関心であること
 (c)《無知のヴェール》におおわれていること
 (d)自律・autonomyしていること

なのだそうです。

このような原初状態が実際にあったというわけではなく、人間は道徳的・理性的であるというわけでもなく、
原初状態とは
このような状態では、道徳的で理性的な人々はどのような合意形成をするのか、ということを考えるための一種の《概念装置》です。

こうした原初状態に自身をおいて考えると、
最大多数の最大幸福・功利主義は、自分が少数派になる可能性があるので、否定されるであろう。
奴隷制は、自分が奴隷になったらたまらないので、否定される。
無制限の能力主義は、自分はひょっとしたら無能力者かもしれないので、やっぱ嫌だ、
となるであろう。

この《原初状態》という《概念装置》を用いて考えなさい、
というわけなんでしょうね、きっと。

(II)の(b)(c)は、すこし《KY》に似ていませんか?
そして(II)の(a)に関しては、わたしたちが合理的かどうかは疑わしいですけれども、
平等と自由は、すくなくとも憲法で保証されています。
(d)の自律に関しては、まぁ、これを行動原理にしている人は、いないでしょうね~。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 どうもよく分かりません。

 つづいて分からない節をつづります。

 ◇ ~~~~
 この《原初状態》という《概念装置》を用いて考えなさい、
 というわけなんでしょうね、きっと。
 ~~~~~~
 ☆ たぶん エポケーをとおしても――純粋意識から推論を及ぼして来て――同じような議論ができると思います。
 
 エポケーは じっさいに人がそうすることも出来ますし ヒラメキなどにおいてはありうると思いますが おそらくこの《原初状態》というのは 自分たちの思索の結果に説得力を持たせるために そのように考えたのだよと説明してみせる・そういう概念装置であるように思えて来ました。


 ◇ ~~~~
 こうした原初状態に自身をおいて考えると、
 最大多数の最大幸福・功利主義は、自分が少数派になる可能性があるので、否定されるであろう。
 ~~~~~
 ☆ 《最大多数》というときそれは 《全員》ということではないのでしょうか? 全員の幸福という意味にはならないのでしょうか?
 つまりつねに幸福ではない《少数派》がいるということでしょうか? すでに初めに前提となっているのでしょうか?

 だったらその功利主義の欠陥なのであって 《原初状態に自身を置いて考える》ことをしなくても 指摘できると思われます。

 つねに少数派を置いてけぼりにするのなら それは すでにみづからの理論のマチガイです。


 原初状態に自身を置いて 
 ◇ 奴隷制は、自分が奴隷になったらたまらないので、否定される。
 ☆ というかたちで考えることをしなければ 奴隷制は批判され得ないのでしょうか?

 債務奴隷が・そしてあるいは たたかいが共同自治の一環であると錯覚していたときには戦争奴隷が 或る程度は理屈に合っていた。それは 部分的な奴隷と言いますか あるいは期限付きのそれだとすれば まったく理解されないでもないと言えるかどうか。
 もし言えたとしてその場合は 人格が相続されるわけはないのに世襲としての奴隷がいるとすれば その世襲がいけないと言えばよいのであって 損失や損害を最小限にとどめるために奴隷制を否定するというのも 何だか理屈が合えば《原初状態》なる概念装置は 効用を持つと言っているようにひびきます。 



 ◇ ~~~
 無制限の能力主義は、自分はひょっとしたら無能力者かもしれないので、やっぱ嫌だ、
 となるであろう。
 ~~~~~
 ☆ もし仮りに制限なしの能力主義を敷いたとします。そうすると 非力であったり無能力であったりするというのは その分野でのその一時期の条件に合ったり合わない人がいたりということだという事実が はっきり明らかになるかも知れません。
 いくらでも ほかがあるさというような・かえって能力の適宜性が 一人ひとりによく分かるということになるかも知れません。

 あとは もし仮りにすべての職務について無能力であったと分かったなら どうするか? こういった問題だけは残るかも知れません。

 人間を その能力がゼロだという理由で その存在にかんして 見捨てるということは 有能な人なら 出来っこないでしょう。その能力を発揮して何らかの方策を考えることでしょう。

 《無制限の能力主義》などということは じっさいにあり得ないでしょうから わざわざ《原初状態をつうじての思考実験》によって判定することもないと思われます。




 つまり《原初状態》というのは どうも《人は人に対して狼である》とか《万人の万人に対するたたかい》であるとかの従来の《初期条件》に取って代わる思考方法を 導き出したというように受け取られます。

 推論で成功したとしても もとの《初期条件》問題の枠組みがまだどこかに残っているといった感じをいだかせます。 人間の自然状態として《オオカミや戦争》の理論を出して来たという問題は 解決されていない。解決しようとしていない。ように思われます。

 《原罪》の問題なのかも知れませんし 《苦や無明とそこから脱出するさとりのあいまい性》の問題かも知れませんし ですがヒトの《自然本性》をどう捉えるか? これを議論したほうが早いかも知れません。




 KY が クウキのもとにある相手に対して・つまりそのクウキに対して無関心であったとしても それはむしろ自己自身の思いや考えに従おうとしているのであって 自分自身のことを忘れるというのとは違うようにも思われます。

 身と心との自然本性をクリスマスツリーとすれば その木の本体には考慮するのであって ツリーに飾られるむしろシガラミのようなカザリは――特に言語外におけるクウキというゴミなる圧力は―― 意に介さない。

 自分自身の樅ノ木とのかかわりについては おそらくその相手をもみづからの自己形成の過程にむしろ巻き込むほどだと思われるのですが けれども樅ノ木につけ加えられるシガラミと言うのかカザリと言うのかは 一向に意に介さない。無関心である。《無知のヱール》をかぶった顔をそれらのカザリに対しては振り向ける。


 こういったことのように思われるのですが。・・・
 

 

お礼日時:2013/07/06 13:01

ロールズの思想について解説してある、いいサイトを見つけました。



http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3094

一時期、話題になったサンデルの「白熱教室」でございます。
よろしかったら、ご覧になってください。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ロールズの思想は 確かに倫理規範を問い求めるような内容ですよね。こういうのは いちばんの苦手です。
 そもそもの成り立ちがわかりにくい。初めにどの扉から入ったのかと そのときどきに何度もみづからに尋ね返してみなければならないような議論の進め方をしていると感じます。(サンデルの説明の仕方にもよるのかも知れませんが)。

 ▲ (VisualLecture) ~~~~
 Lecture15「架空の平等の状態から公平さを生み出す」

 格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これなどは 市民政府がそのような政策をおこなえという意味で 市民個人にも直接にかかわる思想ですが これは どうも規範を問い求めるというような意味合いにおいてまだ形而上学であるように思います。

 どういうことか?

 《はたらかない者 食うべからず》というのは怠惰を――ほかのしかるべき事情がない場合に――叱る考えだと思うのですが 《市民の一人ひとりに生活上そのところを得るという状態を保障し確保する》ことは 《平等》の原理にもとづくと考えます。

 つまり《社会的・経済的不平等を容認する施策》だとは見ません。むしろ生活が困難な状態に到っていることのほうが 《不平等》だと考えます。

 最低生活の保障が 平等の原理にもとづきおこなわれることが 《格差原理》です。
 それは 決して恵まれない人に《便益を図る》ということですらない。《平等の原理》による絶対的な要請であり われわれ一人ひとりが欲することです。

 それは むしろ《最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理》を・そのような考え方を みとめることは出来ないという理論です。推論じたいはあり得るとしても その初めの出発点ないし原点が どうもわたしにはなじめません。(それが何かもはっきりとはまだ分かりません)。

 自由という原理にもとづき考え 互いの自由という平等の原理を現実に要請することは ただ人が生きる・ただ人が社会にあって人びととともに生きるという普通のことであるに過ぎない。

 どうもわたしとは 初めのボタンのかけ方が違うようです。

 次にも この《恣意的》な議論をさらに引っ張ってまいります。





 ▲(VisualLecture) ~~~~~
 Lecture16「現在の公平さは偶然性が生み出しているのか」

もし私が、自分の才能と努力について、唯一の疑いようのない主張権を持っていたとしても、私がそれらの才能を使うことによって得る便益は、道徳的な観点からは、やはり、恣意的な要因によって決まることになるだろう。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 何を言っているのかよく分かりません。
 《わたしが生きる・ともに生きる》という生活――お望みならそういう原則―― その中でおこなう行為が一方的に《恣意的な要因による》とか《才能とそれを活かす努力の成果を 仕事に活かして便益を得たら それは恣意的な要因によっている》とか あるいは逆に《社会の需要があるのだから まったく勝手である。つまり 認められうる恣意性だ》とか 振り子のどちらかの極に寄ろうとするかのような議論は おかしい。

 ▼(同上・承前) 私の才能は、市場経済で、どんな収穫を得られるのか、それは、この社会で人が何を望むのかによって決まる。需要と供給の法則によって決まるのであって、私の行いで決まるのではない。
 ☆ これも おかしい。たとえば需要を新規に切り拓いたという場合が考えられる。むろん大きくは社会的な相互依存の関係の中にあることに間違いないであろうが 《あたらしい商品というのは ワタシのアイディアとおこないによって決まる場合もある》と言わなければならない。

 あるいはつまり 需要があって供給をおこなっているのだと言っても 人肉の販売はみとめられていない。中国ではじっさいにそれはちょっとした慣習だという説もあるようですが たとえその慣習をただちにやめさせるわけには行かないとしても 《ワタシが望まない。おこなわない》によって決まるということも出来るわけです。

 ▲(承前) 貢献と見なされるものは、社会が偶然重んじるものの資質で決まる。
 ☆ 考え方が違えば その資質をこばむことが出来る。

 ▲(承前) 私たちの多くは、幸運にも、この社会が偶然重んじる資質、社会が要求するものを提供できる資質を大いに持っている。
 ☆ とも言えるし じっさいその資質を提供できるように努力したとも言える。

 ▲(承前) ~~~~~~~~~~~~
 資本家の社会では、企業家精神を持っていることが役立つ。官僚的な社会では、上司とうまくやることが役立つ。大衆民主主義社会では、テレビ映りを善くすることや、手短に表面的な話をすることが役立つ。訴訟社会では、ロースクールに行くことや、そのための試験でうまくやることが役立つ。

 しかしこれらは、いずれも私たちの努力とは関係ない。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ おかしい。資本主義の社会でも その企業家精神は変わるかも知れない。少しづつ変質して行くかも知れない。という側面についても触れておかねばならない。触れないから 《ワタシのただの恣意的な要因によるに過ぎない》とかあるいは《その恣意性こそが 自由であり勝手なのであり タレントなのだ》とか両極に片寄った見方が出て来勝ちである。

 ▲ 官僚的な社会では、上司とうまくやることが役立つ。
 ☆ これが いまここでの《クウキ》の問題です。そしてひとり官僚の世界に限ったことではありません。

 わたしが生きる・ともに生きるという生活原則が基礎にあって その上に才能や努力の積み重ねがあって――それも言ってみれば 飾りですが―― さらにその上に《人間関係の潤滑油》とも言うべき《その場その世界の支配的なチカラ関係への従属》としてのカザリが見られます。
 単なる従属関係としてのカザリの上に 非言語的・非対話的・よって非民主的な《クウキ》による場の運営としての――それはそれは 人物が帯びるオーラから蔭での工作までさまざままに繰り出されるところの――カザリがあります。

 ▲ いずれも私たちの努力とは関係ない
 ☆ のではなく 《生まれ持った才能や人柄》に《能力を活かそうとした努力》があり 《たぶん要らぬカザリのための腐心・気遣い・使い走り等々》があります。

 ▲(承前) ~~~~
 私たちがこの技術的に発展した高度な訴訟社会ではなく、狩猟社会か戦闘社会で暮らしていたとしたらどうだろうか。この才能では対して成功できないだろう。もちろん別の才能を発展させる者もいるだろう。では、別の社会では、私たちの美徳は少なくなるのだろうか。狩猟社会や戦闘社会では、私たちの価値は下がるのだろうか。ロールズの答えはノーだ。

 私たちの稼ぎは少なくなるかもしれない。しかし、少ない報酬に対する資格しか持たなくなると言って、私たちの価値が下がるということではない。

 ここが重要だ。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 《価値――ワタシの存在や才能や努力やの――》の問題ではなかったのではないか?
 ▲ 才能を使うことによって得る便益は、道徳的な観点からは、やはり、恣意的な要因によって決まることになるだろう。
 ☆ 《道徳的な観点からは》 人間にかんする価値の問題ではなかったが そうでない観点からは 人にはそれとして一定の価値があるということであろうか?
 ぢゃあ 《道徳的な観点》などを持ち出さなければよいのではないか?

 ▲(承前) ~~~~
 私たちの社会において、偶然、それほど有力な地位にない人、私たちの社会が報酬を与える才能を、たまたま持っていない人についても、同じことがいえる。

 これが、道徳的な対価と正当な期待に対する資格の区別の重要な点だ。

 私たちは、才能を行使することで得られる便益に対する資格を持っている。しかし私たちが、偶然豊富に持っている資質を、偶然重んじるこの社会に、自分たちがふさわしい〔と〕考えるのは間違いであり、うぬぼれである。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ワタシが生きる・ともに生きるなる原則には 《道徳的な観点や まして努力した仕事に対する道徳的な対価》などということは 無縁ではないのか。

 ロールズやサンデルは 何を言おうとしているのだろう?
 
 このあと
 ▲(承前) ここまで、収入と富について話してきた。では、機会と名誉はどうだろうか。
 ☆ と言って次の主題に移る。

 《道徳》とか《正義》とか このような表題の立て方じたいに 何かわたしによく分からないものがあるように思われる。
 のですが ここでこのままほうっぽり出しますので よろしくお願いします。

お礼日時:2013/07/06 07:37

こんばんはです。



まず、最初にことことから。
NO3の《無知のヴェール》(the weil of ignorance)
の「weil」のスペリングは多分、間違い。
ご紹介のblogをそのまま引用したのですけれど、
ただしくは、
the veil of ignorance
だと思います。



☆というのは 単純に思考を中断する《エポケー》のことかと思いました。
◇ロールズ大先生の思想は、(カント+(ホッブズ+ロック)÷2)÷2といったところでしょうか。
ホッブズさんのような「万人の万人に対する狼さん状態」は仮定にいれていません。
まったくの《狼さん状態》だと、ちょっとこの議論は成立しないかもしれません。
共食い・共倒れしちゃうかもしれないので。
ロールズは、道徳的になりうる能力有しているヒト、道徳的人間を前提においています。

また、《無知のベール》の《無知》についても、顔見知り程度の知識くらいはあります。
電車やバスにたまたま乗り合わせた人くらい。。。
どんな人かはよくわからないけれど、まぁ、悪いことはしそうにない人にみえる。。。
くらいの知識と信頼は前提にしています。

そして、何より、
理性、合理的思考をする能力をゆうしていることが前提です。

ですから、《エポケー》には至りません。
不十分な情報の中で考えることはできるので。


☆《合理的な利己心》によってそれぞれがみづからにとって《損失の最小化》を目指すように思考するのだと。
◇というよりも、すくなくとも、人々の間では、そのような合意形成、契約がなされるであろう、と考えた方がよいと思います。

『相手は、力が強くて喧嘩をすると負けるかもしれない。』
相手のことをよく知らない、相手に対する情報・知識が欠如しているので、
理性的な人間は、
一か八か、「all or nothing」のような賭けにはでないであろう。。。
多少の損をすることになるかもしれないけれど、人々はそれぞれの身を守るために《自由》や《平等》のような安全装置を作るであろう。
自分が弱者、負け犬になる危険性があるためです。
このようにして《社会的な正義》がうまれたのだ。。。

ロールズ大先生は、このように考えています。

これはあくまで最低限の社会的正義・JUSTICEであって、これ以上の社会的正義・JUSTICEを目指してはいけない、と言っているわけではありません。


☆《合理的な利己心》は――No.1でアダム・スミスの話が出て触れたところの《人びとから同感を得られるような利己心》とも言いかえられるようですが―― だったらすでに初めから《自己の利益を追求》していても それほど違いはないようにも思われます。

────────────
『道徳感情論8』の冒頭でスミスは、利己的人間でさえ他者と感情を分かち合うことに注目する。我々が他者と共有する感情は「同類感情(fellow-feeling)」と呼ばれるものである。ヒュームと同様にスミスは、我々が他者の心的状態を直接的には経験しえないことを認めた上で感情共有の過程を次のように説明する。
「我々は、想像力によって自分自身を彼[=他者]の状況において、我々自身も彼と同じ苦しみを受けていると想像する。我々は、いわば彼の身体に入り込み、ある程度まで彼と同一の人物になる。そして、我々は、彼の感受作用(sensation)について何らかの観念を形成し、程度は弱いけれども彼の感情に全く似ていなくもない何かを感じさえする」
(TMS,I.i.1.2,p.9)。

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bit …
────────────
これでしょう、これ。

でも、
ロールズは、この《共感》を前提とせず、カント流の《理性》→《自律》をその道徳性の根拠の一つにしているからではないでしょうか。
イギリス経験論と大陸合理論の立場の相違が出ていると思います。
そして、
《利己心は制約される》という似たような結論に到達していると思います。



☆ そこで《無知のヱール》をおのおのがかぶるなら どうなるか?
◇《無知のヴェール》とは、ホッブズさんの言う《狼さん状態》、ロールズの言葉で言うと《原初状態》からなぜ社会的正義・JUSTICEが生まれたかの説明原理です。
と同時に、
社会的正義を考えるときには、
《無知のヴェール》をかぶって《原初状態》に立ち戻り、そこから考えろ、ですかね。
《無知のヴェール》とは、意図的《KY》、意図的な《一時的忘却・健忘症》といったところでしょうか。

じつは、ロールズの理論は、これだけでは完結していなくて、「社会的・経済的不平等が社会でもっとも不利な状況のいる人々の利益を最大化するときにのみ、その不平等は認められる」という有名な《格差原理》というものもあります。

格差原理は、たとえば、こちら
http://kotobank.jp/word/%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E5%8E …


☆ これは 保守の側の思うがままそのクウキのただようがままになる。ということではないのでしょうか?
◇「《無知のヴェール》をかぶるのなら、自分の頭で考えなければならない」です。
そして、《無知のヴェール》をかぶるとき、そのクウキは消滅しています。
でなければ、それは《無知のヴェール》と呼ぶことはできません。
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この回答へのお礼

 いやぁ 今回のロールズ理論 まだ飲み込めません。

 まづは ご回答をありがとうございます。


 1. ◇ 《無知のヴェール》をかぶるとき、そのクウキは消滅しています。 
 ☆ ということは その単位的な場や果ては日本社会の全体に対して主導権を握りこれを握り続けようとする人たちは ひとつにその権力や権威や権限を見え隠れさせつつ 少しはその関係当事者それぞれにも利益が得られるように図りつつ やはりおれたちの主導権をみとめその指導体制に従えという意味のクウキを垂れ流す。

 そのとき その主導権を握る人たちも 無知のヱールをかぶり KY となる。すなわち クウキは消滅する。こういうことだ。――ということでしょうか?

 2. 保守本流の人たちが どのようにしてこの《無知のヱール》を被るのでしょうか? われわれが被せるのでしょうか?

 3. ◇ 《無知のヴェール》とは、ホッブズさんの言う《狼さん状態》、ロールズの言葉で言うと《原初状態》からなぜ社会的正義・JUSTICEが生まれたかの説明原理です。
 ☆ 《原初状態》と《人は人に対して狼である状態》とは 同じなのですか?

 ですが ホッブズの場合は そこから人びとが主権を国家というレワイアサンに渡す。(ロックだったかは 革命権は渡していないと言ったとか言わなかったとか)。国家のもとで 秩序をかたちづくって《オオカミ状態》から自由になる。

 それに代えて 《無知のヱールをかぶる》という別の説明があるということでしょうか?

 《自分はオオカミになりうるけれども 問題が生じたときには絶えず無知のヱールをかぶり オオカミ人間であることを忘れる》――こういう方程式でしょうか?

 4. 《社会的正義》って 要するに人びとがそれぞれ社会の中でところを得て ともに生活をして行くということですよね?
 それは むしろ初めに成っている。のではないでしょうか? 自然本性として。むろん完全なものとしてではありません。(能力に限界がありますから)。

 アダムとエワとの神への裏切りにしても カインの弟アベルごろしにしても それらにたとえて見るなら 《初めにオオカミ人間だったのが 無知のヱールをかぶって秩序ただしく社会生活をいとなみ始めたところへ そのヱールをつい・ふとかぶり損ねたとか ヱールをやはりオオカミに戻ってわざと脱ぎ捨てたとか だからうんぬん》という筋の話をしているのでしょうか ロールズ氏は?

 5. ◇ 《利己心は制約される》という似たような結論に到達していると思います。
 ☆ この種の考え方には どうも賛成できません。《制約》だの《抑制》だのといった振る舞い方です。

 むしろもし世の中の人びとの同感を得られないなら その利己心は 自分自身の利益にもならない。わたしは そうではなく 自己の利益を追求するのだ。――ここから 変な度を越した利己心は みづから捨てるのだと考えます。
 そこでは 別に――自省はするでしょうが―― 自分の自由が人びとからの制約を受けたとか これはむさぼりに当たるから自分で抑制するのだとか そういう思想ではないと思うのです。

 自己の欲するところを実行に移すのであって 自己のためにならないと思ったなら自己のために自己の欲するところとしてそのむさぼり行為は捨てる。何も抑制などはしていないと思います。

 要するにふるくは律法に始まる倫理規範 これに従うという考えはこれっぽっちもない。こう考えます。

 6. ▲ (アダム・スミス) fellow-feeling
 ☆ これなども ただただ《仲間どうしのつき合い とそこにおける情感の共同性》の問題だと考えます。
 敢えて言うなら 利己心と自己チューとで一人ひとりがそして互いに行動しているのであって その仲間の目で自分の行動についての同感の有無を見るという作業を繰り返しつつ 生活している。

 ◇ でも、 / ロールズは、この《共感》を前提とせず、カント流の《理性》→《自律》をその道徳性の根拠の一つにしているからではないでしょうか。
 ☆ そんなふうに生活している人間って いるんですか? そのように人間の生活態度について作文することはあります。いえ 理論づけると言いかえますが そう理論立てることは出来るでしょうけれど そういう内容って おもしろいですか?

 《自律》って言うのは 朝起きて歯をみがき顔をあらうといった行動にのみ当てはまるのではないでしょうか? 社会生活ないし社会行為は すでにつねに相互依存的な関係として成り立っているのではないでしょうか?

 7. ◇ ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《合理的な利己心》によってそれぞれがみづからにとって《損失の最小化》を目指すように思考するのだと。
 ◇ というよりも、すくなくとも、人々の間では、そのような合意形成、契約がなされるであろう、と考えた方がよいと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは

   ・ 《合理的利己心》によって人びとのあいだでは 互いに《損失の最小化》が実現するような合意形成 契約がなされるであろう

 ということでしょうか? 《無知のヱールをかぶることによって》。
 そんなふうに人って考えるもんなんですかねぇ。
 互いに自己の利益を求めて話し合い 相手とのあいだで条件をめぐって相互理解ないし妥協をするのではないのでしょうか。結果として 互いに損失を少なくしようとしたことになるのかも知れませんが。

 7-1. ですから 互いに自分自身にかんする情報を知り 相手のものをも知ろうとし そういった位置関係からそれぞれ自己の決断をくだすのではないでしょうか?

 つまり 無知のヱールをかぶるなら そういう自己情報を忘れるというのでしょ? 忘れたときに《原初状態》に戻ってのごとく 互いの損失を最小にしようと合理的利己心によって考える。のでしょうか?

 そこで《原初状態》に戻るというのも おかしいように感じられます。必要ないと考えられます。と言うより オオカミ状態に戻るのでしょうか? 何だかどこか おかしい理論ではないでしょうか?

 8. あっ。誤解がありました。
 ( a )◇ ~~~~
 社会的正義を考えるときには、
 《無知のヴェール》をかぶって《原初状態》に立ち戻り、そこから考えろ、ですかね。

 ( b )◇ ~~~~
 ロールズ大先生の思想は、(カント+(ホッブズ+ロック)÷2)÷2といったところでしょうか。
 ホッブズさんのような「万人の万人に対する狼さん状態」は仮定にいれていません。
 まったくの《狼さん状態》だと、ちょっとこの議論は成立しないかもしれません。
 共食い・共倒れしちゃうかもしれないので。
 ロールズは、道徳的になりうる能力有しているヒト、道徳的人間を前提においています。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ 《原初状態》というのは 《道徳的人間》のことですか?
 もしそうだとしたら すでにあるがままの人間が 道徳的人間であり すでに無知のヱールをかぶっていることになります。

 《万人の万人に対するたたかい》といった状態は 前提としていないのですね?

 この誤解で いままでの議論は 話が前後していると思います。ですが いまはこのままとします。( a )と( b )とがはっきりしません。



 ここまでを尋ねて お応えとします。

お礼日時:2013/07/05 20:14

>「壁は 人それぞれの壁でしかない という意味でしょうか?



 同じようなもんぢゃねぇ?」


人それぞれの壁でしかない、と同時に、みんなの壁なんですね。
(ある「判断」は、巡り巡って、結局は自分(いかなる個人)にも到達する)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 個人差があるでしょうけれど。

 同じ場にいたときなどは およそ受け身の立ち場の人たちはみな だいたい同じひとつの壁として その場のクウキを感じているでしょうね。

 むろん そのようなクウキには わたしはよろこんで従いますという人もいるでしょうけれど。

お礼日時:2013/07/05 18:59

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