「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

現在の社会は好きなものが買えたり、宗教的束縛がなかったりと自由だと思います。でも何故、どこか不自由に感じてしまうのでしょうか?わたしは責任が伴うからだと思います。でも、具体例がうまく見つけられません(>_<)だれか教えてください!

A 回答 (11件中1~10件)

複雑なことは分かりませんが、


おっしゃることとは逆ではないかという気がします。
選択肢は広がっているように見えますが
誰も自分の選択に責任を負おうとしないために
自由が曖昧になり
自分が主体的に物事を決定しているという
実感がなくなっているんだと思います。
「責任を伴わない自由は放恣だ」という
言い方は(説教くさくて)好きではありませんが、
しかしそう言わざるを得ないところがあります。
人間は「これは自分が選んだことではない」
としか思えないときは不自由ですし、
自分を自由だと感じるためには
「この選択の結果について自分は責任を負う」という
自覚が必要になるのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!自分の考えの浅さがはずかしいです(>_<)自分の考えを改められました。とても深い考えで、参考になりましたので、今回はベストアンサーに選ばさせていただきました。

お礼日時:2012/02/18 01:22

自由なんてのは、なんでもすることが出来るっていう状態のことなんだから気にすることないのね。



自由を守るとか、自由のために戦うなんて言うけど、実は、不自由や束縛に対する恐怖の裏側。
人を差別し、束縛し、不自由にしてきた国ほど、「自由」を高らかに謳う。

つまり、人を殺すことに対して自由な人は、人を決して殺さないってこと。盗むことから自由な人は、盗まないってこと。


「自由」に束縛されたあなたは、「自由」から自由になってくださいませ。
あなたは、もともととてつもなく自由なんですから。
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>具体例がうまく見つけられません(>_<)だれか教えてください!



例えば、電車の中で妊婦さんやお年寄りに席をゆずったり、真夜中に他人の家に電話しないことは、ふつう常識と言われています。この常識に反するような行為を行うと、他人から常識がない奴だと批判されることになります。こういう常識には法的な拘束力はありませんが、その社会の構成員の行為の規範として統制力を持ちます。この統制力を心理的に不自由と感じることがあるかもしれません。
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参照:デジタル大辞泉の解説


http://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%94%B1
3 《 freedom 》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。


>でも何故、どこか不自由に感じてしまうのでしょうか?

(1)好きなもの【への】自由には,好きなもの【からの】自由がない。
(2)宗教的束縛【からの】自由には,宗教的束縛【への】自由がない。

つまり,認識における構造が理由でしょう。
これを,ここでは,自由のジレンマと呼ぶことにしましょう。

人は,自由のジレンマを解消して落ち着きたいわけですが,
これを「責任が伴う」という観念に結びつけるとすれば,

(1)好きなもの【からの】自由を,節制という徳目によって補うべきである。
(2)宗教的束縛【への】自由を,信念という徳目によって補うべきである。

いわば,ブレーキ的責任と,アクセル的責任が伴っているのですね。
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人は産まれてから親兄弟友人知人


他人、テレビラジオ新聞・・・と
情報などを受け入れて、育ちます。

その間に、脳内に規範が作られます。
その規範に縛られているので、不自由
を感じるのです。

1,思考も自由ではありません。
  パラダイムに制約されます。

2,人は必ず死にますから、永遠に生きる自由は
  ありません。
  だから、絶えず死の恐怖に脅かされています。
  意識していなくても、潜在意識が感じます。

責任が伴うから、不自由を感じる、といった場合も
勿論あるでしょうが、それ以前に、もっと根本的な
不自由が存在していると思います。
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シンプルに一言。



>人間は自由という刑に処せられている(サルトル)
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あなたの直感は正しいと思います。


私の考えとして、ひとびとは自分以外の多くの人たちのなかで、社会人として生きています。その生きている場が社会なのですが、つまり自分が自由に生きようと思っても、他人の自由を尊重することを前提とした上での自由でなくてはならないのです。自分勝手に生き、周囲に迷惑をかけるばかりでは周囲から制裁を受け、みながそうすれば社会は崩壊してしまいます。
他人の自由を認め、社会を壊さないように気をつけることであなたの自由もあるわけです。そういうことを自覚するのが一人前の社会人としての責任意識なのです。ここでの責任とは社会の中での個人の(何をせねばならないか、何をしてはいけないかという)役割りを自覚することだと私は思います。
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自由の定義は人それぞれですので、自由についての意見が途絶えることがないと思います。



仮に自由に買い物をする、宗教的束縛がない、というのを自由として考えてみましょう。
その中で”不自由に感じる具体的”な例を挙げるのであれば・・・

日本の憲法であげられる事柄の中に、身体的自由と精神的自由があり、憲法を読む限りでは日本では他の諸外国と比べてそれらの自由度は高く感じます。しかしながら、日常生活には多くの束縛があるはずです。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、社会人。未成年であれば門限に補導(行動の束縛)。全員にいえることであれば金銭面での束縛(消費の限界)。こうして考えると、人生のほとんどは時間と行動を束縛されて生きているといえます。

”束縛されている中”での自由という考えも大いにありますから、上記はあくまで具体的な例を挙げるための一例です。
そもそも答えになってなかったらすみません・・・


>責任が伴うから
という意見については私も逆ではないかと感じました。
捉え方は人それぞれで、哲学的なものに答えはないので、考えが人と違えど気にしなくていいと思います。
一番怖いのは「これが正しい」と考えてしまうことだと思います。
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極論を言えば本当の自由はアナーキー(無政府状態)ではないでしょうか。


誰が何をしても自由。強盗も殺人も自由。

話が飛躍し過ぎかもしれませんが、政府という枠組みで行動する以上、
法を守るのでその時点で自由ではありません。

好きなものが買えると書いておりますが
自分の収入以上のものは買えません。
一般人がフェラーリやポルシェは買えないでしょう。
法が認めないものも基本買えません。

宗教的束縛が無いといいますが、身内が無くなれば
大体の人が仏教の方式でお経を読んで埋葬する。
「私が死んだら土葬にして欲しい」といっても自由に出来ません。
法律で禁止されていますし、それぞれの家で葬式を任せる寺が代々決まっています。

恋愛は自由ですが、成就するとは限りません。
自由というのは「思い通りに行く」とは違います。

今の生活は自由に見えて、あらゆる束縛の中で生活しているのです。
まあ日本はもし「自由が許される国ランキング」でもあればかなり上位だとは思いますけどね。
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人は、認識できないものを意志する事はできません。


そうではない「自由」とは、遺伝的に刷り込まれた
衝動によって、環境に応じて条件反射的に流されて
いるに過ぎません。
そこにある複数の衝動は、互いに矛盾したり一過性
だったりして、真の生きる目的としての「人生を通算
した精神的充足量の最大化」としては、質の低い
ものとなるのです。

まして、そうした自己中心的な認識においては、
社会的行動は法規やお金、出世や虚栄心といった
“アメとムチ”によって他律的に導かれるものとなり
ます(社会生命として生きる事は助け合い=労働で
あるにも関わらず、お金をもらうために嫌々働く)。
物質的には自由でも、心が不自由なのです。

生物として、生きることが唯一根源的なる目的であり、
社会生命として、そのために助け合う喜びこそ、自己
存在の本質に根ざした=最も深い認識に基づく最大
の精神的充足感を、生きている限りにおいてもたらす
ものなのです。
生きる事は、自由意志であり、責任や義務(あるいは
宗教のようなモラル)といったものは、その本質的な
必要を自覚できない短絡的・自己中心的な意識に
対する補完として、二次的に派生するものです。

誰もが社会生命的自覚(愛)によって生きれば、
誰かの喜びは自分の喜びであり、またその自分の
喜びは皆んなの喜びとなり、という風に無限に増殖し、
また肉体的な限界をこえて永遠に充たされるものと
なります。
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