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例えば、他人に怪我を負わせる行為は一般的には「悪」だと思いますが、では格闘技って「悪」の競技なのかということになります。
そうなると格闘技のチャンピオンって「悪の帝王」ってことになってしまいます。
もちろんルールに則った格闘技だから「悪」ではないということなのでしょうが、ルールがあれば悪は悪ではなくなるっていうのも説得力に欠けるように思います。

他にも、鼠小僧やルパン三世など明らかな窃盗犯がヒーローであったり、必殺仕事人のような殺人集団がヒーローである話も多数あります。
(もちろん実在すれば、罰せられるのは当然ですが・・・・)

結局は善悪って、感情でしか理論付けできないものだと思います。

みなさんはどう思いますか?

A 回答 (9件)

目的の違いではないでしょうか。


勝敗や精神育成を目的としたスポーツならば、勧善懲悪の精神の下
でのルールではありえないですし、怪我を負わせることが即ち「悪」
とは言えないと思います。とても極端なお話です。

善悪という曖昧なものは、時代や立ち位置によってどのようにでも
解釈できるもので、鼠小僧の話もそうですが、彼は確かにルール内
では「悪」ですが、貧しい人たちにとっては彼は紛れもなく「善」
でありヒーローなのです。
まぁそれでもルールはルールなんですけどね。

人間にとっての「豊かさ」が地球にとっての「汚染物」でしかないように
それぞれの立ち位置によって変わってくる、そもそもの善悪というものは
その世界での(時代)常識的なもの、なのかもしれません。

片方だけの話を聞いて、相手が全部悪いと決めつけることなく、
公平な立場にたち客観的な判断材料を以て初めて「善悪」と決まるもの
なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/03 19:15

他の質問に対する回答を新たな質問とするのはいかがなものかと思います。



が、それをさておきそもそもの回答をした者として少し掘り下げます。

そもそも思考とか哲学とか宗教さらには心理学などよりも先に感情が存在すると思っています。
なぜなら、思考や哲学などに触れたこともない赤ん坊でも、喜怒哀楽という感情は存在するのは明白でしょう。

その上で善悪(あくまでもその人にとっての善悪)とは、喜怒哀楽でいえば、
喜や楽につながる行為は善で、怒や哀につながる行為は悪なのでしょう。
その感情の発生のメカニズムなどを論理付けしたのが心理学の一部であり、喜や楽の感情を増やし怒や哀の感情を減らす方策が哲学や宗教なのでしょう。

一方で、身近な人の死というのはすべからく悲しいことでありそれが直接的または間接的にも第三者の行為によるものである場合は、その第三者に対して怒りを持つのも必然でしょう。
が、多くの宗教で人の死を「極楽浄土(天国)への旅立ち」とか「姿をかえて生き返る(輪廻)」とか「身体は滅びても魂は行き続ける」などと悲しいものではないという定義をしています。が、それはあくまでも当然の悲しい感情を少しでも減らすための方便なのでしょう。

ただし、だからといって人々が感情に赴くままに生きればいいとは思いません。
一定の社会秩序を維持することによる喜や楽という思いは少なからずあるわけで、一時の怒や哀によってその社会秩序が崩壊することを避けるのはある種の本能ともいえるのではと思います。
社会秩序を維持するための仕組みの一つが法律などとなるわけです。もちろんケースバイケースで法律が感情論としては不合理であることは多々あるとは思いますが、それでも社会秩序の維持にはその仕組みは必要だと思います。
全ての人が善と感じる行為または少なくとも悪と感じる人がいない行為は社会的に善であることや逆に全ての人が悪と感じる行為または少なくとも善と感じる人がいない行為は社会的に悪であることは明快です。が、多くの人は善と感じるが一部の人は悪と感じる行為または多くの人は悪と感じるが一部の人は善と感じる行為が果たして多数決で社会的に善または悪としていいのかには疑問が残ります。
とはいえ、社会秩序の維持のためには一定の規則や規範が必要なのでしょう。
したがって、誰しも規則や規範において釈然としない部分があるのは当然で合理的に考えればその規則や規範の目的も理解できたとしても感情的には納得できないこともあるでしょう。が、社会秩序維持のために不本意ながらその規則や規範に従うということも少なくないでしょう。

余談ですが、法律には「決闘罪」という罪状があり、最高裁の判例によれば決闘とは「当事者間の合意により相互に身体又は生命を害すべき暴行をもつて争闘する行為」となっています。
したがって、格闘技のようにお互いの合意があり仮に一定のルールがあっても、お互いに傷つけあう行為は決闘罪により処罰されるものと思われます。
(これが善である悪であるかの判断は各自の感情に委ねるしかないでしょう。ちなみに私は格闘技を単純に否定するという考えはありません。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/04 10:22

>ルールがあれば悪は悪ではなくなるっていうのも説得力に欠けるように思います。



回答のためどういう不整合性があるのか補足でお願いいたします。
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善悪の判断、いわば価値基準やな。


洋の東西を問わず様々なアプローチがありますが、好き嫌いと善悪を同列に考える必要はない。中学生ですら、複数の座標を一次関数で学ぶのです。
詳しくはカントとかの近代以降の哲学者の著書を勧めます。

あと、いくつか反証をあげてみましょう。

質問者の言う悪の帝王ですが、ちょっと角度を変えて考えてみよう。例えば火です。正しく使えば暖も取れるし料理もできる。使い方を間違えると火事になる。これと同じではないかな?

結局、どんな結果をもたらしたか、それが重要ではなかろうか。信賞必罰とも言いますし。

また、鼠小僧や必殺仕事人は、愚民どもは自分で考えて動かない、自分で自分を救えないんだから、こんな絵空事で満足してろとも言えますし、それで施しを受けるものは、何も成長しない。同時代の欧米と比較すれば泣きたくなります。

仏教は基本的に因果、原因と結果を説きます。縁起説をwikiで読めば面白いですよ。

好き嫌いだけでしか考えられなければ、犬や猿と同じです。そこには理論は欠片もない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/04 09:06

”他人に怪我を負わせる行為は一般的には「悪」だと思いますが”


    ↑
医療行為もそうですね。
手術などは、もろ傷害行為です。
しかし医療行為は悪とは言われません。
その説明には色々ありますが、そのひとつに
医療は傷害だが、その目的は病気などを
治すためであるから、というのがあります。
これは感情論とは言えないでしょう。


”では格闘技って「悪」の競技なのかということになります。”
    ↑
これも色々な説明がなされていますが、
そのひとつに、格闘技の場合は暴行や
怪我については、お互いに了解している
からだ、というのがあります。
これも感情論では無いでしょう。


”鼠小僧やルパン三世など明らかな窃盗犯がヒーローであったり”
     ↑
ヒーロー = 善 ではありません。
ルパンは「悪」のヒーローです。


”結局は善悪って、感情でしか理論付けできないものだと思います。”
    ↑
善悪については諸説ありますが、有力説の一つである
「秩序説」によれば、感情論とは言えません。
秩序を乱すのが悪だ、とする説ですから。
ただ、秩序を乱すのがどうして悪なのか、を
無限に遡ると、感情に行き着きます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/03 19:12

格闘技は、お互いに殴ったり、ぶつかったりすることが事前に分かっていて、怪我をするかもしれないということも承知の上でやってるので、スポーツとして成立するのです。


これが、一方の格闘家が控室で寛いでいる時に、もう一方の格闘家が不意打ちを食らわせたら、ルール違反なので、スポーツではなく、悪です。

(この人は、感情だけで善とか悪とか言ってるな・・・)と思うこともあります。
でも、全ての善悪論が、感情だけに由来するとは思ってないです。
宗教に由来する考えや、倫理的、合理性などに由来する善悪論もあるように思うからです。

マンガや小説のようなフィクションを、現実と同列に並べることは出来ません。
フィクションと言うのは、作者が読者の望むストーリーを頭で作った空想だから、何でもアリです。
現実との比較対象にならないと思いますけど・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/03 19:12

感情は個人で異なる主観に過ぎませんから、帰納的に一般法則を導くことは可能ですが、それはあくまで蓋然性であって確率的な揺れが大きく、様々客観的分析を支えうる、つまり一般化を目的とした理論には至らないと思います。


しかも、いわゆる善悪感情と呼ばれる倫理観の形成には後天的な社会環境の影響が大きく作用するそうですから、なおさらでしょう。

むしろ、善悪という概念は個人と社会の間で生じる価値観の定義セットであると私は考えます。
よって、理論付けをするならば、まず観念のみではなく行為という外形を主な基準にして、その行為の発生動機である感情、行為が目的とする状況、そして行為のもたらした結果について、その因果関係を分析した上で全体を類型化し、それを社会的に評価するための一般法則を導く必要があるでしょう。
そして、行為であるからには主体と客体(しかもそれらは単体でもあり集団でもある)があり、個々に法則が適用されてなおかつ整合しなければ理論化されたことにななりませんから、おそらく単相の概念でひとくくりに出来るほど簡略なものにはならないでしょう。

格闘技の例ならば、主観としては競技者と観客、それにプロモーター・マスコミ等にそれぞれ存在し、それぞれ目的と利害関係があること。またその闘争本能充足への欲求という行為とそれらをルーリングで制限することの生物学及び社会的意義。これらを総括して初めて格闘技の善悪如何という命題に向かうことができるわけであり、それは暴力行為じたいの善悪などという比較的単純な概念から帰納的に求めうるものとは異なるはずです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/03 19:14

感情というのは人間のからだが感じる好悪感から湧き上がってくるもので、理論ずけすれば個人の肉体が基本になると思います。

人それぞれにちがうし、空腹の時、満腹の時、またその日の天気にもより発動は異なってきます。冬と夏でも感情の動きは異なります。善悪は感情とは無関係でもっと知的な、人間社会でのならわしや習慣に関わるものです。その点で次元が違ったものだと思います。
喧嘩は感情的なものです。善悪を考えるひまはなく、感情的な憎しみから始まります。スポーツはどんなガチバトルでも知的な動機から始まります。善悪は一応無関係です。
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完全な悪もなければ完全な善も無いと思ってます。


悪いことだけど結果的に善となる行動もあるし、逆に善からでた行動でも相手には悪である事もあります。
誰が善悪を判断するかによっても変わってくるでしょう。
物事は常に善悪両方の要素を持つものだと思います。

後は自分がそれらを考えた上で最良となる手段を探る事でしょうね。
押し付けの善ほど厄介な物は無いですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/12/03 19:16

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