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芥川龍之介の蜘蛛の糸は、どうして糸が切れたんですか?

A 回答 (5件)

自分だけが助かろうとした罪の重さで切れたのです。

自己愛、自己中心が仏の道に逸れたからです。作品の最後に龍之介自身の言葉で書かれています。再読してください。
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この回答へのお礼

なるほど、罪の重さなんですね(^^)
なんだか深いなあって思いました!
やっぱり自分だけが助かろうって思ったのがいけないんですね(´・ω・`)

お礼日時:2013/12/10 15:51

4年ほど前に哲学カテで「蜘蛛の糸」について質問したことがありました。


懐かしく思い出しました。よかったら覗いてみてください。

芥川の文中から引用すれば、答えはそのまま
「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カン陀多の無慈悲な心が」「罰をうけて」
となりますが、
いったい慈悲深かったなら、あるいは無慈悲でないなら、カンダタはどうあるべきだったのかなと、しこりが残らないでもない。

よしんばお釈迦様が垂らした糸だと知っていたなら、
仏の慈悲を信じることもできたかもしれませんが、
この世ならざる地獄の景色のなか、不思議な糸が垂れてきただけですから。。。

人の慈悲というテーマを介入させると、ふさわしい行動というのは意外と難しい。
けれども、無慈悲でないというだけなら、カンダタは莫迦になればよかったかもしれません。

よそ見をしない、計算をしない、利益不利益を思わない、自分の行いに専念する。

たぶんこういうのは、莫迦であってもエゴイズムではないでしょう。
総重量を軽くしようという小利巧な計算高さで自分の利益をはかるというのが、
お釈迦様からすれば、余計な姿勢なのではないでしょうか。

普通の人間なら大抵は、糸が重みで切れることを心配し、早い者勝ちに権利を主張しそうです。
ごく小さい子供なら、糸が重さで切れるなんてわからず、早いから権利があるなんて思わないですね。
そうして助かりたい自分の一心だけがあるような純粋さ、というものを考えてみると、
ありふれた邪まさ、と云うべきものが際立って、糸が切れた理由がわかりやすいかなと思うのです。

あるいは、旧制高校風の気風で
(糸が切れて落ちる時は誰もかも一緒だ、南無三、、、!) というような感じを想像しますと、
オール・オア・ナッシングの潔さとか気高さとか、ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン、の保険の精神を後ろ向きにして死なばもろともとでもいったような、ぐっと現実的な美談的観点から、あさましさ、というものを捉えることもできそうで、
お釈迦様の気持ちや仏教譚の衣を纏ってはいるけれど、じつはエゴイズムの近代的な解釈をめぐる小説なのかもしれないな、という気もしてくるのです。

以上2点、エゴイズムによって糸が切れたというところに差はないのですけれども、まわりを見て邪まな知恵を回してエゴイズムなのと、まわりを思い遣らず共に生きるも共に滅ぶもないエゴイズムなのとで、罪の焦点が違ってくるかなと。とりとめもなく。
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この回答へのお礼

私がちょっと思ったのは、お釈迦様はカンダタに蜘蛛の糸を下ろしたんだから
カンダタが、「この糸は俺のだからお前ら下りろ」って言うのはべつに悪いことじゃないんじゃないかなって思ったんです。
だって一人しか登れそうもない細い糸なんだから(汗)
でもそうゆうのは悪いエゴイズムなんですね(´・ω・`)
もしカンダタが蜘蛛を助けた時みたいに、他の人に糸を渡して助けたりしたらカンダタも助けてもらえたのかな?

お礼日時:2013/12/10 18:09

文学のことですし、カテも文学ですから、No.3のprincelilacさんの解答で言いと存じます。


私は自分の修行の経験から、やはりカンダダでしたっけ。
彼はあまりに自分の解脱に悪戦苦闘するほどに熱中し、蜘蛛を助けた慈悲や慈愛の気持ちから離れた。
つまり逸脱し背離したのではないですか。否定にまでなってしまった。
蜘蛛の糸が象徴する慈悲慈愛を否定し、自らそれを切断してしまったのではないですか。
地獄や泥の池底での亡者の蠢きとは、そのように狭く一生懸命やることではないでしょうか?
孔子なども論語が伝えるところでは、道は修行を楽しむにある。といっています。
楽しむというのは、のし上がろうということではない。偉くなろうとする事ではない。
ということかな。と愚考していますが。
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この回答へのお礼

カンダタが蜘蛛を助けた時の優しい気持ちを忘れちゃったから切れたのかな(;・∀・)
独り占めしようって思うのは良くないんですね。

お礼日時:2013/12/10 17:50

自分で試してみたらどうですか。



蜘蛛の糸にあなた一人がぶら下がっても、ぶら下がる前から切れているでしょう。

ましてや何人もが先を争ったら切れるに決まっているではないですか。

蜘蛛の糸の単位面積当たりの引張荷重(N/m^2)×蜘蛛の糸の断面積(m^2)が荷重の限界(N)を与えます。

これより体重(約60kgw=588N)に伴う引張荷重が大きいということです。

ちなみに絹糸と比較するのは一興です。

参考URL:http://www.savageblue.com/kinuito2.htm
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この回答へのお礼

まあ普通に細い糸に何人もぶら下がったら切れちゃうよね(;・∀・)

お礼日時:2013/12/10 15:25

一般的には、「生前の慈悲の心を組んで蜘蛛の糸を差し向けたのに、自分だけが助かろうというエゴイズムをむき出しにしたから」という解釈です。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます(^^)
やっぱり自分だけ助かろうとしたから切れたんですか?
でもお釈迦様が切ったんじゃないですよね(´・ω・`)

お礼日時:2013/12/07 23:24

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