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以前、下記のトピックを投稿した者です。

ニーチェにおける「超人」と「凡人」について
http://qanda.rakuten.ne.jp/qa8156548.html

未だに疑問が解決できないので、再度投稿させていただきます。

質問内容を簡単にいうと、

・『ツァラトゥストラ』においては、「超人が大地の意義であれ」と超人が賛美され、「おしまいの人間たち」が罵倒されている。

・『アンチクリスト』では、社会では精神が高貴な者・肉体が高貴な者・大多数の凡人に分かれるのであり、それぞれに役割があるとされる

この二つの整合性をどう考えるのか? という疑問です。

これについて、私が考えた解釈は以下の通りです。

・精神が高貴な者・肉体が高貴な者・大多数の凡人それぞれに役割があるのだから、その役割を全うできる者は「超人」である。
つまり、三つの階層それぞれに「超人」が存在する。
たとえ「凡人」であっても、凡人の役割を全うできるものは「超人」と呼ばれ、精神が高貴な者であるべきなのに高貴たりえない者は「おしまいの人間」である。

もし、精神が高貴な者・肉体が高貴な者だけが「超人」であり、「大多数の凡人」は「おしまいの人間」だと捉えてしまうと、「凡人にも役割があるのだから凡人を軽蔑してはならない」という『アンチクリスト』の文言に矛盾すると思います。

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A 回答 (5件)

それに答えるためにはニイチェ哲学の西洋哲学における革新的な意味を理解してからでないといけません。


なぜ、ニイチェ哲学は偉大なのか、それは彼が古代ギリシャのプラトン以来の西欧の「形而上学」を転倒し、終止符を打ったからです。
プラトンは個別的・特殊的な質料(ヒューレー)の対立を止揚し、種から類へと概念の階段を上昇し、最高でもっとも普遍的な概念を「イデア」といって、その「イデア」こそ真の実在で、個別的・特殊的な質料(ヒューレー)は真の実在ではなく、かえって仮象だといいました。
そしてこの「イデア」が超・感性的なものとしたら、その超・感性的世界から私たちの感性的な世界を見るのを古来「形而上学」といってきました。
簡単に言えば、概念こそ真の実在で、個別的・具体的なものは仮象にすぎない、ということです。
現在の私たちの考えとはひっくり返っていました。
このプラトンの「イデア」が中世になるとアウグスティヌスによって神の世界創造というユダヤ・キリスト教の教義に結び付けられて「イデア」は神に言い換えられ、それで中世キリスト教世界を形成する原動力になりました。
西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であり、同時に「神学」の歴史です。
ところが、14世紀に機械式歯車時計が発明され、この世界が機械によってできているという「機械論的世界観」が広く人々に信じられるようになると、神の居場所がなくなり、神が世界から退場してゆくこととなりました。
デカルトやニュートンは世界を機械式歯車時計のアナロジーとして世界を理解し、時計のネジを巻くと時計が後は自動的に運動を続けてゆくように、神も世界のネジをひとたび巻いた後は世界は自動的に動いてゆくのだから、後は要らなくなるといい、後の神のいない世界の先駆けになりました。
17世紀の「科学革命」によって、人々は物事を科学的・合理的に考えるようになり、神の存在を必要としなくなりました。
そのような思想の流れに出てきた言葉が、ニイチェの「神は死んだ」という宣言です。
しかし、それは単にキリスト教の神が死んだといったばかりではなく、私たちの頭の上に超・感性的な世界とその価値が君臨して、そこから人生の意味を汲み出してきた「形而上学」が終わったということを意味します。
つまり、プラトンが私たちのいう現実と抽象的な概念の関係を転倒して「形而上学」を作ったとしたならば、ニイチェはその関係をもう一度転倒させ、超・感性的な世界を追放し、感性だけの世界をもたらしたということになります。
これこそ、ニイチェの西欧哲学史における画期的な意味であり、かれの偉大なところです。
ニイチェは、新しい時代の価値を「最高価値の価値転換」といいましたが、もはやイエス・キリストの聖書の物語で私たちの人生を意味づけるのではなく、私たちの「意志」から人生を意味づけなければならないといいました。
「意志」とは、何ものも目標とすることなく、それ自身を、その強化と増大だけを目的とします。
意志は意志を目的とする。
それが「永遠回帰」で、「永遠回帰」は人生が無意味であったとしても、その無意味を無意味として受け入れる、無意味が永遠に繰り返したとしても絶対的に肯定して受け入れる、ということです。
むしろ、無意味を積極的に指向するといっていいかもしれません。
そしてキリスト教は意志の強化をもたらすどころか弱体化させる宗教で、「ニヒリズム」の宗教であり、弱者の強者に対する「ルサンチマン(憎悪・嫉妬)」の宗教だから打倒して、新たに強者による強者のための社会を実現しなければならない、それがニイチェの主張です。
「超人」とは、無意味を無意味として積極的に指向する新しい人間のタイプのことです。
だから、おしまいの人間、すなわち弱者は罵倒されなければならない。
社会は精神の高貴なものだけが頂点に位し、肉体が高貴なもの、大多数の凡人はすべて[畜群]であり、精神の高貴なものに奉仕し、または食されるだけの存在としてその存在が許されるだけのものであればよい。
そう考えれば、すべては整合的に理解ができるのではないですか?
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Ano.3です。



>「ニーチェの「超人」とは?」
>「「おしまいの人間」は生きる価値がないから死ねといっているに等しいです。」

で、ニーチェ自身は「狂人」なのでしたか
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この回答へのお礼

> で、ニーチェ自身は「狂人」なのでしたか
「狂人」だから何なのでしょうか。
ニーチェは「狂人」だから、で思考停止する人が、ニーチェを正確に読めているとは思えませんね。

お礼日時:2013/12/30 20:47

こんばんは。




「超人」だ、「高貴」だ、「凡人」だ。

まず、その定義から明らかにしないと、


(と、いうより?)
それでも、「なぜ、超人は凡人と差別されなければならないのか」

「(ニーチェ)「おしまいの人間」、だから、何?なのか?」
というような、疑問は残ると思います。


つまりは、ただの「やったもん勝ち」って思想かと
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 「超人」だ、「高貴」だ、「凡人」だ。
その定義については散々『ツァラトゥストラ』で論じられていますから、今更蒸し返すまでもないのでは。

> 超人は凡人と差別されなければならないのか
「差別」されるべきなのかどうかは分かりませんが、違いは存在すると思います。
というのも、凡人は大多数の人間ですが、超人は明らかにごく少数の人間だからです。

> おしまいの人間」、だから、何?なのか?
ニーチェは『ツァラトゥストラ』において、「おしまいの人間」は早々にこの世を去れといっていますよね。
つまり、「おしまいの人間」は生きる価値がないから死ねといっているに等しいです。

お礼日時:2013/12/24 14:03

既に日本語訳されているわけですから、


それを訳した人が適切な漢字をあてているわけです。

つまり、その人らは理解しているはずですよね。
これを不思議に思い、その上で考えます。

名を残している人意外でも、一定の年令に達すると、著者と同様の感覚を手に入れるようです。

そこで、
どの時代でも、
一定比率でニーチェなどと同じ次元になる人が多数いると考えましょう。

ニーチェの超人が受け入れられるのは、
多数の人が過去も今も、超人に達してるからでしょう。そうでなければ、空想小説扱いになります。
彼らは無名であり、何がしかの重職で世の中を回しています。
そして、突然拡大した認知や感覚を不思議に思い、他の人も同じだろうか?と不安になる。
それが故に、古代の文学や教えを調査し、安心しようとする。

こうした書物を訳す人はその中の一人ですし、他の書物も読んでおり、共通の観念を見つけ出し、
その中で一般も理解できそうな用語を割り振ります。

人の格付けは色んな定義ができますが、
唯一絶対であるのは何か?と問えば、必ず出てくるのが、この概念です。超人、真人、神。

これが述べる論法は明快で、
人間の肉体の成長段階として、
脳の活用段階に着眼し、これを大規模に活用できる人がおり、
これによって知覚が拡大し、認知力が飛躍的に伸びる人の存在を指摘しています。
どうもこれは、誰もが特定年令になると肉体と同じ様に段階を踏んで成長するようです。

総じてこれらの観念を纏めますと、以下の様な考え方ができます。

昆虫には幼虫時代があります。
それだけではなく、
多くの生物は幼生を生み出した後、淘汰がなされ、
成虫、成魚、成獣が生まれるのが生物一般の仕組み。

では、人間の成長した完全体である、いわゆる成人とは何なのか考えた事はありますか?

生物としての特徴を顕現し、他の生物から、

「あれは人間」

とはっきりとわかる特質があるはずです。

これは昔から言われていますが、知力です。
大脳の構造は、チンパンジーと殆ど同じらしいですが、
チンパンジーは人間が会得している脳の使い方を殆ど知らずに死ぬそうです。

そこでこう考えて見ます。
人間のみ成人率が高いのではなく、肉体的に成人していても、
チンパンジーと差をつけるような脳の活用方法を会得した人は少なく、
この比率は、他の生物と同様に魚類並みなのではないか?

つまり、
人間は外からは見えず、脳の中で蛹から蝶へと変貌するため、外から分からず、
実際の成人率はやはり低いとする。

例えば、

人間の特質は、言語を操る、火を発明した、紙を作った、道具を使う。

などと誰もが知識で知っておりますが、

どの時代でも、言語を作った人、火を発見し利用方法を考案した人、紙を作った人、道具を作った人
が多数出現したわけではなく、これを独力で為した人は少数であるわけです。

他の人は教えてもらって、真似たわけです。
教えてもらって真似る能力と独力で考え出す能力があり、後者を獲得した人が人間種の成人と
捉えられます。

また、
そういった少数の成人たちを歴史からおうと、名を残した分野以外でも、正に超人的な知力を発揮し、色々と活躍していたケースが多く、知力のレベルが一般から逸脱している場合が多いようです。

もし、
私たち一般の人が、過去の成人たちの発明を知識として与えられていなければ、
いきなり原始時代にもどるかもしれませんよね。

そして、
誰にも教えてもらわずに、人類の歴史と言われる発明を、
考案した人達がいるわけですから、今の時代があるわけです。

彼らはやっとやっと一つの考案をしたのではなく、
あちらこちらに首を突っ込み、色々と考案しています。ピタゴラスや音楽家のバッハとか。

彼らは、誰にも教えてもらわずに、
今の時代の文明の基礎となる全てを独力で考案できます。
こうした知力のレベルと言うのは実際にありますし、
現代でも多数の人がその次元に達しています。だから科学は進歩しています。

これは、生物種”人間”として特徴的な能力であり、珍しくはありません。

しかし、
認知力が未成熟であり、未だに盲目の様な状態の中にいる人が、
同様の人を集めて、誰かが考案した発明を、良く分かってないまま教えている事もあり、
(宗教の教義も、科学や政治、教育も同様)

本来の大脳の覚醒には達していないのに、権威を得て認められている事もあるのです。

これが成立してしまう理由を考えれば、

a) 種として人間らしい本来の知力を獲得した限られた人間
b) a)の人の考案を暗記して権威を得た人間
c) こうした定義が分からず、a)b)双方が同じものに見えてしまう人間

により社会は構成されているからでしょう。
ここで、b)c)は実は同一種であり、ノットイコールa)でしかない。

どうも宗教や哲学は、共通して凡庸なる人を定義しています。
しかも、大体は人間ではないとしています。

たぶん、これでは流石に一般的に糾弾されますから、では一般の人を人間とする。
そして本来の人間を格上げして、表現することで説いている。
これを真人、超人、神、(なんでもいいですが)とし、凡庸なる人を神の子としたりします。

教えると言う文化が普及してしまった現代では、
本来の”考案する力”を獲得した人と、”勉強する力”で対応している人の差は分かり辛いです。

ですが、まあ、
”考案する力”を獲得している人は、直ぐに他者の真贋がわかるわけです。
また、”勉強する力”で凌いでいる人は、”自分は本物じゃない”と確信しており、
”本物”がわかるようです。

さて最初に戻りますが、
著作の中にヒントや謎かけを求める解法よりも、

回り道に見えますが、以下の論法を作って取り組んで見ましょう。

・最も優れた哲学者は高確率で真理を言い当てる
・真理とは実際にある理であり、空想ではないとする
・優れた哲学者ほど高確率で真理を言い当てているならば、多数の真理を述べているはずである
・優れた哲学者は、次に優れた哲学者に認められているはずであり、最も有名であるはずである
・優れた哲学者は、誤解されることを嫌うため平易に教えようとするはずである
・以上により、最も優れており有名な哲学者は、全て同じ真理を唱えているはずである

真理は変化せず、それほど多くないから有用なんだとすれば、殆ど数人の偉大な哲学者がいれば、
網羅されてしまうはずですよね。
としたら、難しくて狭い範囲を述べている哲学を学ぶより、
偉大な哲学者の教えを頭に入れてから、特定条件下の現象を述べた哲学として解釈するほうが
分かりやすいと思います。

でまあ、
おそらくお釈迦様の仏教とキリスト教あたりで全網羅されていると思えます。

ニーチェの超人論に相当する部分は、このあたりの宗教でも同様に述べられていますし、
精神的なものばかりでなく、食物連鎖や生態系などの仕組みを輪廻転生といったり、
色んな科学的な現象を述べています。

生物としての人の大脳の構造は素晴らしく、
これは人類種であれば(けっこう少ない確率としても、それなりに居るはずで)
特殊な教育の中で育成されれば、一定年令に到達すると開花することが保障されているようです。

もちろん、
私たちの殆どは、特殊な教育の中で育成されていませんので、開花しません。

一度開花すると、
・その人が考える事は全て真実であり
 (予測により因果と関連する縁を結んで事実に近い事を悟る。調査とか必要ない)
・何かについて覚えるという事が必要ではなくなり
 (毎回考え直しても同じ結果になるので、覚えるという機能が必要なくなる)
・感じるという事を大事にし、どう感じているのかがはっきりし迷いが無い
 (複数の自在に行なえる選択のうち、最終的に選ぶとき、この感じ方を使う)
・悩みがなくなるので、他者からは高貴に見えるようになる

非常に都合の良い脳を持つことになるようです。

どうも、
歴史上名を残している学者や哲学者など(文学者や作家も含む)、

もし、やりなおせたら、「ここまではいけた」と言うイメージがあるらしいです。

こうした理想が、色んな表現で定義されているのだと思います。

で、
こうした人の格付けを行なう議論で、優秀な哲学者が到達している同一の真理は、
生物種としての現象として、2段階にわかれ、社会現象として3段階にわかれる。
仏教的に凡夫に位置づけられる人は、高貴な精神、高貴な肉体、どちらでもない劣る人の全て
にあたります。キリスト教でも同様であり、ニーチェも同様の知覚にあれば同様のはずです。

あえば分かりますが、人類種の成人に達している人の思考は、常軌を逸していて、
本当に別格だと思いますよ。

高貴とか表現できる次元じゃない。その上で一人や二人じゃなくて万単位で世界にいます。

しかし、
そうした事実が潜在し、哲学者により告発されなければ、
気が付かないでいきることができ、余計な悩みを各自が持たないで済みます。
稀に超人の域に達している人に、傲慢に振舞い、想像もしない方法で破滅させられる人もいます。
(羊達の沈黙などのレクター博士が為す手法ですね)

ですから、自分の世界ランキングは、相当まずいだろうと考え、言いたい放題言わずに、
わがままを言わず、誰かを蔑視することをせず(相手が超人かもしれないので)、
用心して生きることが大事。凡夫に位置づけられる、高貴な精神、高貴な肉体、それ以外
の人全ても同様に生きるべきです。

と主張している、と言うのが私の解釈です。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

回答が長文ですが、まとめると
・動物に比べて、理性を持っているのが人間の特徴
・同じ人間でも、理性を最大限に働かせる人間と、そうでない人間とでは大きな差異がある
・理性を最大限に働かせる人間は、大脳を働かせている
ということでしょうか。

> 誰かを蔑視することをせず(相手が超人かもしれないので)
これは理解していますが、当のニーチェ自身がずいぶんと他人を蔑視していますよね。
彼は「超人」とは程遠い人間だったのでしょうか。

お礼日時:2013/12/24 14:01

ニーチェは、「神は死んだ!」といいましたけど、これは、「神という存在は否定された、論理的に考えてそんなものはない」というのではなく「今までの神は死んだ、俺が神だ!」といいたかったみたいです。


俺様主義の自己中男であり、中国・韓国の人々と同じと考えればいいんじゃあないでしょうか?だから、著書で主張することに矛盾があっても、深く考える必要も無いと思います。
彼の書籍はゴミ箱に捨てればいいでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 俺が神だ!
本当にニーチェはそんなことをいおうとしていたのでしょうか? 私には疑問です。

お礼日時:2013/12/24 13:54

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