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 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ

 1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。

 2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。

 3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。

 ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ
  
  【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html

 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~

   経験
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと知った)
   非経験
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
 
  ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
  ________________________

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。

 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)



 4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。




 ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

A 回答 (27件中21~27件)

考え直して削除した質問の内容です。




パーリ文
http://suttacentral.net/an3.33/pi

まずはパーリ文を見てください。

sāriputtaです。


台湾
http://agama.buddhason.org/SA/SA0982.htm

舍利弗です。


日本
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mo …

T0099_.02.0255c16: 15 (九八三) から参照。

阿難です。



なぜかサーリプッタが大正蔵だと阿難になっています。


これを調べたのは、スッタニパータの内容が、他の経典にあるらしいからでした。

http://suttacentral.net/snp5.14/pi


‘Pahānaṃ kāmasaññānaṃ,
domanassāna cūbhayaṃ;
Thinassa ca panūdanaṃ,
kukkuccānaṃ nivāraṇaṃ.

Upekkhāsatisaṃsuddhaṃ,
dhammatakkapurejavaṃ;
Aññāvimokkhaṃ pabrūmi,
avijjāya pabhedanan’”ti.


スッタニパータの「学生ウダヤの質問」の一部のようです。

~~~~~~~~~~~~~~


1106 師(ブッダ)は答えた、
「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

~~~~~~~~~~~~~~

中村元の註1107によると

~~~~~~~~~~~~~~~~

念いの清らかさ――ウパニシャッドの観念である。第四三五詩に対する註記参照。

ワイド版 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 427ページ

~~~~~~~~~~~~~~~

それで問題は


Aṅguttara Nikāya 3
4. Devadūtavagga
33. Sāriputtasutta

http://suttacentral.net/an3.33/pi

その経においてブッダがサーリプッタに、スッタニパータの「学生ウダヤの質問」をもとに
教えを説いているらしい?こと。

つまり、ブッダはウダヤとサーリプッタに同じ内容の教えを説いている?
でもそれは、ウパニシャッドの観念に基づいている?

あとパーリ文と漢文で名前が違ったら、今回は大正蔵だけど
それをどう考えればいいのか。

わからないことばかりです。
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この回答へのお礼

 ご投稿をうけとりました。


 ▲ (パーリ文) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 Aṅguttara Nikāya 3
 4. Devadūtavagga

 33. Sāriputtasutta

  Atha kho āyasmā  s ā r i p u t t o  yena bhagavā tenupasaṅkami;・・・

 ▼ (台湾) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 雜阿含982經[正聞本13323經/佛光本974經](雜相應/道品誦/如來記說)(莊春江標點)

  如是我聞:
  一時,佛住娑枳國安闍那林中。
  爾時,世尊告尊者 舍 利 弗:・・・
 
 ▽ (日本) ~~~~~~~~~~~~~~~
  (九八三)
            如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給
 T0099_.02.0255c17: 孤獨園。爾時尊者 阿 難

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 Q-1: ブッダはウダヤとサーリプッタに同じ内容の教えを説いている?


 Q-2: でもそれは、ウパニシャッドの観念に基づいている?

  △ (中村元) 念いの清らかさ――ウパニシャッドの観念である。



 Q-3: パーリ文と漢文で名前が違ったら、今回は大正蔵だけど / それをどう考えればいいのか。
 





 ☆ Q-1 は 違う人たちに同じことを説いていても それはあり得るし おかしくないのでは?

 あとは ? です。

お礼日時:2014/01/04 12:35

こんばんは。




ニルワーナ。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。




 うん。

お礼日時:2013/12/31 18:54

B様、どうも。




いやいや「ブディズムの効用」は、「自力」というところに、あると思います。


BC5世紀くらいに、ゴータマ以外にも、西洋でエピクロスが出ていると思います。
「欲望」のマイナス面を説いた人たちが、その時代に現れているのは、興味深いと思っています。
「あるがまま」ということでは、老荘思想にも最近興味を持ちました。

・・・私は、「満足すると、欲しくなくなる」と考えたのですが。
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この回答へのお礼

 ★ いやいや「ブディズムの効用」は、「自力」というところに、あると思います。
 ☆ たとえば《自灯明》と言ったりしますから 一理も二理もあります。

 ただし 霊我としてのアートマンを否定して 《アン‐アートマン(無我・非我)》というのなら 論理的には 神を(ブラフマン神を)《無い神》として(無梵なる神として) けっきょくは立てたということになると捉えています。

 その心は じっさい問題としてゴータマ自身は そういった《信仰》にかかわることがらを知らなかったであろうとも見ています。だから アン‐アートマンと言ったのなら もうアートマンもブラフマンも何もないのだと見ているし 言っていると 自分もまわりの弟子たちも 受け留めていたことでしょう。――これは 論理に合わないのです。

 非経験の場である神を経験存在たる人間が否定しようが肯定しようが 神には何の影響もありません。せいぜいが 神を有る神としてではなく 無い神として捉えたという違いが生じるのみです。

 こういう理屈に立って ゴータマの信仰類型は 無梵無我一如であると――落ち着くところに焦点をあてて――捉えています。



 ★ ・・・私は、「満足すると、欲しくなくなる」と考えたのですが。
 ☆ それは 一般に一時的な事態です。

お礼日時:2013/12/30 20:13

そうさのー


私がお釈迦様の無の悟りに感じるのは、「信じてこそ我である」こういう信仰心だ。
親鸞が何者か知らぬが、彼が信を明かし、それでこそ我であるという文脈ならその通りだろうて。
神に向かって「無」お言い放ったお釈迦様だが、そのような暴言が人の身で出来たのも「信」ゆえじゃ。
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この回答へのお礼

 趣旨説明をちゃんと読んでね。


 ★ 無の悟り / 「信じてこそ我である」
 ☆ 自分の中では その内実が活きてあるということかも知れないが ほかの人には一向に何も伝わらない。説明し得ないものなら ただ神と言っているのと同じである。それは それとして――哲学の以前の段階として――ある。


 ★ 神に向かって「無」お言い放ったお釈迦様だが
 ☆ もし次の説明と同じことを言っているということなら それは 違うと答えます。

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 なぜなら そのときの《無梵》は 次の類型における《梵=ブラフマン》や《仏=アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイロ―チャナ(大日如来)》と同じ神だという理解だからです。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我

  C. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)


 ぜんぜん違うよ。分かったフリをしているというよりは まったく分かろうとしない。だけ。こちらの見解がただしいと言うその前の段階で 互いに相手の見解の中身を知らなければ話は始まらない。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/30 05:44

こんにちは。



《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、
かもしれません。

ですが、ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』には、
「《信》とは、心の清らかさである」
とありますので、この言葉に尽きるのかも知れませんね。

そして、空海ならば、
《秘密》というキーワードで説明したりします。
《衆生秘密》(まぁ、《バカの壁》みたいなもの。《バカの壁》があるから、秘密に見える!!)と《如来秘密》(概念知や分別的な認識・《バカの壁》では決して解き明かせない、非思考・非経験の世界)で説明します。
あるいは、
「夫(そ)れ仏法遥かなるにあらず。心中にしてすなわち近し。真如、外(ほか)にあらず。身を棄てて何(いづく)んか求めん。迷悟、我にあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、即(すなわち)到(いた)る。明暗他にあらざれば、すなわち、信修すればたちまちに證(しょうす)。」
 迷→《衆生秘密》
 悟り→《如来秘密》
に、おそらく、対応しているのでしょうね。

http://www.bukkyo.net/tisiki/kengyo-mikkyo.htm
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この回答へのお礼

 しばらくぶりですね。こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~~~~~~~~
 《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、
 かもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言いかえるなら  論理学等の寄与は 言わば公共財として遺すものだという見方を持つからです。誰がおこなってもよいのですし そういう性質の学問的な営為であるかと思うからです。

 つまり 信仰は・そしてあるいは神学は 普遍的な内容を目指すということになると いささかその人ないしその弟子や同志たちの努力に負うところが大きいと思うからです。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ですが、ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』には、
 「《信》とは、心の清らかさである」
 とありますので、この言葉に尽きるのかも知れませんね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《自性清浄心》は それでも《ブッダター》の問題だと考えられます。清いこと・清らかさというのは どの民俗的な信仰においても言うことだと思われ それを《信》の定義に用いることは その信ということが 経験存在である人間にとってどういう仕組みになっているかが明らかにされてやっと腑に落ちるのではないか。こうも考えるからです。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 そして、空海ならば、
 《秘密》というキーワードで説明したりします。
 《衆生秘密》(まぁ、《バカの壁》みたいなもの。《バカの壁》があるから、秘密に見える!!)と《如来秘密》(概念知や分別的な認識・《バカの壁》では決して解き明かせない、非思考・非経験の世界)で説明します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えっとですね。即身成仏は 《さとり》が何であるかの規定・確認のあとにその効力を発揮します。即得往生と 親鸞は 言いかえています。つまり 往生や成仏とは何かが先に来なければならないと。

 あるいは 親鸞にしても たとえば《悪人正機》なるヒラメキを得てそれについて思索を展開している段階は まだまだ中途半端な状態であった――つまり《信》をめぐってです――と考えられます。善悪の彼岸に やがて到ります。

 とうよりは 先ほどの即得往生のほうが 優先されるべき命題です。そのような彼岸を取り上げているのは まだ善悪についてどうにかして結着をつけようというように弄っている段階です。

 つまりそうではなく・その段階をとおり越えて すでに《義無きをもって義とす》という境地に到ります。
 これが 非経験の場であり 非知なる知(自覚)であり 非思考の庭としての《信》であるとさとります。

 こういった信学ないし信仰論が明らかになって――乱暴を省みずに述べるならば―― 《秘密》といった鍵語がその威力を持つのだと思うからです。

 それに 余計なことを添えるならば 《如来と衆生》という区別があるとするなら それは 先ほどの善悪論とあたかも同じような趣きにおいて 途中半端な問い求めの段階にある。こうも思われて来るからです。
 区別を超えているかも分かりませんが それはおそらく知性においてなのだろうと見られます。《信》を 言おうとしていても まだみづからの内においてその確立としての普請は済んでいないように見られます。

 《主(神)は 人びとの罪をもう覚えていない。人びとも主を知れと言って おしえることはなくなる》という《義無き状態としての義》。


 

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 あるいは、

 「夫(そ)れ仏法遥かなるにあらず。心中にしてすなわち近し。真如、外(ほか)にあらず。身を棄てて何(いづく)んか求めん。迷悟、我にあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、即(すなわち)到(いた)る。明暗他にあらざれば、すなわち、信修すればたちまちに證(しょうす)。」

  迷→《衆生秘密》
  悟り→《如来秘密》
 に、おそらく、対応しているのでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 設計図としては 書けていましょうか どうでしょうか。というように 親鸞目線で見ることは いやな感じをあたえましょうが 学問として妥当であるように考えます。すでにこのように《決めつけ》ています。むろん 果たしてどうでしょうかというのが この問いです。

お礼日時:2013/12/29 13:38

>「もはや無用の長物になって行きます。




「歴史の審判」ということなんでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 わたしの見るところ 個人の信仰が集団として機能する宗教になったというのは ふたつのきっかけがあると思います。

 カザリないし肩書きと そして群れたがり症候群です。

 群れたがる欲望は 宗教でなくても アイドルを追っかけるだけでも満たされます。

 肩書きは 社会のそこここで仕事をするという立ち場を担うことで用を足しますから 宗教組織は要らなくなります。

 カザリは オシエを知っているといったことより むしろ組織宗教のよわさやそれが腐敗するという必然性を明らかにする知性が 取って代わります。

 このような
 ★ 「歴史の審判」ということなんでしょうか。

 ☆ ですけれど けっきょくもともと 信仰という蝉の抜け殻として オシエが持たれこれがあたかも絶対的なものだと思い込んだところから来たのですから 早晩消えてなくなります。

 要するにシューキョーは 気持ち悪いものだと感じるようになるのだと思いますが どうでしょうか。

お礼日時:2013/12/29 11:24

bragelonne様、おはようございます。




宗教とは、絵本のような気がしてきました。
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この回答へのお礼

 そうですか。

 絵柄は 要素に分析してみれば 同じようだということでしょうか。

 その中核にある《神 と われ との関係》については 個人にとっての信仰の問題ですが そこにさらにつけ加えられて行くオシエについては――これが 集団に広がる宗教ですが―― もはや無用の長物になって行きます。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2013/12/29 09:47

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