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44歳の男です。
2013年に入籍(双方とも初婚)をしました。
お金が無かったので結婚式や結納はしていませんが、嫁側の両親からはお祝いを50万円ほどいただき、2人の結婚を多いに喜んでくれました。
ですが私の方の親(母は他界)、兄弟、親戚からはまるで互いに申し合わせでもしたかの如く、お祝いやそれに準ずる物は何一つもらっていません。親戚などはたまに会うたびに「結婚はまだか?」などと散々聞いてくるのに、実際に結婚してみると何もないので、一抹の寂しさと言うか空しさがあります。
お金や物は無いにせよ、おめでとうの言葉だったりメッセージもないと、「俺、今まで親戚にそんな失礼なことしてないんだけどなあ」などと疑念のようなものも起きます。

嫁からは「私は誰からも受け入れられてない」と泣かれる始末。この件で嫁と喧嘩になること複数回ありましたが、嫁も別に失礼な事をする人間ではありません。

いつも会社帰りに家路に歩いている時に、何だかモヤモヤとこの事を考えることが多く、納得のいかない私は、ついに今年になってから親との連絡をやめました。
ある意味「プチ絶縁」とでも言うんでしょうか。

あまり深く考えない方がいいんでしょうか?
たまに、寂しさを越えて怒りに近い感情が芽生てくることがあるので、誰かに聞いてもらいたく質問コーナーを使ってみました。

A 回答 (16件中11~16件)

皆さんと同じような回答になってしまいますが・・・。



御兄弟、親族にちゃんと正式に結婚の報告、奥様の紹介、
お披露目会みないなことはされたのでしょうか?

その上で「おめでとう」も言われず、お祝いもないなら
「プチ絶縁」する気持ちもわからないではないです。

ですが正式に報告も紹介もお披露目もしなかったのなら
兄弟、親戚に互いに申し合わせて無視されても仕方ないですね。

この回答への補足

補足と言うより「先にそれを言え!」とお叱りを受けそうですが恥をしのんで諸々の背景をお話させていただきます。
補足を越えてだいぶ余分な話が多い事をお許し下さい。

私は結婚する前は、両親と住んでおりました。元々一人暮らしでしたが、実家の経済状態が芳しくない事を妹より知らされ、2005年に家計を助けるべく、借りていたマンションをひきはらって実家に戻りました。経済状態が芳しくない理由とは父の借金がほとんどで、借金があるうえにさらに脱サラして小料理屋まで開店させ、開店してしばらくは良かったものの、あとは不景気の風が当然のように押し寄せ、自分が経済的に援護射撃をしても内情はさほど変わらずじまい。実家も小料理屋も賃貸物件なのですから、それは厳しいに決まってました。
最初は店に反対していた母でしたが、そこは夫婦の絆というやつで、時には夕方から翌朝まで営業して頑張っていましたが、体に無理がたたったのか2007年に難病認定される肺の病気を発症し、その時医者に「余命は長くても6年くらい」と言われ、まるでその言葉になぞらえたかの如く、2012年の末に亡くなりました。

妹ですが海外勤務(未婚)で、ひと月のうち何日か日本に帰ってくるという感じでした。後で聞かされましたが自分が家に戻る前は妹が毎月、母に現金を渡していたようでした。

母が亡くなる半年前には、「結婚したい人がいる」と家族を集めて報告をしました。それが現在の嫁です。
母は家で酸素吸入器を付けていましたが、何とか自分で歩ける状態でしたので介護というほどの世話は必要ありませんでしたが、掃除や洗濯、買い物などは自分の役目でした。時には「役目」のために仕事中に一度帰宅して、また会社にもどるというのもしょっちゅうでしたが、そこは我が家の功労者とも言える母の為、辛いと感じたことはありませんでした。

不思議なもので、家に何らかのハンデや障害がある人がいると、家族というのは一つになるものなんだと、何度も思った事がありました。子供というのは、ある程度の歳になったら自然と家を出て、また誰かを見つけて結婚をして・・・
というのが一般的なのでしょうが、私の場合世間知らずで生意気な頃に家を出て、少しもの分かりと世間を知ってからまた家に戻ってきたことで、親の子供に対する考えなども変わっていくのだと感じました。
そのせいなのか、私の結婚の話は母にとってとてもショックだったようです。その意味はいくつかあると思いますが、一つは自分がこんな体になってしまって、息子の為に何をしようにもしてあげられない。又は単純に「息子を知らない女に持っていかれる」
今となっては分かりませんが、母が亡くなる2ヶ月前に何とか一度だけ彼女を紹介することが出来ましたが、母からは結局「おめでとう」の言葉は聞けませんでした。
彼女を紹介した時、もう母の寿命が長くないのは分かっていましたが、ただ母には生きている間に報告をしたかっただけなのです。

次に嫁のことを話します。僕が結婚を決めた理由が一にも二にも「思いやりを持てる人」だったからです。
仕事と家を往復する自分に対しても、病気の母の体調に合わせた食べ物を自分に持たせてくれたり、彼女自身も大切な友人を癌で失ったばかりで気落ちしているはずなのに、とにかく僕と僕の母親の心配をいつもしてくれたからです。

さてここからが、色々な「流れ」がかわってきてしまう部分なのですが、母が亡くなる日に僕は母の病室にいました。
父や妹も病室につめていましたが、時折交代で昏睡状態に入った母を見舞っていました。
その時、彼女が僕に差し入れのパンを届けに現れ、それからばらくして母の容体が悪化し、気がつけば僕と彼女の2人だけが見守る中で息を引き取りました。彼女もまさかそんな現場に遭遇すると思わなかったでしょう。その時彼女も数値の下がっていく心電図のメーターの横で涙を流しながら「お母さん! お母さん!」と母のベッドをさすっていました。最後の方には一瞬、場を離れていた妹があわてて戻りましたが、時すでに遅しでした。どうやらこの時から、妹にとっては自分の母親を他人に「お母さん」と呼ばれる事に抵抗があったようでそれ以降、ちょっとした感情のもつれから、妹は彼女を全く受け付けなくなりました。
葬式後に妹と話し合いを持ちましたが、「あの人(嫁)の事を考えるだけで卒倒する」と言われ、「四十九日法要の時には連れて来ないで」とまで言われたので、その時は半端なく自分も妹に対しキレてそれ以来、兄妹絶縁が続いています。誰でも好きじゃない人はいると思いますが、ここまで人を嫌いになることってあるのかと、しかもどちらかと言えばかわいがっていた妹が、自分の嫁をこれほど嫌いになるとは想像しませんでした。
出来れば普通に仲よくしてほしかったですが、それも望めそうにありません。


母が亡くなり、通夜と葬式が行われる場でタイミング的には決してよくない局面で、親戚には自分の婚約者である事を知らせました。と、ここまではよかったのですが、これは私も父も許したことなのですが焼香をする順番や、彼女を親族席にすわらせた事で、一部の長老とも言える親戚が「けしからん」という考えを彼女に対して思ったらしく、その後の四十九日法要の時も彼女が親戚にお茶を入れて出しても、ほとんどの人が知らん顔をしてたのを僕は見逃しませんでした。

後に親戚の叔母達を訪ねた時にそういう話で説教をされましたが、私自身は今でも後悔をしてませんし、親戚側の気持ちは多少わかれど、謝るべきことでもないとおもっています。ましてや、通夜と告別式を彼女に台無しにされたわけでもありませんし、母の病気が発症してからどの親戚の力を借りたわけでもありません。
それまで、対親戚に関しては力仕事が必要とあらば手伝いに行ったり、たまには甥っ子に小遣いをあげたり、各種冠婚葬祭の場にも出席し、出来る範囲での付き合いはしてきました。

嫁はまるで何人かを敵にまわしてしまってるような感じで、祝福のムードは全くなく法事などで皆が集まると、嫁と僕の妹の接触を回避すべく、変な気を回されて微妙な空気が流れ、あげく自分と嫁だけがポツリみたいな状況です。


とても長くなってしまいましたが、こちらに落ち度があったにせよ、「それはそれ」「これはこれ」という形で石けん一つ、スリッパ一足送ってくれてもバチは当たらないと思いますが、どうなのでしょうか?
誰からも何も来ないのは、本当何だか嫁に申し訳ないような気持ちになります。
これとは全く対照的に、嫁側の両親からは多いに祝福されていることが救いでしょうか。
ちなみに、まだ互いの両親の顔合わせは実現していません。
なぜなら父からもお祝いどころか「おめでとう」とも言ってもらってないし、会うたびに自身の生活の援助してほしいとの話しかしてこないので、もはや会うのも嫌です。


自分としては普段は楽しい夫婦生活が続いているし、親兄弟、親戚がらみの事は割り切って考えるようにはしているものの、時折無性にやりきれない感じがするだけです。長々と失礼しました。

補足日時:2014/05/21 17:06
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この回答へのお礼

今回、ご回答いただきました皆様へ

誠意あるご回答、誠にありがとうございました。

話すと少し長くなってしまうかもしれませんが、入籍したのに食事会等をしないのには、一応の背景がございます。

のちほど、「補足」の部分でお話させていただきます。

またそれを読まれた上で、お返事をいただけるならば幸いです。

ひとまずお礼まで。

お礼日時:2014/05/21 12:33

親戚から何もしてもらえません。


と言いますが、親戚に対して何をしたか補足願います。(過去及び、今回の入籍の件含め。かな。


あなた方夫婦が何をしたのか一切書かれてないので、何も言えません。

まさか、
結婚したんだから、無条件に祝ってもらえるべきだ!とかって考えは…お持ちじゃないですよね??

この回答への補足

補足と言うより「先にそれを言え!」とお叱りを受けそうですが恥をしのんで諸々の背景をお話させていただきます。
補足を越えてだいぶ余分な話が多い事をお許し下さい。

私は結婚する前は、両親と住んでおりました。元々一人暮らしでしたが、実家の経済状態が芳しくない事を妹より知らされ、2005年に家計を助けるべく、借りていたマンションをひきはらって実家に戻りました。経済状態が芳しくない理由とは父の借金がほとんどで、借金があるうえにさらに脱サラして小料理屋まで開店させ、開店してしばらくは良かったものの、あとは不景気の風が当然のように押し寄せ、自分が経済的に援護射撃をしても内情はさほど変わらずじまい。実家も小料理屋も賃貸物件なのですから、それは厳しいに決まってました。
最初は店に反対していた母でしたが、そこは夫婦の絆というやつで、時には夕方から翌朝まで営業して頑張っていましたが、体に無理がたたったのか2007年に難病認定される肺の病気を発症し、その時医者に「余命は長くても6年くらい」と言われ、まるでその言葉になぞらえたかの如く、2012年の末に亡くなりました。

妹ですが海外勤務(未婚)で、ひと月のうち何日か日本に帰ってくるという感じでした。後で聞かされましたが自分が家に戻る前は妹が毎月、母に現金を渡していたようでした。

母が亡くなる半年前には、「結婚したい人がいる」と家族を集めて報告をしました。それが現在の嫁です。
母は家で酸素吸入器を付けていましたが、何とか自分で歩ける状態でしたので介護というほどの世話は必要ありませんでしたが、掃除や洗濯、買い物などは自分の役目でした。時には「役目」のために仕事中に一度帰宅して、また会社にもどるというのもしょっちゅうでしたが、そこは我が家の功労者とも言える母の為、辛いと感じたことはありませんでした。

不思議なもので、家に何らかのハンデや障害がある人がいると、家族というのは一つになるものなんだと、何度も思った事がありました。子供というのは、ある程度の歳になったら自然と家を出て、また誰かを見つけて結婚をして・・・
というのが一般的なのでしょうが、私の場合世間知らずで生意気な頃に家を出て、少しもの分かりと世間を知ってからまた家に戻ってきたことで、親の子供に対する考えなども変わっていくのだと感じました。
そのせいなのか、私の結婚の話は母にとってとてもショックだったようです。その意味はいくつかあると思いますが、一つは自分がこんな体になってしまって、息子の為に何をしようにもしてあげられない。又は単純に「息子を知らない女に持っていかれる」
今となっては分かりませんが、母が亡くなる2ヶ月前に何とか一度だけ彼女を紹介することが出来ましたが、母からは結局「おめでとう」の言葉は聞けませんでした。
彼女を紹介した時、もう母の寿命が長くないのは分かっていましたが、ただ母には生きている間に報告をしたかっただけなのです。

次に嫁のことを話します。僕が結婚を決めた理由が一にも二にも「思いやりを持てる人」だったからです。
仕事と家を往復する自分に対しても、病気の母の体調に合わせた食べ物を自分に持たせてくれたり、彼女自身も大切な友人を癌で失ったばかりで気落ちしているはずなのに、とにかく僕と僕の母親の心配をいつもしてくれたからです。

さてここからが、色々な「流れ」がかわってきてしまう部分なのですが、母が亡くなる日に僕は母の病室にいました。
父や妹も病室につめていましたが、時折交代で昏睡状態に入った母を見舞っていました。
その時、彼女が僕に差し入れのパンを届けに現れ、それからばらくして母の容体が悪化し、気がつけば僕と彼女の2人だけが見守る中で息を引き取りました。彼女もまさかそんな現場に遭遇すると思わなかったでしょう。その時彼女も数値の下がっていく心電図のメーターの横で涙を流しながら「お母さん! お母さん!」と母のベッドをさすっていました。最後の方には一瞬、場を離れていた妹があわてて戻りましたが、時すでに遅しでした。どうやらこの時から、妹にとっては自分の母親を他人に「お母さん」と呼ばれる事に抵抗があったようでそれ以降、ちょっとした感情のもつれから、妹は彼女を全く受け付けなくなりました。
葬式後に妹と話し合いを持ちましたが、「あの人(嫁)の事を考えるだけで卒倒する」と言われ、「四十九日法要の時には連れて来ないで」とまで言われたので、その時は半端なく自分も妹に対しキレてそれ以来、兄妹絶縁が続いています。誰でも好きじゃない人はいると思いますが、ここまで人を嫌いになることってあるのかと、しかもどちらかと言えばかわいがっていた妹が、自分の嫁をこれほど嫌いになるとは想像しませんでした。
出来れば普通に仲よくしてほしかったですが、それも望めそうにありません。


母が亡くなり、通夜と葬式が行われる場でタイミング的には決してよくない局面で、親戚には自分の婚約者である事を知らせました。と、ここまではよかったのですが、これは私も父も許したことなのですが焼香をする順番や、彼女を親族席にすわらせた事で、一部の長老とも言える親戚が「けしからん」という考えを彼女に対して思ったらしく、その後の四十九日法要の時も彼女が親戚にお茶を入れて出しても、ほとんどの人が知らん顔をしてたのを僕は見逃しませんでした。

後に親戚の叔母達を訪ねた時にそういう話で説教をされましたが、私自身は今でも後悔をしてませんし、親戚側の気持ちは多少わかれど、謝るべきことでもないとおもっています。ましてや、通夜と告別式を彼女に台無しにされたわけでもありませんし、母の病気が発症してからどの親戚の力を借りたわけでもありません。
それまで、対親戚に関しては力仕事が必要とあらば手伝いに行ったり、たまには甥っ子に小遣いをあげたり、各種冠婚葬祭の場にも出席し、出来る範囲での付き合いはしてきました。

嫁はまるで何人かを敵にまわしてしまってるような感じで、祝福のムードは全くなく法事などで皆が集まると、嫁と僕の妹の接触を回避すべく、変な気を回されて微妙な空気が流れ、あげく自分と嫁だけがポツリみたいな状況です。


とても長くなってしまいましたが、こちらに落ち度があったにせよ、「それはそれ」「これはこれ」という形で石けん一つ、スリッパ一足送ってくれてもバチは当たらないと思いますが、どうなのでしょうか?
誰からも何も来ないのは、本当何だか嫁に申し訳ないような気持ちになります。
これとは全く対照的に、嫁側の両親からは多いに祝福されていることが救いでしょうか。
ちなみに、まだ互いの両親の顔合わせは実現していません。
なぜなら父からもお祝いどころか「おめでとう」とも言ってもらってないし、会うたびに自身の生活の援助してほしいとの話しかしてこないので、もはや会うのも嫌です。


自分としては普段は楽しい夫婦生活が続いているし、親兄弟、親戚がらみの事は割り切って考えるようにはしているものの、時折無性にやりきれない感じがするだけです。長々と失礼しました。

補足日時:2014/05/21 17:05
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この回答へのお礼

今回、ご回答いただきました皆様へ

誠意あるご回答、誠にありがとうございました。

話すと少し長くなってしまうかもしれませんが、入籍したのに食事会等をしないのには、一応の背景がございます。

のちほど、「補足」の部分でお話させていただきます。

またそれを読まれた上で、お返事をいただけるならば幸いです。

ひとまずお礼まで。

お礼日時:2014/05/21 12:33

>お金が無かったので結婚式や結納はしていませんが



で、両親や親戚に挨拶には行ったんでしょうか。
それでなにもなければ、失礼な身内ということになりますが、
そういうこともしていなければ、こちらのほうが失礼ですから、
受け入れてくれとか、お祝いをよこせというのにも
無理があります。

普通は仕事をしていて忙しいので、あちこち親戚周りなどできず、
失礼に当たるからと、たとえ金がなくても式くらいはあげるものです。

それでも親くらいはお祝いをしてくれるものですが、
それも何か事情があったのかしら。と思われるくらいの
冷淡さです。親の意向に背いて式はあげないと
喧嘩腰に宣言したとか。。さてどうなんでしょう。

>あまり深く考えない方がいいんでしょうか?

身内の不和は夫婦仲にも影響しかねませんから、
親にちゃんと確認したほうがいいですよ。
迷うより、まずは行動です。

この回答への補足

補足と言うより「先にそれを言え!」とお叱りを受けそうですが恥をしのんで諸々の背景をお話させていただきます。
補足を越えてだいぶ余分な話が多い事をお許し下さい。

私は結婚する前は、両親と住んでおりました。元々一人暮らしでしたが、実家の経済状態が芳しくない事を妹より知らされ、2005年に家計を助けるべく、借りていたマンションをひきはらって実家に戻りました。経済状態が芳しくない理由とは父の借金がほとんどで、借金があるうえにさらに脱サラして小料理屋まで開店させ、開店してしばらくは良かったものの、あとは不景気の風が当然のように押し寄せ、自分が経済的に援護射撃をしても内情はさほど変わらずじまい。実家も小料理屋も賃貸物件なのですから、それは厳しいに決まってました。
最初は店に反対していた母でしたが、そこは夫婦の絆というやつで、時には夕方から翌朝まで営業して頑張っていましたが、体に無理がたたったのか2007年に難病認定される肺の病気を発症し、その時医者に「余命は長くても6年くらい」と言われ、まるでその言葉になぞらえたかの如く、2012年の末に亡くなりました。

妹ですが海外勤務(未婚)で、ひと月のうち何日か日本に帰ってくるという感じでした。後で聞かされましたが自分が家に戻る前は妹が毎月、母に現金を渡していたようでした。

母が亡くなる半年前には、「結婚したい人がいる」と家族を集めて報告をしました。それが現在の嫁です。
母は家で酸素吸入器を付けていましたが、何とか自分で歩ける状態でしたので介護というほどの世話は必要ありませんでしたが、掃除や洗濯、買い物などは自分の役目でした。時には「役目」のために仕事中に一度帰宅して、また会社にもどるというのもしょっちゅうでしたが、そこは我が家の功労者とも言える母の為、辛いと感じたことはありませんでした。

不思議なもので、家に何らかのハンデや障害がある人がいると、家族というのは一つになるものなんだと、何度も思った事がありました。子供というのは、ある程度の歳になったら自然と家を出て、また誰かを見つけて結婚をして・・・
というのが一般的なのでしょうが、私の場合世間知らずで生意気な頃に家を出て、少しもの分かりと世間を知ってからまた家に戻ってきたことで、親の子供に対する考えなども変わっていくのだと感じました。
そのせいなのか、私の結婚の話は母にとってとてもショックだったようです。その意味はいくつかあると思いますが、一つは自分がこんな体になってしまって、息子の為に何をしようにもしてあげられない。又は単純に「息子を知らない女に持っていかれる」
今となっては分かりませんが、母が亡くなる2ヶ月前に何とか一度だけ彼女を紹介することが出来ましたが、母からは結局「おめでとう」の言葉は聞けませんでした。
彼女を紹介した時、もう母の寿命が長くないのは分かっていましたが、ただ母には生きている間に報告をしたかっただけなのです。

次に嫁のことを話します。僕が結婚を決めた理由が一にも二にも「思いやりを持てる人」だったからです。
仕事と家を往復する自分に対しても、病気の母の体調に合わせた食べ物を自分に持たせてくれたり、彼女自身も大切な友人を癌で失ったばかりで気落ちしているはずなのに、とにかく僕と僕の母親の心配をいつもしてくれたからです。

さてここからが、色々な「流れ」がかわってきてしまう部分なのですが、母が亡くなる日に僕は母の病室にいました。
父や妹も病室につめていましたが、時折交代で昏睡状態に入った母を見舞っていました。
その時、彼女が僕に差し入れのパンを届けに現れ、それからばらくして母の容体が悪化し、気がつけば僕と彼女の2人だけが見守る中で息を引き取りました。彼女もまさかそんな現場に遭遇すると思わなかったでしょう。その時彼女も数値の下がっていく心電図のメーターの横で涙を流しながら「お母さん! お母さん!」と母のベッドをさすっていました。最後の方には一瞬、場を離れていた妹があわてて戻りましたが、時すでに遅しでした。どうやらこの時から、妹にとっては自分の母親を他人に「お母さん」と呼ばれる事に抵抗があったようでそれ以降、ちょっとした感情のもつれから、妹は彼女を全く受け付けなくなりました。
葬式後に妹と話し合いを持ちましたが、「あの人(嫁)の事を考えるだけで卒倒する」と言われ、「四十九日法要の時には連れて来ないで」とまで言われたので、その時は半端なく自分も妹に対しキレてそれ以来、兄妹絶縁が続いています。誰でも好きじゃない人はいると思いますが、ここまで人を嫌いになることってあるのかと、しかもどちらかと言えばかわいがっていた妹が、自分の嫁をこれほど嫌いになるとは想像しませんでした。
出来れば普通に仲よくしてほしかったですが、それも望めそうにありません。


母が亡くなり、通夜と葬式が行われる場でタイミング的には決してよくない局面で、親戚には自分の婚約者である事を知らせました。と、ここまではよかったのですが、これは私も父も許したことなのですが焼香をする順番や、彼女を親族席にすわらせた事で、一部の長老とも言える親戚が「けしからん」という考えを彼女に対して思ったらしく、その後の四十九日法要の時も彼女が親戚にお茶を入れて出しても、ほとんどの人が知らん顔をしてたのを僕は見逃しませんでした。

後に親戚の叔母達を訪ねた時にそういう話で説教をされましたが、私自身は今でも後悔をしてませんし、親戚側の気持ちは多少わかれど、謝るべきことでもないとおもっています。ましてや、通夜と告別式を彼女に台無しにされたわけでもありませんし、母の病気が発症してからどの親戚の力を借りたわけでもありません。
それまで、対親戚に関しては力仕事が必要とあらば手伝いに行ったり、たまには甥っ子に小遣いをあげたり、各種冠婚葬祭の場にも出席し、出来る範囲での付き合いはしてきました。

嫁はまるで何人かを敵にまわしてしまってるような感じで、祝福のムードは全くなく法事などで皆が集まると、嫁と僕の妹の接触を回避すべく、変な気を回されて微妙な空気が流れ、あげく自分と嫁だけがポツリみたいな状況です。


とても長くなってしまいましたが、こちらに落ち度があったにせよ、「それはそれ」「これはこれ」という形で石けん一つ、スリッパ一足送ってくれてもバチは当たらないと思いますが、どうなのでしょうか?
誰からも何も来ないのは、本当何だか嫁に申し訳ないような気持ちになります。
これとは全く対照的に、嫁側の両親からは多いに祝福されていることが救いでしょうか。
ちなみに、まだ互いの両親の顔合わせは実現していません。
なぜなら父からもお祝いどころか「おめでとう」とも言ってもらってないし、会うたびに自身の生活の援助してほしいとの話しかしてこないので、もはや会うのも嫌です。


自分としては普段は楽しい夫婦生活が続いているし、親兄弟、親戚がらみの事は割り切って考えるようにはしているものの、時折無性にやりきれない感じがするだけです。長々と失礼しました。

補足日時:2014/05/21 17:05
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この回答へのお礼

今回、ご回答いただきました皆様へ

誠意あるご回答、誠にありがとうございました。

話すと少し長くなってしまうかもしれませんが、入籍したのに食事会等をしないのには、一応の背景がございます。

のちほど、「補足」の部分でお話させていただきます。

またそれを読まれた上で、お返事をいただけるならば幸いです。

ひとまずお礼まで。

お礼日時:2014/05/21 12:32

そうですね。

あまり深く考えないほうがいいです。
でも、奥様から一生恨まれます。

お母様をすでに亡くされていて、
結婚、結納などをしないというのは、
そのような事態になる可能性があります。

私は親族だけの結婚式をしました。
私が出席してあげた友人の結婚式は数知れず。
言葉で結婚をすると報告はしていたのですが、
何もお祝いのない友人が何人もいます。
いままでの付き合いは一体なんだったんだろうかと寂しい思いをしました。

家族内で、慶弔事があると、
一家の妻(母)が親族に連絡をすることが多いです。
いつ・だれと・結婚する・式はどうする・相手はどんな女性かなど。

質問者さんのお母様がいつ亡くなられたかはわかりませんが、
お母様は生前、親戚の進学・就職・成人・その他祝い事、不祝儀、内祝い、お返し、
などなどやっていらした可能性があります。
お父様、そういうのまめにやっているかな?

そして結婚式という正式な報告の場を設ける事で、
結婚の報告と、ご祝儀を頂けるのです。

多いかもしれませんよ。
「結婚式しないんだって?籍はいつ入れたんだ?ご祝儀どうする?ま、いっか。」

今からでもいいので、
きちんと報告の場を設けてみては如何でしょうか?
けじめをつけない結婚ってこういうことかもしれません。

この回答への補足

補足と言うより「先にそれを言え!」とお叱りを受けそうですが恥をしのんで諸々の背景をお話させていただきます。
補足を越えてだいぶ余分な話が多い事をお許し下さい。

私は結婚する前は、両親と住んでおりました。元々一人暮らしでしたが、実家の経済状態が芳しくない事を妹より知らされ、2005年に家計を助けるべく、借りていたマンションをひきはらって実家に戻りました。経済状態が芳しくない理由とは父の借金がほとんどで、借金があるうえにさらに脱サラして小料理屋まで開店させ、開店してしばらくは良かったものの、あとは不景気の風が当然のように押し寄せ、自分が経済的に援護射撃をしても内情はさほど変わらずじまい。実家も小料理屋も賃貸物件なのですから、それは厳しいに決まってました。
最初は店に反対していた母でしたが、そこは夫婦の絆というやつで、時には夕方から翌朝まで営業して頑張っていましたが、体に無理がたたったのか2007年に難病認定される肺の病気を発症し、その時医者に「余命は長くても6年くらい」と言われ、まるでその言葉になぞらえたかの如く、2012年の末に亡くなりました。

妹ですが海外勤務(未婚)で、ひと月のうち何日か日本に帰ってくるという感じでした。後で聞かされましたが自分が家に戻る前は妹が毎月、母に現金を渡していたようでした。

母が亡くなる半年前には、「結婚したい人がいる」と家族を集めて報告をしました。それが現在の嫁です。
母は家で酸素吸入器を付けていましたが、何とか自分で歩ける状態でしたので介護というほどの世話は必要ありませんでしたが、掃除や洗濯、買い物などは自分の役目でした。時には「役目」のために仕事中に一度帰宅して、また会社にもどるというのもしょっちゅうでしたが、そこは我が家の功労者とも言える母の為、辛いと感じたことはありませんでした。

不思議なもので、家に何らかのハンデや障害がある人がいると、家族というのは一つになるものなんだと、何度も思った事がありました。子供というのは、ある程度の歳になったら自然と家を出て、また誰かを見つけて結婚をして・・・
というのが一般的なのでしょうが、私の場合世間知らずで生意気な頃に家を出て、少しもの分かりと世間を知ってからまた家に戻ってきたことで、親の子供に対する考えなども変わっていくのだと感じました。
そのせいなのか、私の結婚の話は母にとってとてもショックだったようです。その意味はいくつかあると思いますが、一つは自分がこんな体になってしまって、息子の為に何をしようにもしてあげられない。又は単純に「息子を知らない女に持っていかれる」
今となっては分かりませんが、母が亡くなる2ヶ月前に何とか一度だけ彼女を紹介することが出来ましたが、母からは結局「おめでとう」の言葉は聞けませんでした。
彼女を紹介した時、もう母の寿命が長くないのは分かっていましたが、ただ母には生きている間に報告をしたかっただけなのです。

次に嫁のことを話します。僕が結婚を決めた理由が一にも二にも「思いやりを持てる人」だったからです。
仕事と家を往復する自分に対しても、病気の母の体調に合わせた食べ物を自分に持たせてくれたり、彼女自身も大切な友人を癌で失ったばかりで気落ちしているはずなのに、とにかく僕と僕の母親の心配をいつもしてくれたからです。

さてここからが、色々な「流れ」がかわってきてしまう部分なのですが、母が亡くなる日に僕は母の病室にいました。
父や妹も病室につめていましたが、時折交代で昏睡状態に入った母を見舞っていました。
その時、彼女が僕に差し入れのパンを届けに現れ、それからばらくして母の容体が悪化し、気がつけば僕と彼女の2人だけが見守る中で息を引き取りました。彼女もまさかそんな現場に遭遇すると思わなかったでしょう。その時彼女も数値の下がっていく心電図のメーターの横で涙を流しながら「お母さん! お母さん!」と母のベッドをさすっていました。最後の方には一瞬、場を離れていた妹があわてて戻りましたが、時すでに遅しでした。どうやらこの時から、妹にとっては自分の母親を他人に「お母さん」と呼ばれる事に抵抗があったようでそれ以降、ちょっとした感情のもつれから、妹は彼女を全く受け付けなくなりました。
葬式後に妹と話し合いを持ちましたが、「あの人(嫁)の事を考えるだけで卒倒する」と言われ、「四十九日法要の時には連れて来ないで」とまで言われたので、その時は半端なく自分も妹に対しキレてそれ以来、兄妹絶縁が続いています。誰でも好きじゃない人はいると思いますが、ここまで人を嫌いになることってあるのかと、しかもどちらかと言えばかわいがっていた妹が、自分の嫁をこれほど嫌いになるとは想像しませんでした。
出来れば普通に仲よくしてほしかったですが、それも望めそうにありません。


母が亡くなり、通夜と葬式が行われる場でタイミング的には決してよくない局面で、親戚には自分の婚約者である事を知らせました。と、ここまではよかったのですが、これは私も父も許したことなのですが焼香をする順番や、彼女を親族席にすわらせた事で、一部の長老とも言える親戚が「けしからん」という考えを彼女に対して思ったらしく、その後の四十九日法要の時も彼女が親戚にお茶を入れて出しても、ほとんどの人が知らん顔をしてたのを僕は見逃しませんでした。

後に親戚の叔母達を訪ねた時にそういう話で説教をされましたが、私自身は今でも後悔をしてませんし、親戚側の気持ちは多少わかれど、謝るべきことでもないとおもっています。ましてや、通夜と告別式を彼女に台無しにされたわけでもありませんし、母の病気が発症してからどの親戚の力を借りたわけでもありません。
それまで、対親戚に関しては力仕事が必要とあらば手伝いに行ったり、たまには甥っ子に小遣いをあげたり、各種冠婚葬祭の場にも出席し、出来る範囲での付き合いはしてきました。

嫁はまるで何人かを敵にまわしてしまってるような感じで、祝福のムードは全くなく法事などで皆が集まると、嫁と僕の妹の接触を回避すべく、変な気を回されて微妙な空気が流れ、あげく自分と嫁だけがポツリみたいな状況です。


とても長くなってしまいましたが、こちらに落ち度があったにせよ、「それはそれ」「これはこれ」という形で石けん一つ、スリッパ一足送ってくれてもバチは当たらないと思いますが、どうなのでしょうか?
誰からも何も来ないのは、本当何だか嫁に申し訳ないような気持ちになります。
これとは全く対照的に、嫁側の両親からは多いに祝福されていることが救いでしょうか。
ちなみに、まだ互いの両親の顔合わせは実現していません。
なぜなら父からもお祝いどころか「おめでとう」とも言ってもらってないし、会うたびに自身の生活の援助してほしいとの話しかしてこないので、もはや会うのも嫌です。


自分としては普段は楽しい夫婦生活が続いているし、親兄弟、親戚がらみの事は割り切って考えるようにはしているものの、時折無性にやりきれない感じがするだけです。長々と失礼しました。

補足日時:2014/05/21 17:04
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この回答へのお礼

今回、ご回答いただきました皆様へ

誠意あるご回答、誠にありがとうございました。

話すと少し長くなってしまうかもしれませんが、入籍したのに食事会等をしないのには、一応の背景がございます。

のちほど、「補足」の部分でお話させていただきます。

またそれを読まれた上で、お返事をいただけるならば幸いです。

ひとまずお礼まで。

お礼日時:2014/05/21 12:32

ハガキや電報の1枚も無いとは、寂しいですね。


もちろん親族にはハガキなりで「結婚しました」の報告はされた上の話ですよね?

親兄弟が祝いを出していないから、問うてきた親戚にも要らないと断わったのかもしれませんねぇ。お歳が44とのことで、あまり騒がないでおこうという意識もあったのかもしれません。

ところで、親族には奥さんの紹介お披露目はされたのでしょうか?
なけなしはたいてでも、親族集まる機会に食事会などしてみてもよかったですかね。


ただ、絶縁状態のままで何が好転するわけでもないと思うので、お祝い以外の気遣い事が無いならたまの連絡はしておいても良いと思います。

盆など親戚などに会う機会があれば、ほんと食事会でも誘ってみてはどうですか?
数人の外食費用なら、苦しい家計でもねん出できると思いますし、何なら実家で2人でうどんでも打って振る舞えばいい。
夏場ならザルで食えるので、かき揚げ天と薬味、それと野菜サラダくらい添えても、10人前2~3千円あれば作れますよ(^^;

この回答への補足

補足と言うより「先にそれを言え!」とお叱りを受けそうですが恥をしのんで諸々の背景をお話させていただきます。
補足を越えてだいぶ余分な話が多い事をお許し下さい。

私は結婚する前は、両親と住んでおりました。元々一人暮らしでしたが、実家の経済状態が芳しくない事を妹より知らされ、2005年に家計を助けるべく、借りていたマンションをひきはらって実家に戻りました。経済状態が芳しくない理由とは父の借金がほとんどで、借金があるうえにさらに脱サラして小料理屋まで開店させ、開店してしばらくは良かったものの、あとは不景気の風が当然のように押し寄せ、自分が経済的に援護射撃をしても内情はさほど変わらずじまい。実家も小料理屋も賃貸物件なのですから、それは厳しいに決まってました。
最初は店に反対していた母でしたが、そこは夫婦の絆というやつで、時には夕方から翌朝まで営業して頑張っていましたが、体に無理がたたったのか2007年に難病認定される肺の病気を発症し、その時医者に「余命は長くても6年くらい」と言われ、まるでその言葉になぞらえたかの如く、2012年の末に亡くなりました。

妹ですが海外勤務(未婚)で、ひと月のうち何日か日本に帰ってくるという感じでした。後で聞かされましたが自分が家に戻る前は妹が毎月、母に現金を渡していたようでした。

母が亡くなる半年前には、「結婚したい人がいる」と家族を集めて報告をしました。それが現在の嫁です。
母は家で酸素吸入器を付けていましたが、何とか自分で歩ける状態でしたので介護というほどの世話は必要ありませんでしたが、掃除や洗濯、買い物などは自分の役目でした。時には「役目」のために仕事中に一度帰宅して、また会社にもどるというのもしょっちゅうでしたが、そこは我が家の功労者とも言える母の為、辛いと感じたことはありませんでした。

不思議なもので、家に何らかのハンデや障害がある人がいると、家族というのは一つになるものなんだと、何度も思った事がありました。子供というのは、ある程度の歳になったら自然と家を出て、また誰かを見つけて結婚をして・・・
というのが一般的なのでしょうが、私の場合世間知らずで生意気な頃に家を出て、少しもの分かりと世間を知ってからまた家に戻ってきたことで、親の子供に対する考えなども変わっていくのだと感じました。
そのせいなのか、私の結婚の話は母にとってとてもショックだったようです。その意味はいくつかあると思いますが、一つは自分がこんな体になってしまって、息子の為に何をしようにもしてあげられない。又は単純に「息子を知らない女に持っていかれる」
今となっては分かりませんが、母が亡くなる2ヶ月前に何とか一度だけ彼女を紹介することが出来ましたが、母からは結局「おめでとう」の言葉は聞けませんでした。
彼女を紹介した時、もう母の寿命が長くないのは分かっていましたが、ただ母には生きている間に報告をしたかっただけなのです。

次に嫁のことを話します。僕が結婚を決めた理由が一にも二にも「思いやりを持てる人」だったからです。
仕事と家を往復する自分に対しても、病気の母の体調に合わせた食べ物を自分に持たせてくれたり、彼女自身も大切な友人を癌で失ったばかりで気落ちしているはずなのに、とにかく僕と僕の母親の心配をいつもしてくれたからです。

さてここからが、色々な「流れ」がかわってきてしまう部分なのですが、母が亡くなる日に僕は母の病室にいました。
父や妹も病室につめていましたが、時折交代で昏睡状態に入った母を見舞っていました。
その時、彼女が僕に差し入れのパンを届けに現れ、それからばらくして母の容体が悪化し、気がつけば僕と彼女の2人だけが見守る中で息を引き取りました。彼女もまさかそんな現場に遭遇すると思わなかったでしょう。その時彼女も数値の下がっていく心電図のメーターの横で涙を流しながら「お母さん! お母さん!」と母のベッドをさすっていました。最後の方には一瞬、場を離れていた妹があわてて戻りましたが、時すでに遅しでした。どうやらこの時から、妹にとっては自分の母親を他人に「お母さん」と呼ばれる事に抵抗があったようでそれ以降、ちょっとした感情のもつれから、妹は彼女を全く受け付けなくなりました。
葬式後に妹と話し合いを持ちましたが、「あの人(嫁)の事を考えるだけで卒倒する」と言われ、「四十九日法要の時には連れて来ないで」とまで言われたので、その時は半端なく自分も妹に対しキレてそれ以来、兄妹絶縁が続いています。誰でも好きじゃない人はいると思いますが、ここまで人を嫌いになることってあるのかと、しかもどちらかと言えばかわいがっていた妹が、自分の嫁をこれほど嫌いになるとは想像しませんでした。
出来れば普通に仲よくしてほしかったですが、それも望めそうにありません。


母が亡くなり、通夜と葬式が行われる場でタイミング的には決してよくない局面で、親戚には自分の婚約者である事を知らせました。と、ここまではよかったのですが、これは私も父も許したことなのですが焼香をする順番や、彼女を親族席にすわらせた事で、一部の長老とも言える親戚が「けしからん」という考えを彼女に対して思ったらしく、その後の四十九日法要の時も彼女が親戚にお茶を入れて出しても、ほとんどの人が知らん顔をしてたのを僕は見逃しませんでした。

後に親戚の叔母達を訪ねた時にそういう話で説教をされましたが、私自身は今でも後悔をしてませんし、親戚側の気持ちは多少わかれど、謝るべきことでもないとおもっています。ましてや、通夜と告別式を彼女に台無しにされたわけでもありませんし、母の病気が発症してからどの親戚の力を借りたわけでもありません。
それまで、対親戚に関しては力仕事が必要とあらば手伝いに行ったり、たまには甥っ子に小遣いをあげたり、各種冠婚葬祭の場にも出席し、出来る範囲での付き合いはしてきました。

嫁はまるで何人かを敵にまわしてしまってるような感じで、祝福のムードは全くなく法事などで皆が集まると、嫁と僕の妹の接触を回避すべく、変な気を回されて微妙な空気が流れ、あげく自分と嫁だけがポツリみたいな状況です。


とても長くなってしまいましたが、こちらに落ち度があったにせよ、「それはそれ」「これはこれ」という形で石けん一つ、スリッパ一足送ってくれてもバチは当たらないと思いますが、どうなのでしょうか?
誰からも何も来ないのは、本当何だか嫁に申し訳ないような気持ちになります。
これとは全く対照的に、嫁側の両親からは多いに祝福されていることが救いでしょうか。
ちなみに、まだ互いの両親の顔合わせは実現していません。
なぜなら父からもお祝いどころか「おめでとう」とも言ってもらってないし、会うたびに自身の生活の援助してほしいとの話しかしてこないので、もはや会うのも嫌です。


自分としては普段は楽しい夫婦生活が続いているし、親兄弟、親戚がらみの事は割り切って考えるようにはしているものの、時折無性にやりきれない感じがするだけです。長々と失礼しました。

補足日時:2014/05/21 17:04
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この回答へのお礼

今回、ご回答いただきました皆様へ

誠意あるご回答、誠にありがとうございました。

話すと少し長くなってしまうかもしれませんが、入籍したのに食事会等をしないのには、一応の背景がございます。

のちほど、「補足」の部分でお話させていただきます。

またそれを読まれた上で、お返事をいただけるならば幸いです。

ひとまずお礼まで。

お礼日時:2014/05/21 12:31

彼女と婚約した時に、家族に紹介しましたか?


親戚も同じです、会わせて紹介しましたか?

入籍の日も知らされていないし紹介もされていないなら、お祝い金と言うのは難しいと思います。
身内だけでも食事会と題しての顔合わせが必要だったと思います。

この回答への補足

補足と言うより「先にそれを言え!」とお叱りを受けそうですが恥をしのんで諸々の背景をお話させていただきます。
補足を越えてだいぶ余分な話が多い事をお許し下さい。

私は結婚する前は、両親と住んでおりました。元々一人暮らしでしたが、実家の経済状態が芳しくない事を妹より知らされ、2005年に家計を助けるべく、借りていたマンションをひきはらって実家に戻りました。経済状態が芳しくない理由とは父の借金がほとんどで、借金があるうえにさらに脱サラして小料理屋まで開店させ、開店してしばらくは良かったものの、あとは不景気の風が当然のように押し寄せ、自分が経済的に援護射撃をしても内情はさほど変わらずじまい。実家も小料理屋も賃貸物件なのですから、それは厳しいに決まってました。
最初は店に反対していた母でしたが、そこは夫婦の絆というやつで、時には夕方から翌朝まで営業して頑張っていましたが、体に無理がたたったのか2007年に難病認定される肺の病気を発症し、その時医者に「余命は長くても6年くらい」と言われ、まるでその言葉になぞらえたかの如く、2012年の末に亡くなりました。

妹ですが海外勤務(未婚)で、ひと月のうち何日か日本に帰ってくるという感じでした。後で聞かされましたが自分が家に戻る前は妹が毎月、母に現金を渡していたようでした。

母が亡くなる半年前には、「結婚したい人がいる」と家族を集めて報告をしました。それが現在の嫁です。
母は家で酸素吸入器を付けていましたが、何とか自分で歩ける状態でしたので介護というほどの世話は必要ありませんでしたが、掃除や洗濯、買い物などは自分の役目でした。時には「役目」のために仕事中に一度帰宅して、また会社にもどるというのもしょっちゅうでしたが、そこは我が家の功労者とも言える母の為、辛いと感じたことはありませんでした。

不思議なもので、家に何らかのハンデや障害がある人がいると、家族というのは一つになるものなんだと、何度も思った事がありました。子供というのは、ある程度の歳になったら自然と家を出て、また誰かを見つけて結婚をして・・・
というのが一般的なのでしょうが、私の場合世間知らずで生意気な頃に家を出て、少しもの分かりと世間を知ってからまた家に戻ってきたことで、親の子供に対する考えなども変わっていくのだと感じました。
そのせいなのか、私の結婚の話は母にとってとてもショックだったようです。その意味はいくつかあると思いますが、一つは自分がこんな体になってしまって、息子の為に何をしようにもしてあげられない。又は単純に「息子を知らない女に持っていかれる」
今となっては分かりませんが、母が亡くなる2ヶ月前に何とか一度だけ彼女を紹介することが出来ましたが、母からは結局「おめでとう」の言葉は聞けませんでした。
彼女を紹介した時、もう母の寿命が長くないのは分かっていましたが、ただ母には生きている間に報告をしたかっただけなのです。

次に嫁のことを話します。僕が結婚を決めた理由が一にも二にも「思いやりを持てる人」だったからです。
仕事と家を往復する自分に対しても、病気の母の体調に合わせた食べ物を自分に持たせてくれたり、彼女自身も大切な友人を癌で失ったばかりで気落ちしているはずなのに、とにかく僕と僕の母親の心配をいつもしてくれたからです。

さてここからが、色々な「流れ」がかわってきてしまう部分なのですが、母が亡くなる日に僕は母の病室にいました。
父や妹も病室につめていましたが、時折交代で昏睡状態に入った母を見舞っていました。
その時、彼女が僕に差し入れのパンを届けに現れ、それからばらくして母の容体が悪化し、気がつけば僕と彼女の2人だけが見守る中で息を引き取りました。彼女もまさかそんな現場に遭遇すると思わなかったでしょう。その時彼女も数値の下がっていく心電図のメーターの横で涙を流しながら「お母さん! お母さん!」と母のベッドをさすっていました。最後の方には一瞬、場を離れていた妹があわてて戻りましたが、時すでに遅しでした。どうやらこの時から、妹にとっては自分の母親を他人に「お母さん」と呼ばれる事に抵抗があったようでそれ以降、ちょっとした感情のもつれから、妹は彼女を全く受け付けなくなりました。
葬式後に妹と話し合いを持ちましたが、「あの人(嫁)の事を考えるだけで卒倒する」と言われ、「四十九日法要の時には連れて来ないで」とまで言われたので、その時は半端なく自分も妹に対しキレてそれ以来、兄妹絶縁が続いています。誰でも好きじゃない人はいると思いますが、ここまで人を嫌いになることってあるのかと、しかもどちらかと言えばかわいがっていた妹が、自分の嫁をこれほど嫌いになるとは想像しませんでした。
出来れば普通に仲よくしてほしかったですが、それも望めそうにありません。


母が亡くなり、通夜と葬式が行われる場でタイミング的には決してよくない局面で、親戚には自分の婚約者である事を知らせました。と、ここまではよかったのですが、これは私も父も許したことなのですが焼香をする順番や、彼女を親族席にすわらせた事で、一部の長老とも言える親戚が「けしからん」という考えを彼女に対して思ったらしく、その後の四十九日法要の時も彼女が親戚にお茶を入れて出しても、ほとんどの人が知らん顔をしてたのを僕は見逃しませんでした。

後に親戚の叔母達を訪ねた時にそういう話で説教をされましたが、私自身は今でも後悔をしてませんし、親戚側の気持ちは多少わかれど、謝るべきことでもないとおもっています。ましてや、通夜と告別式を彼女に台無しにされたわけでもありませんし、母の病気が発症してからどの親戚の力を借りたわけでもありません。
それまで、対親戚に関しては力仕事が必要とあらば手伝いに行ったり、たまには甥っ子に小遣いをあげたり、各種冠婚葬祭の場にも出席し、出来る範囲での付き合いはしてきました。

嫁はまるで何人かを敵にまわしてしまってるような感じで、祝福のムードは全くなく法事などで皆が集まると、嫁と僕の妹の接触を回避すべく、変な気を回されて微妙な空気が流れ、あげく自分と嫁だけがポツリみたいな状況です。


とても長くなってしまいましたが、こちらに落ち度があったにせよ、「それはそれ」「これはこれ」という形で石けん一つ、スリッパ一足送ってくれてもバチは当たらないと思いますが、どうなのでしょうか?
誰からも何も来ないのは、本当何だか嫁に申し訳ないような気持ちになります。
これとは全く対照的に、嫁側の両親からは多いに祝福されていることが救いでしょうか。
ちなみに、まだ互いの両親の顔合わせは実現していません。
なぜなら父からもお祝いどころか「おめでとう」とも言ってもらってないし、会うたびに自身の生活の援助してほしいとの話しかしてこないので、もはや会うのも嫌です。


自分としては普段は楽しい夫婦生活が続いているし、親兄弟、親戚がらみの事は割り切って考えるようにはしているものの、時折無性にやりきれない感じがするだけです。長々と失礼しました。

補足日時:2014/05/21 17:03
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この回答へのお礼

今回、ご回答いただきました皆様へ

誠意あるご回答、誠にありがとうございました。

話すと少し長くなってしまうかもしれませんが、入籍したのに食事会等をしないのには、一応の背景がございます。

のちほど、「補足」の部分でお話させていただきます。

またそれを読まれた上で、お返事をいただけるならば幸いです。

ひとまずお礼まで。

お礼日時:2014/05/21 12:30

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