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日本語は 論理表現にふさわしくないか?
( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。
( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく
(β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは
(β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。
といった要因があるのか。
( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。
それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。
ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?
( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道関連にしても仏教にしても 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?
すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?
☆ どうお考えになりますか?
上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?
No.4
- 回答日時:
日本の数学者の特異例として、岡潔を挙げることがでるが、彼は、「数学とは情緒の表現である」と言っているな。
岡潔の連作「多変数解析関数について」の第10論文の序文で、
「この序文では技術上の細部に立ち入らずに、私がこの論文を書き終えて感じていることを説明するために、遠い昔から日本民族に固有の感情である季節感に訴えたいと思う。...それらのうちのいくつかは複素空間から離れてしまった。私はこれは冬だと感じた。...そうして春の気配を感じさせてくれる研究を行いたいと思った。この論文は一番はじめに摘まれた果実である。」
と書いているそうだ。
まあ、私のような凡人にはわからんけどな。
興味を持たれたら、最近発刊された「紀見峠を超えて」(高瀬正仁)を読んでみるとよい。
とほほ2さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。
そうですか。
★ 日本の数学者の特異例として、岡潔を挙げることがでるが、彼は、「数学とは情緒の表現である」と言っているな。
☆ まづ《特異例》だとおっしゃっているところにやや気が行ってしまいますが それは措いてまづは 日本語という言語における論理表現にとってひとつの問題があるかも知れないのですね。
ここに引用なさった《序文》は
★ 「数学とは情緒の表現である」
☆ と言おうとしている。ということでしょうか?
ただし わたしが考えるに:
▲(岡潔) 日本民族に固有の感情である季節感に訴えたい
☆ という内容を 日本語で論理的に表現している。ということではないのでしょうか? と単純に思ってしまいますが。
★ 高瀬正仁
☆ さんをわたしは知らないので いま少し議論が未消化になっているかとは思います。
もし仮りにですね 仮りに日本語は論理表現に向いていないのだとした場合 そうだとしても とほほ2さんは そのことをきちんと論理的に表現しようとされている。のではないでしょうか?
つまり まだ説得されません。と思います。
No.3
- 回答日時:
英語の習い始めのころに不思議に思ったことがありました。
主語の後に直ぐにYESとNOを言うことでした。以来、英語はいさぎよい言語で、日本語はずるい言語だと思い続けています。大事なことを言葉の最後に言うことです。女性によく見られる現象で、NOと言うのかなあと聞いていると相手の顔色を見て最後にYESと言うのです。その女性とは私の妻です。
日本語は論理的な言葉では『ないと思います』と『ないとは思いません』と『ありますが、そうとは思いません』。最後の言葉でなんとでも言えるからです。
相手との摩擦を避けようとする民族的な智恵なのかもしれません。
titelist1 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
これはですね。おっしゃっていることは
★ 相手との摩擦を避けようとする民族的な智恵なのかもしれません。
☆ というように 何をどう相手との和を保ちながらうまく伝えるかをめぐっての問題であって その表現じたいが 論理的であるかどうかとは別のことではないでしょうか?
きつい調子にならないようにどちらとも受け取れるようなあいまいな言い方にしたり・あるいはすでに じつは心は決まっているしはっきり言おうとしているのだけれど やはりどう話を持ちかけて行けばよいかで 考えあぐねていたりというような問題ではないのでしょうか?
言いかえると 相手との信頼関係があれば・そして特に相手との気持ちの上での気遣いが必要でないのであれば すでに意味が間違いなくつたわるようにと論理的に表現するはずではないでしょうか。
すなわち
★ 日本語は論理的な言葉では『ないと思います』と『ないとは思いません』と『ありますが、そうとは思いません』。最後の言葉でなんとでも言えるからです。
☆ というふうに 結論を遠回しに言おうとするというのであって・また一回で伝えることが出来なくてもよいとさえ思って先延ばしにすることさえあるというだけなのであって 表現が 論理に反するということとは別だと考えられます。
表現じたいをもあいまいにする・もしくは あいまいなかたちでしか表現できないというのは 日本語という言語の問題ではなく それを話したり書いたりする人じしんの問題なのではないでしょうか?
ただいまのところ 回答No.1のような見解が 妥当であると質問者は思っているのですが 果たしてどうでしょうか?
★ 大事なことを言葉の最後に言う・・・。
☆ これだって きちんとした論理表現だと思います。よ。言語として 何の問題もないのではないでしょうか?
No.2
- 回答日時:
論理表現の極めつけは、数学の証明だろうけど、西洋で数学が発展し、日本ではそれほど発展しなかったのは、言語の表現形式が関係しているの
ではなかろうか? こんにちは とほほ2さん。ご回答をありがとうございます。
そうですか? つまり 日本の数学は 未熟でしたか?
情感を表わすのに秀でていたことが 論理的な思考をすすめるのにわざわいするようなことはないと思うのですが?
どうなんでしょう。
★ 論理表現の極めつけは、数学の証明だろうけど
☆ というその同じ内容を 日本語でもわれわれ日本人が じゅうぶんこなして行けると思っています。
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No.1
- 回答日時:
こんにちは。
「英語に比べ、日本語は曖昧だ」と阿呆なことをいう人、結構、多いですよね。
そして、こんなことを書いた本が結構売れたりする(笑い)。
曖昧さ加減じゃ~、英語と日本語はドッコイどっこいですよ。
I saw a cat in a park.
さて、この英文、
わたしは何処にいて、何処にいるネコを見たのか?
公園にいるネコを見たのか、―――この時、わたしが公園にいるのか、いないのか、がわからない―――
公園にいる、わたしがネコを見たのか、―――わたしは公園にいるけれど、ネコは公園の外にいるかも知れない!!―――
これだけの情報では判断つかない。
「in a park」が動詞を形容する副詞句か、名詞(a cat)を修飾する形容詞句か、
文法的には判断できないんですよ。
日本語だと、
「公園でネコを見た」と「公園にいるネコを見た」で明確に区別できる。
このケースにおいては、日本語の方に軍配が上がる。
英語には、名詞句と副詞句の区別がつかない、という、構文上の致命的な欠陥がある。
そして、
これは、前後の文脈から、名詞句と副詞句の判別をするしかない。
日本語において主語が欠落するのは、
状況や文脈で主語が分かるからでしょう。
文脈や状況から主語の欠落が許されているにすぎない。
また、
英語も、日本語も、文脈や状況がなければ、文章は曖昧になるんです。
こうしたことを抜きにして、
会話などの断片を取り出し、
日本語と英語、どちらが論理的か、曖昧さが少ないか、
という問い自体がナンセンスなんですよ。
大体ですね~、
「日本語は曖昧である、日本語は論理的でない」なんて寝ぼけたことをいう人は、
(β-1) 論理的に述べない主体の問題である。
なんですよ。
その人自身が論理的で正確な表現をしようとしていないだけです。
日本語に致命的な欠陥があるのではなく、
その話し手や書き手に、論理的で正確な表現をしようという意識が欠落しているからにすぎない。
「日本語には、あたかも構造上の欠陥があり、そのために、論理性や正確性が失われる」
なんて、妙な言いがかりをつけて欲しくないです。
~~~~~~~
( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。
それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。
~~~~~~~
です。
論理連絡は失われていない。
ただ、日本語と英語では、その表現の形式、表現法が異なっているだけです。
~~~~~~~
すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?
~~~~~~~
固定化はしていない。
ただ、かつては、歴史的・文化的に均質なため、日本人同士では細かいことを言ったり書かなかったりしても、正確に意志の疎通は行うことができた。
しかし、
現代日本においては、個人個人が多様な価値観や背景を有し、共通の土壌がかつてほどなくなっているので、
このような甘えは許されない。
どのような社会背景を有する人であっても、正確に伝えるように努力をしなければならない、
のではないですかね。
まして、
外国人を相手にするとき、なおさらのことです。
日本の文語文で書かれた古典文学の話を少し。
平安時代の女流作家の書いた文学作品が分かりにくいのは、
現代と社会状況やライフスタイルが異なることもその一因ですが、
最大の理由は、現代日本人には和歌などの教養が欠落していることがその最大の理由だと思います。
こうした教養の存在を前提にしているにもかかわらず、わたしたち現代人には、これがないから、何を書いてあるかが分からない。
専門書を、ずぶの素人が読んでも、理解できないのと同じなのだと思います。
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
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すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?
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固定化はしていない。
ただ、かつては、歴史的・文化的に均質なため、日本人同士では細かいことを言ったり書かなかったりしても、正確に意志の疎通は行うことができた。
しかし、
現代日本においては、個人個人が多様な価値観や背景を有し、共通の土壌がかつてほどなくなっているので、
このような甘えは許されない。
どのような社会背景を有する人であっても、正確に伝えるように努力をしなければならない、
のではないですかね。
まして、
外国人を相手にするとき、なおさらのことです。
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☆ このあたりですかね。あらましとまとめとは。
《固定化》はしていない。まして《定め》などではない。かつては 省略にしたがっても 意志疎通に困らないほどナラハシが共通であり――ということは 交通の範囲が広くなかったとも言える―― その《歴史的・文化的に均質な》生活日常があった。
現在とこれからは 省略せずにきちんと語句を表現して行けばよい。
次の回答No.2では 日本で数学があまり発達しなかったとの見解が挙がっていますが これは 誤解ですよね? ひとこと精確な内容をしめしてやっていただけませんか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
最大の理由は、現代日本人には和歌などの教養が欠落していることがその最大の理由だと思います。
こうした教養の存在を前提にしているにもかかわらず、わたしたち現代人には、これがないから、何を書いてあるかが分からない。
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☆ 俳諧・俳句にまでなると かえって判じ物であったりする場合もあるかと思うのですが(そしてそれは そのときその場の瞬間的な感覚を映した情景である場合が多い) 和歌は なじみを深めて行くのは よいでしょうね。
《情感の共同性》といったことを思います。これは おそらく決して上から和を要請するようなクウキ一般としての或る種の秩序観かつ秩序感覚ではなく そうではなく 一階に生きる人びとの生活社会における――特に自然とのあいだに交わされるような情感としての――土壌を成していることがあったのではないか。
いまでも あることをのぞみますが。
あちらでは 意識の流れ――その破綻と総合――のようなフンイキなのではないか? その意識は しょっちゅうぶつかり合っているかに見えます。
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