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キリスト教(特にプロテスタント)において神の愛からの二次的反射的な愛としての隣人愛の実践である労働に義務的ニュアンスはあるけれども、仁の実践である徳行に義務的ニュアンスはない。
仁とは限られた時間だけ居ることができる精神的空間を意味するからである。
仁という精神的空間には顔回で3ヶ月、孔子で1ヶ月しか連続して居ることができない。並の君子なら一日がやっとだろう。
寧ろ、論語の世界において労働倫理は君臣の関係、父子の関係を表す「義」から導かれる。
しかし、孔子は三年学問をしておきながら仕官しない弟子を得がたいというにとどまり、弟子に君臣の関係を結ぶことを強要してはいない。

A 回答 (6件)

論語というのが儒教のことだとして。



>比較検討に関する以下の文章に問題点があれば指摘してください
何を比較しているのかがわからない点かな。
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この回答へのお礼

御回答有難うございました。

お礼日時:2007/12/29 07:34

自論に自論を積み重ねた自論に自論を積み重ねた自論に自論を積み重ねている点ですかね。

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句読点が不適切。


「二次的反射的」と言葉を重ねているところ。
比較検討とあるが、最初の一行目が比較ぽい記述であるが、その後は比較するそれぞれについての検討するべき部分が明確になっていない。
2行目からは比較検討をは関係しない仁についての文章を積み重ねているだけど、質問の題名とはかけ離れている。

って感じでしょうか?
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ごめんなさい。

文章が変でした(^^;

>2行目からは比較検討をは関係しない仁についての文章を積み重ねているだけど、質問の題名とはかけ離れている。

2行目からは、比較検討には関係しない仁についての文章を積み重ねているだけで、質問の題名にある趣旨とはかけ離れていると思う。

です。失礼しました。
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最初の一文が結論なのだと解釈ならば、


合っていると言えば合っているのでは。

君子(少数)の仁愛と、万人(多数)の隣人愛は、
そもそも性質が違うのではないかと思いますから、
下記の結論を導く文章は不要だと思います。

君子の仁は少数の賢者が持つ知恵(精神空間でも何でもいいですけど)であって、万人が隣人を愛さなければならないといったような庶民向けの知恵ではありません。義や仁の概念については自信がありませんが、、、孔子が義務的に徳行を行わせた君子がはたして君子たりえるのでしょうか。義務的な義と仁でないことは、はたから前提なのだと思いますが。
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仁は義務ではなく、理想とする精神の形だから、第一行目はあながち間違いとはいえない。



二行目と三行目は不明。仁は限られた時間だけしかいられないものではないし、孔子が一ヶ月しか仁を実践できないという話ははじめて聞いた。

四行目は、君臣の関係が「義」としているのがそもそもおかしい。普通は礼と忠でしょう。親の場合は孝。義は対等の場合に使われるのが普通。おそらく、君子と君が混ざっている(混乱している)ものと思われます。

五行目は、意味合いが全く逆で、弟子がすぐに就職してしまい、学問をしないことを嘆いている文章です。このあと、実践によって得られるものもあるのでは、と弟子に言われて、これだからあの口達者は、という意味の言葉を残しています。
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