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前トピでは「ベストアンサー」として選択できる方がいなかったため、
もう一度、同じ話題でしていきましょう。

前トピURL:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8716983.html

常識とは何でしょうか?
日本人はしばしば常識にとらわれすぎてワンパになりがちです。
常識には、一般常識、社会常識とあります。

常識の常とは常にあるべきもの。
常識の識とは知識の意味もありますが、
用いられ方から、識別という意味が適切でしょうか。

さて、この常識とは結局は主観的なものです。
ところが、この主観的なものを客観的なものと、
とらえることが、そもそもの誤りではないだうか?

「常識はずれよねー」
という言葉は、日本の迎合的な習慣を
利用した攻撃の一種である。
これが日本の歴史に深く横たわる偏見
文化そのものではなかろうか?

心理学的な観点から「常識」のあなたの意見をお寄せ下さい。


Wikipediaでの常識の回答
常識:社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。

非常識:社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは文化摩擦などとして表面化することもある。

A 回答 (6件)

おじさんです。


いい質問ですね。
真面目に質問されているので、私も真面目に回答します。
確かに常識という言葉はよく使われますね。
これは他の回答者の方々も書かれているように「多くの人が思っていること」なのでしょうね。
ただし、社会の個々人をみるとちょっと違いますね。
「それは常識だろう」という人がよくいますが、間違っていることが多いです。
その人個人だけが常識と思っているだけということがあります。
つまり、社会全般に視野が広い人の常識はいいのですが、唯我独尊の自分勝手な人が考えている常識は駄目ということでしょう。
mugen93sさんのご質問の意図はそこにあるようにも感じます。
例を挙げます。
「なべ奉行」という言葉がありますね。
私もこれをたびたび経験しました。
職場の数人でなべ料理を食べにいくと、出てくる食材をなべに入れる順番で意見の相違が起こります。
何故、意見の相違が起こるのかですが、理由は簡単です。
それぞれの人間が自分の家のやり方、母親のやり方を常識だと考えているのです。
30代、40代、50代など大の大人が自分の主張を常識だと頑張ります。
そんなことは各家庭、それぞれのお母さんによってやり方は様々なのは当然ですね。
そんなことも分からない大人たちが多いのです。
このような大人たちは職場や社会のいたるところで「自己の常識」を振り回すことでしょう。
困ったことですね。
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この回答へのお礼

かなり鋭いですね。
これに社会権力が入り交じるとどうなるか?
あるいは別の何かが入ると・・・。

また、次トピックを立てるかは分かりませんが
家庭と職場という異なる世界での共通感覚を常識と用いている事。
それと「鍋奉行」という例題もなかなか分かりやすかったです。
自分の行動こそ正しいと考える人間の偏見性をよく説明してます。

ひとまず、ベストアンサーとさせてもらいます。
ただ他の方々も素晴らしい回答の数々で、
私自身も気づく点が多かったです。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/16 20:07

常識は偏見です。

時代と場所で変わる。
ある時代ある地域における多数派の共通認識ということです。

1+1=2は常識です。

この回答への補足

恋人同士、親子関係。

人は子供時代は、少なからず「3人以上の世界」にいます。
そして恋人になり、「2人だけの世界」。
それから自分が親となり、再び「3人以上の世界」となります。

この世界がどういう世界かも重要と言えるのではないでしょうか?
意外にこういう狭い世界が、常識つまり偏見を作っているわけですから。

また、仕事や学校などの「3人以上の世界」は社会と呼ばれます。
日本人は制服を着ることで「まるで私達は同じ考え」という心理を教育します。

参考トピックURL: http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8713463.html

しかし、子は各々で違う家庭という「3人以上の世界」にいます。
家庭での出来事が、学校や仕事の「3人以上の世界」に反映する。

これを常識というキーワードで当てはめると
時代や地域というマクロ的なキーワードよりも、
家庭や恋人、配偶者というミクロ的なキーワード
との相互関係が際立つと思わないでしょうか?

では人間関係とは、マクロを基準にしたミクロなのか?
それともミクロを基準としたマクロなのか?
各々の人によって心理学の幹は違うものとなりますが・・・

貴方の意見は、もう少しでなかなかまとめるのが難しい部分を
集約していると思います。

補足日時:2014/08/16 19:57
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この回答へのお礼

男と女が子を作れば、1+1=3以上なのでは?

お礼日時:2014/08/16 19:41

私は「常識」とは、多くの人(それぞれ個性も考え方も違います)が、


争うことなく安心して生活するために設けられた規則のようなものだと考えています。

例えば「殺人は悪」という常識(法律)がありますが、そういう規定がない社会では安心して暮らせません。
(戦争中はこの常識が適用されないため、人々は不安な日々を過ごすことになります)。

・飲食店にペットを連れて行かない(公衆衛生のため)
・公道にゴミを捨てない(公衆衛生のため)
・図書館では静かにする(勉強している人の邪魔をしないため)
・結婚式に白い服で参加しない(花嫁を引き立てるため)
・学校に休まず通い、遅刻しない(集団行動に慣れて、社会に適応できるようにするため)
・夜中に大音響を鳴らさない(人々の安眠を確保するため)

などなど、常識は数多く存在します。
要するに、他人に配慮し、自分の生活も侵害されないよう、汎用性のある規則として定められた規定が
「常識」と私は解釈しています。

「常識」はある程度は柔軟性を持っており「病気で学校を休む」ことが許されますし、
感染症に罹っていれば「学校に行かない(感染者を増やさないため)」のが常識です。
「夜中は静かにする」が常識でも、病人があれば「大音響の救急車」は非常識ではありません。

憲法や行政法・商法などで、規定はされていないけれど(殺人罪などの規定はありますが)
周りの人とうまくやって行きたいなら守った方がいいよ~というのが「常識」ではないでしょうか。

よって、私は「常識こそ最大の偏見」とは思いません。
「常識に縛られ過ぎると、偏見が生まれる可能性がある」とは思います。
→「男女とも適齢期に結婚するべきであり、そうしない人は異端者だ」みたいな。
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この回答へのお礼

>例えば「殺人は悪」という常識(法律)がありますが、
>そういう規定がない社会では安心して暮らせません。
なるほど、あなたは安心して暮らしたいのですね。

>・飲食店にペットを連れて行かない(公衆衛生のため)
>・公道にゴミを捨てない(公衆衛生のため)
>・図書館では静かにする(勉強している人の邪魔をしないため)
>・結婚式に白い服で参加しない(花嫁を引き立てるため)
>・学校に休まず通い、遅刻しない(集団行動に慣れて、社会に適応できるようにするため)
>・夜中に大音響を鳴らさない(人々の安眠を確保するため)
なるほど、「誰かのため」というわけですね。
私には「自分が大衆の面前で恥をかかないため」にも思えますが・・・。

>よって、私は「常識こそ最大の偏見」とは思いません。
>「常識に縛られ過ぎると、偏見が生まれる可能性がある」とは思います。
はい、ご自分の意見を述べてもらい。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/16 18:48

ベストアンサーをエサにしているのなら、まず「自分はこう思う」ってのを提示してくれりゃ、誰かが書くんじゃないか?

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この回答へのお礼

私の考え方は前トピの返信の中で少しずつ見せてます。
ご参照いただければ幸いですが、
それで回答者の意見が曲げられるのもおかしな話です。

なるほど、あなたはベストアンサーに選ばれたいのですね。

お礼日時:2014/08/16 18:50

私の論旨を説明する前に長い前置きを起きます。




こうした質問以外にも日常生活や社会生活の中で多くの悩みや相談が本サイトに

寄せられています。

その中で思うことは、感覚の違いです。


言葉を使う人は沢山いますが、果たして同じ感覚で使用しているかには疑いがあります。

これらは開いて検証することが出来ません。


ここで千差万別と言ってしまえば、そもそも相談をすること自体が無駄でしょう。

何がしかの共通項を見出し、ここから大別する必要があります。


私が最近良く使用している大別方法は、

「相手の人物が、

 損得という感覚で捉えているのか、善悪という感覚で捉えているかです」

善悪と言うのは、

損得の二次的な代替であるのに、使用している人の多くは気がついていません。

善を尊べば、誰かが得をさせてくれる。

悪を為せば、誰かが損をさせる。

この誰かとは、大人になれば神の様な不定形の存在に置き換わりますが、

どうも親や大人達として捉えているのだと思います。


多くの大人が悩むのは、

「善を成したのに、損をした、この怒りの責任の所在がわからない」

と言うことに要約されるようです。

答えとしては、

「善を成したら得をすると子供時代に大人から教わっただけであり、
 自らがが大人になった後は、
 その教えは子供向けに行うほうが良く、
 自分に対しては活用してはいけない」

と言うことです。

わたしは後輩部下に対して、

「間抜けな大人は、子供や弱者を守れない」

として諭したことがあります。

その中で自分の経験も思い出し、当てはまることを導いてみました。

善悪の教えから抜け出せない人の特徴がわかりました。

この人は、常に自分が相対している局面とは向き合えず、

「何をしたら、善ポイントがたまり、
 これを見ている誰かが御褒美くれるだろうか?」

と言う思考があるそうです。

確かに思い出せば思い当たります。

体調の悪いとき、心が傷ついているとき、

何らかのストレスが高いときは、わたしも同じ思考になっています。

子供時代に培ってしまった、悲しい習性のようです。

そういった(自分を見ててご褒美をくれる超越的な存在)

非論理的なものは実在しないと思いますが、

これに自分で気がついて、自分を戒め、自分の損得は自分で保障する必要があると

覚悟を決める人は少ないように思えます。


ちょっとしたことで論争になるのは、

「善ポイントを沢山ためたのに、御褒美がぜんぜん来ない。

 まってもまっても、こないよ。チキショー」

という心理が原因でしょう。

身近にいる大人っぽい人に苦情を申し立てているのだと思うのです。

我慢の限界に来ている人は、

心の中でどんなに善ポイントをためても、

その口座から払い出すことが出来ないと言うことがわかっておりません。


親や大人からしか得を得られず、親や大人達から罰と言う損を与えられてきた、

そうした子供時代での生き残り感覚を脱することが大事なのですが、

本当に出来ている人は稀だと思います。


さて、ここで質問への回答に戻ります。

結論としてですが、言葉本来の意味で語っていない人も多くいるため、

この人達に傷つけられたとしても、

言葉本来の意味で説得しても通じないのではないでしょうか?

また、そうした人は一生言葉本来意味で活用することはないと思います。


言葉には付随したイメージで、損得が隠れています。


「常識」には得。

「非常識」には損。

「偏見」には損。

です。

こうやって、文章の中の端々に、得イメージ、損イメージが混ざり、

解読してみると、

「自分は善側にいるので、得する。お前らは悪側いるので罰せられる」

という論旨の文章が結構あります。


また、

「自分は善側にいるので得するはずですが、悪側の人が罰せられず、

 自分のほうが損をしています。誰か何とかしてください」

と言う論旨の文章がかなりあります。


善悪ではなく、損得で語っている人は、

「ある前提の元に工夫をしたが、期待の効果になっていないように感じる。

 どこが間違っていますか?」

と言う論旨の文章になっています。


ですので、言葉を使う人は千差万別なのではなく、

「善悪により未知の誰かに幸せにしてもらい、
 自分に敵対する人を悪として罰してほしい人」

と、

「損得を自分で為そうとしているが、経験や知識足りなくて困っている、
 もしくは上手くいって満足し、これらを伝えようとしている人」

の二種類です。

世界観が二種類ですので、言葉の使い方、文章の使い方も二種類です。

善悪の人は、仕組みや論理ではなく、

「何をすると神に愛されるのか?」

のみを追求しており、この種の人同士で情報を交換しているのです。

しかし、

「迷信」、「宗教」と言う言葉には(人によりますが)損と言うイメージがあります。

ですのでこれを避けます。

子供時代に大人達が尊んでいたものに近い印象の言葉に摩り替えて使用します。

言葉全てには、経験則や論理から導かれた仕組みが隠されていますから、

本来はこれを読み解いて、自分が相対する局面に活用できるか検討すべきです。

ところが、

限界が来たときは、大人か誰かに助けてもらう。

と言う発想から抜け出ていない人は、

本来の救いである、

「仕組みの活用」「効率の追求」と言う成功体験がありません。

常に内在する、

「こんなの嫌だ助けてほしい」

と言う感覚が付随しており、このなかでベソをき、表面では見栄を張るのです。


仕組みを活用して効率を追及できない人は、

仕組みを活用して効率を追及する人に分け前をもらう方法しか、

生き残る術を知りません。

そのため、人に気に入られることが大事に成ります。

同種の人は、これが当たり前であり、(嫌だけど)仕方ないことなのです。


逆に仕組みを活用して効率を追及する人は、

分け前を支払って利益が減るのを嫌がりますから、

お客さんに好かれることだけを考えて、

分け前目当ての人に好かれることを良しとしません。


直感的にこれがわかるようで、

善悪好きの人は、善悪の論法によって、損得で効率を上げる人を脅し、

分け与えるように説得したり、同種の人で取り囲んで罰しようとするのです。


子供時代の習性から抜け出せていない人は、

「親や大人の代わりとなる人をずっと捜しています」

どこかにいる様な気がして、この錯覚から抜け出せず、諦め切れていません。


本心では、

「独力で生きていくのが心細い」

だけなのですが、

これに悩むと、

「誰か助けて」

とループしてしまうんですね。つまり断ち切るのが難しい。


そこで発想することも、

「どういう言い方にすると、神に愛されそうか?」

というアイデアになってしまいます。


この人たちは、世で流行っている言葉に対しても、

「これは神に愛されそうな言葉として、使えそう」

という観点しかありません。


この一点の目的しかない人が、多数の言葉を操っているだけです。

これに対して、まともに惑うのは無益じゃないでしょうか。


例えば、常識という言葉を正しく使いたいのは何故なのでしょう?

正しく使うことがどうして大事なのでしょう?


このとき、

「仕組みが上手く動かないと、一定の損をする」

としている人もいれば、

「正しくないと神に愛されないため、将来ご褒美がもらえないため」

としているひともいるのです。


Wikipediaの回答を読むと、

「常識」という観念を仕組みとして活用し、損得について言及していますよね?

しかしこれを書いた人も日本人なんですよね?


ということは、特に日本には迎合文化があるわけではありません。

先進国全体が少子化傾向にあり、子供を甘やかしすぎて社会問題になっています。

「常識はずれよねー」という趣旨は、

「神に愛されない人として、いずれご褒美が貰えそうになったら、
 分け前をあげないで良い人よね?
 そのときは皆で取り上げようよね?」

という意味ですよ。

そんなシーンは一生来ませんが、

間違ってご褒美シーンがあれば、集団で囲んで奪い取ろうとするでしょう。



色んな不可思議な愚考を見て、怒りを感じ、

質問者さんのように仮説を立てて、

解明しようとして質問をする人がいます。


しかし私はこの人たちにいいたい。

ゾロアスター教がいまだに根強く普及しており、

先にゾロアスター教の信者であるか確認していますか?


これは冗談ですが、

古来から古今東西、

子供が大人になるときに、

仕組みの活用と効率の追求による成功体験をしてないと、

ゾロアスター教を信望して自分を支える人生になるのだと思います。


これは時代が変わっても人の仕組みとして不変のようです。

真なる人とは、少ない確率で、さきほどの成功体験をした人です。

仏教でも言われておりますが、

まことの智慧こそが、本当の救いでしょう。


これら二派の溝は深く、

独力のほうが有利と感じる人と、集団で奪うほうが有利と感じ人に、

生存戦略方針が分かれます。


不可思議な人の振る舞いを見たとき、

なるべくは事情を調べ、

ゾロアスター教テンプレートを用いて、解釈することをお勧めします。


その上で、

「君子危うきに近寄らず」

です。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

「感覚」の違い・・・そうですね。感覚の違いは大切ですね。

宗教めいた部分もあるので、回答者の主旨としてはある宗教内では物事を
二次元的に善悪を判断していると言いたいのでしょうか?

人間の個々の考え方であり、私にはどうすることもできないので
ゾロアスター教については、何も答えようがありません。

余談ですが、人には欲求があります。
この欲求は生物存続には欠かせないものです。

奪うことを「悪」、守ることを「善」とした場合。
その欲求は生物闘争を続けた挙げ句。
この行動自体に「悪」というキーワードを
当てはめたのが人類が初めてでしょう。

回答者が私に言いたいのは、このトピック自体が危険である。
複雑なものを認めないとした組織がいるから気をつけろということでしょうか?
回答者は、人の考えや思想に干渉されています。

人間が最初に愛されようとするのは、神であると仮説。
私は、人が最初に愛されようするのは親であると解いています。

親の常識が子の常識となり、子は成長するに従い、様々な常識の干渉を受ける。
その結果、人の常識は変化していく。

愛されたい人は愛する人を持っていますが、
能動的に生きる事で初めて自分の課題と向き合える。
それは愛されたいという渇望ではなく、
嫌われても良いという勇気であると私は信じています。

長文を書いていますが、あなたの主張が見えにくいです。
あなたは、ただただ渇望しているだけなのでは?

お礼日時:2014/08/16 19:25

常識、のイメージですが、社会における多数派、主流派の考え方や、


価値観を表すもの、のように感じます。

ただ、ここで厄介なのは、常識という言葉には、正しい、や、善といった
ものがセットになっている点だと考えます。

>「常識はずれよねー」

これは、単に多数派、少数派という意味合いに使われているのではなく、
常識=正しい、常識外れ=正しくない という意味合いで
用いられていると感じます。

しかし、多数派が正しいとは限りませんし、
正しいとか、正しくないとかで、判別できるようなことなど、
ほとんどないのではないか?とさえ思います。

しかし、日本人は、何が正しいとか、何が正しくない、とか、決めるのが
好きなんですよね。

この部分を大いに反映している言葉が、常識、だと思います。


この辺りの事がごちゃまぜになっているから、なんかおかしいんじゃないかと
思います。

少数派やマイノリティーが、常識じゃないと言われるのはわかります。
しかし、そこに、暗に、間違いである、というような意味合いが乗っかってくる
からおかしくなる。

常識、非常識というのは、あくまでも、主流か非主流かということでしか
ないと思います。

正しいとか、間違ってるとかいうのは、また別の次元での話だと思います。


なのに、常識は正しくて、非常識は間違っている、という認識のもとに
社会があるから、日本は個性を認めようとしないし、それが偏見に
つながるのではないでしょうか??
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この回答へのお礼

正しいかどうかは自分の中で変化していくのでしょう。
少し、ミクロレベルでも考えてみましょうか。

例えば「告白するかどうか」を悩む人がいます。
その人に、助言者Aは「組織に迷惑がかかる」で悩む人は断念します。
しかし、悩みを捨てきれない人は、助言者Bにも相談。
助言者Bは「後悔する」というアドバイスを送ります。

そうすることで告白に挑戦するか否かの人は、
好きな人を考えず、頭の中で助言者同士が口論する事になります。

「正しい」「間違っている」は結果論であり、
告白に挑戦するかどうかは原因論か、目的論かになります。
日本は個性を認めない国民性は教育による成果でしょう。

ですが、完全に認めていないわけではないと思います。
例えば1人と、多人数とで行動や意見を変える人がいます。
色々な人に相談することで何かを得ているわけではなく。
自分がどうしたいんだと言うことでしょう。

「私は告白したい」から「私は告白する、どんな結果も受け入れる」と責任を自分にした時。
初めて能動的に人生は動くのではないでしょうか。

お礼日時:2014/08/16 19:39

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