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常識を知った上で常識を疑うのと、常識も常に疑うのとではどっちが生きづらいですか?

常識というのは、ある意味で「固定観念」とも言えますし、
場所、国、ときによってはその「常識」は「非常識」にさえなります。

科学者にとって、常識を疑うのは科学の進歩において大事なことだと思いますが、
一般人が常に常識を疑うと生きづらくなるのでしょうか?

例えば既存の法律、既存の法則、科学的に解明されてない分野とかどういう塩梅で判断しますか?

A 回答 (4件)

常識に従うと生きずらい。

そういう場合にその常識を疑うのでしょう。
つまり、常識を疑うという行為は、生きやすさを求めるからこその行動と云うことになる。

例えば、夫婦同姓という法律に生きづらさを感じるからこそ、夫婦別姓を求めて裁判に訴えたり、政治家に法改正を訴えるのは、自分にとっての生きやすさを求めている行動と云えます。

自然科学の場合は、常識を疑うところから新しい発見・知見が生じるわけですから、異論各論が噴出する社会科学の世界に置いてはなおのこと常識を疑うことは重要でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/10 19:40

日本と海外とで暮らしているので、場所によって常識やルールは違いますが、全く生きづらくないですね。


かえって常識に縛られずに自由に生きています。
自分の軸があれば、常識に翻弄されることはありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/10 19:40

?> どっちが生きづらいですか?



社会生活をする上で、「喪服は黒とかも、喪服でもピンク系の派手派手で良いじゃない?とか」では、不都合が多いでしょう。
まして、「喪服」の常識さえもっていないとかでは、「常識外れ」で、本人だけでなく、周りも迷惑します。

> 常識を疑う

なにを表現しているのでしょうか。 
https://yab.yomiuri.co.jp/adv/sophia/education/e …

「家族」について私たちが当たり前と思っている「常識」が問い直されることになります。

独居者、あるいは寄宿舎やホテル生活者、マンションの一棟に住む人々を、「家族」と呼んでもいいのはと問い直しても、無意味であるだけでなく、コミュニケーションを阻害します。
「マスメディアの見方などからも一歩距離を置く」ことそのものに意義があるように考えるのであれば、間違いです。 

「社会の根本にあるものは何かを考えたい」という目標があってのですが、その検討の過程あるいは方法として、「家族」「世代」などを手がかりにする場合に、「家族」「世代」を操作的概念として考えることはあるでしょう。 そういう操作的手法の利用の方法を、「常識を疑う」という表現法で表しているだけです。 言葉の「常識を疑う」から出発したり、そもそも常識外れ・常識のない行動と同様と思うのは、間違いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2023/05/10 19:40

常識も常に疑う・・には常識を知らないと無理。

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この回答へのお礼

例えば喪服は「黒」とかもピンク系の派手派手で良いじゃない?とか(;^_^A

お礼日時:2023/05/07 19:26

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