痔になりやすい生活習慣とは?

ニーチェの思想を理解している人に質問です

貴族道徳とは、
良いことは良い、悪いことは悪い、快は良い、強いは良いという風に捻りのない価値観で

奴隷道徳とは、
弱者の自己正当化のための詭弁で
良いことは悪い、悪いことは良い、快は悪い、強いは弱いという風に自分を正当化するために価値観を自分の都合良く変えたもの

超人とは
神のように自分で道徳や価値観を自分自身で創造するもの

大体この理解であってますでしょうか?

ここからが本題です。
自分は貴族道徳で生きていきたいのですが、周りの奴隷道徳を他人にも押し付けて自分を正当化したい弱者の詭弁に騙されてしまうことがあります。
物事によっては良し悪しが簡単にはわからないことがありますが、どうすれば貴族道徳と奴隷道徳を見分けることができるでしょうか?
貴族道徳と奴隷道徳を見分けるコツはありますか?

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A 回答 (8件)

道徳は、従うものではないと思います。


自身の中に持ち得るもの。

価値観と言うのでしたら、自身の価値観を見直し
自身の中に構築するものと言えましょう。

自身の持つものが奴隷道徳の範疇に入るものがあれば
貴族道徳に替えてたいなら替えれば、そうなるでしょう。

行き着くとことまで進んで行けば、超人となる。

自身で持てば、見分けるのはそれほど難しくはないでしょう。
それらしいものに従うなら、いつまでも見分けは難しいでしょう。

そう生きたいと信念があれば、時間をかけてでも手に入れればいいと思います。
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この回答へのお礼

kanto-iさん、回答ありがとうございます

自分の持っているものが奴隷道徳なのか貴族道徳なのか正直よくわからないのです。

価値観を持つのは一朝一夕でできあがりませんよね。
全てのことにおいて明確な価値観を持っているわけではないので、まだ価値観ができていない価値観の空白地帯みたいなところに奴隷道徳の詭弁に騙されてしまい、後で気づいて捨てるみたいなことになってしまっているので。最初から判別して奴隷道徳を受け入れないようにしたいと思いまして。

回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/10/05 02:37

No.5です。


お礼、ありがとうございます。


>自分の持っているものが奴隷道徳なのか貴族道徳なのか正直よくわからないのです。

と言うことは、自分をよく認識していないと言うことですので
自己認識が低いということをどうやって変えるかですよね。


他の回答からですが
>それらを見分けることができる物差しになる基準が欲しいと思ったのです。

他者の物差しで測ろうとすることは、それがどのような行為かよくよく考えたほうがいいですよ。
自分で自分の扱いをどうやっているかも、認識してなければ危ういです。

本来、貴族道徳や奴隷道徳・超人に固執するとき、超人にはなれません。
他者の理想を掲げるより、自分自身として生きていくことを目指すとき
自分が目指したい自分である方向へ向かうことになります。

自分が自分であり目指すとこを持ち、自分の足で歩くものだけが
自分で道徳を創造するものになれるでしょう。

今の自分を超えて、自身を確立すること。
そのためには、自分を深く理解することが必要になります。

私は、ニーチェもいいところはあると思います。
ただ、他の方も言われているように彼の価値観を
丸呑みしようとしてしまうと人間としての崩壊へ向かうと思います。

自分を確立して、彼の言い分を理解していけば
見えてくるものもあると思います。

哲学者の言うことを誰であろうと丸呑みしない。
自分として、相手の意見や主張を理解することが無ければ
自分が自分の足で立てないことをよく理解すること。

超人という理想を目指すなら、自分を徹底的に理解することです。
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この回答へのお礼

kanto-iさん、再度の回答ありがとうございます。

そうですね。自分で深く深く深く思慮してみます。
他人の意見を鵜呑みにしたら他人の言いなりになってしまいますね。
答えがないものなので難しいですが、間違っていても自分の思想で生きたいと思います。

回答ありがとうございました。またぜひ回答お願いします。

お礼日時:2014/10/05 09:48

こんばんは。





・・・ニーチェは、
「・・・狂」、なんですね。






>「自分は貴族道徳で生きていきたいのですが」
(良いことは良い、悪いことは悪い、快は良い、強いは良いという風に捻りのない価値観で)

アブないですね。
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この回答へのお礼

kurinalさん、お久しぶりです。
いつも回答ありがとうございます。

なんだか考えさせられる回答ありがとうございました。もうちょっと説明してもらえたら嬉しかったです。

回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/10/05 09:14

☆物事によっては良し悪しが簡単にはわからないことがありますが、どうすれば貴族道徳と奴隷道徳を見分けることができるでしょうか?


◇この答えは、意外に簡単。
 貴族道徳を「持てる者の道徳」
 奴隷道徳を「持たざる者の道徳」
として考えればいい。

権力、財力・資本、優れた知力、優れた体力、優れた容姿etc.を持つ者を貴族、
これらを持っていない者を奴隷と考えればいい。

ですから、貴族と奴隷の道徳は必然的に異なったものとなる。


でだ、
ニーチェに関して言えば、優れた知力は持ち合わせていたかもしれないけれど、その他のものを持っていないので、貴族にはなれない。
ハッキリ言って、ニーチェは奴隷なんですよ。ニーチェ本人はルサンチマンの塊!!
で、
ニーチェほど愛情に飢えていた人間はいなかった、と言っていいほど、愛情に飢えていた人。
晩年、少しでも彼に好意を示す人に対しては、卑屈と言ってもいいほどへりくだった態度を示していた。

この回答への補足

 

補足日時:2014/10/05 09:06
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この回答へのお礼

お礼日時:2014/10/06 20:56

以下のとおりお答えします。



(1)貴族道徳("Herrenmoral"ですから、むしろ「君主道徳」というべきかも知れませんが)
>貴族道徳とは、良いことは良い、悪いことは悪い、快は良い、強いは良いという風に捻りのない価値観で
⇒これはかなり「おめでたい評価」だと思います。「勝利と残虐のあらゆる悦楽」「異民族に対しては、解き放たれた猛獣と変わらない」、「自分の気に入ったことが“善”なのだ」「殺人・放火・凌辱・拷問など身震いするような惨行三昧…」。これらが、貴族たちの「価値」としたことの実態です(『道徳系譜学』)。
このことから、貴族道徳の根幹は、「支配者が、正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)にあったようです。

(2)奴隷道徳
奴隷道徳はどのようにして生まれたか。「大衆は貴族制のために、不完全な人間・奴隷・道具に貶められてよいのである」、「天才を生み出す補助機構として、大衆の奴隷的奉仕は必然不可避である」、「権力は、その基底においておよそ横領・簒奪・暴力的なものである…」。こうして、奴隷の存在が当然視されるに至ったのである(『悲劇の誕生』)。

(3)評価
上述により、貴族道徳では「弱肉強食」が賛美され、ヒットラーなどの利用するところともなったのは周知のことです。他方、奴隷道徳では、「愛・従順」の名目の基で搾取を画策し、内面にはルサンチマンの塊りが横溢する…。こういうことは、「どちらがよいか」などと、「2値的」に分けられるものでもないですが、私としては、どちらの道徳観にも与したくない感じです。

(4)超人
>超人とは神のように自分で道徳や価値観を自分自身で創造する
⇒なるほど。「神は死んだ」(実は、「殺された」)のですから、自分で道徳・価値観を創造するしかありませんよね。ただし、好き勝手に捏造すればよい、というわけではないでしょうね。

(5)道徳・価値観の創造
その際、最小限配慮すべきこととして次のようなことあると思います。
(i)つねに他者のそれと接合する姿勢(パースペクティヴィズム)が必要である。
(ii)「より上級の審理を求める」態度も維持すべきである。
(iii)プロセスが重要である。すなわち、道徳・価値観は、「ここまで来れば絶対である、などという領域はない」ということと、「それを探求する過程にこそ意味がある」と考えるべきである。

マハトマ・ガンジーは言ったそうです、「努力への報酬は、結果でなくむしろその努力そのものにある。全き努力は完全なる栄光である」、と。

以上、ご回答まで。
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この回答へのお礼

Nakay702さん、回答ありがとうございます

自分の君主道徳の解釈はどうやら間違っていたみたいです。
君主道徳や奴隷道徳っていうのは比喩ではなく本当に身分によるものなんですね。

5番目の道徳と価値観の創造のところをもっと詳しく教えてもらえないでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/10/05 02:21

 


>超人とは
神のように自分で道徳や価値観を自分自身で創造するもの

その通りです。


>貴族道徳と奴隷道徳を見分けるコツはありますか?

見分ける必要などありません。
超人になればよい。
「汝超人になるべし」とニーチェは説いたのである。
 

 
 
 

 

この回答への補足

なぜ見分けるコツを聞いたかと言いますと、自分はもちろん超人になりたいと思うのですが
自分が超人になった時に価値観や道徳を自分で創造しはじめる段で、奴隷道徳のような自分で自分を騙すような道徳は作りたくないなと思ったのです。もっと自分に正直な気持ちのいい道徳や価値観を持ちたいと思ったのです。
そして自分の作った道徳が貴族道徳ならそれを持ち、もし奴隷道徳なら捨ててしまえるように、それらを見分けることができる物差しになる基準が欲しいと思ったのです。

補足日時:2014/10/05 01:44
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この回答へのお礼

hitonomichi33さん、回答ありがとうございます。

なぜ見分けるコツを聞いたかと言いますと、自分はもちろん超人になりたいと思うのですが
自分が超人になった時に価値観や道徳を自分で創造しはじめる段で、奴隷道徳のような自分で自分を騙すような道徳は作りたくないなと思ったのです。もっと自分に正直な気持ちのいい道徳や価値観を持ちたいと思ったのです。
そして自分の作った道徳が貴族道徳ならそれを持ち、もし奴隷道徳なら捨ててしまえるように、それらを見分けることができる物差しになる基準が欲しいと思ったのです。

回答ありがとうございました。またお願いします。

お礼日時:2014/10/05 01:42

>貴族道徳と奴隷道徳を見分けるコツはありますか?



発言者が自分を被害者の立場に置いた発言が多い場合、奴隷道徳になっている事が多いです。

発言者が自分を加害者と認識している場合、貴族道徳となっている事が多いです。


このことは生臭坊主であった親鸞聖人も見抜かれており、所謂悪人正機説に繋がるわけです。
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この回答へのお礼

Mokuzo100nennさん、回答ありがとうございます

なるほど、貴族道徳も奴隷道徳も結局のところ自己正当化しているという意味では一緒なのかもしれないですね。

ここて親鸞聖人の話が出てくるとは思いませんでした。
よければそこのところの話をもっと詳しくきかせてもらえませんか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/10/05 02:13

>ニーチェの思想を理解している人に質問です


そんな人居る訳無い、ニーチェの研究者でも無理。
だって彼は狂って居た、もちろん巨大な文献学的知識を有しており、著作も素晴しい。
だが梅毒による躁状態が次第に彼の思考を極端に持ち上げ「人生の正午」に到達したあと
全てが崩壊してしまった。
だから議論に「整合性」を求めるのは困難だ。
精神分析で有名なユングはニーチェを高く買いその思想を追って多くのものを吸収した。
だが、医師でもあるユングはニーチェの思想の一部、いや多くの部分に病気から来る
ものを見出していた、この辺は「無意識の心理」(旧名、人生の午後三時)人文書院
の前半に書かれている。
現在の社会を「貴族道徳」のみで生きる事は出来ない、こいつは有名な「善悪の彼岸」
に存在し、あなたの言う「道徳や価値観を自分自身で創造する」ことに基盤がある。
そんなこと実社会でやったら、良くても精神科の病院、悪いと「死刑囚」だろう。
>貴族道徳と奴隷道徳を見分けるコツはありますか?
こんなことを言っていたら、いつまでも「道徳や価値観を自分自身で創造する」
立場にはなれない。
「神は死んだ」だから規範は自分の中にしか無い。
「貴族道徳と奴隷道徳」に捕われる者は「善悪の彼岸」へは到達出来ない。
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この回答へのお礼

doc_somdayさん、回答ありがとうございます

ニーチェがそんな状態だったとは知りませんでした。

貴族道徳にそって生きることはできなくても貴族道徳を持つことはできると思うのですが

善悪の彼岸というのは善悪を超えたものという意味でしょうか?超人とは善悪など持たない存在なんでしょうか?

なぜそんなに見分けたいかと言いますと、自分が超人になって自分で価値観や道徳を創造しはじめた時に、自分の気持ちいい価値観を持ちたい、自分で自分を騙すような道徳は欲しくないと思ったからです。
そのさいに自分の作ったものが貴族道徳なら保持して奴隷道徳なら捨ててしまえるようにするには道徳を見分ける必要があると思うからなのです

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/10/05 02:05

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哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

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あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む

Q「ツァラトゥストラかく語りき」の中の「ラクダ」「獅子」「幼子」とは?

ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の中に、「三段の変化」という項目があります。「ラクダ」「獅子」「幼子」と、精神が三段に変化を遂げるようすを詳述してあるものですが、いくら読んでも、具体的にどう言う心境の変化を述べたものなのか理解できません。ニーチェは、やはりラクダと幼子を肯定的にとらえ、獅子を否定的に扱っているのでしょうか。
私は哲学はからっきし無学ですので、可能であれば具体的な事例を挙げてお教え下さい。

Aベストアンサー

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどうだっていい。
 だって俺はこんなに強いもん。
 俺はきゅうくつな修行から逃れて、そして何者にも縛られない自由を手に入れるぞ。
 俺はもっとすごいことがしたいんだ。邪魔するやつは容赦しない。

3)幼子段階:新しい創造ができる力を得る
 (敬虔であったラクダ時代を忘れ、暴虐だった獅子時代も忘れ、
 すべてを真っ白な新しい気持ちで受け入れ、遊びながら、
 どんどん新しい価値を生み出していく存在。)

途中で「神様」という語が出てくるけれど、
ニーチェの名台詞はご存知「神は死んだ」。
つまりこの書は、キリスト教の価値観でガチガチに固められた世界観をブッ壊して、
それに代わる新しい価値観や新しい人間像を、
ゾロアスター教の神様(ツァラトゥストラ=ゾロアスター)にかこつけて語らせてみているわけです。

神様の教えに従順に従っている段階がラクダ。
それにおかしいと気づき、ぶっ壊そうとあがき暴れまくっているのが獅子。
(獅子でなければ古い価値観をブッ壊すことはできない)
そして新しい価値観を生み出すには、幼子のように無垢でなければいけない。

…とはいえ、「ツァラトゥストラ~」は「福音書」のパロディらしくて、
「幼子」とはイエスその人を指してるみたい。(「幼な子のようになりなさい」っていう聖書の言葉から)
つまり元に戻るだけで、新しい価値は誰も生み出せないという…
恐ろしいオチです。

>具体的な事例を挙げて
夏目漱石の「坊ちゃん」から「三段の変化」を説明しているサイトを見つけました。ご参考になさってください。おもしろかったです。(^^)
ラクダ…うらなり
獅子…山嵐
幼子…坊ちゃん

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/unpublished/enfant.html

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどう...続きを読む

Qニーチェの有名な言葉「神は死んだ」について

「神は死んだ」についてです。

何故にこの言葉が広まった?のでしょうか?ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人がいるのでしょうか?

自分で「ツァラトゥストラのかく語りき」を読んだのですが、その言葉はさほど重要な点ではないと感じましたが…

Aベストアンサー

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つルサンチマン(怨念、ねたみ)が隠れていると指摘したのです。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったものですし、キリスト教はさかのぼればユダヤ教を母胎として発展したもので、そのユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものですので、そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれているとしたのです。

 ですから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者・病人・苦悩する者)が強者(能力のある者・健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ですから、こうしたことからニーチェはキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げるとしたのです。言い換えれば、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」へのたくましい欲求(支配欲・権力欲・性欲・我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。

 また、彼が否定したのは、キリスト教の「神」だけではありません。自己よりも崇高なものを認める価値観すべてを否定していったのです。ですから例えばそれは、イデア世界に永遠なる真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属していますし、その他、自己より崇高な価値観である「真理」「理想」「理念」もすべて否定していったのです。つまりそれらは、弱い人間が、自己から逃避した結果であり、自己の生を意味づけるためにねつ造したものであり、虚構であると暴露したのでした。そして真の価値基準は、「神」や「天国」「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地」に置くべきとしたのです。

 またニーチェは、キリスト教は「畜群本能」にとらわれた道徳であるとしています。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し没個性的に生きることで安心しあう心理によって支えられているとしたのです。そのためニーチェは、民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪したのでした。

 なお、ご質問の「ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人」は、特にいません。「ツァラトゥストラ」も当初、40部を自費出版しただけで、晩年は彼を敬愛する妹に見守られながら、次第に高まる名声を知ることなく静かに息を引き取っていきました。

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な...続きを読む


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