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なぜ、

この世界は幻影であり、
ブラフマンだけが存在する

などという思想になるのでしょうか?

A 回答 (9件)

no.2です。


 ちょっと補足します。
 そもそもは、自分の人生にしても他人の人生にしても「あまりにもやるせない現実」に対して気持ちの上で折り合いをつけようとして生まれた発想だと思います。その‘ある意味苦し紛れ的な発想‘が、意外と人生の色々な場面に通用するということで歴史のふるいを潜り抜けて現代へと発展しながら語り継がれてきたのだろうな、などと私などはロマンを感じてしまいます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>やるせない現実に対して気持ちの上での折り合いをつけようとして生まれた発想だと思います。

なるほどです。

お礼日時:2014/11/22 22:33

 この世は幻影であって存在と云えるのはブラフマンだけだという思想になるのは、物事には「因=親」が有る筈だから、と思うからでしょう。



 この世は変化し続けていて、有ると思っていた物もいつの間にかなくなって居て、あの時の物は何だったんだ、と思い起こせばそれは“幻影”のような気がして、でも移ろいながらもこうして今現在が有る、と思えばこの変化し続けて存在している、いや、させている“何か”が有る筈で、それこそが永遠の「親」と思えて、それを“実体(ブラフマン)”と表現したのだと思います。
 我々の両親も心の中では永遠に存在し続けていますし。

 我々は一般に神と人間の関係を親と子に例えますが、それに倣って宇宙の親を「絶対の精神」として、この精神の「意の力、意力=(幻力)」がこの世界(宇宙)を現象させていると受け止められれば、過去の哲人たちの“ブラフマンだけが存在と云える”と主張したことを理解できます。

 さらに親子の関係を例にして云えば、親の能力や性質が子に伝わるように、言い換えて子の持つ性能は親からもらったように、人間の持つ性能は神(親)から授かったと思えば、人の精神の意志、理性、感情、という働きは神の能力が反映したものと云えるでしょう。

 マーヤはブラフマンから発せられる宇宙内に於ける意志、理性、感情、の働きの“なせる業”ではないでしょうか。

 ☆ 絶対の大心霊体の意志(意の力)が宇宙を現象させ、現象は理的に。そして“情”は「生命」に於いて“発現”する。

 こんな風に考えてみました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ショーペンハウアーの「生きんとする意志」がなんとなく
ブラフマンっぽいなあと思ったので、こうして、
不二一元論を質問しています。
否定すると、聖者たち
肯定すると、ニーチェなのではないか?と。

傍から見るとなぜこのような質問しているのかわけわかないかもしれませんが、
テーマはニヒリズムです。

お礼日時:2014/11/21 18:19

ブラフマンだけが存在するですと。


あなた頭おかしいのですか。

難しく考えられたら、難しく考えれば頭が優れていると思うものです。馬鹿は。
考えることが出来れば頭が優れていると思うものです。馬鹿は。
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お礼、ありがとうございますニャ。




~~~~~~
物質になるということでは
ネオプラトニズムの流出説が気になりますけど、
詳しくないから、なんともいえなくて。
~~~~~~
『バガヴァッド・ギーター』やバラモン教の有力な哲学学派のサーンキヤの《顕現》説は、
ネオプラトニズムの流出説に非常に似てますニャ。
《プラクリティ(根本原質)》が自己展開し、上位の存在から下位の存在へとなるんですニャ。

《プラクリティ》→《ブッディ・buddhi》→《アハンカーラ・ahaMkAra(エゴ・自我)》→《マナス・manas》→・・・
と展開していくんですニャ。

《プルシャ・アートマン》は、《プラクリティ》とは無関係なんですニャ。違う原理なんですニャ。
サーンキヤは《梵我一如》を説かないんですニャ。
バラモン教だからすべて《梵我一如》を説くなんて考えてはいけないんですニャ。


サーンキヤについては、wikipediaの記事なんかが参考になりますニャ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ウィキペディアのサーンキヤ学派のページがいつのまにか詳しくなっている。
前からだったかな。夏目漱石に影響を与えているのですか。

お礼日時:2014/11/21 18:15

幻影(mAyA)には、幻、幻影という意味以外に、超自然的な魔力、幻力というような意味があるんだよね。



J.ゴンダの『インド思想史』から引用すると
~~~~~~~
一方、ギーターの別の箇所は、この活動を最高神の「幻力」(mAyA)に帰している。しかし、各時代の様々な思想家たちが、このマーヤーの語の下に同一の内容を理解したとは限らない。最古のヴェーダ文献では、マーヤーは”人間の理解を越えた、とりわけ神々や魔神・悪漢たちの智慧”か、さもなければ、”何かを獲得しようという際の、倫理とは無関係な能力”を指す語として度々用いられている。このマーヤーは、しばしば全宇宙の不思議を演出する。神も、みずからのマーヤーによって様々な形や姿をとることができるのである。古期ウパニシャッドでは、マーヤーは「巧妙さ、詐りの性」という意味のほかに、「創造への不可思議力」の意味も持っている。プラクリティーもマーヤーと呼ばれる。叙事詩では、たとえば太陽が沈んだと人に思い込ませるなど、事実を誤認させるような事態、今日の言葉で言えば「策略、奸計」の意味でも用いられる。ギーターでは、最高神が神自身を自己の「幻力(マーヤー)」で、現象として顕現させ、一切万物を舞台の上の操り人形のように回転させることができる。最高神は、人間の思慮を越えたこの幻力によって、不生不滅の自己の本性を凡人の目から覆い隠している。しかしまた、その同じ力によって人間界に出現することもできるのである。

p.164~165
~~~~~~~
なんですニャ。

ですから、バラモン教関係で使われる《マーヤー》という概念は難解で、日本語の「まぼろし」や「幻影」という語から、これが何を意味するのか、うかがい知ることができないんですニャ。
《マーヤー》は宇宙を生成することもできるんですニャ。
インドの《マーヤー》を舐めてかかったら、怪我するんですニャ。
蜃気楼のようなものと考えては、いけないんですニャ。
物質にもなれるんですにゃ、インドの《マーヤー》は。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

マーヤーも複雑ですね。
物質になるということでは
ネオプラトニズムの流出説が気になりますけど、
詳しくないから、なんともいえなくて。

お礼日時:2014/11/20 02:14

幻影、と云うのを“変化”と捉え、ブラフマン、は絶対(相対する物のない)の精神、と捉えてみるのが良いかと思います。



 宇宙の本体は絶対の大心霊体であって、その唯一の本体の霊体(精神)の「意」の力がこの世を“現象”させていて、それがこの世、宇宙であると云う事。でも不思議なのはその“世”が静、の世界ではなく“動”であると云う事。

 我々が存在するこの宇宙は“変化”し続けていてまさに“動”の世界。この“動”をそれ故に幻影と云ったのであると思います。

 孫悟空の物語では、お釈迦様とその手のひら上を飛び回る孫悟空が出てきますが、それは宇宙の存在とその動態を云っているように思います。

 お釈迦様の手のひら(ブラフマン)は変化することのない「実体」と云うべきもので、その手のひらの上に存在するこの世は変化し続ける幻影なのだと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ショーペンハウアーの意志と表象としての世界からの孫引きしてみます。

~~~~~~~~~~~~~~

永遠に存在し、発生したものではないもの、それは何であるか。
また、発生し消滅し、本当はけっして存在していないもの、それは何であるか。

プラトン(『ティマイオス』二七D)


~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/11/19 23:32

無限に続く原因の連鎖=「それはどうして?」の


連続を断ち切るには、問答無用の全知全能の第一
原因か、虚想的な無からの相補分化に帰着するし
かないからだ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

信仰を話題にしたときは
批判されたのに、不二一元論になったとたん
問答無用になるのはなんなのだろう。

お礼日時:2014/11/19 21:55

 人生のフェイズが時間軸の進行と共に先に進むにつれて、人知の及ばない存在を意識する占有率が上がってくる傾向はあると思います。


 それがさらに進むと「人知の及ばない存在の全体としてのブラフマン」と「その表象の一つに過ぎない個人の主体」との自分の意識の中における重要度の比率が圧倒的にブラフマンの存在に偏ることもある、ということなのではないでしょうか。
 それ自体では人生の受け入れ方の違いくらいの個人差の話で済みますが、‘だから他人の主体をないがしろにしていい‘という話になると多様でいいことでは済まなくなります。
 基本的に、受け入れることが大事なフェイズの人に「気を楽に」という感覚でおすすめできる考え方だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私すら存在しないのだから気は楽にはなるかもしれません。

お礼日時:2014/11/19 21:50

そら~、


バラモン六派の一つであるヴェーダンタ学派で「不二一元論」を展開したシャンカラが《仮面の仏教徒》だったからだニャ。
そして、
シャンカラは、中観、龍樹・ナーガルジュナの思想をバラモン教に持ち込んだんだニャ。
バラモン教に忍び込ませたんだニャ。

仏教的アートマンは《如来蔵》と呼ばれるニャ。
で、仏教的ブラフマンは《如来》ニャ。
この対比で考えると、わかりやすいニャ。


☆この世界は幻影(マーヤ)であり
◇という思想は、バラモン・ヒンドゥー経の聖典『バガヴァッド・ギーター』などに記されているニャ。
これは、ヨーガに基づき、天啓詩人が直覚した真理(?)なので、「証明できない」というよりも、「そもそも証明を必要としない」絶対の真理だニャ。
何故と質問してはいけないニャ。
これは無批判に受け入れるしかないんだニャ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

プラトンのイデア論だと批判されるのに
シャンカラだと批判されないところが宗教なのでしょうかね。
マーヤーはいいけど、イデアの影だとよくないとか。

お礼日時:2014/11/19 21:49

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