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歌舞伎について、初心者ですが、教えて下さい。
歌舞伎の台詞は、耳に心地良いですね。
ラジオで、歌舞伎の七五調の台詞について、次のような講演を聞きました。
「歌舞伎の初期は、台詞の七五調は少なかった、
しかし、その後、代々の役者は、彼らにとって古い台詞を容易に覚えるため、次第に七五調に修正してきた」
教えて頂きたいことは、歌舞伎の歴史において、次第に七五調が採用されてきたのですか?

A 回答 (2件)

こんにちは。



ラジオで講演をされるような方でしたら、きっと専門的な研究をしているのだと思いますので、それなりの根拠があって言っているのだと思います。ただ、いろいろな可能性があり、単純に言い切れるようなものでもなさそうです。
まず、七五調ですが、御存じのように、歌舞伎が起こるはるか前から日本に根付いている詩のリズムです。万葉集もそうですね。七五調が耳に心地よい理由について今日一般的になっている説があります。
日本語では、2音が一組になってリズムを作るという原則が見られます。私たちが日常使う言葉には、2音+2音の組み合わせが非常に多いですね。「大学卒業者」を「大卒」と言い、「アニメソング」を「アニソン」と言います。
言葉のシラブル数が奇数になると、休みが入ったり延ばされたりして、やはり偶数の拍に当てはめられます。七五調の場合は、

|あさ|あけ|て〇|○○|
|ふね|より|なれ|る○|
|ふと|ぶえ|の○|○○|

のように4拍子になります。それぞれの句の時間的な長さは常に一定していると同時に、一句ごとに七と五が交代する変化があるので、調子よく聞こえます。
中世の歌いものや語り物も七五調が多く、歌舞伎よりはるかに古い能の場合も、一定のリズムで節付けされる部分の詞は、原則として七五調で書かれています。ただし、変化をつけるために、七五より多い句、少ない句を挿入する技巧もあり、その場合の作曲の方法、リズムの付け方にも決まりがありました。
歌舞伎の起源は、お国という女性が始めた「歌舞伎踊り」であるといわれています。一番古い記録は1600年代初頭です。演劇らしい形になったのは、元禄時代になってからです。初期の代表的な歌舞伎作者と言えば、近松門左衛門(1653~1725)ですが、すでに七五調は使っています。「曽根崎心中」(1703年)の一節はこうです。

この世の名残 夜も名残 死にに行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ哀れなれ

近松の脚本作成に参画し、直接その話を聞いた穂積以貫という人が書き残した書物によると、近松は、七五調にこだわり過ぎると無駄な言葉を使い、品がなくなるので、音数にはこだわらない、という意味のことを言っていたようです。そのため、字余り、字足らずが多く、演者にとってやりにくいところはあるようです。
俳優の仲代達也は、若いころ「四谷怪談」を芝居としてやった時、歌舞伎の台本をそのまま使ったため、セリフが七五調で「覚えやすかった」と回想しています。「四谷怪談」の作者は鶴屋南北、近松の約百年後です。このころが、歌舞伎の最初の全盛期で、その後、いろいろな理由で一時衰退します。近松の作品は、初演後上演されなくなったり、改作されたりしたものも多いようですが、改作の理由には、内容そのものに劇として問題があるとか、のちの時代に合わなくなったとかの理由もあるようなので、セリフのためだけとはいえないようです。しかし、覚えやすいことは事実ですので、そういう書き換えもあったかもしれません。
七五調のセリフが多いのは河竹黙阿弥(1816~1893)の作品ですが、こちらの方は、あまりにも七五調の定型が続くので、賛否両論があります。いくら覚えやすいといっても、あまり続きすぎれば平板になりますので、実際にセリフとしてしゃべるときに一本調子にならないようにするのは難しいかもしれません。黙阿弥が七五調を使った理由として、吉田弥生という人は、「七五調が軽快で優美な調子として日本人に好まれていることを黙阿弥が知っていたからだろう」と言っています。

吉田弥生著『江戸歌舞伎の残照』
https://books.google.co.jp/books?id=hvitnzAKyRYC …

一般的には、上のような説明が多いようで、下のサイトでも同様の説明になっています。

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/e …

しかしほかに、黙阿弥の時代にはいい役者がいなかったため、演じやすくするために七五調を書かざるを得なかったのではないかという人もいます。
明治に入ってから、日本の文化も海外の文化と同じ価値観に合わせるべきだという政府の方針があり、狂言綺語の廃止を求めました。その時、九代目市川団十郎が七五調の美文を排したことがありましたが、反対者も多く、一時的な運動でした。

私も専門の研究家ではないので、説明に不備があるかもしれませんが、大体以上のような経過のようです。

御参考まで。
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この回答へのお礼

歌舞伎や七五調の勘所を、要領よく説明して頂きまして、ありがとうございました。
講演者は、松井今朝子さんで、武智鉄二の歌舞伎の演出助手をしていたそうです。
<七五調が耳に心地よい>
ですね。自分でも、日本人として実感します。
仲代達也については
<歌舞伎の台本をそのまま使ったため、セリフが七五調で「覚えやすかった」と回想しています。>
近松に関しては
<七五調にこだわり過ぎる>のはいけない。
<そのため、字余り、字足らずが多く、演者にとってやりにくいところはあるようです>。
<覚えやすいことは事実ですので、そういう書き換えもあったかもしれません>
<黙阿弥の時代にはいい役者がいなかったため、演じやすくするために七五調を書かざるを得なかったのではではないかという人もいます。>
以上のように、、博識なTastenkasten様から、七五調について具体的な沢山の証言などを挙げて頂きました。

お礼日時:2015/03/13 10:10

はい、そうです。


400年も歴史がありますから徐々に変わっていくでしょう。
七五調と言えば河竹黙阿弥の作品が有名ですね。

他にもここに歌舞伎の歴史について載っております。
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/index …
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。
私は歌舞伎の知識がなく、常識的なことを誤って解釈するかもしれません。折角のご回答を誤解する、やと危惧しまして、ご回答を確認させてもらいます。
<はい、そうです。>
ということは、歌舞伎の歴史において、次第に七五調が採用されてきたのですか?
あるいは、役者が、古い台詞を容易に覚えるため、次第に七五調に修正してきて、結果的に七五調が増加してきた、ということでしょうか?

お礼日時:2015/03/10 21:38

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