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空海は、風信帖などを遺し能書家として有名ですが、空海の使っていた書道具はどのようなものだったのでしょうか?
(特に筆が知りたいです)

A 回答 (2件)

こんばんは。



昔から「弘法筆を選ばず」といいますが、実際の空海は、筆の選び方に厳格であったことがわかっています。弘仁三年(812年)七月二十九日に、空海は、嵯峨天皇に狸毛の筆四管を献上していますが、それぞれが楷書用、行書用、草書用、写経用となっていて、書体によって筆を使い分けるべきであると言っています。空海は、唐に渡った際に筆の製法を学び、これが日本の筆づくりの始まりとされることもあります。これは「巻筆」という種類の筆で、現在一般的に用いられる「水筆」などとは違うものです。空海以前の時代にも伝来しており、正倉院御物の天平筆、延喜筆も巻筆です。これは、束ねた毛の穂の部分を薄い和紙で巻いたあと、軸に取り付けるもので、筆先の弾力が強いのが特徴です。また、狸の毛は剛毛ですので、嵯峨天皇に献上した筆は、固め、かつ強い筆ということになります。現在この巻筆の製法で作られているのは、「雲平筆」というものだけです。

http://www.athome.co.jp/tobira/13/

空海は、紙の製法も唐で学んで帰り、高野山の僧たちが写経などに使ったとされます。これは高野紙といい、高野山の麓、和歌山県高野町から九度山町に渡る地域で作られていました。楮を原料とします。奈良国立博物館所蔵の、空海筆による「金剛般若経開題残巻」も、「楮紙」と表示されています。

http://hashimoto-news.com/news/2014/11/28/25085/

http://www.sankei.com/west/news/141210/wst141210 …

墨には松煙墨と油煙墨がありますが、日本では、奈良時代から松煙墨が作られていました。空海が油煙墨の製法を指導したという伝説があるそうですが、中国で油煙墨が作られるようになったのは空海の死後二百年ほどたってからなので、誤りとされます。このころの松煙墨の産地は、播磨と大宰府(筑紫)で、空海と共に唐へ渡った最澄がそのとき持参した土産のなかに、筑紫墨があったということです。空海が使った墨も、このようなものであったと考えられます。

硯についてはわかりません。

以上、御参考まで。
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何の筆か?までは書かれてませんが、こちらのブログが参考になるかもしれません。


http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/45664137.html
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