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キリスト教徒ですが、世の中には善良な人がたくさんいるのに、キリスト教徒だけ救われるのは、不公平じゃないですか?

A 回答 (19件中1~10件)

そうですね、そういうことを言っているキリスト教もあるでしょう。

何しろキリスト教といえばカトリックから胡散臭いけどキリストを中心においた新興宗教まで全てをさしますから。米国など牧師の数だけキリスト教があるといわれるほどです。
私はマリア会で洗礼を受けたカトリックですけど、私はそんな事は習っていません。

洗礼を受けたものとそうでない者の差は原罪があるかどうかだけです。
同じように正しく生きてきた人が居るとします。一人は先例を受け他方は受けて居ない。とすると洗礼を受けた者はそのまま天国に入りますが、受けて居ないものは原罪を処理しなければなりません。それが煉獄と言うところです。
煉獄の業火は地獄の猛火より苦しいと習いました。しかし時間は極短いものだそうです。それで原罪を赦されればそのまま天国に入ります。
それだけの違いです。キリスト教徒だけが救われると言うのは、そう言う教えを説いている所です。

では逆はどうでしょうか、浸りの悪党がいて、二人とも地獄に堕ちるほどではないけどやはり煉獄での贖罪が必要だとします。一方は洗礼を受けている・・。
この場合は洗礼を受けていないほうは煉獄の贖罪で天国に入れますが、洗礼を受けている方は地獄に堕とされます。それはなぜでしょう。
洗礼を受けると言う事は清廉に生きる事を主に誓っているわけです。天国に入るためにどうすればよいのか善悪の判断が出来る人です。だから善悪の判断が出来ない未熟な人より厳しい賞罰が下るのは当たり前ですよね。実際の世界だって計画的な犯罪と偶発的な犯罪なら後者に情状があるでしょ。それと同じです。
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元ですが自分もクリスチャンなので、クリスチャンとして回答してみましょう。



聖書をキチンと頭を使って考えて読んでいますか?
結局判断を下すのは神様ご自身です。然るべきときに神様ご自身が直接人間一人一人を精査して結論を下します。
献身したから、洗礼を受けたから一安心。なんてことはどこにも書いていないはずですが。献身は救いの保障ではありません。献身した後も、より一層毎日忠実に神様に仕えて行くことが必須条件になってきます。
救われるために献身するのではありません。『私はより一層神様にお仕えし、人生を神様へ捧げます。』という神様への約束を公に表すということです。ちなみにですが、人生を神様に捧げようとその人から結婚の自由がなくなるわけではありませんね。

すなわち
「一度正式なキリスト教徒になろうと、その後神様の目から見て不忠実な行いを繰り返していれば救いの対象とはならない」
「キリスト教徒で無かろうとも、神様がその人の良い行いに目を留めて猶予を与えられることもある」
と読み解くべきでしょう。
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>事実キリストが殺された犠牲者です。



キリスト教では、殉教者は救われているのです。救いとは、永遠の世界の救いのことであって現世利益のことではありません。

「キリスト教徒だけ救われる」というのは誰の言葉ですか。
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貴方のご質問は、現実的に考えると解ると思います。



世界の人口は、72億5千万人らしいです。その庶民はいったい何を信じているのか?


① キリスト教 22億5400万人 33.4%

② イスラム教 15億0000万人 22.2%

③ ヒンズー教  9億1360万人 13.5% 


その他、仏 教   3億8400万人  5.7%


そこで、貴方の仰っているキリストは、3人に1人が信者に成っている事が解ります。

そうすると、世界には必ず3人の中の1人が幸福でないといけない事に成ります。

しかし、イスラムも聖書が元ですからキリスト及びユダヤとは、団子3兄弟と成ります。


この中にユダヤ教がありませんが、合計37億5400万人がキリストと同類と言って
も過言ではありません。

なので、2人に1人が、絶対に幸福に成っていないと貴方の論理的な根拠がないと考え
られます。

しかし、どう考えても、こんな事を信じる人は居ないと思います。従って、結論として
は、宗教は何の力も無く、人々からお金を巻き上げて、立派な建物の中で暮らしている
という事に成りませんか?

もしも、マトモに考える方が居るとすれば、こんな物に頼っている方だけが、幸せの錯
覚に陥っているだけです。

なので、「自己責任と覚悟で人生をおくっていない」という事ではありませんか?

溺れる者は、藁をも掴む?掴んでみても、自分で切り開いていかないと、天から幸福は
落ちて来ないと思います。

如何でしょうか? これは論理的に正しいですか?
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キリスト教徒でも、救われない人は沢山居ますよね。



天は自ら助くる者を助く

キリスト教徒かどうかは関係なく
それをやっている人は助かるでしょう。
自分を助けるのは自分自身なのですから。
だから公平なのです。

神に祈ることや願うことだけでは、誰も助かりません。
神に祈りや願いを捧げなくても、自分を助ければ助かります。
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No.13の回答者に拍手です。


「自然界では、自然に対応出来る者が救われるのです」
→それがすべての基本でしょう。
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自然界では、自然に対応出来る者が救われるのです。

キリスト教徒だから救われている訳ではないのです。事実キリストが殺された犠牲者です。
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大変簡単に質問をなさっておいでですが、この質問には長い、長い回答が必要になります。

質問者さんはキリスト教徒でおられるので、かいつまんだ回答をしますと:

他の方もおっしゃっておられるように、聖書の前半、旧約聖書はもともとユダヤ人の救済を目的としたものであり、比較的現世利益を目的としたところがあります。それをイエスキリストが現れて、”永遠の命”を与えられることが最終目的になり、対象も、全世界の皆さんになりました。

最終的な救済の様子は、ヨハネの黙示録に詳しく記してあり、世界の終わりがやってきたときに、最後の審判があり、そこで”生者の書”に名前が載っていれば、天国で神様とともに暮らし、載っていなければ、いわゆる地獄いきになります。

(この審判の前に、ユダヤ人は、。。。全員かどうかは微妙なところ。。。雲の中に連れ去られ、審判を受けなくても良い。。。天国行きか?。。。というあいまいな表現がされています。)

さらに、イスラム教徒の皆さんは、アブラハムの庶子が始祖で、砂漠で野垂れ死にしそうなところを、ユダヤの神=キリスト教の神に助けられた経緯があり、信じているのは同じ神である、とおっしゃいます。ですから、彼らも救われるでしょう。

さらに、さらに、イエス・キリストの教えのなかで一番大切なのは、”隣人を愛せ”というもので、ご存知のとおり、このたとえ話をするときに、”サマリア人”を例に取りました。当時、異教徒として、ユダヤ人から低く見られていたサマリア人を、隣人愛の例に挙げたところが非常に示唆的です。

こういったことを、教会内で簡単に質問しないで、ご自分のなかで、深く静かに、時間をかけてお考えになるのが、肝要かと思います。

ローマ教皇も、今までいがみ合ってきた宗教間の橋渡しをなさろうと努力されておられるご様子です。キリスト教も、時代背景に合わせて変わってゆく必要があるのかもしれませんね。
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教え  が言葉でかかれている聖書


があるからそうなったのでは?
仏教って結局、何したらいいか
わからないし。聖書は普段から
こうしなさい!が具体例でかかれてます。
幼児に指示を出すときみたいに。
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善良かどうかはどうでもよいのですが、


救いの道があることを知らされないのは不公平ですよね。うん。
だから、布教するんじゃないでしょうか?

例えば、終戦を知らずに密林で暮らしていた人がいましたよね。
いや、終戦はうすうす知っていたかもしれないけれど、
密林から出たらひどい目にあうんじゃないかと思って出られなかった?
でも、出てみたら、歓迎されたじゃないですか。

布教って、知らない人に、戦争は終わっていますよと教えることなんです。
それを信じて密林から出てきた人がどういう人生を送るか。
キリスト教に限らず、多くの宗教は、そこまで面倒は見ないのですよ。
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