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幼い子供を亡くした親の、
「なぜ私の子供が死ななければならなかったのか?」
という問いに対する、納得できるキリスト教的な説明はありますか?
どうやったら、子供を亡くした親をいやすことができるでしょうか?

A 回答 (4件)

聖書は復活するという希望を約束しています。



*** 聖8‐参 ヨハネによる書 5:28 ***
このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。

神は人間を創造された方ですので、死んだ人の遺伝子や記憶まで
覚えておき、再創造する能力をお持ちなのです。

以下のサイトに幾つか慰めとなる良いたよりが
載せられています。
http://www.watchtower.org/j/archives/index.htm#r …
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「いちど死ぬことは人々に定められたことであり、その後には審判があるように、キリストも多くの人の罪を負うためにいちど捧げられたのであり、二番目には自分を待ち望んでいる者達を救いに至らすために罪無しに来られます。

ヘブライ9:27~28」                                                                               最初の人であるアダムは神様を形とって作られました。                                                                               しかし、アダムは罪を犯す事によって神様の似姿を失ったのです。                                                                                       すなわち、私達は神様の似姿を失ったアダムを形とって作られたのです「創世記5:3」。                                                                                       だから、全ての人々は罪人なのです。                                                                               私達は人々をむやみに殺す通り魔のような形をしているのです。                                                                                                    罪が無い人は一人もいません。                                                                                      罪が支払う代価は死です「ローマ6:23」                                                                                                          どんな人でも早かれ遅かれ死にます。そして、裁かれます                                                                                                     。このように哀れな人々のためにイエスキリストがこの世に来れれ、私達の罪の身代わりになられ、十字架に掛けられ死なれたのです。                                                                                                 旧約聖書で多くの人々の罪の身代わりになって殺された羊達の血は、後に来られて私達の罪の身代わりになられ殺されて流すイエスキリストの血の模型だったのです。                                                                                    今は、十字架で流されたイエスキリストの血によって自分の罪が赦されたと信じる人は誰でも救われます。                                                                                   これを分からないカトリックは洗礼を受けると救われるという異端教理を作りあげました。                                                                                     そして、幼児にも洗礼をさせたのです。                                                                                 そして、子供が死ぬとLIMBOという処にいくと教えたのです。                                                                                                 LIMBOという教理はさくねん撤廃しましたが、まだ彼らは沢山の異端教理を教えています。洗礼、聖体説、教皇制、神父制、聖母マリア信仰など数え切れません。                                                                                        結論を言います。                                                                                          {子供は死んでも楽園に行きます「申命記1:39」}                                                                                                     善と悪の区別が出来ない子供は裁かれないからです。                                                                                                      善悪を弁える人は罪が裁かれ地獄にいきます。                                                                                                           しかし、イエスキリストが十字架で流された血が自分の罪の身代わりだったと心から信じる人は楽園にいきます。                                                                                                             残念ながらキリスト人だと言いながらもこれを信じない人が殆んどです。                                                                                               多くの人々が十字架で流されたイエスキリストの血を無視して、自分の善良な行いによって楽園に行こうとしています。路宿者に御飯を与えたり、ボランテア活動などは良いことですが、神様の福音を変形した責任からは自由がありません。                                                                                      代表的な人がカトリックのテレサと言えるでしょう。                                                                                                        十字架で流された血が自分の罪の為だったということは極めて簡単な事ですが、殆んどの人が信じない狭き門なのです。                                                                                                       これを信じない人はキリスト人ではありません。                                                                                                             彼は羊「キリストの僕」の皮を被った山羊「悪魔の僕」なのです。                                                                                               我々の周りには数え切れないくらいの偽牧師、偽キリスト人がいます。                                                                                               「マタイ7:13~14狭い門から入りなさい。それは滅亡に導く門は広く、その道が広大なので、その道に入って行く人が多いけれども、命に導く門は狭く、またその道が狭小であり、その道を探す者が少ないからです」                                                                                          「No Cross,No Crown.十字架無しには冠も無い」
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キリスト教に拘るには、それなりの理由があるのでしょう。

亡くされた両親がキリスト教と言うのであれば、そう考えるでしょう。

 そこで、父親か母親がキリスト教、両親ともキリスト教、どちらも違がキリスト教に関心がある場合で違ってくるでしょう。組み合わせ次第では、理解できない部分が生じると思います。

 人は自分よりも不幸な方に出会う時、自分の不幸が軽減されると言います。或いは、理解してくれる人に出会うと軽減されると言います。つまり、誰も分かり得ない悲嘆の場合が、最上級の悲しみと言えるのでしょう。

 それでは何故亡くなられたのでしょうか?どのような理由で、病気・事故・事件など考えられます。その死の原因に両親が直接関わっていればショックは大きいでしょう。現代医療で直せない病気、発見時すでに手遅れの場合、交通事故(加害者がいる場合)、本人の不注意の場合、自殺の場合、誰かのいたずらによる場合など。 先ずは、それらを聞いてあげる事から始まると思います。悲しみを共有する事に、軽減する効果があるからです。キリスト教に限らず、喜びも悲しみも分かち合う事による増幅、軽減です。

 次にクリスチャンで有れば、その方が拠り所としている信仰があると思います。しかし、この場合は試練ですから、”神様は何故このような悲しみを与えられるのか?”です。その答えを、聖書から発見出来る事があります。それは、牧師や司祭の役割でしょうが。信者も関わりますね。葬儀などは、亡くなった子供を天国に送る意味もあります。短い人生だったけれども、あなた(子供)は私たちの希望でした。余りにも早い神様からの召しを本当は恨んでいますが、私達にはどうする事も出来ません。私達より先に召された事は悲しいですが、残された私達に神様からの使命がある事を信じます。私達もやがて貴方の所に行きますから、その間待っていて下さい。 葬儀にはその様な意味が含まれると思います。

 聖書にある希望:旧約聖書のコヘレトの言葉1:2~7“ コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み/あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き/風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく/どの川も、繰り返しその道程を流れる。”ここには、全てが無常であると語っています。コヘレトには神様は登場しなかったと思います。但し、その代弁者が登場したと思います。この世の全ては、無常でいったい何処に希望があるのだろう。文面には無い神様を信じて生きようとする意図が感じられます。

 同じような人物に、ヨブ記のヨブが有ります。彼は正しい人であると共に、豊かな資産家でした。神様に忠実に生きてきた恵まれた人物でした。ところが非の打ち所の無いヨブが、ある日から突然に不幸が襲い掛かります。信仰の厚いヨブは”なぜ神様はこのように、私を苦しめるのか”と言って問い続けます。回りの人達は、”貴方が何か悪い事をしたので、その天罰と言います”が、無垢なヨブは神と人々に、その正しさを問い続けます。そして、妻との会話の中で、ヨブ記2:10では“ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。つまり、幸福だけでなく不幸も神様から頂くという心境に成れたのです。どのような時でも、自然体を失わず受入れて行こうする生き方ですね。自分で変わるのはなく、神に委ねて生きる事が大切だと思います。

 最後に、新約聖書マタイ11:28~30 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 ”とあります。これを神の子イエス・キリストの言葉と信じる事です。 キリスト教の人は、その様な信仰によって、世の悩みや困難を乗り越えて来たと言えます。
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他人は癒す事が出来ません。

癒しを求める事が救いを求めるという事です。人生には救いはありません。その事が体で判った時には子供が自分の中に今も生きている事が判った時です。

救いが無いという事を受け入れた時に救いが成就します。心には神も、仏も自分と共に在るという事が納得できた時だからです。
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