解り難いタイトルですいません。よろしくお願いします。
昔からそういう問題を考え続けていた、哲学・宗教系の人間なのですが、
年齢の積み重ねか環境の移り変りもあってか、
いよいよ切実にこのようなことを突き詰めて考えることが多くなりました。
神秘経験があるわけでもなく、当然覚っているわけでもない、
ただそういう知識だけはいやというほど容れてきた凡夫です。
信仰も一応、あります。不可思議なこともある思っています。
しかし、まんじりともせず、いつまでこれ(今生)が続くのかな、と、俯瞰気味に現在生きている次第です。
もっと生のなかに自分を押し込むべきなのかも知れませんが。
人間は、生命は、死で打ち止めなのでしょうか。
それに際しての心の持ち方というより、ひとつの考え方がほしいのだと思います。
私は、なんとなく続くようでもあり終わるようでもある、という揺れた感触です。
皆さんはどうお考えでしょうか。
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
死は本人のものでなく家族や親しい人達のものであると私は認識しています。
私の母は癌が再発すると一切の治療を拒否しました。
その結果、死が早まったのではないかと嘆く家族もいて、母の選択に同意した者といがみ合うことになってしまったのです。
それからずっと「残された者たちが納得できる死」について考えています。
答えはまだ見つかっていません。
お返事遅れましてすみません。ご回答ありがとうございます。
そうですね。
生と死は、”このわたし”に止められるものではないのでしょうね。であるからこそ、どうしようもなく、苦しくて切なく感じているのかもしれません。
この世界に、わたししか存在しなければ、生や死は、このような問いを生まなかったかもしれません。
死が共同のものであることを、頭でっかちに軽視していたと思います。
ますます解らなくなりそうですが、当り前ですね。
考え続け、受け取ろうとし続けるしかない。
貴重なお話、ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
人生とは何か、死とは、人間とは、自分とは誰なのか
どう生きるべきか。
これらに対する正解はないと考えます
考えれば頭の体操にはなるでしょうが、心底から
納得できる答えは得られないでしょう
最終的には「諦めきれないと諦めた」とか「悟りきれないと
悟った」という結果になるのが、まっとうな人間だと思っています
それがいちばんすごいことだと思います。
元の木阿弥とは言いますが、紆余曲折を経て、結局初めの問いを発した場所に還る。しかしそれは前とは同じではない。
わたしにはそれはひとつの理想的在り方です。
ご回答ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
肉体の命は打ち止めになりますが、
魂は永遠に生き続けます。
そしてまた生まれ変わってきますから
命は「永遠」ですね。
永遠ですか。
わたしにとってはかなり難しい表現であり考え方ですね。
核心的であって、そうであるが故に掴みどころがない。
最も苦労しているところかも知れません。
ご回答ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
命は打ち止めだと思う。
君の命は世界に一個しかないから。ただ、魂てきなものはあるかもと思う。
だって、なんか人にいいことすると気持ちよくないか?
生を押し込める方法は、最近知った。
命を懸けてやりたいことを見つけたとき、何をしてても楽しい!!
俺が、精神障害者だからかもしれない。
心を殺すのは飽きたんだ。鬱になってしまう。
だから、心のままに生きれば結構楽しいぞ♪生きることが重要だけどね♪
君がいつか、自分の命に輝きを見出せるように祈ってるよ。
俺より年上だったら、生意気ですいません。
けど、心が勝手にしゃべるんだ。ゆるしてちょんまげ♪
年齢?そんなことなんとも思っていません。賢い人は皆師匠ですから。
心――わかったようでわからない、この未知なる現象に揺さぶられて
いま、ここにいます。
ご回答ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
人間は、生命は、死で打ち止めなのでしょうか。
↑
打ち止めです。
だから、人間は子孫を創ったり、業績を上げて
後生に名を残したり、という欲求があるのだと
思います。
それに際しての心の持ち方というより、ひとつの考え方が
ほしいのだと思います。
↑
死とはなにか?
人間の死は通常は、脳死してから心臓が停止し
その後、各細胞が一つずつ死んでいくわけです。
しかし、子孫が残れば、己の細胞も残ります。
だから子々孫々と続く限り、死なない、という
ことも言えるでしょう。
問題はそのような生物学的な死ではなく、意識
が無くなることではないですか。
死に対する恐怖ではないですか。
人間など他の動植物と同じです。
意味なく産まれ、意味無く生き、意味なく死んでいく
だけの存在です。
それじゃ嫌だ、というひとが色々と理屈をつけて
いるだけです。
人間など特別な存在ではない、と思います。
皆さんはどうお考えでしょうか。
↑
最近、高齢者の研究が進みまして、色々な
ことが解ってきました。
寝たきり老人は、豊かな精神世界で遊んでいる
などが判明して、学者を驚かせています。
人間、90を過ぎると恐怖も苦痛もなく死ねる
人が多いそうです。
百を超えると、こんなに生きることが出来て
ありがたい、という感謝の中で死ぬことが
出来る人が多い、という話もあります。
だからやるべきは、俗なようですが、健康管理
です。
どうあがいても、人間は死ぬのです。
ご回答ありがとうございます。
明晰な考え方だと思います。願わくばこのような捉え方に身を沈められるようになりたかったです。
93歳の祖母をみつめるにつけ、仰られるような意識をもって生きているように思います。
何かを遺すということには、格別の意義を感じます。
No.1
- 回答日時:
暦では本日からお彼岸の入りとなっております。
この彼岸というのは、我々の生きている世界の向こう側にある世界のことで、もちろん我々の眼には見えないけれども、これは必ずある世界であり、また我々誰しもが、一度は訪れなくてはならない所でありましょう。彼岸について、仏法の上からは、悟りの世界と説明する場合もありますが、皆様方の意識の中では、ご先祖様がおられる世界というように、考えられる向きが多いかと思います。
或いは、我々が生きている世界を生の世界というならば、彼岸は死の世界ということ。これを「生死の二法」と申しまして、生の裏には死が必ずあると考えなくてはならない、すると彼岸の世界は必ずあるということになります。
ともあれ、一年間に春と秋の二度、お彼岸の行事がとられていますが、「生死の二法」ということ、もしくは「死ぬこと」に関しては、普段余り気にされないかもしれませんが、せめて年に二度あるお彼岸には、少し真剣に考えていただくことも大切です。
死を考えずして、我々の生はないのです。そういうわけで、本日は「生きることと死ぬこと」、生死の二法について、共々に考えてみましょう。
ある本に、こういう体験が載っていました。朝鮮戦争の頃のことです。アメリカの一人の若者が従軍した。間もなくして、故郷の両親のところに、息子の死亡を知らせる通知が入った。当然ながら両親は落胆し、「可哀想に。息子はもう帰らぬ人となってしまった」
と、諦めざるを得なかったのです。ところがある日、死んだと思っていた息子から、電話が掛かってきました。
「お父さん、ぼくは戦場でケガをしたけれど、アメリカの病院で治療を受けて助かったんだ。もう良くなったので、迎えに来てくれないかな。」
両親は知らせに、喜んだのは言うまでもありません。
「すぐに迎えにいくからな!」と。
ところが息子は、
「実はぼくと一緒に、戦場で傷を受けた親友がいるんだ。彼は戦場で受けたケガが元で、両足を切断してしまったんだ。この親友も一緒に、家に連れて帰りたいんだけど、いいだろうか?」
「まあ、少しの間ならいいじゃないか。」
「いや、少しの間ではなくて、一生の間、その親友の面倒を見て欲しいんだ。」
お父さんはびっくりして、
「お前何を言っているんだ。見ず知らずのケガした他人を、一生面倒見るなんて、出来るわけ無いだろう。」
「だったらお父さん、ぼくを迎えに来てくれなくてもいいんだよ。」
「何を言うんだ。お前は大事な息子じゃないか。すぐに行くから、待っていろよ。」
両親はとにかく、息子を迎えに出発したのです。
ところが病院に着くと、院長先生が待っていて、
「お宅の息子さんは先刻自殺したんです」と言って、遺体安置所に連れていかれた。そこで息子と対面したのですが、何と両親は、その足が切断されていることに気づくのに、時間はかかりませんでした。息子が電話の向こうで言っていた、両足を切断された親友というのは、本当は息子自身だったのです。
『しっかり死ぬということ』ひろさちや・中村仁一著
なぜ、息子は自殺してしまったのでしょうか。
病院で両足を切断されてから、息子は色々と考えたのでしょう。
「自分が生きて両親の前に姿を現せば、きっと喜んでくれるに違いない。でも、一時は喜んでくれても、そのうち足のない自分のことを、生涯面倒見なければならないとしたら、両親は次第に苦痛になるのではないか。」
などとためらいつつ、試しに父親に電話をしてみた。
案の定、生きている自分の声を聞くと、すごく喜んでくれた。でも足の切断を、親友の身の上に起こったこととして話してみると、父親は良い返事をしてくれなかった。本当は自分の足のことだと判れば、両親はどれほど驚き、落胆するだろうか。そしてそれからずっと苦労を掛け続けるだろう。いっそのこと会う前に命を絶てば、生涯にわたって両親に迷惑を掛けることもなくなるだろうと。そのように思い至って、息子は自ら命を断ったのでしょう。
子どもの孝養心を思うにつけ、何とも痛ましく、悲しい話であります。
ところで仏典の中に、毘摩大国の狐の話があります。
この狐はある時、師子に追われて逃げてきました。
「ああ、もう少しで追いつかれてしまう」と、狐が観念しかかった所で、偶然にも深い涸れ井戸があり、狐はそこに落ちてしまいました。
追いかけてきた師子は、深い穴を覗き込むもののどうしようもない。獲物を諦めてどこかへ行ってしまいました。狐は「自分は助かった」と、ホッとしました。
ところが、その井戸から上がろうにも、深すぎてとても上がれません。そうこうするうち時間は過ぎて、腹が空いても、食べる物はありません。日数が過ぎてゆき、狐は飢え死にするであろう自分を思うようになりました。その時に狐は一つの悟りに到ったのです。
「このまま飢え死にすれば、自分の死は無駄になる。そうであれば、どうしてあの時追いかけてきた獅子に、この身をささげなかったのだろう。万物が無常から免れないのであれば、あの時、師子に喰われていれば、この身も役立って、本望だったのに」と。
この時、天にいた帝釈天が狐のつぶやきを聞いて、「この狐は何かを悟っているに違いない」と思いました。
下界に下りてくると、狐を井戸から救い出し、そして高座を設けると、
「汝の悟った法を説いてくれ」と頼みました。そこで狐がおもむろに説いた教えが、
「人有り、生きることを願い死ぬことをむ。又人有り、死ぬことを願い生きることを悪む」
と、こういう教えだったのです。
まことに世の人々は、長く生きよう、生きようと願う人があるかと思えば、世の中がいやになり、早く死にたい、死にたいと考える人もあるのです。
しかし、生と死、仏法の立場は、どちらに執われることなく、しかも双方ともに受け入れるべきことを説いています。
これを「生死の二法」と申します。
「生きよう、生きよう」と願う人は、得てして「死」のことを忘れがちです。
川柳に「いつまでも生きているつもりの顔ばかり」とありますが、自分の人生が無限に続くと思っているように、毎日毎日を無為に過ごしている人が多い世の中ではないでしょうか。
日蓮大聖人は、「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(一四八二㌻)と説かれました。
臨終とは生死のはざま、今生一生涯の総決算の時ですから、臨終をどのように迎えるべきか、このことを生涯の一大事ととらえ、そこから立ち返って日々の生活、自分の人生設計を立てていくことを説かれています。
しかしそうは言っても、自分の臨終がいつ訪れるのか、分からないと言われるかもしれません。確かにその通りで、誰しもが自分の臨終は分かりません。『徒然草』には、「死は前より来ることはない。後ろから迫ってくるものだ」と、その恐ろしさを述べています。
マラソンのゴールのように、目の前に死の時期が見えていれば、それまでは安心して過ごせるかもしれませんが、後ろから迫ってくるもの。ヒタヒタと足音が近づいて、ある日追いつかれてしまう。その瞬間を臨終と言うのです。
このように死は恐ろしい。ゆえに日常からはなるべく遠ざけ、あえて考えないようにしようと、何気無くそう計らっている人が多いのではないでしょうか。
さて、生きることに執われる人とは反対に、死を望む人だって、中にはおられるかもしれません。
先ほどの両足を失った青年のように、「両親の苦労を思えば、いっそ死んだ方が」と思い詰める人もあるでしょう。
しかし、そもそも我々の命とは、一体誰のものなのか。この点をしっかり考えてみましょう。
もちろん「この命は自分のものだから、生きようが死のうが、自分の勝手だ」と言われるかもしれません。では、自分はどうやってこの世に生まれてきたのでしょう。考えてみて下さい。それは両親がいたから生まれてきたと、答えられるでしょう。
でも、その両親にもそれぞれ親がいて、自分から見れば四人の祖父母がいます。この方々なくして、自分の存在は無かったのです。
こうして十代さかのぼってみると、そこにはなんと一〇二四人の親がいたことになります。そのうちの誰一人が欠けても、自分はこの世に存在しなかったのです。
十代遡っただけでも、一〇二四分の一の確立ですから、「俺の命は俺だけのもの」と、胸を張れる自分でしょうか。
育てられ、直接恩恵を受けた実の両親はもとより、一〇二四人も数えられる、過去に懸命に生きていた祖先たち。その方々と共有すべき、自分の今の命ではないでしょうか。これを二十代・三十代とっていけば、自分の生まれる確立は、もっともっと低くなるのです。
このように、数限りない先祖を背負って、希なる可能性のもとに、今の自分の存在がある、生命があることを考えましょう。そうすれば、我が生命といっても、簡単に自由にはできないでしょう。
http://www.kamakura-gokokuji.or.jp/sermon-terako …
添付されたページを読ませていただきました。
偶然にも、私は日蓮宗信徒です。
妙法蓮華経という偉大な宝と出逢いながら、未だそのありがたみに開かれることのできない迷妄です。
ご回答ありがとうございました。
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